「性格を有するものは、繰り返し現われる自分の典型的な体験をももつ。」 というニーチェの言葉を思い出す(『善悪の彼岸』木場深定訳、岩波文庫)。 カフカにとって性格とは逃れられない体験のことなのではないか。そしてすべての性格が罰に値する。すべての人間は彼の有する性格ゆえに罰せられる、とい うことだ。 ザムザは虫になり、ヨーゼフ・Kは逮捕され、主人公はいつもいきなり逃れられない状況に投げ込まれる。それがカフカにとっての性格であり、ザムザが虫の まま衰弱死したり、ヨーゼフ・Kが「犬のように」殺されたりする、その最後の瞬間だけが罰なのでなく、死にいたるプロセスの全体――ということは彼の生の 全体――が罰ということになる。つまり、カフカにとって性格とは罰が実現される基体を意味する。それゆえKにとって城との戦いは無条件であり、戦いを前提 にしてすべてを考える。 と、こう書いてみて、私は「カフカにおける性格≠フ定義」というようなことを誰かが書いた本で読んだのではないかという疑念におそわれる。まるで事前 に意図していたことを書いたようにきれいすぎる。私はこういうコンパクトな定義を書きたくてこの連載を書いているわけではないはずなのに。これはなんだか 結論めいていて、いままで書いてきたことやこれから書いてゆくことと結びつきにくいようにみえる。本当に結びつかないことかどうかはこれから先を実際に書 いてみなければわからないが。 この「戦い」がどういう性格のものであるかということは第五章の冒頭でも繰り返される(章分けはすべてマックス・ブロート版つまり新潮文庫版にしたが う)。「戦い」の性格と見通しはKによる考察であるが、前述のとおり作者カフカによる予言や宣告でもある。 伯爵府の役所と直接交渉するのは、非常に困難というものではなかった。というのは、役所のほうは、どんなにみごとに組織化されていようとも、要するに遠 くかけはなれたところにいる、眼に見えない人びとの名において、遠くかけはなれた、これまた眼に見えない事柄を擁護することだけが任務であるのに反して、 Kは、生きた身近なことのために、つまり、自分自身のために戦っていたからである。そのうえ、すくなくともごく初めのうちは、自分自身の意志から戦ってい たのである。つまり、彼は、攻撃者であったのだ。しかも、彼だけが自分のために戦っていただけではなく、あきらかに彼以外のいろいろな力も、彼の戦いを助 けてくれたのだった。それがどういう力であるか、彼は知らなかったが、役所のいろんなやりかたから判断して、そのような力の存在を信じることだけはでき た。しかしながら、役所は、初めからつまらぬ事柄に関しては――これまでのところ、それ以上のことが問題になったことはなかった――Kの意向を大いにかな えてくれたが、Kにしてみれば、そのために小さな、容易な勝利を味わう可能性を奪われ、それとともに、しかるべき満足感とそこから生じる安心感、将来の、 より大きな戦いにたいする確信のもてる安心感をも奪われる羽目になった。そのかわりに、Kは、むろん村の内部にかぎってのことだが、どこでも好きなところ へ行かせてもらえた。役所は、こうすることによってKを甘やかし、軟弱にし、そもそもあらゆる戦いの可能性を排除し、そのかわりにKを職務外の、完全に見 通しのきかない、陰鬱な、奇態な生活のなかに入れてしまった。このようにして、もしKがつねに用心をしていなかったら、役所がどんなに親切にしてくれて も、また、Kがごく簡単な職務上のすべての義務をどんなに完全にはたしても、いつかは自分にしめされたこの見せかけの好意にたぶらかされて、日常の生活を きわめて不注意にいとなむということになりかねない。その結果、彼は、日常生活で破綻[はたん]におちいり、役所は、あいかわらずおだやかで親切でありな がらも、いわば不本意ながら、しかし、Kにはわからない公的な秩序の名において彼を追放処分にせざるをえなくなる。(121〜122ページ) 手紙を受け取ったのは第二章だ。それから第五章にいたる展開をいちおう辿っておくと――。 使者のバルナバスが帰るというのでKは城に行くものだと思い込んでバルナバスに付いて宿屋を出る。しかしバルナバスが着いたのは彼の家で、それまでKが 勝手にいだいていたバルナバスへの好意はたちまち消え、 「いまや、バルナバスの微笑は、まえほど生気がなくなり、彼自身も、なにやらみすぼらしい人間のように見えてきた。」(66〜67ページ) と感じるようになり、さらにこう考える。 「してみると、これは、誤解だったのだ。愚劣な、つまらぬ誤解だったのだ。そして、この誤解にまんまと一杯くわされたというわけだ。バルナバスのぴったり とした、絹のような艶[つや]のある上着にたぶらかされてしまったのだ。バルナバスは、いま上着のボタンをはずしにかかったが、その下からは粗末な、ねず み色によごれた、つぎだらけのシャツが、下着の頑丈な、角ばった胸の上にあらわれてきた。そして、まわりにあるすべてのものが、いかにもこのシャツのうす ぎたなさにふさわしいばかりか、それを凌駕[りょうが]さえしていた。」(67ページ) 展開を確認するためにページを開くと、途端におもしろい文章が目に飛び込んできて、そこを引用しないではいられなくなってしまう。 カフカの文章の特徴だが、印象という心理的で主観的であるはずのものが、印象という心理的で主観的であるはずのものが客観描写の領域に平然と浸蝕してゆ く。さっきの「立っているほうが判断力が増すかのように」も同じ原理だと言っていい。カフカの小説や断片を「寓話的」と呼ぶのはいまさら私がここに書くま でもないことだが、話の筋だけでなくこのような文章の特質もまた「寓話的」という解釈に貢献しているはずだ。しかし私は「寓話的」であるかどうかという以 前に、 「未開人にとっては、行動はいわばむしろ思考のかわりをするものである。」 というフロイトの言葉(『フロイト著作集3』)「トーテムとタブー」西田越郎訳、人文書院)に沿って、カフカの小説を思い描くべきだと思う。 フロイトは未開人(ないし原始人)の思考の様態を私たちの夢の様態と同じものだとしている。つまりこの言葉は夢についての言葉でもある。夢では思考は行 動や風景としてあらわれる。それが物語の起源の一つのはずで、カフカは「寓話」などという解釈可能な形式を突き抜けて、物語の起源に立って――ということ は、思考の起源から――小説を書こうとしていたと考えるべきだと思う。「寓話的」と言った瞬間にある停滞(とそれにつづく停止)が読者の中に生まれてしま うことを避けられない。 カフカは何度読んでも飽きることがない。 それはなぜなのか? と問う以前にまず、カフカを何度読んでも飽きることがないのは自分がカフカのどこに着目しながら読むからなのか? ということをも しできるならすべて確認したい。膨大な作業だからそれを丸々書くことはできないが。 展開に戻る。 バルナバスが城でなく自分の家に帰ったこととその家がみすぼらしいことにKが失望していると(Kひとりでは夜道を宿屋まで帰れないので、このままではK はバルナバスの家に泊まらなければならない)、バルナバスの姉のオルガが近くにある宿屋「縉紳館」までビールをもらいに行くと言うので、Kはさっさとバル ナバスの家に見切りをつけてオルガと縉紳館に向かう。 「一家の者は、彼の勝手な言い分をそのままみとめるしかなかった。彼は、この家族にたいしては、つゆほどの羞恥心も感じなかった。」(70ページ) Kはこの小説の主人公だが、けっこう嫌なヤツなのだ。そのことについてはいずれゆっくり書くだろうと思う。同時にKは女が好きで、オルガと縉紳館まで歩 きながら、 「彼女といっしょに歩くのは、いかにもたのしかった。Kは、この快感に抵抗しようとした。が、それを消し去ることはできなかった。」(71ページ) と思ったりもする。 縉紳館は城の役人たちの常宿で、手紙の差し出し人のX庁長官クラムがそこにいることをKは知らされる。そしてそこでクラムの恋人だというフリーダと知り 合い、オルガをほっといて、 「あなたはクラムを捨てて、わたしの恋人になってください。」(83ページ) と、フリーダをくどきはじめる。しかし、「いつあなたとお話できますの」と訊くフリーダに対して、 「ここで泊めていただけますか」(同) と言うくらいで、好いた惚れたでなく泊まる場所確保のようにしか思えないふしもあるのだが、宿の酒場の客が全部帰ったあとのフロアで二人はセックスをし てしまう(たぶん)。 話を簡単にするとこういうことになってしまうが、縉紳館の酒場の場面は『城』で屈指の群衆シーンになっている。意外と思う人も多いだろうが、カフカはひ とつの空間に多種多様な人物がいるシーンが得意なのだ。いずれこの場面についてはゆっくり丁寧に読み直すつもりだ。 さて、Kはフリーダのことをどう思っていたのか? フリーダに対して多少なりとも恋愛感情にちかいものを感じていたのか、それとも最初は寝座[ねぐら] の提供者としか思っていなかったのか? これは気になるところだが、もう一箇所、フリーダがクラムの恋人だと知って、 「それじゃ、あなたは、あたしにとってたいへんなご名士でいらっしゃるというわけですね」(80ページ) と言うところがある。つまりフリーダはKにとって最初から特別な人物として登場しているわけで、Kの気持ちの大本[おおもと]は城に向いているわけなの だが、そのような気持ちからこの出会いがはじまっていながら、Kは性欲に逆らえなかった。というよりも、やすやすと性欲に流されてしまった。だいたい、考 えようによっては、恋愛感情と寝座の確保は、寝座でセックスすることを考えれば同じことでもある。しかし、フリーダをクラムから引き離すのは戦略としてま ずいと、ふつうなら誰でも考えるだろう。Kもやはり考えた。 「そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間かがすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、 自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気と は異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖[あや]しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしか できないという感じをたえずもちつづけていた。」(89〜90ページ) そうしていると、クラムがフリーダを呼ぶ。フリーダは一瞬行きかけるがやめる。 「「でも、わたしは、行ったりなんかしないわ。あの人のところへは絶対に行かないわ」 Kは、それに反対して、むりにでも彼女をクラムのところへ行かせようとおもい、ちらかったブラウスなどを集めにかかったが、それを口に出して言うことは できなかった。フリーダを腕に抱いていると、無上に幸福だった。不安なほど幸福でもあった。というのは、もしフリーダに去られたら、自分がもっているすべ てのものを失ってしまうような気がしたのである。フリーダも、Kの同意に力づけられたかのように、こぶしを握りしめると、ドアをたたいて、叫んだ。 「わたしは、測量師といっしょにいるのよ! 測量師さんといっしょなのよ!」 これで、クラムは、とにかく静かになった。」(90〜91ページ) こうしてつぎはぎで展開を引用しつつ確認していると、自分がものすごくバカなことをやっている気持ちになってくる。だいたい私は五章にいたる展開をごく 大ざっぱに書くつもりだったのに、すでにどんどん細かくなってしまっているのだ。カフカの言葉にどんどん埋没していくかのようだ。もともと『城』の展開を 要約しようという考えが馬鹿気ていたわけだが、ともかくKの気持ちはこうなっている。 次の引用は、前の引用に改行なしでつづく箇所だ。 「しかし、Kは、起きあがると、フリーダとならんで膝[ひざ]をつき、ほの暗い夜あけまえの光のなかを見まわした。なんということになってしまったのだろ うか。彼の希望は、どこへ行ってしまったのだろうか。フリーダがすべてを打明けてしまったいまとなっては、彼女からどれだけのことを期待できようか。敵の 手ごわさと自分の目標の大きさにふさわしい細心の慎重さをもって歩一歩すすんでいくはずだったのに、こんなところで一晩じゅうビールの水たまりのなかをこ ろげまわってしまったのだ。ビールの匂[にお]いは、いまもむかつきそうだった。 「なんということをしてしまったんだ」と、彼は、だれに言うともなしにつぶやいた。「これで、ふたりともおしまいさ」 「ちがうわ」と、フリーダが言った。「おしまいになったのは、わたしだけよ。そのかわり、あなたを自分のものにしたわ。あんまりくよくよなさらないで。で も、見てごらん、あの二人が笑ってるわ」 「だれのことだね」と、Kはたずねて、ふりむいた。カウンターの上に腰をかけているのは、彼のふたりの助手だった。いくらか寝不足そうだが、晴れやかな顔 つきをしている。義務を忠実にはたしたときの晴れやかさだ。 「おまえたち、なんの用があってこんなところにいるんだ」と、Kは、まるですべてが助手たちのせいだといわんばかりの剣幕で叫んだ。そして、昨夜フリーダ が使った鞭はないものだろうかと、あたりを見まわした。 「わしらは、あんたをさがさなくてはならなかったんでさ」と、助手たちは、答えた。「なにしろ、あんたは、わしらの待っている食堂へ降りてきてくれなかっ たからね。それから、バルナバスの家へさがしにいって、最後にここで見つけたというわけでして。一晩じゅうここに座っていましたがね、いやはや、勤務もら くじゃありませんな」 「おまえたちが必要なのは、昼間だけで、夜じゃないぞ」と、Kは、どなった。「ふたりとも出ていけ!」 「だって、もう昼間ですぜ」と、ふたりは、動こうともしないで答えた。実際、もう昼だった。」(91〜92ページ) ここではKの気持ち(波線部)よりも助手の登場を読んでほしい。朝目が覚めたら虫になっていたり、朝目が覚めたら部屋に男たちが入ってきて逮捕された り、カフカにとって眠りと目覚めは、事件の発生や外部からの闖入を招き入れるきっかけになるわけだが、その根本の原因は言葉の特性にある。 冒頭、宿屋に到着した直後、まわりの者たちがあれこれ言うのを無視してKが床で寝ると、一人が「電話で問い合わせてみよう」と言う。 「なに、こんな田舎宿にまで電話があるのか。なかなか設備が行きとどいているわい。Kは、電話に関しては、おどろきはしたもの、全体としては、むろん、予 期していなかったわけではなかった。電話は、ほとんど彼の頭上に近いところにとりつけてあった。」(12ページ) もう一箇所、これは七章だが、二度目の対面となる小学校教師がKに、今後のKの待遇と仕事のことなどをさんざん話した後、 「だって、わたしはずっと見ていて、ほとんどわが眼を信じかねているのですが、さっきからわたしと話をつづけていらっしゃるあいだ、あなたはワイシャツと ズボンという格好のままじゃありませんか」(198ページ) 残念ながらこの「ワイシャツとズボン」は、「シャツとズボン下」だと思うのだが、前田訳でも私は笑った。 文章として書かれた言葉を読むとき、人は書かれていないことについては変なことは起こっていない、つまり無事≠セと思い込むようにできている。しかし カフカの場合、書いていないことは「まだ書いていない」という状態にすぎず、世界が言外に確定している保証はまったくない。 助手の二人組は、そういう油断のならなさを読者の心の中に起こさせる機能を持っている。それがKにしてみれば監視≠ニなるわけだが、読者は監視されて いるわけではない。Kが『城』を通じて常時抱いている気分を読者に共有させるために、カフカはKの気分そのものではないがそれとパラレルな気分を読者に抱 かせた。 と、言葉ではつじつま合わせしてどういう風にでも書けてしまうわけだが、「Kの監視に相当するものとして読者が油断のならなさを常時抱きながら『城』を 読んでいる」という言い方はどこか無理があるように思う。言葉の機能によるこういう不意打ちは不意≠セからこそ笑いにおそわれるわけで、注意力を働かせ ていたら不意打ちにならないから笑わないのではないか。読むという行為は、「油断ならない」と感じつつもやっぱり弛緩した(くつろいだ)ものなのではない か。 いや、だから、そのくつろぎを弛緩に堕さしめずに注意力を喚起させる天才がカフカということなのだが……。 さて、フリーダと出会ったのはこの村に着いて二日目の夜のことだった。そして引用箇所にあったとおり縉紳館の酒場のフロアでKは昼間まで眠り、その日は フリーダといっしょに最初の宿屋「橋屋」に戻って、そこですぐにまたベッドに入って眠ってしまって一日が過ぎ、四日目の朝に「さわやかな気分になって」 ベッドから出たと書かれている。そこまでが第三章だ。 『城』という作品で書かれている日数は全体で七日間らしいのだが、第三章の終わりに「四日目」と書かれていなかったら、読者はもう日数はわからなくなって いるだろう。ここでわざわざ「四日目」と書いてはいるけれど、ここから先、カフカ自身も時間の経過がわからなくなっていく、というか、無頓着になっていく ように思える。『城』では村の地図を描くことができないように、時間の経過も時計やカレンダーで測るのと同じようにはできていない。 「四日目」と書かれているところを読めば、読者として、一日目の村への到着からオルガと一緒に縉紳館に行くまでが二十四時間前後のことだったと確認するこ とができるわけではあるけれど、それが確認できたからと言って何か大事なことが得られるわけではない。 話を戻して、四日目は橋屋のお内儀[かみ]との長い対話ではじまる。その対話を通じてお内儀がKに向かってしゃべることは、「あなたは他国人でこの村の ことが何もわかっていない。それなのにあなたは自分勝手な主張ばかりしている。クラムと会って話をするなんてそんなことは絶対にできない。クラムは遠い存 在なのだ。」という一点張りで、Kはお内儀の話を冷静に聞きながら、そのすべてに対して反論する。その会話がいかに歩み寄りのないようにできているかは次 回に見ていくつもりだが、とにかくその対話で第四章が終わる。そして第五章になって、Kはクラム長官からの手紙で「直接の上官」と書かれている村長との会 談に向かう。その途中でKが考えたことが三二九〜三三〇ページに引用した箇所だ。 ここまで書いて、このあと私はKが考える「戦い」の性格について、『審判』と比較しながら書くつもりだったのだが、そういう解釈めいたことをするのはや めることにした。「戦い」の性格については二つの引用箇所にしっかり書いてあるのだから、その特異さはじゅうぶんにわかる。 まずとにかく私は『城』を読もうと思う。何度も何度も読むというのは、けっこうたいへんなことで、そのなかには当然、退屈さも含まれるのだが、何度でも 繰り返し読むために、注意深く読もうと思う。その注意深さは、村の地図を描いたり日数をカウントしたりするようなことでなく、Kが『城』という小説で過ご した時間にいっそう埋もれてゆくような注意深さのことだ。 ところで最後に、大事なことを書き忘れていたことに気がついた。最初に引用した城からの手紙の(4)で挙げた選択肢に対して、 「Kは、選択をためらわなかった。(略)城のお偉がたとはできるだけ離れ、村の労働者になりきったときにのみ、城でなにほどかの成果をあげることができる のだ。」 と、Kは在村労働者になる決心をした。ついでにいえば「いまはまだ彼に不信感をいだいている村の住人たちも、彼が彼らの友人とまではいかなくても、おな じ村の仲間だということになったら、口をきいてくれるようになるにちがいない。」とも考えた。そういうようなことを時間をかけて考えたあと、Kは階下の食 堂に降りていく。そうすると百姓たちが入れ替わり立ち替わりKのそばに寄ってくる。Kはそれに対して腹を立て、一括したり足を踏みならしたりする。そして 手紙を持ってきた使いのバルナバスにこう言う(ここのやりとりでKははじめて長官の名がクラムだということを知る)。 「じゃ、そのクラム長官にだね、採用していただいたことと非常なご厚情をかたじけなくしたこととにたいするお礼を申し上げてくれ。おれみたいに、当地へ来 たばかりで、自分にどれだけの値打ちがあるのかをまだ証明してみせてもいない人間にとっては、このようなご厚情はひとしお身にしみるものなんだ。おれは、 完全に長官の指図どおりに行動するだろう。きょうのところは、特別な希望はない」(58ページ) つまり、Kは食堂でほんのしばらくのあいだ村の百姓たちと一緒にいただけで、さっきの注意深い考察によって導きだされたはずの決意を簡単に覆してしまっ た、というわけだ。縉紳館でフリーダがクラムの恋人と聞いて、クラムと会うためにフリーダに接近したはずなのに、あっさり目の前にいるフリーダそのものに 手を出してしまったのとまあだいたい同じことだ。Kのこの、性格というか行動パターンは記憶しておく必要がある。 (つづく) |