「きみらは、だれだ」と、Kは言って、一人ずつ順にながめてみた。 「あなたの助手です」ふたりは、答えた。 「これは、助手でございますよ」と、亭主も、小声で口添えをした。 「なんだと」と、Kは問いかえした。「おまえたちは、あとから来るようにと言いつけておいて、おれが待っていた昔からの助手だというのか」 ふたりは、そのとおりだと答えた。 「まあ、よかろう」と、Kは、しばらくしてから言った。「きみたちが来てくれたのは、いいことだ」それから、さらにしばらくしてから、「それにしても、着 くのがひどくおそかったじゃないか。おまえらは、しようのないなまけ者だ」 「道が遠かったものですから」と、ひとりが言った。 「道が遠かっただと」と、Kはおうむがえしに言った。「しかし、○○○さっき○城○○から○○来た○○○ところ○を○○○会ったじゃないか」 「はい」と、ふたりは言ったが、それ以上の説明はしなかった。 「道具はどこにあるんだ」と、Kはたずねた。 「道具なんかありません」 「おれがおまえたちにあずけた道具だぞ」 「道具なんかありません」と、ふたりは、おなじ文句をくりかえした。 「ああ、そろいもそろって、ろくでなしばかりだ」と、Kは言った。「すこしは測量の心得があるだろうな」 「いいえ、ありません」 「しかし、おれの昔からの助手なら、心得がなくてはならんはずだ」 ふたりは、だまっていた。 「じゃ、まあはいれよ」と、Kはうしろからふたりを家のなかに押しこんだ。(40〜41ページ) Kが「きみらは、だれだ」と言うのに、宿屋の亭主が「これは、助手でございますよ」と応じる。全体としてKだけが知らないところで事態が進んでいるかの ような印象を与える。これだけでもじゅうぶんに奇妙だが、さらに奇妙なことにはKはこの状況を抵抗せずに受け入れてゆく。 つまりこういうことが背後に隠されている。測量師がやってくるのは村の人間たちにとって迷惑なことである。だからKの口から事前に漏れていた「あとから 助手たちが来る」という情報をもとに、村人たちが村の入口で助手たちを待ち伏せして殺害し、その替わりの二人組を助手に仕立てあげた。村人たちから歓迎さ れていないことをすでにじゅうぶん承知していたKには、村人たちから示された偽の助手たちを受け入れるという選択肢しか残されていなかった。――なんて馬 鹿なことを想像してみても意味がない。 いま私が書いた与太話を読者はくれぐれも真に受けないでほしいが(もっともこれを真に受けるタイプの人は私の書くものなど最初から読んでいないだろうけ ど)、カフカは書いたことしか書かなかった。推理小説では肝心の事件が隠され、隠されたその事件が最後に解明(解釈)される仕組みになっているが、カフカ の小説では書かれなかったことは解明しようがない。 アルトゥールとイェレミーアスという二人組の助手は、とにかくこのように登場した。読者は素直にそれを受け入れるしかない。『変身』では、ザムザがある 朝突然虫になった。『審判』では、ヨーゼフ・Kがある朝突然逮捕された。この二つだって説明できない。その原因を周辺の事情から推測しようとすることな ど、カフカではできないのだ。しかし、だからこそ読者はすべての出来事、そこに書かれたすべての要素を記憶する必要に駆られることになる。聖アウグスティ ヌスはこの世界のすべての事象をひたすら聖書を精読することによって説明しようとした。聖書の中の矛盾や疑問も、ひたすら聖書の中から説明しようとした。 カフカを読むことは、現実世界の機構や法則やカフカの生い立ちやそのときの境遇など、作品の外に説明を求めようとせず、聖アウグスティヌスの読み方に近づ こうとすることなのだ(私にとって)。 しかしそれにしても、二人組は「さっき城から来たところを会ったじゃないか」というKの言葉に対して「はい」と答え、否定しない。二人組は城から遣わさ れたということなのだろうか。 これはさっきの与太話と違って真面目な話なのだが、二人組の登場のところで私はスタニスワフ・レムの『ソラリス』を思い出す。惑星ソラリスの表面を被っ ている海のように見えるものは海でなく、一つの生命体であり、その生命体がソラリスの衛星軌道をまわっている宇宙船の乗組員の心の奥にある何かに反応し て、そこにしまいこまれている人物を乗組員の前に出現させる。 『ソラリス』では死んだ妻が出現してきて、劇的というか深みのある話になってゆくわけだけれど、『城』ではKをじゃまする要素、つまり話の進行を遅れさせ る要素として城から来た二人組が機能する。あるいは、話を少し先取りすればKの行動の観察者か監視人としても機能する。 この二人組に関しては『ソラリス』のような深い意味が明確に書かれているわけではないので、何か重要な要素に出会うまでは(そういうことが書かれている として)、ただ機能として読むべきだと私は思う(しかしこの機能がカフカの場合ものすごく重要なのだ)。カフカでは原因や根拠なく何かが起こったり誰かが 現れたりすることになっている。それはまず受け入れてゆくしかない。 さて三回目の接触だが、ここの話は紛らわしい。 城に入る許可をもらうためにKはまず助手の二人組に電話をかけさせる。しかし城の方は「あすもだめだし、ほかの日もだめだ」(45ページ)としか答えな い。それでKが電話を代わり、オスワルトといういかめしくて高慢そうな声の男との話がはじまる。 「そちらは、だれだね」と、くりかえしてから、「そちらからあまりなんども電話をかけてくれないほうが、大いにありがたいんだがね。○○つい○○○さっき ○も○○○○かかって○○きた○ば○○かりだ」 Kは、その言葉は無視して、突然意を決して、「こちらは、測量師さんの助手の者ですが」 「どの助手だね。誰の助手かね。○○どの○○○測量師だね」 Kは、昨夜の電話のことを思いだして、「フリッツに訊[き]いてみてください」と、簡単に言った。自分でも驚いたくらい、この言葉は、効果があった。し かし、効果があったということ以上に彼をおどろかせたのは、城の仕事の一糸みだれぬ統一ぶりであった。 返事があった。「わかったよ。○○永遠○の○○○測量師だね。うん、うん。それで? どちらの助手かね」 「●●●●ヨーゼフ●●です」と、Kは言った。うしろにいる百姓たちのささやき声が、すこし邪魔になった。あきらかに、彼らは、Kがほんとうの名前を言わ なかったことに文句をつけているのだ。しかし、Kは、彼らにかまっていられなかった。いまの場合、電話のほうが大事だった。 「ヨーゼフというのかね」と問いかえしてきた。「助手たちは、たしか――」と、ここでしばらくとぎれた。だれかべつの者に名前をたずねているにちがいな い。「助手たちは、アルトゥールとイェレミーアスという名前だったはずだが」 「それは、新しい助手です」と、Kは言った。 「いや、古い助手だ」 「新しい助手です。わたしのほうは、古い助手で、測量師さんのあとを追って、きょう着いたのです」 「ちがう!」こんどは、どなってきた。 「○○それ○で○は、○○○わたし○は○○何者○○です○か」と、Kは、これまでとおなじく落ち着きはらってたずねた。しばらく間をおいてから、おなじ声 が、おなじような発音のまちがいをしながら答えたが、それは、これまでとは打って変った、もっと深みのある、もったいぶった声のようにきこえた。「○○○ おまえ○は、○○古い○○助手○だ」 Kは、その声のひびきに気をとられていて、あやうく相手の質問を聞きもらすところであった。「それで、なんの用件か」と言うのである。Kは、できること なら、もう電話を切ってしまいたいとおもった。こんな会話からは、これ以上期待することはなにもなかった。それでも、ほかにどうしようもないので、早口で たずねた。 「わたしの主人は、いつお城へ参上したらよろしいでしょうか」 「○○永久○に○○だめ○だ」というのが、答えであった。 「わかりました」と、Kは、受話器をかけた。(47〜49ページ) まず確認しておきたいのだが、私はいま、Kが城の組織を「管理のしっかりした官庁」と思っている根拠として、この時点(二日目の夜)までにあった四回の 接触を書き出してきている。これがそもそもの目的だ。三回目の接触の引用箇所でいえば、一つ目の傍線部がそれで、二つ目の傍線部も管理がしっかりしている という根拠を補完していることになるだろう。 しかしこのように一つ一つの場面を抜き出すといろいろなことが付随的に出てきて、そのこともついでに押さえておきたくなる。繰り返しになることもあるだ ろうけれど、カフカを読むときに、これはAの話題でこっちはBの話題という風に事前に読み方を整理していたのでは結局読者のサイズに収まってしまうのでは ないか。こちらが想定する整理などカフカでは読むたびに無効化される。しかしこの箇所はちょっと事情が違う。ここには意味深なことがいくつも書かれている のだが、カフカ本人が遺した手稿には書いてないことが書かれているみたいなのだ。 カフカの手稿は長いことマックス・ブロートの管理下にあり、それがやっと自由になって、カフカの手稿に忠実な形で出版されるようになったのは八〇年代の ことで、それを「批判版カフカ全集」と言い、『城』はその一冊目として八二年に出版された。ついでに言うと手稿そのままの形を写真に撮って出版されたもの を「史的批判版カフカ全集」と言う。そのように原文ではカフカの未発表作品は手稿に忠実に出版し直される作業が進んでいるのだが、日本の翻訳ではいまだに ほぼ全作品が池内紀訳以外にはマックス・ブロート版カフカのままで手直しされていない。 『城』は手稿に忠実に編集し直すと章の分け方が変わる。だから批判版を元に翻訳された池内訳を読めばいいようなものなのだが、池内訳はたぶん「読みやすく 歯切れのよい日本語」を目指したために、私が知っているカフカの文章ではなくなってしまっている(読みやすくするためなのだろう、改行も原著よりずっと増 やしてある)。 前田訳と池内訳は冒頭の一文から違っている。 「Kが到着したのは、夜もおそくなってからであった。」(前田敬作訳) 「Kは夜おそく村に着いた。」(池内紀訳) 私ははじめて池内訳『城』を読んだときにびっくりした。〈前田訳=マックス・ブロート版〉〈池内訳=批判版〉という図式を単純にあてはめるなら、冒頭の 一文からマックス・ブロートがカフカの文章に大幅に手を入れていて、私たちは長いあいだ、〈カフカの文章〉でなく〈カフカ=ブロートの文章〉を読んできた ことになってしまう。 もっとも、どっちのケースにしても私が読むのは訳書を介在した翻訳文であって原文ではないわけだが、この連載の中で何度も書いているように、文体とは文 章の中に入っている要素とその配列のことであって、文の長短、言葉づかいの硬い・柔らかいなどは小説の文章においては本質的なことではない、というのが私 の文体感だから、翻訳されても原文の文体つまりそこにある作者の思考のありようは基本的なところで損なわれない。 しかし、冒頭の一文はそのレベルを越えている。と思って、もう一箇所、私がとてもカフカ的と思っていたところを比べてみるとこれもやはり両者で大きく 違っていた。 「Kは、立っている方が判断力が増すかのように、ふたたび足をとめた。が、すぐに邪魔がはいった。」(23ページ)(前田訳) 「またもやKは立ちどまった。立ちどまれば思案がわくつもりが、邪魔があった。」(池内訳) ここで二つのセンテンスの切り分ける位置が違っていることはたいした問題ではない。立ち止まることと考えることという本来異質の領域に属していて影響を 及ぼし合わないはずの二つが、「かのように」という言葉でたやすく混乱を起こしているところがカフカのはずなのだ。それにこの二センテンスは外からの記述 であって、Kが本当に「判断力が増す」と思ってそうしたかということはここからは確定できない。 しかし池内訳ではまず、立ち止まったことが思案がわくのを期待してのことだったという、Kの意識的な行動として確定されてしまっている。そして、「歩い ているよりも立ち止まった方が思案がわきやすい」という、二つの行動の異質さを意識していない日常的な次元に変質してしまっている(カフカはただ混乱を起 こしたわけでなく、混乱を起こすことによって「この二つは本来異質なんだ」ということまでも語っているのだ)。 これは困った……と思って、手元にある九七年初版のペンギンブックスのJ. A. Underwood訳の英訳をみると批判版からの訳だった。それで前述の二箇所を調べてみるとこうなっていた。 It was late evening when K. arrived. Once again K. stood still, as if standing still sharpened his judgement. But he was interrupted. 二箇所とも構文において前田訳と同じといっていい。二つ目の方は英訳でもKの内面は確定されていない。英訳ももちろん翻訳だが、ある原文を推測するとき に、日本語訳と英語訳が構文において同じだったら、原文もそれと同じと考えて問題ないだろう。それで私は、「批判版とマックス・ブロート版の違いは章分け だけであり、カフカの原文(手稿)にはあまり手が入っていない。それゆえ、従来どおり前田訳で大丈夫。」という結論を個人的に出すことにした。――ちなみ に、この稿を書くにあたって、知り合いのカフカ研究者に訊いてみたところ、彼の応えは「最近の研究では、「ブロートは意外なほど手稿に手を入れずに、カフ カの原文に忠実に『城』を出版していた」ということが定説になりつつある。」だった。つまり訳文としては従来の前田訳で問題ない。 思うに池内訳は訳者としてのスタンスが従来と違うということではないのだろうか。私の知り合いの中には「翻訳」というだけで読まない人がいる。理由は 「日本語が変で、読んでいて気持ち悪くなるから」だ。そういう人たちは案外多く、その人たちは何よりも「日本語として自然であること」を求めている。二つ 目の立ち止まるところなんか、いわば不自然な日本語の典型で、ここを読んだら確実にカフカを放り出してしまうだろう。池内訳ならそういうことはきっと起こ らない。 しかし私は池内訳では前田訳ではっと思ったところを何とも思わずに通りすぎてしまう。『城』には何箇所も思わず吹き出してしまうところがあるのだが、池 内訳ではそこも通りすぎてしまう。全体として池内訳は読むテンポ≠ナ、前田訳は考えを辿るテンポ≠ニいう感じがする。『城』には従来訳として他に、辻 _訳(中央公論社)、原田義人訳(角川文庫)、谷友幸訳(講談社)が私の手元にあるが、構文とそこから生まれる考えを辿るテンポ≠フ感じは前田訳と大き な差はない。 私はブルックナーの交響曲の七、八、九番が好きでそれぞれ数種類ずつ持っているのだが、数年前ギュンター・ヴァントという指揮者の盤が雑誌に紹介されて いて、それにこういう意味のことが書いてあった。「私(評者)はブルックナーがいままで苦手だったがこれはいい。ブルックナーというと血がしたたるような 分厚いステーキを連想したくなるような胃にもたれる感じがあったが、ヴァント指揮によるブルックナーはあっさり(明晰に?)仕上がっている。」 ヴァントのブルックナーは私には全然面白くなかった。しかしそれを面白いという人もたしかにいる。池内訳カフカを読むと私はこのブルックナー評を思い出 す。城からの手紙に対するKの考察のところなど、池内訳ではテンポが速すぎて選択肢のたたみかけの感じがぴんとこず、それゆえ時間≠ニいうことも生まれ てこない。指揮者や演奏者の解釈によって曲がガラリと変わるように小説も訳者によって変わる、ということなのだろうか。――池内訳との比較はこれ以上しな いが、もっと本質的なことがある。指揮者の解釈による演奏の明白な違いと同じことが、同一の原文を読む個々の読者の中でも起こっていることだ。同一の文章 であっても読者ごとに読む速度が違い、記憶する箇所も違う。これについてはまたいずれゆっくり考えていきたいと思う。 さてところで、この三回目の接触の引用箇所には問題がある。前述のとおり批判版とマックス・ブロート版は章分けは違っても細部に異同はないのだが、ここ だけひとつ明らかな異同――マックス・ブロートによる書き直しか?――がある。 「永遠の測量師」 が、それだ。英訳ではこの会話は、 ヤI know. The land surveyor again. Donユt tell me. Go on. Which assistant?モ となっていて、「永遠」に相当する言葉はどこにも入っていない。ちなみに池内訳でも「またしても測量士だ」で「永遠」は使われていないが、既存の訳には すべてに「永遠」が使われている。つまりここだけマックス・ブロートが書き換えてしまったということだ。これによって、○○○を付した箇所が一気に大きな 意味を持ってしまうことになる。 ○○○部を辿っていくと――、Kが電話する直前にもう一人の誰かから電話があった。「どの測量師だね」と言うのだから城は複数の測量師を雇ったと想像で きる。その中の一人、Kは「永遠の測量師」と、すでに城では言われている。そしてKは「永久にだめだ」と宣告された。 ということになる。 しかし英訳をみると、「どの測量師」のところもWhat land surveyor? となっていて、Which land surveyor? ではない。いや、こんなことは批判版とマックス・ブロート版の原書があって、私がドイツ語を読めれば簡単にケリのつく話なのだが、読めないものはしょうが ない。こういう手間や推論がいずれ何かの役に立つこともあるだろう(と期待するしかない)。 「永久にだめだ」も英訳ではただ ユNever,ユ のひと言だ。前田訳では全体がこの「永遠の測量師」という言葉に引っ張られてしまっている。 しかし、「ついさっきもかかってきたばかりだ」は英訳=批判版にも確かに書かれている。 「おまえは、古い助手だ」も書かれている。城がKについて知悉しているとしたら、この答えも軽視できない意味を持つ。 だいたいここでのやりとりはおかしい。アルトゥールとイェレミーアスの二人組をKが新しい助手だと言うと、城はそれを否定して古い助手だと言う。Kがも う一度、自分(ヨーゼフ)が古い助手で二人組が新しい助手だと言うと、再び「ちがう!」と言い張る(つまりKは新しい助手だ)。それなのに次にもう一度言 うときには「おまえは、古い助手だ」になっているのだ。『不思議の国のアリス』に出てくるキャラクターのように、相手が言うことの逆ばかりを言うキャラク ターである可能性がちらっと頭をよぎるが、そういう解釈は急いで出そうとはしないで、今はこういうやりとりがあったということだけを憶えておくことにとど めておく。 この「永遠の測量師」という言葉がマックス・ブロート版『城』に書かれていたとしたら、批判版『城』が八二年に出版される以前に死んだロラン・バルトも ラカンも、『城』に「そう書いてある」と思ったまま死んだことになる。ドゥルーズは九五年まで生きていたから書かれていないことを知った可能性はある が……。 しかし、そう書かれていないことを知ることによってあらためて考える材料が与えられるのだが、『城』を読むときには「永遠の測量師」というような、こと さら意味がありそうな言葉や部分に過剰に反応してはいけないのだ。それは「城≠ヘ何を意味するのか?」という質問と同根の考え方だと私は思う。私は 『城』はまず論理の操作≠ツまりメカニズムとして読まなければいけないと考えている。 ●●●を付した「ヨーゼフです」も、だから「『審判』のヨーゼフ・K!」というように過剰に反応する必要はない。 オスワルトという男との電話での会話がはじまる直前に、宿屋の亭主がKに使者が来ていることを知らせる。使者の到来と城のX庁長官からの手紙(つまりも ともとの引用箇所)が四回目の接触だ。Kが村に到着してからまだ丸一日経過していないことを考えると、使者のバルナバスの派遣もかなり手際いい。 というわけで、Kが城の組織について「管理のしっかりした官庁」という考えを持っていることは少しも奇妙ではないどころか、じゅうぶんに根拠がある。 さて、もともとの引用箇所である手紙に対するKの考察(三一五〜三一七ページ)にようやく戻ることになるのだが、「Kは、選択をためらわなかった。」と して、Kは城とは外見上の関係だけしか持たない在村労働者になる決意をする(ここから先は適宜、傍線等の記号を付けながら読む方がわかりやすい)。 「城のお偉がたとはできるだけ離れ、……すべての道が、一挙にひらけてくるにちがいない。」の部分がその決意の確認とその理由とそれから先の見通しだ。 しかしこれにもすぐに「むろん、危険はある。」と、もう一つの可能性がつづいて出てくる。「一歩前進二歩後退」といったか、「三歩前進二歩後退」といっ たか、正しい成語が何だったかは忘れてしまったが、とにかく『城』ではあることがひとつだけの記述で済むことがまずなく、話はつねに行きつ戻りつする。可 能性の列挙というのは、線的な時間の経過の中で読まれる小説においては、まず何よりも時間の引き延ばしとして機能する。 しかしそれにしても、「城のお偉がたとは……」の部分はまだしも、「むろん、危険はある。……仮借のない厳しさを覚悟しなくてはならぬ。」の部分は、考 えすぎといえばいいのかわかりすぎといえばいいのか、たったあれだけの手紙からこれだけのことを考えられるだろうか? つまり、Kの考えは手紙が本来持っ ている情報の量に対して、不釣合に大きすぎないだろうか? 手紙というのは一対一の関係に基づいて送られてくるもので、実際に自分がある関係の中で手紙を受けとってみると、用語の選び方や文の末尾の言葉づかいな ど細かなところで、「失礼なヤツだ」と思ったり「気をつかっている」と思ったりするものだ。しかし逆に言うと、手紙というのは自分が当事者として受けとら ないことにはそんな風に細かなことは感じないわけで、この手紙の当事者ではない私はKほど神経質になれないから確実なことは言えないけれど、それでもやっ ぱりこれは考えすぎではないか?――この小説にここまで書かれていることにたいしては考えすぎで、不釣合だと言ってしまってかまわないと思う。 しかしこの「城のお偉がたとは……」から「……仮借のない厳しさを覚悟しなくてはならぬ。」を経て「……そのような圧力に負けてしまうことであった。」 までのKの考えは、ここまでに対応するのではなく、これから先に対応するものであり、作者カフカが読者に与えた、この作品全体の見通しないし構えのような ものなのだと考えれば、じゅうぶんに釣り合いはとれる。ということはつまり、カフカ自身が自分に向けて書いた作品のこれから先の確認ということにもなる。 だからここはこういう風に読むことができる。 「村の労働者になりきらないKは城で成果をあげることはできない。」「Kは村の仲間にはならないから、彼らの不信感はとけず、口をきいてもらえるようにも ならない。」「ゲルステッカーたちと同等にならないから、すべての道が永久にとざされたままであるどころか眼に見えないまま終わる。」 カフカにおいては、希望や肯定的見通しを言う条件文が出てきたら、基本的にそれが成就されない否定文に読み換えて間違いない。カフカが希望について語る ときは、それが実現しないことを予言していることになるのだ。 「むろん、危険はある。……」以降の部分は肯定的見通しではないから、そのまま読んでかまわない。特に「Kは、現実的な強制力で……そのような圧力に負け てしまうことであった。」の部分は、そのまま『城』という小説の性格を語っている。Kは誰からも具体的な強制は受けず、なんだか妙に自由にうろつきながら 「ふやけきった環境」の中で戦いつづけることになる(ただし「ふやけきった」は前田敬作の意訳であり、英訳にも他のどの既訳にもこれに相当する語は書かれ ていない)。 しかし、なぜKは「あえて戦うことが必要であった」と、こんなに早い時期に城との戦いを想定しているのか? それどころか、前にちらっと指摘しているように、城との最初の接触として引用した箇所、宿屋に到着して間もない、新潮文庫で本文がはじまってわずか七 ページ目で、すでにKは「戦いに応じているからである」と、戦いを想定している。 その理由はどこにも書かれていない。だから私が、「なぜKは戦いを想定するのか?」という問いを出してみても、答えをみつけることはできない。Kは無条 件に戦うことを考えた。それは結果でなく原因なのだ。手紙に対してKが考えたこの部分の全体がここまでに対応するのではなくこれから先に対応しているよう に、「戦い」が無条件にすべての前提となっているのだ。 |