ひとことで言えば私はずうっと自我の乗り越え≠ニか自我の相対化≠ニいうことばかり考えている。それは私の中では死の乗り越え∞死の相対化≠ニ いうことと同じ意味なのではないかという予想がある。 「その二つが同じことだなんてことは、哲学者の××××が書いているとおりで、自明のことだ。」 と誰かが私に言ってくれれば、話は簡単に解決するか前に進むかするかもしれないが、あいにくそんなことを言ってくれた人はいまのところいない。では逆 に、 「自我と死はまったく別物だ。」 と言われたらどうするかと言えば、そう言われたところで私は「あ、そうなの?」という風には納得しないだろう。自我の問題と死の問題は絶対に繋がってい る。どう繋がっているかはわからないがとにかく繋がっている。 で、話を戻して、その二つが同じことだと哲学者が言ってたと誰かに指摘されたとしても、私は私としてこの問題を考えることをやめないだろう。 たとえばハイデガーの『形而上学入門』。この本の中心となっている問題は、「主観」と「客観」、「実在論」と「観念論」という西洋で綿々とつづいている 二分法は誤りであるということだ。この誤った図式の上で、存在=客観、思考=主観という思いこみが生まれて、ついには存在は思考からその解釈を受け取る、 つまり存在が思考に対して従になるというようなことにまでなってしまう。 そこまではわかる。しかし「わかる」というのは「字面として記憶におさまる」という程度のことであって、「なぜそうなのか?」ということまではわかって いない。それがわかるためには、ハイデガーがこの本で説明している〈存在〉というのがどういうものであるかがわからなければならない。が、これがどうして も私の中にきちんとした理解として定着しない。もうこの本を三回か四回読んでいるのに、〈存在〉というものが実感として掴めない。 「母親」というものとか「家」というものとか、小学校に通っていた時代が確かに自分にあったこととか、そういうものは人に言葉では説明することがどれだ け困難であっても自分の中では揺るぎない実感をともなってあるわけで、私にとって「わかる」というのはそういう状態を指しているのだが、そのような意味= 強度において私はいまだ〈存在〉をわかっていない。 『形而上学入門』(川原栄峰訳、平凡社ライブラリー)にもこういうことが書いてある。 「たとえ人間が語句でどんなに試みても、人間はロゴスへは到り着かない」 「人間どもはなるほど聞きはする、つまり語句を聞く、だがこの聞くことにおいて人間どもはもろもろの語のように聞くわけにいかぬもの、話ではないもの、 つまりlogosであるものを「聞く」ことができない、つまりそれに従うことができない」 「真に傾聴的であることは耳や口とは何の関係もなく、それの意味しているのは、logosであるもの、存在者そのものの集約態に服従するということであ る」 「傾聴者でない者は、耳でもってすでに以前に聞いていようと、あるいはまだ全然聞いていなかろうと、いずれにしてももともと、logosからは同じく遠 ざかっており、締め出されている。ただ「聞く」だけの輩、どこででも聞く耳を持ち、聞いたことを吹聴してまわるような輩はaxynetoi、すなわち把- 握-して-いない者であり、いつになってもそのままである。」 ここでハイデガーが書いているロゴスというのは言葉とか理性を意味せず、三つ目の引用で言われている「存在者そのものの集約態」を意味している。この 「集約態」というのを私はわかっているわけではないが、とにかくここでの引用としてはそういうことになる。 ここでもう一つの予感が生まれる。自我の乗り越え∞死の乗り越え≠ニは〈存在〉を実感することなのではないか。この本の中で(もちろん訳語だが)ハ イデガーは「存在の実感」とはいわずにパルメニデスの「存在の会得」という言葉を使っているが。 ところで、「存在」「存在者」という言葉を聞くと私たちは自分の目の前に広がる世界とそこにある様々な事象のことをほとんど自動的に考えてしまうことに なっているが、ハイデガーが存在というときにはそのような物理的に計測可能な事物や現象でなく芸術ないし芸術作品を考えた方がいいのではないかと思う。こ の考え方は正解ではないかもしれないが正解への入り口ではあると思う(「正解」という言葉はなんとも貧しいが)。 人間が芸術を作るのではなく、芸術によって人間が作るようにしむけられる。とはいっても、ただ子どもが大人に言われるままにわけもわからずに何かをする ような仕方ではなく、覚悟をもってその困難に進み入ってゆく。と、ハイデガー的に言うとそういうことになるのだろうが、そんな「覚悟」とか「進み入る」と いうような大仰なことはともかく、人間と芸術の関係において主は人間でなく芸術の方にある。 この対極にある考え方の一つが、バートランド・ラッセルが考えた世界五分前仮説≠セ。自分で説明するのは面倒くさいので、インターネット上の百科事典 といわれるWikipediaの説明をそのまま引用することにする。 世界五分前仮説とは、「世界は実は五分前に始まったのかもしれない」という仮説のこと。 哲学における模擬主義的な思考実験のひとつで、バートランド・ラッセルによって提唱された。この仮説は確実に否定する事(つまり世界は五分前に出来たので はない、ひいては過去というものが存在すると示す事)が不可能なため、「知識とはいったい何なのか?」という根源的な問いへと繋がっていく。 たとえば五分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない。なぜなら間違った記憶を植えつけられた状態で、五分前に世界が始まったのかもしれないからだ。 「この木は芽が出てから今年で十二年になる、だから年輪が十二本ある」このような言い方も日常でもよくするが、年輪が十二本あるという事実を「結果」とみ なせば、これに対応する「原因」が位置すべき過去が存在するはずだとは主張し得るものの、このような主張もまた完全に証明することはできない(もちろん反 証することもできない)。(以下略) この仮説は実に馬鹿馬鹿しいけれど、人の認識の本質的なところを突いてもいて、魅力がないと言えば嘘になる。手近なところでは、中島義道『「時間」を哲 学する』(講談社現代新書)や永井均『私・今・そして神』(同)でもこの説が話題にされている。 「世界が五分前に創られた」というのがあまりにリアリティがないと感じる人は、「世界がゆうべ眠っているあいだに創られた」でもいい。あなたが十年前の 出来事だと思っていることが、あなたがゆうべ眠っているあいだに植え付けられたものではないということをあなたはどうやって証明できるのか? ということ だ。 フィリップ・K・ディックはこれに魅せられた人の一人で、『ブレード・ランナー』では自分を人間だと思いこんでいるレプリカントが人工的につくられた記 憶を自分自身の記憶だと思い込んでいるし、『トータル・リコール』ではたしか本当の記憶が消去されて偽造記憶が受け付けられている――と、私は原作の方で なく映画の方の話をしてしまうのだが。 しかし、いったんディックの名前を挙げてはみたけれど、「自分の記憶が捏造でないことの証明を自分ではできない」というのは、世界五分前仮説≠ニ同じ ではないことに気がついた。 ディックにとっては世界は確かに存在している。ディックにとって確実でないのはそれを認識する自分の心だ。それに対して、バートランド・ラッセルの方は 世界そのものの確実性を疑っている。自分の記憶が五分前に植え付けられたものではないことを自分では証明できないことを出発点としているのだから、自分の 認識の方も確実だとは考えていないと考えるべきだろうが、ラッセルの議論で中心になっているのは、自分の確実さへの疑いでなく世界の確実さへの疑いのよう に見える。 世界五分前仮説≠ヘ明らかに間違っているわけだけれど、この考えに理があるという人つまりこの仮説が反証できないという理由からこの考えを取り上げる 人の書いていることを読んでいると、たしかに私には反証できないとは思う。しかし反証できなければそれを認めたことになるかと言えばそんなことは全然ない わけで、横たわっている人が宙に浮くマジックとか箱の中に横たわっている人を真っ二つに切断するマジックを見ているときと同じように、「この人の理屈では そういうことになるけれど、この理屈の欠陥(またはマジック)を俺が言い当てられないだけだ」という気持ちが払拭されることは一瞬としてない。 私のそういう感じ方を指して、世界五分前仮説≠フ重要性を論じる人たちは「既成の価値=権威の中に安住して自分自身の認識を直視しようとしない」とい うようなことを言うかもしれないが、論理や認識の厳密さや正確さに執着する彼らの態度が私にはどうしようもなく息苦しいものに感じられてきて付き合ってい られないと思う。 世界五分前仮説≠ナは、自分が生まれる前からこの世界があったということに確実性を与えられない。同じ理由によって自分が死んだ後もこの世界がありつ づけることにも確実性を与えられないだろう。哲学だけでなく芸術を含めて何か考えたり表現したりすることにとって必要なことは、自分の確実性を検証したり それに根拠を与えたりすること以上に、この世界が確かにあると実感することであり、この世界が自分が生まれる前からあり、自分が死んだ後もありつづけるこ とを実感することだ。 人は必ずある特定の理論体系とか世界観の中に生きている、というか住んでいる。 いま多くの人が住んでいる世界観は、ハイデガーが『形而上学入門』の中で書いていることと逆に向かっていて、世界よりも自分の方に比重が置かれている。 つまりそれが自我ということだと私は考えているのだが、私自身ハイデガーの書く〈存在〉がどうしてもしっかり実感できないということはきっと同じ世界観や 論理体系の中に住んでいるわけで、別の論理体系を知ることが自分が住んでいる論理体系の外に出ることに繋がるのではないか? というわけで、中村元が書い た『龍樹』(講談社学術文庫)を読み出した。 「龍樹」というのは、大乗仏教の思想的な中心をなすと言われている『中論』を書いた二世紀頃のナーガールジュナの中国名だ。で、この『龍樹』はおもに 『中論』を解説しつつ、〈空〉とは何かを解説している本で、『中論』は「世界の名著」みたいないろいろな本に収録されているから私も以前他の本で読んでみ たことがあるのだが、解説なしで読んだところで『中論』はわかるものではないと中村元も書いているとおり、わからない。 しかし厄介なことに、日本人である私はいつの頃からか『中論』に書いてあるような言葉をくり返し聞いたような気持ちもあり、西洋哲学を読むようなわから なさは感じない。しかし立ち止まって厳密な意味やその言葉の根拠を問われたら何も説明できないことは明白で、自分が日本人として――こういう言い方がもの すごく怪しい――何となくわかっていると思っていることの点検になるかもしれないとも思った。 日本人として何となくわかっているつもりになっている言葉にまず〈無〉というのがある。何年か前にたまたま連載の一回目だけ定食屋で読んだマンガなのだ が、小津安二郎の大ファンであるアメリカ人を北鎌倉の小津の墓まで日本人の若い女の子が案内する。すると、小津の墓にはただ一文字〈無〉という言葉が刻ま れていて、そのアメリカ人は「何故、Nothingなのですか?」と日本人の女の子に問いかけるのだが、彼女は答えられない。 という場面があって、それを読みながらこっちは、「〈無〉はNothingじゃないんだよな」と思う。「〈無〉とは存在と非在が分かれる以前の根源的な 充満のことなんだよ」みたいなことを思うのだが、それは本当なのか。 ところが『中論』において〈無〉は否定される。この世界において実体として有るものは無いのだから、無いものもまた無い。それを〈非有非無〉といって、 それが〈空〉である。 仏教思想が中国に渡った早い時期に、本来〈非有非無〉であったものが〈非有非空〉と訳され、そのとき以来、中国と日本では〈無〉と〈空〉が混同されるよ うになったらしい。仏教思想において〈無〉というのは、何物かが無いことつまり英語のnotと同じらしく、〈無〉はつねに〈有〉とセットの関係にあって、 〈有〉以前=存在以前の状態は指さない。 というわけで、小津安二郎の墓に刻まれるべき文字は〈無〉ではなくて〈空〉が正しかったのだが、日本人が〈無〉という言葉で指していた概念がそっくりそ のまま〈空〉であったということなら、〈無〉と〈空〉の混同などたいした問題ではない。三十歳の人が生まれてから三十年間、犬を「猫」だと思っていたとし ても犬そのものもその人の心に浮かぶ犬の像も損なわれることはない。しかし、〈空〉は犬と違って実体としてあるわけではないので話はそんな簡単にはいかな い。 たとえば『中論』にはこういう一節がある。 「生[しょう]と住と滅とが成立しないが故に有為[うい]は成立しない。また有為が成立しないが故にどうして無為が成立するであろうか。」(第七章「つ くられたもの(有為)の考察」第三十三詩) 「有為」とは「つくられた現象的存在」のことであり、「無為」とは「それ自体で存在する永久不変の存在」のことだ。「生」は「生起」、「住」は「持 続」、「滅」は「消滅」の意味。 (この世界の事象は)生起しないし持続しないし消滅もしない(生起しえないものは消滅もしえない)。それ故、外からの力によってつくられたもの(有為) は存在しない。有為が存在しないのだから無為も存在しない。 仏教思想においては、〈無〉は〈有〉に対する否定だから、〈有〉がなければ〈無〉も一緒にないということになる。それでその全体を指す言葉としては 〈空〉ということになるのだが、〈空〉とは実体のある何かではない。つまり、〈有〉と〈無〉の両者の共通の基盤のようなものではない。『龍樹』で中村元 が、 「ナーガールジュナは概念を否定したものでもなければ、概念の矛盾を指摘したものでもない。概念に形而上学的実在性を附与することを否定したのであ る。」 と書いていて、つまり西洋思想における〈イデア〉を否定したと考えればいいのだろうと思うのだが――そしてこれはハイデガーの存在論にも共通することな のだが――、形而上学的実在性を本当に心の底から否定する思考法に馴れていないというか、文字の上ではつじつまが合うように書くことはできてもイメージの 中では私たちはひじょうに深いところで実体のあるものからイメージを借りてきていてそこから逃れることができていない。つまり、機械的または関数的なメカ ニカルな生産装置があって、そこから概念なり事象なりが生み出される。機械でなく大地や海や空でもまったく同じことで、何かを生み出す母体とか基体とかあ るいは光源みたいなことをまったく想像しないことは不可能なのではないか。 まず、〈空〉を〈無〉と誤解している段階での〈無〉がNothingでなく、「存在と非在が分かれる以前の根源的な充満」とか何とか言葉で言っていると き、私は本当のところひじょうに密度が濃い空間のCG映像みたいなことを心に思い描いていたのではないか。そういうもののインチキ臭さに気づくと、小津安 二郎が自分の墓に刻ませた〈無〉という文字はやっぱり、Nothingの意味なのではなかったかと思えてくる。つまり、「人は無より来たりて無へと帰 る」。 しかしこれもまた日本人として子どもの頃から聞きかじってきたフレーズだからわかったようなつもりになっているわけで、それではここで言われている 〈無〉は「存在と非在が分かれる以前」を意味しているのではないのか? 『龍樹』を読んで仏教思想というか仏教の論理提携はひじょうに魅力的だと思う反面、ひじょうに眉唾物だという気持ちからも自由になれなかった。どこがど う魅力的でどこがどう眉唾物なのか? 魅力的なところこそが眉唾物と感じられるのだ。それはつまるところ自分が馴れ親しんでいる論理体系と激しく異なって いるからだ。 ナーガールジュナの『中論』にはほとんど否定文しか書かれていない。人の認識というのは中途半端で安易なところで妥協するように宿命づけられているよう なものだから、わかろうとして認識すること、認識したつもりになることを徹底して否定するしかなかったということだろう。ユダヤ教やイスラム教でイコンを 禁じていることと同じことではないかと思う。人は形として見ることでわかったと思いがちだからだ。〈無〉といって私が密度が濃い空間のCG映像を思い描い ているだけなのと同じことだろう。『中論』はこういう序文ではじまる(以下、訳はすべて中村元)。 〔宇宙においては〕何物も消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生[ふしょう])何ものも終末あることなく(不断)、何ものも 常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去 ることもない(不出)、戯論[けろん](形而上学的議論)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、諸々の説教者のうちでの最も優れた人と して敬礼[きょうらい]する。 「戯論[けろん]の消滅」というところまでがじつに全部否定文だ。第一章「原因(縁)の考察」の第一詩も、 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、〔自他の〕二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あること なし。 このように否定文だ。それゆえニルヴァーナ(涅槃)も否定文の集積によって説明される。(第二十五章「ニルヴァーナの考察」第八詩) またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは〔他のものに〕依らないでありえようか。何となれば、〔他のものに〕依らないで存在 する無は存在しないからである。 『中論』以前、ニルヴァーナとは〈無〉であるとされていた。しかし仏教でいう〈無〉とはくり返しになるが「××が無い」という〈有〉とセットになった 〈無〉しか意味せず、〈有〉に先立つ状態というようなイメージを指さない。 ニルヴァーナとは〈有〉と〈無〉を超えたこと、つまりそれが〈空〉ということなのだが、私たちは〈空〉というものをイメージしようとしてはいけないの だ。イメージするということは、それに実体的何ものかを付与してしまうという落とし穴に陥ることが人間として避けられない。だから否定文しかここにはな い。 中村元も「ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。」 と書いている。『中論』第二十五章「ニルヴァーナの考察」第二十四詩では、 〔ニルヴァーナとは〕一切の認め知ること(有所得[うしょとく])が滅し、戯論[けろん]が滅して、めでたい〔境地〕である。 と書かれている。認識することも形而上学的議論もニルヴァーナでは滅する。第十八章「アートマンの考察」の第七詩には、 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。 とある。ニルヴァーナには言語は及ばない。それゆえ、言語は否定文にしかならない。 アートマンとは〈我[が]〉のことだ。仏教といえば〈無我の境地〉なのだから――〈無我の境地〉というのもまた日本人としてわかりすぎるくらいわかって いると思っていてそのじつ何もわかっていない言葉だ――、この「アートマンの考察」の最初の三詩を書き写すことにする。 一 もしも我[が](アートマン)が〔五つの〕構成要素(五蘊[うん])であるならば、我は生と滅とを有するであろう。もしも我が〔五〕蘊と異なるなら ば、我は〔五〕蘊の相をもたぬであろう。 二 我(アートマン)が無いときに、どうして、〈わがもの〉(アートマンに属するもの)があるだろうか。我(アートマン)と〈わがもの〉(アートマンに属 するもの)が静まる故に、〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れることになる。 三 〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものは存在しない。〈わがもの〉という観念を離れ、自我意識を離れたものなるものを見る者 は、〔実は〕見ないのである。 第三詩は〈無我〉ということも否定する。それはそうだ。〈非有非無〉という原則(?)を思い出せば、〈我〉がないのだから〈我〉を離れた〈無我〉という 状態だってあろうはずがない――と、言葉の上ではわかる(=つじつま合わせができる)。 〈無我〉だの何だの思っているかぎりは、有所得[うしょとく]も戯論[けろん]も滅していないということなのだから。 ニルヴァーナとは〈空〉のことだ。形而上学的な思考法(の真似事)=戯論に馴れてしまった私たちは、〈空〉を世界の根本原理とか究極の原因という風につ い考えてしまうけれど、原理とか原因ということを考えること自体が戯論なのだから、〈空〉というのは世界の相のようなものなのではないかと思う。 しかしそれにしても、原理とか原因とかをまったく考えないようにするという思考が本当に可能なのか。いや、思考であるかぎりにおいて、人はどうしても原 理や原因を考えてしまうことになる。あるいは、原理とか原因について思いをめぐらすことが思考することなんだという風に教え込まれて、そこから抜け出るこ とができないというべきか。いずれにしろ、仏教思想においてはそういう頭の働かせ方が「凡夫の迷妄」ということになるわけで、仏教思想に忠実であろうとす るなら思考すること自体から離れなければならない、そうしなければ言葉や認識を超えた状態を見ることはできない、ということになるのだろう。 |