◆◇◆小説をめぐって(29)◆◇◆
グリグリを売りに来た男の呪文(中編)
「新潮」2007年1月号


『族長の秋』が訳すのに難物であることは言うまでもないが、読むのにも難物であり、それについて書くのにも難物だ。いろいろ 書くことは可能だがどう書いてもこの小説の一部分でしかなく、何よりも読んでいる最中の圧倒的な見通しの悪さ、気がつくと別のエピソードに移っていて、自 分がどのようにしてそこに連れてこられたのか記憶がない感じを再現することはできない。その読んでいる最中の時間を離れて、「ラテン・アメリカの心性がど うのこうの……」「独裁者という存在がどうのこうの……」「話者が自在に移動していくエクリチュールがどうのこうの……」というようなことを書くことはい くらでもできるが、作品の外に立ってしまったらもうこの小説ではない。私は『愛その他』を読み終わったあと、もうかれこれ三週間くらい前からこの小説を読 んでいるのだが、まだ読み終わらない。
 いつもの癖で、他に二つも三つも並行して読んでいるということもあるのだが、私は何度も前のページに戻っては読んでいる。この小説こそ、本当の意味で、 読みつづけている行為の中にしかない小説であって、最後のページまで辿り着いてしまったら、手元に何も残っていないと痛感するだろう小説でもある。
 いくつものエピソードを記憶していたとして、そんなことがいったい何になるのか。大統領府の中に飼われてそこを闊歩していた鶏とか大統領の母親が市場で インチキして売っていた絵の具で彩色したコウライウグイスとか、この小説には鳥がいっぱい出てくるのだが、読み終わったときに私の手のひらに小鳥の羽の一 片でも残されていないのなら、私はこれを読んだことにはならないのではないか。
 引用など何の役にも立たないが、それでも一箇所だけ引用したい。貧民たちのあいだから選ばれた美人コンテストの優勝者マヌエラ・サンチェスに大統領は恋 をするのだが見向きもされない。そのあと。(訳は九四年版)
大統領は表へ出て、誰ひとり知らぬ者のない愚行をあくまで人目から隠すつもりか、夕闇のなかを走り去っていった。この愚行は世間のみんなのうわさの種に なった。大統領自身を除いて国じゅうの者が知っている作者不詳の歌が、さらにそれを広めた。オウムまでが中庭でうたった、女どもよ、そこをどけ、将軍さま のお出ましだ、青い顔で胸に手をあて、泣きながらお出ましだ、あのざまを見ろ、権力をもてあましている、舟漕ぎながら政務を執っている、開いた傷は閉じよ うがない。籠のオウムが盛んにうたうのを聞いて、野生のオウムもこの歌を覚えた。インコもカケスもそれを覚え、群れをなして渡り、果てしなく広い陰鬱な領 土のはるかかなたまで伝えた。おかげで夕方になると、全国の至るところの空で、大勢の難民たちが声をそろえてうたう声が聞かれた、懐かしい将軍さまのお出 ましだ、口からくそを吐き、尻からおきてを洩らし。終わりというもののないこの歌にみんなが、オウムまでが、新しい歌詞をつけ足して情報部をこけにした。 情報部は、この歌の逮捕にやっきになっていたのだ。戦時装備の軍のパトロールは裏門を蹴やぶって中庭に乱入、政府転覆をたくらむオウムを杭に縛りつけて銃 殺したり、大量のインコを生きたまま犬に与えたりした。戒厳令を布いて怪しからぬ歌の根絶をはかり、世間周知の事実を隠蔽しようとした。日暮れになると、 大統領はまるで逃亡犯人のように通用門から抜けだしたのだ。調理室を横ぎり、個室にたちこめた牛の糞の煙を掻いくぐって、翌朝の四時まで姿を消したのだ。 毎日、おなじ時間に、奇妙なプレゼントを山のようにかかえてマヌエラ・サンチェスの家に現われたのだ。

 というわけで大統領の求愛はまだつづくのだが、オウムやインコが憶えた歌が国の全土に広がったなんていうとんでもない話がたったこれだけで読者の目の前 を過ぎ去ってしまう。短篇小説として独立させたらおもしろいだろうと思うのだが、こういう風に短くしたところに私は第一期に何度も取り上げたカフカのノー トに残された断片との共通性を感じてしまうのだがそれは強引だろうか?
 ヨーゼフ・ロートの短篇『聖なる酔っぱらいの伝説』のコンパクトさが『偽りの分銅』の緩さに対して違うと感じ、『愛その他』の無駄がなく結末に向かって 収束していくところを違うと感じるように、あるひとつの出来事なりイメージなりがあるからといってそれを短篇小説として書いてしまうことがいまではほとん どの場合、違うことになってしまうのではないかと私は感じるのだ。
 「技」や「芸」を使って、コンパクトにパッケージされた何かを束の間読者に供する。それ以上というかそれ以前というか、その向こうというか、古代のギリ シア人にとって、「カオス」というのは「混沌」ではなくて「裂け目」――天地未分化の状態が裂けるというイメージ――という意味だったらしいが、そういう 「裂け目」は、短篇小説という作品にしてしまうよりも、読者の目の前をさーっと通り過ぎていく方が生まれるのではないか?
「エピソード的おもしろさ」といえばいいか、「出来事的おもしろさ」といえばいいか、適当な言い方はともかくとして、右のような話のおもしろさは短篇より も速い(早い)のだ。道ですれ違ったり電車で一駅分だけ乗り合わせた美人に感動してしまって、その感動が半日くらい持続することが私にはたまにあるのだ が、その感動はそれだけで完成されている。つき合いたいとかこの人のあとを追いかけたいとかここですかさず声をかけられるようだったら私の人生は別のもの になっていただろうというようなことまでついでに考えてしまうこともあるけれど、そういう気持ちもすれ違うほんの数秒のあいだに産みつけられたものであっ て、そういう気持ちも含めたとしても完成されている。
 「どんなにいい女でも二、三ヵ月もつき合えば必ず瑕疵(きず)が見えてくるものだ」などとわかったようなことを通り過ぎていった美人の背中に向かって言 うような気持ち(の余裕)は私にはさらさらないけれど、「出来事的おもしろさ」を短篇小説という一定の長さを持って作品としての体裁を与えられているもの にしてしまうと、瑕疵が生まれてしまう。

 私が大好きなミシェル・レリスの『幻のアフリカ』(岡谷公二他訳・河出書房新社)は、作品としての体裁が与えられる以前の「出来事的おもしろさ」にあふ れている。
 この本は現在絶版で古書店での入手もかなり困難なのだが、この本の代わりとなる本が私には思いつかないので、読者には申し訳ないが『幻のアフリカ』を取 り上げるしかない。
 これはマルセル・グリオールという民族学者を団長とした、ダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団にレリスがその一員として同行したときにつけられた日記 で、一九三一年五月十九日から一九三三年二月十六日まで一日も欠かさずにつけられている。
 レリスは一九〇一年生まれで、この連載の第二期でしょっちゅう取り上げた『ミシェル・レリス日記』は一九二二年から書きつづけられているが、調査団の一 員として同行した資格は詩人や作家でなく民族学者だ。この旅行が縁でそうなったのか、もともと民族学研究者だったのかはわからないが、後年レリスはパリ人 類博物館に勤務してアフリカ部門の長も務めることになるのだが、この日記は民族学調査の記録という学術的な側面だけでなく、調査団の日々の出来事があれも これも書き留められている。
 たとえば調査行がはじまって間もないダカールでの六月七日(この日は日曜日)の日記は一日分の全文でこれだけが書かれている。

 僕の友人たち、それにグリオールと、ダカールの近くの小さな入江で海水浴。グリオールとBはたえず大きな波に倒される。僕は砂の上で長々と日光浴。やが て日射しが強烈になる。
 午後、ラルジェとンゴルヘドライブ。村や浜を散歩する。小さな前かくし(布を結んである)をつけた沢山の子供たちが、海で、帆をつけた小さな丸木舟を動 かして遊んでいる。大方が自分よりも小さい赤ん坊を背負った少女たちが沢山近寄ってくる。少女たちは、《日曜!日曜!》と叫びながら、僕らを取り囲む。は じめは何もわからない。だが、日曜日はダカールの人たちがこの村へ散歩に来る日のはずだと考えて、彼女たちは《日曜》という言葉によってささやかな土産を 意味しているのだ、と推測する。村に上って、子供たちの一人から彼の船を買う。それから、男たちが集まっている、村の真ん中の広場の小屋で、僕たちが買っ た簗(やな)の作り方と扱い方を説明してもらう。手間取る。子供たちの喚呼のさなかを出発。何メートルか走って車についてくる。村を出たところで、ツチガ ニの大群を見た。車の音がすると、急いで穴に入る。村の人たちが主要な収入源である漁業の足しにするために飼育しているのだ。
 つまりこうだから、僕はアフリカが好きなのだ。子供たちは、僕が他のどんなところででも出会ったことがない、陽気で生々とした印象を与える。これが僕に はたまらない。

現地の子どもたちのことをレリスがいつも見ているわけではなく、ただこの日に、前の日と脈絡なく書かれる(日記とはそういうものだ)。しかしこれだけで読 者である私たちにはじゅうぶん受け取るものがある。
 六月十日の日記には調査行出発準備の荷作りなどのことにつづいて、こんなことが書いてある。

今朝、セリマンが自分のために小さなオウムを買った。

 セリマンというのは、現地でガイドとして傭われた青年だっただろうか。たくさんの人が来ては去るのでいちいち憶えていられない。そして翌六月十一日の日 記。出発準備が完了したという記述につづいて。

 昼間、ティエモロがセリマンに向かって、彼のオウムは大きくならないだろうし、それを買ったのは金を盗まれたようなものだと言ったものだから、セリマン は今にも泣き出しそうだった。

 セリマンのオウムの話はこれっきりだ。しかしこれでじゅうぶんではないか。つまり、この日記には何でも書いてある。もちろん全体としては民族学の調査行 なのだが、話として収斂することはなく(日記だから)、読者は拡散的な注意力を持ちつづけなければならない。というか、読み進めるかぎり、読者の拡散的な 注意力は自然と持続されることになる。(ということは、それができない、求心的な注意力しか持たない人や、すぐに「つまりどういう話?」と言う人はこの日 記を読み進められないということでもある。)
 九月二十七日の日記の全文はこうだ。(傍点は原訳文、以下同)

 昨日、郵便物を局に持っていったとき、アヴァス通信の電報を読んだ。数カ国の首都の株式市場が閉鎖され、イギリスは破滅への道を辿っている。あちこち で、混乱状態。西欧の破産がしだいに目立ってきている。つまり、キリスト教の時代の終焉だ。
 ボゾ族の人たちの一団が到着したところだ。うちの一人は語り部で、手、肱、足、膝で瓢箪をもてあそび、何遍もまわすことができる。彼はあいにくその説明 はしない……。この点で、僕たちが、あれこれの象徴的な装飾や意味がはっきりしない儀式のいわれを尋ねた人たちすべてに似ている。彼らは平然とこう答え る、《それは、そういうものだ!》
 グリグリを売りにきた男にひどく腹を立てる。それを使うときに唱えなくてはならぬ呪文がどういうものか訊ねると、呪文の一つをノートに記すために繰り返 させるたびに違う文句を言い、訳す段になると、またまた新しい文句を言うのだ……。
 明日の出発の準備にすることがあまり沢山あるので、またしてもオレ・ホレに行けない……。僕はたけり狂う。ちょうど、オデュセウスの水夫たちが、耳に詰 めた蝋のために、セイレーンの歌声を聞けなかったときに、そうだったにちがいないように。
 夕方、月食。よく言われるように、月が猫に食われたのだ。

 大恐慌は一九二九年十月にはじまっているが、ピークは三二年後半から三三年前半だとされているので、三一年九月のこの時点では悪化の一途をたどっていた ことになるだろう。ナチス・ドイツが政権を握るのは三三年一月だが、極東では満州事変の発端となる柳条湖事件がこの日記の九日前の九月十八日に起きてい る。
 という世界史を確認したいわけではないが、そういうことが「九月二十七日」という日付を持った日記に突然浸入してくるところがまたこの日記の拡散性だ。
 もっとも、第二次世界大戦へと向かう世界史はこの日記にはそれほど反映されているわけではないのだが、ヨーロッパ各国の植民地となっているアフリカとい うものはこの本を通じて、ひじょうに強く感じさせられる。この調査団は、未開の土地・未知の土地を進むわけではなくて、植民地として統治されているアフリ カを進む。だから行く先々で行政官に表敬訪問をしたりもする。
 そういう全体をいまは紹介したいわけではないから、植民地アフリカというのがどういうものだったか、これから先で書けるかどうかわからないが、この日記 で断片として書き留められた植民地の感じはその理不尽さがよく伝わってくる。


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