◆◇◆小説をめぐって(29)◆◇◆
グリグリを売りに来た男の呪文(前編)
「新潮」2007年1月号


 前回私はヨーゼフ・ロートの"緩さ"について書いたのだが、うまく書けなかった。いや、全体としては書きたいことをいちお う全部書いてはあるのだが、読み返してみると体に蜘蛛の巣がまとわりついていてそれがどうしても取り払えなくて、何度も何度も振り払おうとしているような おかしな書き方になっている。
 というのも、前回私はこの連載ではじめて一つの小説についてだけ書こうとしたのだが、その書き方をしていると、望んでもいないのに書評や作品論によって 作られてきた尺度や視点が流れ込んでくるらしく、それが流れ込んでしまうと、"緩さ"というものが否定的なものになかば自動的に了解されかねない危惧が生 まれるというか、"緩さ"というものが否定的なものとして処理される土俵に意に反してあがってしまっているというか。
「いい」「悪い」というひじょうに雑だが、いまここでは一番わかりやすい標(しるし)をつけるなら、私は前回一貫して"緩さ"をいいものとして書いている はずなのに、ある流れに入るとすぐにそれが悪いもののように読まれかねなくなってしまう。
 この連載を通して読んでいる人は、私が"緩さ"という言葉を書いているのを見た途端に、それがいい意味で使われていることが直観でわかるだろうし、文章 の全体の流れの中でも"緩さ"ということが悪い意味にはならないことは間違いようがないはずなのだが、それでもある流れ(部分)に入ると悪い意味のように 見えてしまう。
 思えば私はこの連載をきっと一度として結論に向かって収束するような書き方をしたことはなく、ある考えなり概念なりを初速を与えられる力とか弾みのよう なものとして使って、そこからどこまで遠くに行けるか、到達点はもちろんのこと方角すら書き手である私の与り知るところではない、というようなひたすら飛 距離を伸ばすことだけを問題にするような書き方をしてきたのだが、「ヨーゼフ・ロートについて書く」とか「ロートの『偽りの分銅』について書く」という風 に書いてしまった途端に、自分の書き方に枠ができてしまって、もともと初速をつけるための弾みであったはずの"緩さ"ということが結論のようなものになっ てしまったのではないか。文章の構造や地点としての結論という体裁はとっていないけれど、響きとか色合いとして結論のようなものに見えてしまう。
 いや、"緩さ"そのものは結論になっているわけではないのだが、文章の全体が枠にはめられてしまっているために、ある流れがはじまった途端に「これは結 論を導くための流れである」という雰囲気が生まれ、「これが結論を導くための流れであるからには、次には"緩さ"が来て、この流れから"緩さ"が来たら、 "緩さ"の否定にしかならないんじゃないの?」と言った方がいいか。
 文章が結論に向かって収束するものであるということとか、文章には結論があるということとか、結論がそこに至るプロセスの全体と等価である(だから時間 のない人はとりあえず結論だけ読めば最低限のことはわかる)ということとか、それらは小説的思考とまるっきり別のことであると、連載を通して繰り返し書い ているにもかかわらず、当の本人である私自身がある枠や流れにはまると、結論に掬われてしまう。

 前回のヨーゼフ・ロートの回を書いたあと私はガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について』(旦敬介訳、新潮社)を読んだ。これはもう非の打ちどころ のない佳作だと断言してもいいのだが、違うのだ。ヨーゼフ・ロートをいいと言う意味で違うのだ。
『愛その他の悪霊について』は一九九六年に出版されているが、私はそれをすぐに買いはしたものの、おそらくいままで開いてすらいなかった。
 それより前、九四年に『十二の遍歴の物語』(旦敬介訳、新潮社)が出て、その短篇集の最後に収められている『雪の上に落ちたお前の血の跡』という短篇 の、

 日が暮れて国境に着いた時、ネーナ・ダコンテは結婚指輪をはめた指からまだ血が出ていることに気がついた。

 という、はじまりの一文を読んだときに、かつて八○年頃に伝説の文芸誌「海」にこの一篇だけが掲載されたのを読んだときには、一瞬にしてガルシア=マル ケスの世界に連れ込まれて、あれほど心躍った一文だったはずなのに、九四年に同じ一文を読んだときには期待が大きすぎたせいか、来るものがなく、私はいき なり気持ちが萎えてしまってこの短篇集もたぶんそれっきり一度も開かなかったのではないか。
 さらにそれより前、九一年に長篇の『迷宮の将軍』(木村榮一訳、新潮社)が出たときには、

 古くから仕えている召使のホセ・パラシオスは、薬湯を張った浴槽に将軍が素っ裸のまま目を大きく見開いてぷかぷか浮かんでいるのを見て、てっきり溺れ死 んだにちがいないと思い込んだ。

 という、はじまりの一文を読んだときには、
「ああ、ガルシア=マルケスだ ――。」
 と感動して、買ってきた晩に読みはじめたのだが、どういうわけだか読むうちに乗らなくなって、全体の四分の一もいかないところに紐の栞がかかっていたか ら、たぶんそこで私は読みやめてしまったんだろうと思う。
 こう書いてみると、なんか、私は全然ガルシア=マルケス(以下、G=Mと略す)を読んでないのだが、それ以前のG=M体験が私には強烈すぎて、十年とか 十五年の空白など問題にならないくらいだし、九九年に『百年の孤独』(鼓直訳、新潮社)の新装版が出たときに読み直したのが、その空白を埋めてあまりある といってもいい。
 が、この九月に『わが悲しき娼婦たちの思い出』(木村榮一訳、新潮社)が出ると知って、その出版の前に一度も開いていなかった『愛その他の悪霊につい て』を読んでおこうと思ったのが、前回のこの連載を書き終えてすぐのことだった。
『愛その他』は『予告された殺人の記録』(野谷文昭訳、新潮社)に匹敵するか、ないしはそれ以上の完成度と言ってよく、もう本当に一文字たりとも無駄がな い。
 まず序文で実際に作者が立ち合った話として、サンタ・クララ修道院の地下納骨堂から掘り出された二百年間髪が伸びつづけて二十ニメートルの長さになって いた少女の頭蓋骨の話が語られる。それを見て作者は子どもの頃祖母から聞かされた「長い髪を花嫁衣装の尾っぽのようにひきずる十二歳の侯爵令嬢の伝説」を 思い出す。「その少女は犬に咬まれて狂犬病で死んだのだが、数多くの奇跡を行なったとしてカリブ地方の村々で大いに崇められていた」。これがその少女なの ではないかという思いが生まれたとして本篇がはじまる。
 十二歳の誕生日を目前にした侯爵のひとり娘が市場で狂犬病の犬に咬まれる。その少女は両親からまったく顧みられず、生まれてすぐに奴隷たちの暮らす裏庭 に移され、「ことばを話すようになる前から踊りを覚え、アフリカの言語を三つ同時に身につけ、朝起きるとまずおんどりの生き血を飲むようになり、白人たち の間をまるで肉体のない生き物のように目にもつかず耳にも聞かれずにすべるように移動することを覚え」ていた。
 これだけ書き写すだけで、私はあまりのG=Mらしさにうれしくなってしまう。これのどこがいけないのか、どこが違うのかと思われてくる。こんなことを たった数行で書けてしまうのは、G=Mの他にいない。長い時間が短いフレーズに凝縮されている。この小説はG=Mとしては短く(といっても『わが悲しき娼 婦たち』よりは長いが)、作品内に流れる時間」もほんの数ヵ月なのだが、何年間にもわたる出来事のような印象を作り出し、読みながらたまに「あれ、まだ三 月ということは、こうなってから一ヵ月たってないのか」という風に気づくのだが、またすぐにもう何年間も経過しているような気持ちに染まってゆく。
 奴隷たちの秘薬や秘術によって少女は三ヵ月たっても狂犬病を発病しない。しかしそんな秘術を信じない侯爵は、自分の娘がアフリカ黒人の秘儀によって生き 延びていることが知れたら世間体が悪いと考えて、修道院に娘の命運を託すことにする。
 修道院に入れられると、いきなり少女は修道女たちにひどい扱いをされかけるのだが、そこでもまた黒人の奴隷女と出会い、即座に自分の世界を取り戻す。調 理場で少女は、「あばれる子山羊の首を切るのを手伝った。目をくり抜き、睾丸を切り落とした。それが一番好きな部分だった。調理場の大人たち、そして裏庭 の子供たちを相手にディアボロ独楽で遊び、全員を負かした。彼女がヨルバ語とコンゴ語とマンディンガ語で歌を歌うと、そのことばがわからない者たちまで熱 心に聞き入った。昼食には子山羊の睾丸と目玉を、豚の脂で煮込んで強烈な香辛料で味付けした料理を食べた」。と、そんな調子で修道院の秩序は一気に混乱す る。
 そこで少女に取りついた悪霊を退治するために、三十歳くらいの学識豊かで、文章から受ける第一印象はかなり感じ悪い神父がこの女子修道院に通うことにな るのだが、神父は少女の放つ魅力に抗しきれず、読者が神父に好印象を抱いていくにつれて、神父の方は少女を恋するようになる。
 読者はみんな二人の恋がうまくいくことを願わずにはいられない心境に見事にはまることになるはずだが、修道院に少女が入っていくのを侯爵が見つめなが ら、「侯爵が娘を目にした最後の場面は、彼女が傷ついた足を引きずりながら庭の回廊を横切って、生きながらにして葬り去られた女たちの館に消えていくとこ ろだった」と、あらかじめ書かれているように、少女は修道院から出ることはなく、そこで死ぬ。
 読者としての私の時間の感覚が狂うのは、この修道院の中での出来事の数々や神父との恋に至る過程で、それは二ヵ月に満たない月日なのだが二年にも三年に も、もしかしたら五年にも十年にも相当するほどの量感がある。
 ということは、私たちは時間とか歳月というものがまったくわかっていないということで、この、客観的か物理的か数量的かの時間が意味をなさなくなるとこ ろがG=Mの真骨頂ではないかと思うのだが、それでもやっぱりこの小説は違うのだ。
 前回のヨーゼフ・ロートでは、「いい」「いい」と言っているのにまるで悪い要素の列挙のように映り、今回の『愛その他』では「違う」と言っているのに心 酔して絶賛しているようにしか映らない。……いや、確かにここまで私は『愛その他』を絶賛している。この小説が残り数ぺージになるまで、私自身、絶賛する 気持ちをまったく疑わなかった。しかし、残されたぺージがあとわずかと知ったとき、「なんだ、一直線で来ちゃったじゃないか。」
 と思ったのだ。

「読んだ」のではなく、「読ませられた」ことが違うことの原因だと言えばわかりやすいだろうか。
「読む」というのは、読者が自分の身体や経験や記憶を動員する行為だ。"身体"というのはわかりにくいかもしれないが、ページの端を折ったりおもしろいと 思った箇所に線を引いたりすることだけでなく、そのように折ったり線を引いたりしたことをとっかかりにして、前に一度出てきているらしい人物名が書かれて いるときにその人物の属性が説明されているページに戻ったり、「この人物はたしかあれをした人物だったんじゃないか」と思って、そのページを探し出したり することで、それは英単語をカードに書いて憶えるのや地図と見比べながら道を歩くようなことと同じで、パソコンで関連する語句を入力して検索をかければ一 発でそこに戻る仕掛けではまったく発動しない身体性がある。というか、そういう風にいろいろなことをやってもなお小説の全体を記憶しきれないところにパソ コンではない身体の一部としての脳を痛感せざるをえない。そうやって行きつ戻りつするのは面倒くさくないと言えば嘘になるが、それをする気になるだけの小 説は込み入っていることそれ自体がおもしろい。
 それにまた私はもともとすごく飽きっぽいし、同じ姿勢をずうっとつづけていることができないので、すわったり寝っ転がったりしてあれこれ姿勢を変えた り、あちこち場所を移動したりしながらでないと、本を読みつづけることができなくて、これも私にとっての“身体"だ。もっとも、妻は四時間から五時間くら い、ただ黙って椅子にすわったまま本を読んでしまい、そういう人も世の中にはきっとたくさんいるのだろうが、私だったらそういう集中はしないと猫たちもよ く承知しているから、私が本を読んでいるとご飯の催促をしたり、トイレでオシッコやウンチをして聞こえよがしに砂を掻き混ぜて「早く片づけろ」と音を立て たり、一番下の花ちゃんはテーブルの上の物を落としたりステレオのところのCDを落としたりして「遊べ」と言って、私はそのつど読むのを中断したり片手に 猫のオモチャを持って本を読んだりするのがあたり前になっている。
 ま、読みながら動きつづけているのは私の特殊性だとして、『愛その他』でもその状態はやっぱりそうではあるのだが、小説があと数ページで収束に向かって いることがはっきりわかったとき、物理的・身体的あるいはまた空間的に、そしてもちろん経過する時間の中でなされていたはずの「読む」という行為が透明化 してしまったような気持ちになったのだ。
 読み方に読者それぞれのブレがないという言い方をしてもいい。読者は作品に敷かれた軌道に乗ってまっすぐ進むだけで、あまり変わった読み方はできない。 もちろん、少女の母親について、「下からは血を垂らして上からは胆汁を吐く」「その爆発的な、猛烈に臭い放屁には獰猛なマスティフ犬まで怯えあがった」と 書いたりするように、この小説に穢れのイメージが頻出するとか、医学と神学と呪術という三つの系列がここにはあるとか、人によっていろいろ気づいたり気づ かないで素通りしたりするだろうが、それは読後に検証可能な解釈の問題であって、いろいろ気づく人もあまり何も気づかない人も、どちらも軌道に乗ってまっ すぐ読み進めてしまうところは違いがない。
 そしてしかもその軌道は収束に向かっている。というか、”収束"する結末があるという思いが軌道を作り出すのではないか。G=Mにとってそれが最も明快 にあらわれているのが『予告された殺人の記録』だった。

 自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。

この『予告された』の翻訳が出た八三年に『族長の秋』(鼓直訳、集英社)の翻訳も出版された。原著の出版は『族長の秋』が七五年で『予告された』が八一年 で、六年も間が空いているのだが、『族長の秋』はかなりびっしり組んである文庫で全六章三百二十ページある長篇の一章ずつがワンセンテンスによってできて いるという難物で、英訳は原著に忠実に一章ワンセンテンスに置き換えられているが、日本語ではやはりそれは無理だったらしく、ふつうの長さのセンテンスに よって訳文が構成されているのだが、それはともかく、冒頭部を読んでみると、『族長の秋』もまた最後の時間から書き出されていたことに気づく。
 そう思えば、『百年の孤独』もやっぱり、最後の時間とは言わないにしても、一連の出来事を回顧する時間から書きはじめられている。だから、『予告され た』の書き出しはG=Mが最も得意とするというか最も好きというか、とにかくそういう時間の提示の仕方であり、『愛その他』も本篇の前に置かれた序文がそ の働きをしているのだが、『百年の孤独』や『族長の秋』ではそんなことは問題にならない。
 結末がどうであるか、などということは関係なく――つまり、それどころではなく――読者は次々に起こっては知らないうちに次の出来事へと溶け込むように 移りつづけるエピソードによって作られた先の見通せない時間の森をひたすらさまよい、そこで自分の身体性のすべてを賭けることになる。
 ところで、今回、九四年に集英社文庫として出版された『族長の秋』を読んで驚いた。訳者の鼓直は全面訳し直しをしているらしいのだ。そんなこと全然知ら なかった!せっかくなので二つを並べることにする。

週末に禿鷹どもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部に淀んでいた空気を翼でひっ掻き回したおかげで、全市 民は月曜日の朝、図体の大きな死びとと朽ち果てた栄耀の腐臭を運ぶ、生暖かい、穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目覚めた。このとき初めて、 われわれは勇気を奮い起こしてそこへ押し入ったのだが、しかしそのためには、やたらと威勢のいい連中がけしかけたように、あちこち崩れかけた石積みの塀を 破ることも、またほかの連中が提案したように、何頭もの牛を使って正門を引き倒す必要もなかった。何者かが軽く押しただけで、大統領府のいわば英雄時代に は、ウィリアム・ダンピア(イギリスの航海者1652-1715)の臼砲にもよく耐えた鉄の扉の蝶番があっさりはずれたのである。まるで、べつの時代に潜 りこんだような感じだった。だだっ広い権力の巣窟のがらくたの谷間に漂う空気が思いのほか稀薄だったからだ。静寂もはるかに由緒ありげで、そこらの器具も しおれた光のなかで辛うじて見えるという有様だったからだ。(八三年版)

週末にハゲタカどもが大統領府のバルコニーに押しかけて、窓という窓の金網をくちばしで食いやぶり、内部によどんでいた空気を翼でひっ掻きまわしたおかげ である。全都の市民は月曜日の朝、図体のばかでかい死びとと朽ちた栄華の腐れた臭いを運ぶ、生暖かい穏やかな風によって、何百年にもわたる惰眠から目が覚 めた。このとき初めて、われわれは勇気をふるい起こして大統領府に押し入ったのだが、しかしそのためには、やたらと威勢のいい連中がけしかけたように、す でにあちこち崩れかけた石積みの塀を破ることも、また、ほかの連中が持ちかけたように、首木につないだ牛を使って正門をひき倒すまでもなかった。何者かが 軽くひょいと押しただけで、大統領府のいわば英雄時代にはウィリアム・ダンピアの臼砲にもよく耐えた鉄の扉の蝶番が、あっさりはずれたのである。まるで、 べつの時代にもぐり込んだような感じがした。だだっ広い権力の巣窟のがらくたの谷間にただよう空気が、思いのほか稀薄だったからである。静寂ははるかに由 緒ありげだし、そこらの器具も、しおたれた光のなかで、かろうじて見えるというありさまだったからである。(九四年版)

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