小島信夫『残光』を読んで、私は小島信夫がはじめた思考様式を使って、とりわけこの連載を書きつづけていることを痛感した。 『残光』の書き方、一見脈絡がないことで次から次へとつながっていって、しかしそれらのことが繰り返し、少しずつ形を変えて書かれて、形を変えるからと いって「正解」に近づいていくわけでなく、もともと正解つまりたったひとつの答えや終着点などあると考えていないけれど、書いたら書いた分だけそれなりに 何か進展のようなものはちゃんとあって……というような書き方をした小説家が小島信夫の前にいったい誰かいただろうか。この書き方はやっぱりたしかに小島 信夫がはじめたのだ。 『残光』の中で、小島信夫は自分がいま関心があることしか書いていないといって間違いにはならない。しかし小島信夫は<私>を書いているのではない。「受 け皿」という言葉を小島信夫は使っている。 「それは使ってくれ、使ってくれといっていたようにさえ見える。そういうことになったのは、受け皿が待っているからであろうか。その受け皿はどんなにして 出来ているか。」 「受け皿の予想もつかないのに、受け皿へ入ってくることなど分るはずがない。」 私は<私>についても考えるけれど、<私>は私が考えていることの一部分にすぎない。私の考えは無際限に広がる。これは小島信夫にかぎらず、すべての人間 がそういう風にして考えの中で生きていると言ってもいい。しかし小説を書こうとすると、ほとんどすべての人は何をどう書こうかと、枠のような輪郭のような ものを小説を書く心の中に作り出してしまう。そうすると小説は私の考えていることの広がりにまったく見合わない、筋の通った小さなものにおさまってしま う。 ほとんどの人は小説というものを考えるときに、枠の中に書かれている項目を整理して配置するようにして考える。しかし小島信夫がやっていることは、どこま でもどこまでも伸びてゆく線にするようなことだ。小説の中で繰り返し書かれる項目のひとつひとつがどこまでもどこまでも伸びてゆく線であって、その線が伸 びれば伸びるほど私の考えが進展する。「おもしろい」とか「いい小説」だという判断が可能だとしたら、小説を使って、その線がどこまで伸びていったかとい うことだ。 脈絡なんかは、それが小説を書くために持ってきた、つまりふだんは本当は考えてもいないような関心でないかぎりは、形のうえで特に脈絡らしきものを取り繕 わなくても自然に醸し出されるだろう――作者の意図と関係なく。 脈絡があるとかないとかは小さな問題であって、いま私の考えていることがそこに惜し気もなく投入されたら、それは“現前性”と等価なものとなり、全体とし て音楽が世界を予感させるようにして、世界の何かを帯びてくることだろう。私を虚(うつ)ろにし、小説を虚ろ――いわば、空っぽの箱――にすることによっ て、その小説は小説をこえる。 またも『華やぐ知慧』からだが、こういうことが書かれている。 書物――およそ書物なるものの彼方に、われわれを運び去らないような書物になんの意味があろう? (『華やぐ知慧』「第三書」二四八番) 人格的摂理――生のある高い一点がある。われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、い かなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われ われの最も困難な試練に耐えなければならぬ。つまり、そのときこそ人格神の摂理という思想が心ゆすぶる威力をもってわれわれに迫り、事実上の証明という最 善の弁護者を味方につけ、自分の遭遇する何から何までが、たえず最善なことになるということを、われわれがまざまざと経験するからである。{毎日毎時の生 活がもっぱら如上の命題を新しく証明しなおそうとしているように見える。それは、何でもいい、悪い天気でも、良い天気でも、友人を失ったことでも、病気で も、誹謗でも、手紙の来ないことでも、足を挫いたことでも、商店への一瞥でも、反対論でも、本を開くことでも、夢でも欺瞞でも、何でもいい。そうしたもの がたちどころに、あるいはすぐあとで、「それなしではすまない」ところのものとして証明される。}――そうした物事がまさしくわれわれにとって深い意味と 利益に満ちた事柄なのだ! エピクロスの神々、かの無憂の知られざる神々、への信仰をとりやめ、こまごまと気を配ってくれるどこかの神性――われわれの頭髪の一筋一筋をさえ親しく 知っており、きわめて情けない奉仕の仕事にも嫌悪を覚えないような――を信じるようにさせる、これ以上危険な誘惑があるだろうか? さて――そうしたすべ てにもかかわらず、私は思うのだ! われわれは神々にかかりあいを持たないようにしよう、また同様に、おせっかいな精霊たちにも――。そして、出来事の解 釈や位置づけにおけるわれわれ自身の実践的・理論的技術がいまやその最高点に達したという仮定をもって満足しよう。またときどき、演奏の際にわれわれの楽 器に生まれる絶妙なハーモニーがわれわれをひどく驚かしても、われわれの知慧の指先の器用さをあまりに高く評価しないようにしよう。――{それをわれわれ のものだと考えるにしては、あまりにも美しいハーモニーなのだ。実際、ときどきあるものがわれわれとともに演奏する、それは愛すべき偶然なのだ。それはと きどきわれわれに手を貸してくれる。きわめて聰明な摂理にしても、このときわれわれの愚かな手が奏でるものよりも、美しい音楽を考案することはできま い。}(『華やぐ知慧』「第四書」二七七番) これは小島さんとの往復書簡の体裁をとった共著『小説修業』の中にも書いたし、他のエッセイでも書いているかもしれないことの繰り返しになるのだが、はじ めて小島さんと会ったとき、私はちょうどそのときに読んでいたメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のこういうことが書かれているぺージを開い て見せた。 音楽的ないし感覚的な諸理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれらを所有するのではなく、その諸理念がわれわれを 所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉 仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌い、あるいは演奏家がそれについていくために「急いで弓を握りしめ」なければならぬほど突然ソ ナタが叫び声をあげるのだ。(『見えるものと見えないもの』「絡み合い――交叉配列」滝浦靜雄・木田元訳 みすず書房) このぺージを見せて、私は、 「書き手が小説に奉仕するかぎりにおいて小説は小説たりえる。そんなことができているのは小島先生だけだ。」 と言ったのだが、小島さんは「そんなことを大きい声で言ってはいけない」と言った。 「みんな小説家は自分の力で小説を書いていると思っているんだから、こんなことをうっかりどこでも言ったら反感を買うだけだ。」 と言ったのだった。 これはほとんどそのまま『小説修業』からの引き写しだが、この連載で毎回書きたいくらいの話だ。(が、それと別にいまは、この引用の最初のセンテンスがま さに、言葉で言えない「世界の何か」のことではないかと思う。) 私たちのうちのいったいどれだけの人が、いまさら作者の意図によって見事に構成された、出来のいい、うまく書かれた小説を読みたいなんて、本気で考えてい るだろうか。 小説は書き手が抱えている、なんといえばいいかもっと根底にある、本人が意識してどうなるものでもないダイナミズムのようなものによって、読者の興味を喚 起する、というよりも「読みたい」という気持ちを掻き立てる。 ここで「引っ掻く」というときの「掻く」という漢字が使われて「気持ちを掻き立てる」という表現があるわけだけれど、ダイナミズムというのはある異物に よって生成されるもので――それはストーリーなどのわかりやすいサスペンスが持っている以前の文章全体を貫く異物だ――、それがカフカが「書く」ことを 「引っ掻く」と言っていたように、ほとんど身体的に読者を「引っ掻く」ように機能して、「読みたい」という気持ちを掻き立てるのではないか。 さっき「耳で聞いてわかる」というようなことを書いたが、『残光』から引用した二つのセンテンスにはふつう文章として書くときには整理され取捨選択されて いるはずの項目までセンテンスに詰めこまれている。これもまた読者の気持ちを引っ掻く働きのひとつとして機能している。これが“文体”なのだ。ここで書き 手の身体性と書くという行為がこすれ合い、読者の身体(気持ちといっても同じことだ)がこすられる。 ところで、『残光』の中で「保坂和志」という人物は、作者にとってなんだか謎めいたほのめかしを言う人物みたいに描かれている。 作者は保坂和志が個人出版として仲間と作っている『寓話』について何度も書いているが、その『寓話』の中で話題にされる、NHK特集の『私は日本のスパイ だった』という番組が、NHKアーカイブスで二十何年ぶりに再放送されるから「見るように」と保坂和志が作者に電話をかける。そのときのことがこう書かれ ている。 それ(『寓話』の中で『私は日本のスパイだった』を話題にしているぺージ)をそのようにすぐに教えられるということは、保坂さんがていねいに調べている証 拠である、と考えられるが、そのあとで、保坂さんは、「内容は知りませんよ。内容とは関係ありません」 といった。 このことは、彼にとっては大事なことで、翌日「アーカイブス」の番組を見れば、内容について誰にも分ることであるが、そのことのためにしらべぺージをノー トしているわけではない、という意味である。 また、保坂和志が作者の家の二階の書斎を見たいと言ったことについても書かれている。 それからついでに、あのこともきいた。 「あのとき、ぼくのうちの二階の書斎を見せてくれといって、いっしょに階段をあがってきて、二人で本もない、机の上にも何もないというのを見渡していまし たが、あれは何のためだったのですか」 「ああ、あれは、ちょっと設計のことを考えていたもんですから」 ということであった。すべてぼくの考えすぎにすぎなかった。「設計」というふうにきこえたが、ちがっているかもしれない。 何しろぼくはこのところ、保坂さんのアタマの中のことを考えることが多いので、気にかかりながら憶測することがあり、いずれにしてもこれで安心した。 あるいはまた、七月十二日にやったトークの中で作者の発言として書かれているこういうこと。 保坂さんは通じないことを言って驚かすんだ。だから、そのためにたくさんのことをこちらが考えなきゃならない。それからまた、トークの中で保坂和志が『寓 話』のことを「スゴイ、スゴイ」と言うだけで、中身については何もふれなかったことについて。 ところが、ぼくは、八月に入って「新潮」を読んでみると、そこに『寓話』のことがとりあげられている。そうしてみると、保坂和志さんは、七月十二日の 「トーク」のときには、既に『寓話』についての小説論の原稿を書きあげていて、それを読んでもらえば、「トーク」ではしゃべらないことにしよう、と考えて いたのだな、と思った。 小島信夫作品に出てくる「保坂和志」という人物はこのいまこれを書いている私ではない。それは小島さん自身がそう言っている。実名で書いていても全部小説 の中の人物なんだと。しかしその小島さん本人が、「毎月原稿を渡すだけで、そのときから一度も読み返していなかった」ところの『寓話』を、二十年以上経っ て出版後はじめて今読んでみて、そういう人物が本当にいるような気になってしまって、 「電話をかけそうになる」(これは先日私が直接聞いた言葉だ) なんてことを言うからややこしくなるのだが、とにかく大前提としては、「実名で書いていても小説の中の人物」ということらしい。 いや、そんなことはともかく、私はわざわざ謎めかして言ったりしない。この連載を読んでいる人はわかるだろうが、言えることは全部言う。しかし言おうとし ても言えないことがいっぱい。 作者は保坂和志の発言の外にある言われなかった意図を推測するのだが、そんな意図は私にはない。NHKアーカイブスについて「内容とは関係ない」と言った のは、何しろ私自身は『寓話』が連載中に放映された『私は日本のスパイだった』という番組を見ていないのだから、内容についてはいっさい私は関わりを持て ない。しかし、『寓話』『寓話』と、こんなに『寓話』が私たちのあいだで話題にされているときに、偶然にもNHKで再放送するというのだから、それは教え ないわけにはいかない。ただそれだけのことだ。それ以上の意味はないし、どうして作者は、そこでこれ以上に意味や意図があると思うのか? 二階の書斎を見せてほしいと言ったのも、「設計」とかそういうことではない。これは面倒くさいからあの場では言わなかったのだが、小島さんの書斎を見てお けばこれから会場に向かおうとしているトークの中で、話題に窮したときの助けになるかもしれないと思ったのだ。あのときのトークは、私が事前に『寓話』と 『菅野満子の手紙』がいかにすごいかを言いたいと言っていただけでそれ以上の打ち合わせは何もしていなかったから、私としてはもしもの時の保険のために、 こまかい材料を陰で極力たくさん集めておいたのだ――結果として、そんな心配はすべて杞憂だったが。 小島さんの家にはそれまで五、六回はうかがっているが、書斎はプライベートな空間だと思っているから私はそれまで一度も「見せてください」とは言わなかっ た。しかし古本屋の安藤書店が入って蔵書がだいぶ処分されたので、プライベートという性格もだいぶ漂白されているだろうし、「今日ならいいかな」という気 持ちもあった。というわけで、ここでもまた『残光』の作者が期待しているような深い意味や意図はなかった。 トークのときに『寓話』についての小説論をすでに書いていて、だからあの場でしゃべらなかった、というのも意図の過剰推測で、トークの中でもたしかそう 言ったはずだが、トークの前に『菅野満子の手紙』の方は通して再読しておいたが、『寓話』の方までは手がまわらず、この連載の九月号で引用した箇所など は、トークのあとで連載の原稿を書きながら読んで見つけたものだ。 「保坂さんは通じないことを言って驚かすんだ。」 というのは、しかし『残光』の作者だけでなく、友人Kにも似たことを言われたことがあって、彼は、 「保坂の話は、へらへら笑って聞いてる分にはおもしろいけど、言おうとしていることをまともに理解しようとするとドッと疲れる。」 と言ったのだが、それもまた意図の過剰推測であって、私はへらへら笑って聞かれるつもりでしかしゃべっていない。 それがもちろん、しばらく前の自分の発言なり、しばらく前の相手の発言なり、ニーチェなり誰なりの発言なりに遠く響くということは前提としてある。しかし それは意図や意味ではない。インプロヴィゼーションで演奏されるフレーズの中につい出てきてしまう、手癖とか音の記憶のようなものだ。 いまここでしゃべっていることが数ヵ月の範囲で意図や意味を辿ってケリがつくような話なんか誰もしないんじゃないか。人の話がおもしろいと感じるのは、聞 く側にも同じくらいあるはずの記憶や知識と遠く響くからなのではないか。 そういうことが人間という存在の広がりではないか――というのは、こじつけだろうか。しかし小島信夫本人はこの『残光』でも何でも、自分の小説をまさにそ のようにして書いている。ところがそれと歩調を合わせない作者の既成文学的思考形態みたいなものがあって、それがまたひかれ合いとなって小説のおもしろみ を生み出していると言えば、そう言えなくもない。 しかし私は人の意図を推測するということに、どうやらまったく関心がないらしい。 たとえば『残光』には『菅野満子の手紙』の一節を引用してこういうくだりがある。 「では申しあげます。わたしにとっては、あなたの『女流』は、『抱擁家族』と切りはなしては考えられないの。あのヒロインは何ていいましたっけ」 「時子でした」 「彼女は『女流』を読んでいるのではありませんか? 菅野満子のことを考えていたのではありません?」 そんなことどうだっていいじゃないか、と言いたくなる。ずいぶん前、文芸誌に「佐助はなぜ盲目になったのか」というような『春琴抄』論が載ったことがあっ たけれど、「そういう話なんだからそれでいいじゃないか」「佐助は自ら目をつぶす運命を生きたんだ」という風にしか思わない。――それともあれは「春琴は なぜ盲目になったのか」か「春琴はなぜ顔を傷つけられたのか」だったのだろうか。 いずれにしても、最近はテレビのニュースでも殺人事件が起こると、「警察は×××が×××したことを原因と見て、動機の裏づけの最中」という風に、動機= 因果関係が証明されれば事件が説明されるような報道をしているが、動機を抱かえている人間はいくらでもいるが現実の行為をしてしまう人間はほとんどいない わけで、その行為の説明しがたさは小説が小説として生成する瞬間の説明しがたさとひじょうに似ている(が、小説は現実の行為のように単純ではない)。 あるいは夏目漱石の『こころ』に書かれた「K」とは誰か? という話もあって、幸徳秋水であるとか、高橋源一郎によれば石川啄木(旧姓の頭文字がKだっ た)であるとか(ただしこの推論はおもしろかったが)、そんなこともどうでもいいじゃないかと思う。作者の頭の中にあった人物が実在の誰かであったにして も、作中で描かれた人物に魅力がなければ意味がなく、描かれた人物が魅力を持つかどうかにひたすらかかっているのがフィクションなのだ。 フロイトは人の心の中に刻まれた父親の関係を見ているうちに『オイディプス王』に行きあたったわけだけれど、そこで『オイディプス王』は原型とか原理のよ うなものとなって、オイディプスの心理を父との葛藤で読んだりはしない。フィクションのリアリティとは、現実でそれが説明されることでなく、それが現実を 説明する原型になることだ。 現実の中にそれを置いてみて、どんなに荒唐無稽に見えることであっても、フィクションの中で読者の気持ちを掻き立てられればそれは何らかのリアリティを 持っているはずで、そのリアリティが現実をそれまでと違った風に見えるようにする。それがフィクションであって、現実によってリアリティの保証を得るのが フィクションではない。 そしてフィクションの中の人物たちが魅力を持つのは、本人の意志ぐらいではどうにもならない外的要因が人物の可能な選択肢を極端に制限することと、『善悪 の彼岸』で二ーチェが言っている「性格を有する者は、繰り返し現われる自分の典型的な体験をももつ」という意味での性格が与えられていること――つまりこ れもまた本人の意志ではどうにもならない――の二つが、提示されていることなのではないか。 そしてじつは私は、現実に生きている人間もそのようなものだと思っている。人間というのは、「あれもできるこれもできる」という可能性に開かれた存在では なくて、「これしかできない」という<なけなし>の選択肢を受け入れる存在なのだ。 意図は重要ではない。 それどころか、意図はもともとないのではないか。 というのが、どうやら私の人間観であると同時に小説観ということらしい。しかし、個人としての――つまりここは、「主体」とか「自我」という意味になるの だろうが――、そういう個人の能動性に根拠を持つ意図はないに等しい。しかしそれは、世界としては何かである。 今回の最初にもどることになるが、意図がないからこそ世界の何かが人間や小説を貫くのだと私は思うのだ。 |