一高の正門から旧農大の正門に向って歩いて行くと、右側に二株三株息の通った彫刻のような迫力を持った、光り輝く裸木が目につく。私は其の木の名を知らな い。日に一度は、多い時には日に三度も、あの赤茶けた道を登り下りする私であるけれども、不思議に木の名が思い出せない。それでもじっと目を閉じると、一 面に不透明な記憶の波の中でたった一つ其の木だけが研ぎすました光を帯びて浮んでいる。 私はあの木の辺りまで来ると、それまでどんなに友人と躁いで居ても、直ぐ口を噤んで了って暫くは見とれて居る。うねりうねって二、三町も打続くある雑木林 の中の道は、夜の目にどんなに難渋しようとも、次々に伐ち払われて行く校内の林と思えば、吾々にとって残された唯一の憩いの場所である。山近く育ち、梅が 綻び始めると学校の体操が山の中腹の鐘撞堂への駈足であった私達田舎者には、多少の傾斜と凹凸とを持ったあの雑木林の中の道は、妙に山道の感触である。あ の樹林が雑木林であることは、武蔵野のこととて別に大して珍らしい事でもないけれども、西方の私の故里には、なめらかな、厚ぼったい、陽光を何時迄も葉面 に漂わせて居るといった雑木林は、山にでも行かなければ滅多に見られるものではない。中学の上級に進み、何かにつけて女性の香に引かれて来た頃、私は大胆 に授業を抜けては春の日差を浴びて山にかけ登り、頬を火照らせ、息を切らしながら、反対側の山麓に建てられた女学校を見下し、上衣をぬいでスポーツに戯れ て居る小さな白 い群れを見つめて居たことも_々(しばしば)あった。 あの雑木林の中を辿々しく往き来する時、こんな少年時代の悪戯を思出して、産毛に似た夢のまどろみに落ち込んで行くけれどもあの木だけは必ずその夢の焦点 となって、求心的に光っているのだ。恰もそれが私の記憶の広芽の焦点であるかの如く。 道傍から斜めに生い立った堅い幹の上端に、幾本かの逞しい枝々が慌だしく、族生して、夫々一気に天を突いて居る。晴れた日には、其の枝々の角度の多様と、 豊かなヴォリュームと、緊張した生長の方向との為めに、陰影がリズミカルに動いて、地味な交響楽を静かに奏でる。 あの二、三本の裸木らは、一体葉の茂みを持ったことがあったであろうか。私はすっかり忘れ果てて居る。 私が_(ここ)まで筆の漫歩を運んだ時ふと私の前を幾度となく通り過ぎて行く何物かの影を認めた。私の前といっても、この私とはどの私であるかも分明でな い。斯うして筆を執っているのが私であるなしが分らない。渾沌としている。 私は先刻からそれを探しあえいで居る。探し当てようとすればする程、その影は逃げ去るようでもあり、探さなければもう永久に私の意識に上らないようでもあ る。 私は_で筆を擱(お)いて寮を出ると線路を越えて駒場の町に下り右に折れた。ものの一町も歩くと騎兵聯隊裏に登る坂道がある。この道角まで来た時、かすか に地面から洩れる騎馬の蹄の音が私の耳に伝わる。よく耳を澄ますと軈(やが)てそれは異国の酒宴の太鼓のような、物憂い後響きを残して消え去った。恐らく 此の騎馬隊は私が道角に立つ暫く前に此 の坂道を登り、坂の上の平地を歩んで行ったのであろう。然し私の目には丘の上の冷やかな微動だにしない、瀬戸物色の空と、一叢の枯木の上枝の外には何一つ 見えなかった。私の前にあるものはそれだけである。けれども此の上の彼方には、あらゆるものがあるのだ。この丘の彼方にこそ、西欧の或詩人が賦った如く 「幸の住む国」があるのだ。目を輝かせて独言っている間に、私の病み疲れ澱んだ意識の表面に、何ものをも突き抜かないではおかない激しい渾迷の渦が湧き たって来るのであった。それは私の意識に浮び出る前に、悶えるが如く二三度揺れ動いた。 丘!丘!私は最初先ず恐れるように含み声で己れの意識に聞き訊し後退りしたが、やがて嵐のように感情の三角波が後から後からと立ちまさり来ると、殆ど私は その場で激しい鳴咽に入っていた。 そうだ!忘れてなるものか。あの丘には、あの故郷の丘には私の若い情熱が秘められて居るのだ。 私と兄とが借りて住んで居た、ささやかな二階屋と、一筋の新道を隔てて額合(ひたいあわせ)に、その丘は後へ上へと伸び得る限り伸びて居た。 兄のカンヴァスと額縁と箱詰めにした書物以外、之と名ざす道具も無かったが、それでも其等を高々とトラックに積み重ね、危っかしい郊外の荒地を奔らせて、 始めてその丘に辿りついた時、丘の崖の上で、時々堪らないように笑い興じながら「鬼ごっこ」をして居た女の子供の一群れが赤い塊となって一面の秋草の中を 息せき切って駈け下りて来、物珍しげに荷物と私達新来の者とを見較べて、女の子らしく囁き合った。其の中には隣家の子供も居た。 兄がバスに揺られて、其の市の反対の外れの或る学佼に勤めに出た後、受験勉強に倦むといつも二階に上って窓を開け放ち、浪人者の空ろに歪んだ感情の中に空 気を注ぎ入れ、目の前の広々とした、丘を眺めるともなく眺めた。手近かの草叢は青い火のように窓一杯に拡り渡り、それに切り崩して間のない幾段かの禿崖が 打ち続き、その上が一連の林であり、林の上には秋の空が恰好に切り取られる。それが窓を額にした一幅の風景画であった。でもその風景画は自在に描かれた。 私の目の位置を移動させる度に、空が画面一帯に伸びたり、崖と草原だけが画面に溢れて強烈な対照を形作りもした。 「引用しすぎ」と思いながらも、つい「もう少し」「もう少し」で、全体の半分まで来てしまった。まったく、なんという話の展開だろう!「向陵時報」はよく ぞ載せたものだ。 この『裸木』をはじめて読んだのは、ほんの三ヵ月前のことなのだが、最初の印象は「読みにくい文章だなあ」だった。しかし、この文章には奇妙な内在律とで もいうテンポがあるらしくて、読むたびに独特なテンポが感じられるようになっていて、引き込まれている自分がいる。しかし、何度読んでも私は、書いてある ことの中身というか、連なり方が憶えられない。いや、それ以上にほとんど読むそばから書いてあることを忘れていると言ってもいい。 話題というより「話題以前」のことが次々に湧いてきては次の「話題以前」のことが、その場所を占めてゆく。ふつうの小説では、前に出た話題が次に出てくる 話題を隠喩的に補完したり、後の話題が前に書かれていることを深めたりするようになっているはずなのだが、この小説ではすべてが同じ強度を持っていて、回 想と現在時との区別も判然としない。 この小説をはじめて読んだ何日後かに、ちょうど小島さんから電話があったので、私はこの小説について、ここに書いたような感想をもっと簡単にして、ざっと 言ったあとに、「誰の小説の影響なんですか」と訊いた。 「あの頃は読む本といってもろくになかったですからねえ。梶井基次郎ぐらいしか読んでなかったんじゃないですかねえ。」 というのが、小島さんからの答えだった。 それで私は新潮文庫の『檸檬』に収録されているいくつかを読んだのだが、「似てる」といえば確かに似ていなくもないが、やっぱり全然違う。『檸檬』の冒頭 を引用してみる。 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と云おうか、嫌悪と云おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿 酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖(はいせん)カタルや神経衰弱がいけないのではない。また脊 (せ)を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がなら なくなった。蓄音器を聴かせて貰いにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上ってしまいたくなる。何かが私を居堪(いたたま)らずさせる のだ。それで始終私は街から街を浮浪し続けていた。 何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった、街だとか、その街にしても他所他所(よそよ そ)しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転してあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであっ た。雨や風が蝕(むしば)んでやがて土に帰ってしまう、と云ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植 物だけで、時とすると吃驚(びっくり)させるような向日葵(ひまわり)があったりカンナが咲いていたりする。 時どき私はそんな路を歩きながら、不図(ふと)、其処(そこ)が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市(まち)へ今自分 が来ているのだ――という錯覚を起そうと努める。私は、出来ることなら京都から逃出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がら んとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。其処で一月程何も思わず横になりたい。希わくは此処が何時の間にかその市になって いるのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重 写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。 小島信夫『裸木』と比べて端整だ。「私」は「えたいの知れない不吉な塊」に心を圧えつけられてはいるが、それを「えたいの知れない……」と名指して対象化 するほどの理性は持っている。 引用の最後でも「私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ」と、現実の私自身を見失ったことの事後報告は書いていても、その状態そのものは書いてい ない。なぜなら、「われわれは生成しつつあるものを表現するための言語を持っていない」のだから。 日本文学史上に燦然と輝く『檸檬』を一作家の習作にすぎないような作品であるところの『裸木』と比較するなんて!と、つまらないことにばかりこだわる人た ちのヒンシュクを買うかもしれない。 しかし、この連載を通じて、私は作品の良し悪し、出来不出来を問題にしたことはない(そんなものは時代が変われば変わってしまう)。私が問題にしているの は、その作品を構成する言葉の質とか、作品に反映されている身体性とか、文章の中に盛り込まれている要素の数といったことで、つまりは「作品以前」のこと だ。 作品は作品以前の要素によって作品となる。作品をただ作品として読むのでは、結局、三島由紀夫とか夏目漱石とか小林秀雄という名前が批評や評価の尺度に なってしまうのではないか?「三島由紀夫はこう言った」「夏目漱石がこう書いている」なぜそう書くだけで批評として通用してしまうのか? それはともかく、『裸木』が小島信夫二十二歳目前の作であるなら、『檸檬』も梶井基次郎二十三歳の作だ。いや、そんなことはともかく、『裸木』を読んで、 私は小島信夫が創作の出発からすでに小島信夫であることに驚いた。だから私が『小銃』について書いた「作者は最初からこのように書いたのではなく、……」 という想像は間違いだったのだ。小島信夫は『小銃』を第一稿から、ああいう風に書いたのだ。 これは本当に驚くべきことだと思う。 私たちはたとえば、カフカの日記を読んでおもしろいと思うのだが、その日記を書いたときのカフカは二十代前半だったりする。宮沢賢治の享年は三十七歳で、 満二十七歳で出版した『春と修羅』を七十年八十年の生涯を通じて読んだりする。偉大な作家というのは出発点からすでに偉大なのだ。 その「偉大」とは「異質」ということだと私は思う。「宮沢賢治は最初から完成されていたのだ」という言い方をする人がいるが、私はそうは思わない。「完成 されていた」のではなくて「異質だった」のだ。つまり、違ったものを持ち込んだのだ。文学というのは、絵や音楽のように物として見えたり聞こえたりするも のではないから、それを真似たり消化したりするのが事のほか遅く、百年くらい経っても「異質」が「異質」のままなのだ。 『裸木』は“習作”ではない。これはすでに立派な小説だ。ふつうの年譜でいえば一高在学中は“習作時代”という区分になるかもしれないが、偉大=異質な作 家には習作時代はないということを、この小説が証明している。『裸木』を読んで、私は小島信夫という小説家が、本当にカフカや宮沢賢治が偉大といわれるよ うに偉大だと思って、気安く電話でおしゃべりをしていることが怖くなった。 ところでその小島さんなのだが、「梶井基次郎ぐらいしか読むものがなかった」と言ったあと、 「『檸檬』は宿酔(ふつかよい)の話ではじまってますでしょう。」 と言うのだった。引用を読んでもらえばわかるが、「宿酔」とは書いてあるが「宿酔の話」は書いてない。ところが『裸木』は、そういう書き方になっている。 引用の第二段落の後半三分の一に書かれている「中学の上級」のことは現在時ではなく記憶だが、いわゆる“回想”らしい現在時を補うおとなしさがない。 「裸木」という作品名は一見「檸檬」という作品名と同じつけ方のようだが、中身と表題に使われた物の関係は全然違っている。私は樫村晴香ではないから、樫 村晴香のように見事には言えないのだが、「檸檬」はこの作品世界の出口であり救いである。『檸檬』において「作品世界」とは作者の心情と言い換えることも できるだろう。それに対して「裸木」は、“諸力”“諸衝動”のことなのだ。クロソウスキーが引用の三つ目で言っている「諸衝動の全体の出会いの場所」であ るところの身体を衝き動かしている力として「裸木」が作品の冒頭で提示され、この小説全体で「裸木」のことを書いている。 こういう説明の仕方をすると、ふつう「裸木」が「著者を衝き動かす力の隠喩である」とか「象徴である」ということになるのだが、ここに書かれている「裸 木」はもっと得体の知れない、対象化されていないものだ。それはこの小説全体の整然としていない書き方を、意味として簡略化せずに、そのまま読まないと感 じることができない。 たとえばニーチェは衝動に関するメモを書いているあいだ、それらの衝動が自分のなかで活動してはいるが、しかし自分が書きとる考察と自分にそれを書かせる 衝動とのあいだにはいかなる対応関係もないということを知っている。しかし、ニーチェという名の基体として、自分が何を書いているかを意識することができ るのは、まさにその瞬間に、書くということがおこるために何が生み出されたのかを自分が知らない、いやそればかりか(もし彼が書き思考したいと思うなら ば)知らないでいる必要があるということを、さらには、後に彼が衝動たちのあいだの闘いと名づけるものをその瞬間にはまったく必然的に知らないでいるとい うことを、彼が知っているからなのである。(『ニーチェと悪循環』「欲動の記号論の起源としての病的諸状態」) 著者は「裸木」について書きたかったわけではない。しかし著者が書きたいこと、考えたいことはすべて「裸木」があることによって生成している。だから著者 は「裸木」に導かれて、一所懸命「裸木」のことを書こうとしている。著者にはまず「裸木」を書くことしか、何かを書くという術が与えられていない。『裸 木』は、まともでないこともまともなはずのこともすべてまともでないことのように書いてしまう小島信夫の核がすでにあり、だから読者は書かれていることを 意味として簡略化してはいけない。 音楽が鳴り終わったあとに記憶の中でその音楽を反芻しても、聴いていた現在時と同じだけの感動が沸かないのは、たとえばベースやチェロという演奏の前面か らは退いているパートが記憶の中では消えているためだ。意味に回収し尽されないこの書き方には“諸衝動”を現前させることを可能にしているいくつもの騒音 雑音的な夾雑物が混じっている。 だからこの小説では、言語が「生成しつつあるもの」に対して、無力だったり手遅れだったりするのではなく、例外的に、いまこの場で生成となる。 ところで、人は死ぬが作家も死ぬ。 作家の命は人間としての命と期間が一致するわけではなく、人間としてはすでに死んでいても、夏目漱石も三島由紀夫も作家としてはいまだ死なずに生きてい る。彼らの文章はいま生きている人が書いた言葉と同じ重みをもって引用されたりする。 しかし、正宗白鳥はどうか?横光利一はどうか?山田風太郎の「明治物」の中で、すでに死んでいる祖父が死んだときの姿のまま現われるのだが、日が経つにつ れてだんだんと姿が曖昧になっていくというエピソードがあったが、正宗白鳥も横光利一もいまではもうずいぶんと作家としての姿が曖昧になってきている。現 代は知名度とともに写真も流通するから、忘れられつつある作家はそれに比例してヴィジュアルも朧(おぼろ)になってきて、山田風太郎が描いた霊のようなこ とになっている。 作家というのは実際にはあまり読まれていないとしても、名前と顔写真が知られていれば作家であって、一般の人が持っている「作家」というのはそういうもの だ。「芥川龍之介はいかにも神経質そうなああいう顔をしていて、『杜子春』『蜘蛛の糸』『河童』などの代表作があって、若くして自殺した」というこれだけ のことが知られていればじゅうぶん「作家」であると言うことができる。 横光利一となると、顔写真はもうほとんど知られていず、作品欄に『春は馬車に乗って』と『機械』とそれから『上海』とか『旅愁』とかぐらいが入るのがせい ぜいで、享年の見当もつかず、正宗白鳥では作品欄に入れる作品名もふつう思いつかない。……こういう知識のあやふやさは祖父や曾祖父についての知識のあや ふやさとよく似ている。 ということは、ふつうに「作家」と言う場合、私たちは友人や親戚の人を思い浮かべるように、「作家」のことを一人の人間としてイメージしているということ だ。もう少し厳密(?)な言い方をすれば、ふだん友人や親戚の人を思い浮かべるのと同じソフトを使って「作家」のことも思い浮かべているということで、そ のソフトは人間をあくまでも一つの統一された個体として把握する方法しか持っていない。そのソフトは人間を、「外見(顔写真)」「経歴」「生没年」「主な 業績」という属性で把握することしか知らない、まあ履歴書のようなものだ。 文学作品とは――少なくとも現在では――書籍として市場に一定量流通しなければ評価の網にかからないようになっているのだから、作品が「作家」によって書 かれ、その「作家」というのはあなたやあなたの友人と同じように顔も生没年も持っている「人間」なのだという風に、読者が事前に持っている理解の土壌にば ら撒かなければ仕方ないし、私だってベケットの顔写真はベケットの作品の一環のように感じていたり、クロソウスキーの八十代の写真を見ると「妖怪のよう だ」と思ってうれしくなったりする。しかし作品は「作家」とは別なのだ。「作家」は個としての人間が死後に辿る運命とだいたい同じように時代とともに遠く なったり薄れたりしていくものだけれど、作品はもっと長く生きつづけることができる。 事後=読後に思い返しても読んでいる最中の運動を再現することがほとんど不可能な小島信夫の小説は、ふつうにイメージされる意味での“作品”を拒んでいる 作品であって、作品というよりも「諸衝動の全体の出会いの場所」ようなもので、「諸衝動」は作品のようにすら死なない。 「人間」というのは、私たちが記憶したり伝達したりするのに便利なようにパッケージングされた状態(統一体)であり、「作家」というのも「作品」というの も同様のパッケージングがなされた状態だ。 「作家」が書いた作品を売るという市場では「作品」もまた「作家」にとっての履歴書のような属性が伝えやすいものが流通する。というよりも、そういうパッ ケージングを前提にしていまの市場が成長したのだから、私の書いていることは因果関係の逆転なのかもしれない。「人間」も「作家」も「作品」も統一体で あって、やすやすと分解してしまうものであったら、私たちの認識がついていけないのだから。 私はこの連載で、カフカの断片を引用したり、ミシェル・レリスの日記(=断片)を引用したりしている。統一体としての作品になってしまったら書けないだろ うようなことが断片に書かれているからだ。 作品は作品で、いろいろなものを作品という統一体に束ねていく過程でひじょうに大きな労力を必要とする。それは私自身『カンバセイション・ピース』を書き ながら痛感した。しかし、作品という統一体にするために、意識的と無意識的の両方で切り捨てたものがいくつもあったことを書いた本人が一番知っている。 作品であるからにはじゅうぶんに騒音を取り込めないのだ。作品として「つじつまを合わせる」こともさることながら、作品に向かっていく力が破綻する余地を 進行中の作品に与えなくなる。しかし現実は、つまりここでいう“諸衝動”も含めた現実は、もっとずっとばらばらな方向を向いている。小説の情景が「いきい きした」ものでなければならないとしたら、作品は作品という統一体になっていく過程でどうしてもじゅうぶんに「いきいき」としなくなる。 それは当然こっちも小説家なんだから、文章をいじって精一杯「いきいき」とさせるけれど、それは小さな子どもが地面の上を転がり回るような活力とはまった く別のものだ。しかし、書いている自分の中には確かにそういう活力がある。子どもが地面の上を転がり回るような活力がなければ小説は書けないのだ。 私が伝えたいことが少しでも伝わっただろうか。これは小島信夫のことであり、『裸木』のことであり、『寓話』のことであり、それと同時に、荒川修作の言葉 とも響き合うはずのことであり、ニーチェ-クロソウスキーの“諸衝動”“諸力”のことでもある。 小説が「作品」として統一体におさまらなかったら、“衝動”として読者はそれを共有するだろう。私たちは「人間」「作家」「作品」という、パッケージング された状態しか知らないから、“衝動”を読者として共有しても――つまり、読者の中でその場で“衝動”が生成されたとしても――、読者はそれを自分という 閉じられた統一体の中で偶然に起こったことだと思うだけだろう。しかし、そうではないのだ。“衝動”こそがリアルなのだ。どこまで適切な比喩か疑わしい が、野球やサッカーという球技で最もリアルなのは選手でなくボールなのだということだ。 他人(ひと)に伝えるとか他人にわかってもらえるとか、そういうことは全然どうでもよく、読者がそれを読みながら、かつて読書で体験したことのないような 興奮状態になったとしたら、それはあなた一人の中の出来事ではない、ということだ。 全部が書きっちらかしじゃないか? 文章が形として完結していることに意味はない。もし私が、これだけの量の文章を、せめてこの文章の半分の量でも、一瞬に書けたら、せめて一時間ぐらいのう ちに書けたら、私はもう少し輪郭のはっきりした文章を書けたかもしれない。しかし「書く」も「読む」もそういう風にはできていない。 最後にひとつ書き足したい。 三一七ページの、 「想像的な他者の時間へ、彼の作品を送り出し、彼の視線を誰かと共有し、誰かに共有させ、抽象的な誰かと一緒に自分が世界を見ている」 という樫村晴香の言葉は、すべての作品について当てはまることだ。ここを書きながら私自身、つい三島由紀夫〜大江健三郎〜村上春樹という流れに限定して考 えてしまった節がないわけではないけれど(つまり私はここで樫村晴香のこの言葉を引用する必要はなかったのだ)、「仲介者」という狭い他者をこえて、表現 者はすべて他者を心のどこかに想定して作品を作っている。 ここでただ一人の例外がマルセル・デュシャンということになるのだが、幼児期に故郷を去ってその後三十年も四十年も故郷の街の風景画だけを発表することな ど考えずに描きつづけた人なども“想像的な他者”を想定しない表現者の仲間に入るのかもしれない。 そこでまた、“断片”なのだが、日記や誰にも見せるつもりのない文章を書くとき、人はどこまで“想像的な他者”と無縁でいられるか?完全に無縁でいること はたぶん不可能だろうが、それでも“想像的な他者”の影響力をだいぶ弱めることはできるのではないか。 |