芸術と雄々しさの関係が現在に至っても、ほとんどの人によって全然深刻に受け止められていない。雄々しさからズリ落ちることは、カフカが書くように忌み嫌 われる。 小説には主人公がいる。いない場合もまったくないわけではないけれど、ほぼすべての小説で一人ないし複数の主人公がいる。主人公がいたら小説家はその人に 何か動きをさせなければ小説として書きつづけられないと考える。 そこに雄々しさがあらわれる。主人公が殺人を犯しても、小説の中の殺人によって小説家が責められることはなくて、小説とよく似た事件が起きれば「事件を先 取りした」と評価されたりさえする。主人公がどんなに不愉快な人物であっても、批評する人たちは忌み嫌ったりしない。 主人公が何らかの能動性を持っているかぎり、小説にとって書き手と読み手の予定調和は保たれ、そこから「真理の悪臭」がたちのぼることはない。もっとも真 理が「悪臭」であるかどうかは難しいところで、カフカの原文が本当に「悪臭」と書かれているのか、ただ「臭い」とか「臭気」といった程度のものだったのか もしれないが、真理を見たくない人にとっては「悪臭」とも言えるだろう……。 それはともかく、主人公の能動性を回避するために、カフカは主人公がいきなり投げ込まれた状況の中で受動的に振る舞う小説を書き、ベケットは『モロイ』で は動きがままならず『マロウンは死ぬ』ではベッドに寝たきりで『名づけえぬもの』では甕(かめ)みたいなものの中にじっとしている男を主人公に設定した。 二年か三年前に、あるドイツ文学者が同僚のドイツ文学者について、「彼はとうとう三十何年つづけていたカフカ研究者を放棄した」というエッセイを読んだこ とがあった。くだらないエッセイだったので詳しいことは憶えていないが、つまりそのカフカ研究者はカフカの小説における主題や主体というものがわからな かったということを言っていたのだ。 昭和三十年頃に日本でカフカが一斉に読まれたときに、小島信夫が「カフカの小説は悪夢を読んでいるようだ」と書いたら、「悪夢というのはなんと幼稚で不謹 慎な読み方か! カフカは実存主義文学なのだ」と批判されたと、小島さん本人から聞いたことがあるけれど――そのエピソードで、当時の日本ではフロイトが まだ広く読まれていず、夢の位置づけも子どもの空想と同程度のものだったことがわかるということは置いておくとして――、深刻であるためには深刻そうな顔 をしていなければならなかった日本文学の状況がうかがい知れる。 『変身』の新潮文庫の裏表紙の作品紹介文も、 「第一次大戦直後のドイツの精神的危機、破局の意識から来る絶叫、忘我、新しきものの待望などを変身した男に託して描き、現代実存主義文学の先駆をなす傑 作。」 と書いてある。一九五二年(昭和二十七年)に初版が出た新潮文庫『変身』のこの紹介文がいつから使われているかわからないが私が高校一年(一九七二年)に 買ったときにはすでに紹介文はこれで、同じものがいまだに使われている。 こういう風にカフカを読んでいたら、三十何年研究をつづけて、とうとう「わからない」と言って投げ出す文学研究者の悲劇が待っている。 もっとも、文庫本の裏表紙の二、三百字程度の紹介文で『変身』について何を書けるかと言ったら、だいたいこれに似たようなことしか書けないのではないかと も思う。「本年度ベストワンの呼び声高く」とか「人はどうして死ななければならない運命にあるのか」というキャッチコピーと一緒で、文庫の紹介文とは宣伝 文だからだ。 宣伝文と小説それ自体を読むことは全然別であって、小説の中身を説明するには原稿用紙何十枚の長さを必要とする。そして結局は何度も読むしかない。小説は 伝えにくさ、内容の持ち運びにくさという点で、完全に現代性と相容れない。大げさな表現、ズバリと言う切れ味の鋭い表現、短くて意味が通じる慣用句的な表 現、それらは新聞記事程度のせいぜい原稿用紙数枚の長さの文章には見栄えはいいが、頭の中までそういう言葉で埋めつくされていたら小説を読むことはできな い。 そのカフカ研究者にとって、やっぱりカフカは「真理の悪臭」だったということだ。すでにこのカフカ研究者が具体的に誰であるかということはどうでもよく て、カフカを深刻ぶって読む人――つまり深刻ぶって読まなければ深刻な内容はわからないと思っている人――全般と考えてもらえばいいのだが、小説に能動性 を期待する人にとって、カフカの能動性のなさ主体性のなさは、彼の持つ文学幻想に対する「悪臭」ということになる。カフカの小説はどれも、主人公は何も得 られない状態に置き去りにされるだけだ。 深刻ぶって読む人は、たとえば以下に引用する『審判』の箇所をどう読むだろうか。これは「頭取代理との戦い」という章題がついている断章の後半部だ。ヨー ゼフ・Kは突然巻き込まれた訴訟によって、勤めている銀行での立場もあやうくなっている。そういうときに「ある朝Kは自分がいつもよりずっと元気で抵抗力 があるように感じた。」ここでもまた目が覚めたら変化していたわけで、カフカでは眠ると状況が変化するのだが、それは今は置いておくとして、元気だと感じ たからKは頭取代理と対決することにした。 今日もそんな具合だった。頭取代理はつかつかと入ってきてドアのそばに立止り、最近身につけた習慣に従って鼻めがねを拭き、初めKを見、それからあまりK にばかり気をとられている様子を見せまいとして部屋全体をじっくり眺めやった。まるでこの機会を利用して自分の視力をためしているというようだった。Kは その視線に逆らって少し微笑さえしてみせ、お坐りになりませんかと頭取代理にすすめた。彼自身は自分の肱掛椅子に腰をおろし椅子をできるだけ頭取代理のそ ばにずらすと、すぐ必要な書類を机からとり出して報告を始めた。頭取代理は最初ろくに聞いていないように見えた。Kの事務机の表面は木彫りの浅い飾り縁で かこまれていた。事務机全体が非常にすぐれた細工で、飾り縁もしっかりと木に嵌めこまれていた。ところがちょうどそのどこかにゆるんだ箇所を見つけたのか 頭取代理は破損箇所を直すためしきりに人差指で飾り縁をはがそうとしていた。それを見てKは報告を中断しようとしたが、頭取代理は話は全部正確に聞きかつ 理解していると言って、そうさせなかった。しかしKがさしあたり一つも具体的な意見を彼から引きだすことができないでいるうちに、飾り縁に特別な処置が必 要になったらしく、頭取代理はポケットナイフをとりだすと、梃子としてKの三角定規を使って飾り縁を持ちあげようとした。そうすればもっと深く押しこめる と思ったのだろう。Kはこれなら頭取代理に必ずや特別な効果を与えるだろうと思って、あらかじめ報告の中にまったく新しい種類の提案を入れておいたが、い まちょうどその提案にさしかかったのでとうてい中止するわけにいかなかった。それほどにも彼は自分の話に夢中になっていた、というよりむしろ、近頃はます ます稀(まれ)になりつつある意識――自分はこの銀行においてまだ何かを意味しているはずであり、いま自分の考えていることはそれを正当化するだけの力が あるはずだ、という意識に非常なよろこびを感じていたのだ。ひょっとしたら自分を弁護するこのやり方は、たんに銀行においてばかりでなく訴訟においても最 善のものかもしれなかった。少くともいままで彼が試みたり企てたりしてきた他のどんな弁護よりもずっとすぐれているのかもしれなかった。話を急ぐあまりK には口で言って頭取代理にその飾り縁の仕事をやめさせる余裕がなかった。ただ朗読しながら二度か三度空いたほうの手で、大丈夫だというように飾り縁の上を なでてみせただけだった。そうすることで彼は、自分でも正確にそうと意識していたわけではないが、飾り縁にはなんの破損もないし仮に一つくらいあったとし ても、いまは自分の話を聞いてくれるほうが大事で、修繕仕事などよりずっと礼儀にかなったことだ、と頭取代理に伝えようとしていたのだった。ところが頭取 代理は、頭脳労働をする活発な人によくありがちなことだが、この手仕事にすっかり夢中になってしまっていて、飾り縁の一部はいまたしかにひきあげられその 小さな柱をどうやってまた元の穴に嵌めこむかという段階にさしかかっていた。これはいままでのどの段階よりもむずかしかった。とうとう頭取代理は立上らね ばならなくなり立ったまま両手の力でその飾り縁を机板に押しこもうとしはじめた。だがどんなに力をこめてもそれがうまくいきそうになかった。Kは書類を読 みながら(以下、略)(中野孝次訳) 書類を説明するKとKの机の飾り縁をはめこむのに熱中している頭取代理。傍線部はすべて飾り縁に絡む箇所だ。マックス・ブロートが編集した『審判』ではこ こは本篇に組み入れられなかったわけだが、最終的にカフカがどうしようとしていたかはわからない。一番大事なことは、カフカがこういう喜劇じみた場面を一 度は書いたということだ。 どうしてこういう場面を書きたいのか説明なんかつかないけれど、私だって書きたいしいままで何度も書いてきた。小説は、深刻なものを深刻一色に、悲しいも のを悲しい一色に書くのは簡単だけど、それでは書いている本人がつまらなくて、そんな書き方をしていたらバカになっていくような気がしてくる。どうしてそ ういう風に思うのかの説明を自分でもつけられないが、とにかく小説家はあの手この手を使って、小説が一色に染まらないようにする。小説は書体や文字の大き さを変えずに紙にべったりと印刷される表現形式だから、そこには本筋と脇道、大事なこととどうでもいいことという区別はない。 次に引用するのは『モロイ』の一節だ。 いまは運命について語る者の話を聞こう。その女がぼくに愛を教えてくれたのだ。彼女はたしかリュースというやさしい名前だったと思うが、それをたしかめる すべはない。もしかするとエディスだったかもしれない。彼女の両足のつけ根には穴が一つあった、おおそれは前から想像していたような丸い穴ではなく、割れ 目だった、そしてぼくは、というより彼女は、男性のものと称される器官を、どうにかこうにかその中へ押しこんだ、するとぼくは放射するまで、またはそれを あきらめるまで、または彼女が止めるように哀願するまで、押しつけあえぎ声をあげた。ぼくの考えでは馬鹿の遊びで、けっきょくは疲れるだけだ。それでもそ れが愛だと知っていたので、ぼくはかなり喜んでそれに努めた、彼女が愛だと教えてくれたのだ。彼女はリウマチだったので、長椅子の上にかがみこみ、ぼくが うしろから入れたのだった。腰痛のために、彼女はそういう姿勢しかとれなかったのだ。ぼくはそれが自然だと思った、犬たちのを見たことがあったから、だか ら彼女が他のやり方もあると教えてくれたとき、ぼくはびっくりした。彼女が正確には何を言いたかったのかわからない。たぶんいずれにせよ彼女はぼくを直腸 のなかへ入れただろう。そんなことはぼくにはまったく同じことだった、いうまでもないけど。だがそれはほんとうの愛だろうか、直腸のなかへ入れるのは? ぼくが困っているのはそのことなのだ。けっきょくのところ、ぼくは一度も愛を知らなかったことになるのか? 彼女もやはりおそろしく平ぺったい女で、黒檀 (こくたん)の杖をついて硬直した小さな足どりで歩いていた。たぶん彼女は男でもあったかもしれない、もう一方では。だがその場合には、ぼくたちがいちゃ つくとき、お互いの睾丸がぶつかり合ったのではなかろうか? きっと彼女はそれを防止するために、わざわざ片手で自分のを押えつけていたのだろう。 この引用箇所の前にはしかしこういうことが書いてある。そこでは「彼女」は「リュース」でも「エディス」でもなく「ルウス」となっている。 彼女はむしろ男ではなかったか、または少なくとも男女両性のふたなりではなかったかと自問しているほどなのだ。彼女の顔はいくらか毛深かった、それともぼ くのほうが話をおもしろくするために、そのように想像しているだけなのか?あの可哀そうな女にはめったに会わなかったし、顔をしげしげと見つめたこともな かった。それにしても彼女の声は妙に重々しかったではないか? いまとなって彼女はそのように思えてくるのだ。 この流れで読んでくると、「彼女」との性交の場面で笑ってしまっても、ただおもしろおかしいだけではない。「おもしろい」とか「悲しい」とか、そんな人間 的な次元を通り越してしまう。 私は引用にかつて集英社から出ていた三輪秀彦訳の版を使ったが、『モロイ』は現在、白水社の安堂信也訳が入手可能なので、ぜひ読んでみてほしい。『モロ イ』も『マロウンは死ぬ』も『名づけえぬもの』もどれも文庫本にしたら三百ページくらいになるだろう長さがあって、一作をそれだけを通して読むのは大変 で、十ページ読んでは休み、また十ページ読んでは休み、やっと半分くらいまで来たら、それを読みたいという気持ちが飽和していて、一ヵ月とか休みたくなる のだが、それっきりやめて最後まで読み通せなかったとしても読者が能動的に読むかぎり、読んだ範囲で必ずいろいろなことを考えさせられている。 題材における暴力と登場人物の性格における病んだ精神という二つは、カフカやベケットのように“芸術の伝統”を疑ってはいない。“芸術の伝統”を疑うこと は“人間の主体性”を疑うことと同じなのだ。 『アンティゴネ』でコロスが歌う詩をもう一度引用する。 無気味なものはいろいろあるが、 人間以上に無気味に、ぬきんでて活動するものはあるまい。 人間は荒れ狂う冬の南風に乗って、 泡立つ上げ潮に乗り出し、 さかまく大波の 山の中をくぐり抜ける。 神々の中でも最も崇高な大地、 滅びず、朽ちぬこの大地をさえ、人間が疲れはてさせてしまう、 年々歳々掘り起こし、 行きつ戻りつ、馬で 鋤を引き廻して。 軽やかに飛ぶ鳥の群をも 人間が網にかけて獲り、 荒地のけものも 海に棲む魚も 思案をめぐらす男が狩り獲ってしまう。 山に宿り山をさ迷うけものをば 人間は才智で牛耳る。 粗いたてがみのある馬の首や いまだ強いられたことのない牛にも、 木の首輪をはめこんで むりにくびきにつないでしまう。 語の響きと、 風のように早く理解するすべとに 人間は精通している。 町を支配する勇気をも。 悪天候や霜などの害に さらされていても、 のがれるすべを心得ている。 到る所を駆けずり廻っているうちに、経験したこともなく、逃げ道もなく、 人間は無へとやって来る。 たった一つの圧力、死だけは なんとしても逃げようがない、 危い長患いでさえも、うまく 逃げおおせることもあるのに。 如才なく、 すべての望みを叶え通す力を持っているので、 人間は悪事をはたらくこともあるが、 勇敢なことをしでかすこともある。 大地の掟と 神々に誓った正義との間を人間は通る。 そういう人の居所は高くそびえ立っているが、 冒険をするために、 存在しないものを存在するものと思ってしまうような、 そんな人は居所を失ってしまう。 こんなことをしでかす人が わが家のかまどに親しむことがないように、 そんな者の妄想が私の知に混じりこまないように。 自然破壊が進み、牛や豚や鶏を完全な管理下において飼育している時代に生きている私たちは、この詩が言っている人間の無気味さがよくわかる。 最後の三行がなぜここにあるのかわかりにくいが、ハイデガーによると、「コロスがこの最も無気味なものを嫌う態度をとっているということは、それだけつま りコロスがこのような存在の仕方は日常的な存在の仕方ではないと言っている」(傍点引用者)ということになる。つまり英雄的な存在の仕方であるということ だろうが、そのような人間たちだけが行なっていたことが、いまでは完全に日常世界の出来事になっている。 だから現代人である私たちは、自然の風景や動物たちを近代以前の人間と同じようには見ていない。アフリカの草原にいるライオンや豹や象に対してさえも私た ちは、同情に似た感情を持たずに見ることが難しくなってきていて、そう感じているとき私たちは“人間の主体性”のことも否定しなければならないのではない かと感じている。 それが現代という時代だ。 『利己的な遺伝子』という本がベストセラーになっていた頃、「利己的に振る舞う人間が生き延びるのだ」という、とんでもなく自分に都合のいい解釈をした学 者が出てきたり、「俺の中には利己的な遺伝子が流れている」と言って弱者を殺しまくるマンガが描かれたりしたことがあったが、「無気味なもの」に起源を持 つ“人間の主体性”に対する、反省どころかほんのわずかな注意力のない人の考えることは救いがたい。そういうものに一定の需要がある社会も救いがたいが、 もっと救いがたいのは「一定の需要がある」という理由だけでそれを出版する出版社だろう。 利己的遺伝子論もまた、“人間の主体性”に対する反省から生まれてきた。この反省が一種のイデオロギーだとしたら、科学の側にある利己的遺伝子論が単純に そのイデオロギーから生まれてきていたら似非(えせ)科学のそしりを免れないが、"人間の主体性"に対する反省は、イデオロギーではなくて、ミシェル・ フーコーが指摘したところのエピステーメー、つまり時代の知の基盤の変化が生み出したものなのだ。 だから私たちは、自然の風景や動物を書くだけで数十年前までの小説と違う小説を書くことになる。現代性、同時代性というのは、私たちの視線そのものの中に あるのだから。 私は、文学に関して「新しい」ということはもうありえないし、それを目指すべきではないといつも考えている。前にも書いたことだが、ヌーヴォー・ロマンま でつづいてた「新しさ」「文学の変革」というような概念は、工業製品と同じように技術革新がなされることを賞揚する価値観であって、文学はその価値観と同 じ基盤で考えることをやめる必要がある。 「新しさ」という概念・価値観は人の関心をひじょうに浅薄なものに向ける機能があって、その浅薄な関心の中では、暴力という題材と病んだ精神という性格に ばかり注意がいってしまうことを反省できない。たかが言葉にすぎないのだが、言葉に依存する部分が大きい思考(そうでない種類の思考もある)では、「新し さ」というようなたった一語が、思考を方向づけてしまう。 それにまた、カフカやベケットのように、主人公の能動性を放棄した小説は、小説の流れの中で異物でもあって、異物を「新しい」とは言わない。ヌーヴォー・ ロマンはアンチ・ロマンつまり反小説とも言われていた。もっとも、「反」とは言っても「小説の中での反小説」ぐらいにしか思われていなかったのかもしれな いけれど、反小説か非小説ぐらいでないと、無気味なものに起源を持つ人間のことをちゃんと考えることのできる散文は書けないのかもしれない。――しかしそ れでも、小説というのはなかなか奥深いものであって、非小説もまた「小説」という言葉が使われているかぎり、小説として読まれることになるだろう。そこで いう小説が、「新しさ」に気をとられる人が考える狭義の小説を指していないことは言うまでもない。 ……じつは私は、今回、もっと断片的な文章で、現代性とか同時代性について、かなりとりとめのないことを書くつもりだった。それがどうしてこういう、ずい ぶんと直線的な文章になってしまったのか。文字で書くというのは自由度を縛るものだと、こういうときに思う。 ところで、登場人物の病んだ精神というのは、その人物が能動的に振る舞っていても、彼(または彼女)が十全な主体性を維持しているとは言えない状態であっ て、その意味では能動的であっても受動的でしかない。 そういうことまで考えないで、病んだ精神の人物を登場させている書き手は、その書き手自身が、現象として現代的であり同時代的であるということになる。私 のこの言い方に皮肉がまったく含まれていないわけはないけれど、それにしてもやっぱりこれは小説の現代性、同時代性を考えるときに一度はきちんと考えなけ ればならない問題であり、いつになるかわからないけれど、この連載で書こうとは思っている。いま書いても、私はきっとほとんど批判ばかりしてしまうだろう から得るところがない。 病んだ精神が能動的に振る舞ってもその全体が受動になるということを、はっきり意識して書いているのは阿部和重だろう。『公爵夫人邸の午後のパーティー』 など、ほんのいくつかしか彼の小説の中で手放しで好きだと思える小説はないけれど、能動と受動を考えるときに阿部和重を抜かすわけにはいかない、という か、彼こそがその中心にいるのではないかと思う。 しかしそのことについても、この連載で書くのはまだ先になるだろう。 |