◆◇◆小説をめぐって(十五)◆◇◆
  小説と書き手の関係【前半】
「新潮」2005年4月号


どういう風に話をはじめるのがいいのか、うまい言葉が見つからないのだが、小説とは「時間との闘い」だと思う。
百メートル走るのを○・一秒縮めたり、時計の精度を小数点以下一桁ずつ厳密にしてゆく意味での「時間との闘い」ではなくて、そういう時間観が支配的な時代の中で、「時間と闘わないようにする闘い」ということで、「待つこと」や「辛抱すること」を人生や生活の一部として飼い馴らすこと、とでも言えばわかりやすいだろうか。

小説家になろうとしている人にとって、まだ小説家になっていない自分が生きている時間はすごく長い。あまりに長すぎたために、もう自分が小説家になるために辛抱できる時間は、二、三年じゃないか?それとももっと短かくて一年ぐらいしかないんじゃないか?と、まるで砂時計の砂がサラサラ、サラサラ、サラサラ……と落ちていく映像が見えてくる気がするみたいに限界に達しつつあるように感じられるときがある。
この砂時計が落ちていく感じ、待つことの限界に達しつつある感じというのは逆説的で、「それだけ長い時間、自分は待った(待つことができた)」という長さを意味しているのだが、その状況にいる本人には残された時間の短さとしか感じられていない。
というような感じで、小説家になろうとしている人にとって、いまだ小説家になっていない自分が置かれている時間はすごく長いのだが、小説家になってもやっぱり長い。私はデビューが遅い方で、はじめての『プレーンソング』が「群像」に掲載されたのが三十三歳六ヵ月のときだったが、そこから小説家人生をはじめても平均寿命まで四十五年くらいある。
つい数年前まで小説家のデビュー年齢は三十歳前後だった。それが突然、最近になって二十代前半、場合によっては十代にまで下がってしまったために、現在、二十代後半から三十代くらいで小説家になろうとしている人たちはすごく焦っているのではないかと思うけれど、小説家というのは、なるまでに時間がかかるものであり、なってからも長い長い時間がその上を流れていくものなのだ。だから焦ることはない。

小説家のデビュー年齢が早くなってしまった理由をことあるごとに考える。それはデビューする本人たちだけの問題ではなくて、小説それ自体の問題だからだ。
ここではとりあえず「うまい/下手」という一番雑な言葉を使うことにするが、小説をうまく書けない理由はいろいろある。しかしそれは文章が下手だからではない。小説家になろうと思っている人なら文章は基本的にうまい。難クセをつけていったらいくらでも直せるけれど、ただ文章ということなら基本的にうまい。しかしそのうまさが問題なのだが、それのどこが問題なのかはいま書いても混乱すると思うので後で書くことにする。
文章がうまくても小説は書けない。小説には何か“切断”と呼ぶようなものが潜んでいる。誰が何を切断するのか、何と何を切断するのか、それはひじょうに漠然としていて私も「感じ」でしか言えないのだが、たとえば、小説を書いているつもりで自分=作者が日頃、心の中に持っていた意見をつらつらつらつらと書いてしまっていることがある、ということにほとんどの人が思いあたるだろう。
次に引用するのは、村上春樹『アフターダーク』の中の、高橋という大学生が話した言葉だ。原文はマリという女の子との会話だが、マリの受け応えはごく短いものなので、高橋の言葉の必要な箇所だけを抜粋することにする。

「でもね、何度か裁判所にかよって、事件の傍聴をしているうちに、そこで裁かれている出来事と、その出来事にかかわっている人々の姿を見ることに、変に興味を持ち始めたんだ。ていうか、だんだん人ごとには思えないようになってきたんだよ。それは不思議な気持ちだったね。だってさ、そこで裁かれているのは、どう考えたって僕とは違う種類の人たちなんだよ。僕とは違う世界に住んで、違う考え方をして、僕とは違う行動をとっている。その人たちの住んでいる世界と、僕の住んでいる世界とのあいだには、しっかりとした高い壁がある。最初のうちはそう考えていた。だってさ、僕が凶悪犯罪を犯す可能性なんてまずない。僕は平和主義者で、性格温厚、子供のころから誰かに向かって手をあげたことだってない。だからまったくの見物人として、裁判を高見から眺めていることができた。よそごととして」
「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」
「で、いったんそういう風に考えだすとね、いろんなことがそれまでとは違った風に見えてきた。裁判という制度そのものが、僕の目には、ひとつの特殊な、異様な生き物として映るようになった」
「たとえば、そうだな、タコのようなものだよ。深い海の底に住む巨大なタコ。たくましい生命力を持ち、たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。僕は裁判を傍聴しながら、そういう生き物の姿を想像しないわけにはいかなかった。そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。僕がそのときに感じたのは、深い恐怖だ。それから、どれだけ遠くまで逃げても、そいつから逃れることはできないんだという絶望感みたいなもの。そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう」

ここで語られていることが、地の文ないし一人称の独白として書かれていたらかなり困る(原文も高橋はしゃべりすぎだが)。しかし実際には、小説家になろうとして小説を書いている人は、地の文や独白で——つまり、直接的に——、世界像にかかわるこういう重要なことを書いてしまっているだろう。
高橋の世界像は、「深い海の底に住む巨大なタコ」という風に、比喩というか一種寓話的なイメージによって語られるわけだが、寓話的な処理をほどこせば“直接的”でなくイメージが膨らむかと言えばそんなことはなくて、寓話的にしてあるためにかえって、高橋の法律観・権力観がはっきり形になってしまっている——だから、地の文や一人称の独白でこういうことを書いたら致命的なことになる。小説は書き手と“切断”されず、ただただ書き手の世界像(世界観)の開陳になってしまう。
多くの人が誤解していることなのだが、寓話とか比喩というものは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするのではなくて、語りを目的に向かって絞り込む。イソップ童話はどれも寓話だが、たとえば『アリとキリギリス』という話で、アリのイメージもキリギリスのイメージも豊かにならず、同時に、働き者と怠け者のイメージも豊かにならず、四者のイメージが硬直化する。語りが目的に向かって進んでいくためにそういうことになる。
この意味でもカフカは寓話ではない。人間ならざるものが人間のように振る舞ったり、ありえない土地に行ったりする作品の外見は確かに「寓話的」ではあるけれど、目的に向かって物事が簡略化されるわけではないので寓話ではない。
だいたいカフカの小説には目的(意図)や目的地(こう終わらせようという形)はない。日常生活の中に異物が入ってきたらどうなるのか?ということを、一種の思考実験のように書いていると考えた方がいいと私は思う。科学の思考実験は、夾雑物を排した純粋状態を意味するが、カフカの場合には、みんなが身振り手振りの癖、語りの癖、思考の癖を持っているために夾雑物で溢れている。……とは言え、カフカの小説は、どういう風と分類される小説でなく、ひたすらカフカの小説なのだが。
日本で書かれたカフカのような小説と言うと、私は真っ先に、小島信夫の初期の『馬』を思い出す。主人公の「僕」がある日会社から帰ると、庭に材木が運び込まれていて、妻に訊くと、家を建てるのだと言う。そして妻が言うにはその家に住むのはあなた(「僕」)で、母屋には馬が住むことになる。馬は妻の愛人の寓話的な変型でなく、ひたすら本当の馬として描かれる。
あるいは『小銃』。こちらでは兵隊の「私」がいつもいつも丁寧に小銃を磨き上げていて、そのうちに小銃は女の体のように感じられたりするのだが、やっぱり最後まで小銃は小銃なのだ。
そういう小説を「カフカのような小説」としか言えないのだが、『馬』や『小銃』は本当は「カフカ小説」と呼びたいくらい、本質的にカフカだ。
それに対して、ふつうに「カフカ的」と呼ばれているものは、カフカとは関係ない。迷宮が出てきたり、変身したり、得体のしれない権力が出てきたり、何かに翻弄されたり、それらはカフカの表面をなぞっているだけで、カフカが作り出した小説の力学とは関係ない。
と、ここまで書いて、私は自分の記憶が間違っていないか、『馬』と『小銃』を読み直したのだが、『小銃』のおもしろさを読者に知ってほしくて、はじまって間もない箇所を引用しないわけにはいかなくなった。

私は、キラキラと螺旋(らせん)をえがいてあかるい空の一点を慕う銃口をのぞくと気が遠くなるようだった。それから弾倉の秘庫をあけ、いわば女の秘密の場所をみがき、銃把をにぎりしめ、床尾板の魚の目——私はそう自分で呼んでいた——であるトメ金の一文字のわれ目の土をほじり出し、油をぬきとると、ほっと息をついて前床をふく。この前床をふくという操作は、どんなに私の気持をあたためたか知れない。一つ一つ創歴のあるというこの古びた創口を私はそらで数えたてることが出来た。たとえば、右手の腹のここのところの鈍いまるい創、それから少しあがったところの手術あとのようなくびれた不毛の創口、左手の銃把に近いところに切れた仏の眼のような創、中でも、どうしたものか黒子(ほくろ)のようにぽっつりふくれた、かげのところのボツ。それはたぶん作戦中、何か、あんずの飴のようなものでもくっついて、汗と熱気でにぎりしめる掌の中で、木肌の一部になったのかも知れない。こうして私は一日に小銃のあそこ、ここにいくどもふれた。その度に私はある女のことをおもいだした。おもいだすために銃にふれた。
私は二十一歳で内地をたつ時、二十六歳の年上の女で出征中の夫をもつ人妻に、あたえられ得る最大のことをのぞんだ。夫の子供をやどしている女を、実家へ送りとどける途中、行きあたりばったりの寒駅の古宿で、私はその七ヵ月にふくらんだ白い腹をなで、あちこちの起伏、凹みに顔をむせばせるだけで別れた。さわらせて、もう少しさいごだから、という私の声に、女は贖罪のつもりか、目をとじてあけず、用心深く私の手をにぎって自由にはさせなかった。漠然とした手ざわり、匂い、それから黒子が手がかりであった。
銃把をにぎりしめると、私の存在がたしかめられた。そこから生命が私の方へ流れてくるように思われた。銃把は女がみごもる前の腰をおもいおこさせた。私はかなしみをこめてその細い三八銃の腰をにぎりしめた。いたいいたい慎ちゃんやめて、むりよ。私にはそういう声がきこえるようだった。私はあたえることの出来なかった膂力(りょりょく)を小銃にむけた。私はかなりの膂力があり、銃把をにぎりしめ地面からまっすぐ垂直にまであげ、しばらくそのままの位置にとどめることも楽にできた。
小銃は私の女になった。それも年上の女。しみこんだ創、ふくらんだ銃床、まさに年上の女。知らぬ男の手垢がついて光る小銃。
私はこの、イ62377という番号の小銃を交換することをいやがった。それも私には許された。射撃にかけては、同年兵で私の上に出るものがなかったからである。指物師の家に生れ子供のあそびに物尺をもった私の眼は正確だった。的をねらうと、女の唇が物をいいはじめるのだった。
慎ちゃん、あなたはきっと可愛がられるのね。あんたは可愛がられる人。それで大安心なの。私だけでないのね。それで大安心なのよ。あの人にも気がすむの。ひみつだけど、この子、主人のではないようよ。そう思いたいわ。男ならあんたの名前とるの。ほんとうは私こわかったの。年上だと思えなくなりそう。そしたらもうおしまい。あんたに可愛がられるようになったら。わかって。でも私、いつもあんたのそばにいる。そう、あんたの鉄砲になって。
私は心をこめて標的に射こんだ。私が射つと、五発の弾丸の痕は小さくかさなり合った。

長くなってしまったが、これぐらい抜粋しないと語りの混乱した流れがわからない。「いたいいたい慎ちゃんやめて、むりよ。」のところで、私は何度読んでも声に出して笑ってしまう。
『小銃』は現在、講談社文芸文庫『殉教・微笑』に収録されていて、『馬』は同文庫の『戦後短篇小説再発見<10>表現の冒険』というアンソロジーに収録されているので、どちらも書店で手に入る。もし書店で手に入らなくても、小島信夫の初期の小説はいろいろな文学全集に収録されているので図書館に行けば見つけられる。
『小銃』は小島信夫の“文壇的デビュー作”になるのだそうだ。『うるわしき日々』(同文庫)巻末の年譜によると、「新潮」の一九五二年十二月号の「同人雑誌推薦号」に掲載された。そのとき三十七歳。
同人誌から転載されたのか、同人誌に書いている人の中から選ばれたのか、どの年譜をみても「推薦」の定義が書かれていないから判断しようがないが、史料として年譜を作っているつもりなら、年譜作成者はそういうことを明確にしておいてほしい。
それはともかく、同人誌から推薦されたといっても、二〇〇五年の時点で、読者がイメージする同人誌と同人誌そのものが違っている。いまの文芸誌は三百ページから四百ページの厚さがあるが、一九五〇年代の文芸誌はその半数以下のページ数しかなかった。つまり、現在の文芸誌に載る小説の半数は一九五〇年代には格として同人誌に載っていたということになる。レベルのことは知らない。何しろ私は三島由紀夫も志賀直哉もたいした小説家だと思っていないのだからレベルは知らない。文芸誌のページ数が全体で半分以下しかなかったということは、相対的に同人誌の格が高かったことを意味する。
これは別の言い方もできて、同人誌が文芸誌の予備軍として機能しなくなったために、文芸誌がたくさんのページ数を必要とするようになったということなのだ。一九五〇年代と現在の文芸誌を比較して、「インフレだ」「掲載の基準が甘い」と言う人がいるけれど、単純に文芸誌のページ数だけを比較しても意味がない。

話を戻す。小島信夫は『小銃』によってはじめて商業誌にデビューした。処女作みたいなものだ。著者はいったいこの文章をどういう風に書いたんだろうと思う。
この文章がうまいか下手か?
ここで話ははじめの辺で書いた話題に戻ることになるのだが、この文章は、うまいとか下手とか関係ない。一見、いかにも無雑作に書かれている。その感じは現在の小島信夫そのままではあるけれど、習作を書きつづけていた、小説家になろうとしている人間が、第一稿からいきなりほっぽり出すような無雑作さで文章を書くわけがない。
文庫本の組みから大ざっぱに計算して、この小説は四百字三十枚だが、その三十枚を著者はどういう風に推敲したのか?
ちくま文庫の「宮沢賢治全集」には異稿(先駆形)が収録されている。たとえば『春と修羅 第三集』の『穂孕期』とその先駆形を比べてみる。

穂孕期

蜂蜜いろの夕陽のなかを
みんな渇いて
稲田のなかの萱の島、
観音堂へ漂ひ着いた
いちにちの行程は
ただまっ青な稲の中
眼路をかぎりの
その水いろの葉筒の底で
けむりのやうな一ミリの羽
淡い稲穂の原体が
いまこっそりと形成され
この幾月の心労は
ぼうぼう東の山地に消える
青く澱んだ夕陽のなかで
麻シャツの胸をはだけてしゃがんだり
帽子をぬいで小さな石に腰かけたり
みんな顔中稲で傷だらけにして
芬って酸っぱいあんずをたべる
みんなのことばはきれぎれで
知らない国の原語のやう
ぼうとまなこをめぐらせば、
青い寒天のやうにもさやぎ
むしろ液体のやうにもけむって
この堂をめぐる萱むらである

次が先駆形の『杏』だ。

 杏

つかれて渇いて
夕陽の中を
萱で囲んだこのちっぽけな観音堂へ
みんないっしょに漂ひ着いた
いちにちの行程は
ただまっ青な稲の中
その水いろの葉筒の底で
三十億の一ミリの羽
けむりのやうな稲の穂が
いまこっそりとできかかり
この一月の雨や湿気の心配は
雲や東のけむりとともに
青い夕陽に溶かされる
麻シャツを着た
さっきの人が帰って来る
どこからとって来たのだらう
杏を帽子にいっぱい盛って
稲で傷つき過労に瘠せたその顔に
何かわらひをかすかにうかべ
萱の間を帰ってくる
(はね起きろ、観音の化身!)
ひとはしづかにわらってくる

先駆形の『杏』も『穂孕期』もどちらも同じ、一九二八年七月二四日に書かれている。
この二つの比較で、書き直すこと、推敲することのイメージが、少しはつかめたのではないだろうか。
カミュの『ペスト』に小説家志望の男が登場してきて、彼はみんながペストとの闘いに大童の最中に、新しい小説の書き出しの一節を持ってきては、「なよやかに髪をなびかせて」を「たおやかに髪をなびかせて」に変えるような、形容詞句をいじる書き直しばっかりしてきて主人公に「今度はどうでしょう」と意見を求める。最後彼はすべての形容詞句を取り払うという成長を見せるわけだが、宮沢賢治のような大胆な組み換えをするわけではないのは、そこまでしてしまったら読者がついてこられないという判断がカミュにあったからだろうか。
書き直すということは部分をいじることではない。私はこれまで何度か、「作者はいま自分が書いている小説を(原則として)全部記憶している」と書いてきた。記憶しているということは、書き直す作業において、第一稿をいちいち見ずに書いていくということを意味している。
「全部記憶している」といっても、一語一句憶えているわけがないので、形容詞や動詞はひとつひとつ照合すれば第二稿より第一稿の方がうまくいっている場合もあるだろうが、そんなことは関係ない。
『杏』と『穂孕期』の比較で言えば、「つかれて渇いて/夕陽の中を/萱で囲んだこのちっぽけな観音堂へ/みんないっしょに漂ひ着いた」という情景を語るために、「蜂蜜いろの夕陽のなかを/みんな渇いて/稲田のなかの萱の島、/観音堂へ漂ひ着いた」と、つかれて渇いた人間たちでなく、夕陽の方を先に掲示するように、カメラを据える位置やカメラが映し出す順番をいろいろ換えてみることが、書き直すということだ。
二つの詩を照応してみると、行数で順に、『杏』の1〜4行目が『穂孕期』の1〜4行目に対応し、5〜6はまったく同じで、7〜10が7〜11になり、11〜13が12〜13になる(『穂孕期』の14行目は15行目以降につながるのではないか)。そこまではだいたいカメラの映し方を換えているような変化で、語られている内容・情景自体には大きな変化はない。
情景自体に大きな変化はないのだけれど、しかし情景の解釈というか情景全体を支配している空気は、『杏』と『穂孕期』ではすでに違っていて——そういうことは映画のカメラワークを思い浮かべるとよくわかる。カメラワークだけで同じ情景が悲しげなものにも力強いものにもなりうる——、14行目以下の大きな変化が用意されることになる。
『杏』では稲で傷ついて過労で瘠せた顔にかすかなわらいを浮かべることしかできず、賢治は観音の化身に救済を訴えたくなってしまうのだが、『穂孕期』では麻シャツを着た傷だらけの人は瘠せて疲れているわけではなく、酸っぱいあんずをむしゃむしゃ食べて、しゃべり合う。彼らはここでは弱々しいわらいを浮かべていたりしない。『杏』にある「わらひ」というのは、きっと日本人特有のアルカイック・スマイルと言われていた表情のことで、この「わらひ」から私たちはだいぶ遠くなってしまっているが、この「わらひ」は本当にやるせない。だからきっと宮沢賢治もその「わらひ」に至らない展開にしたのだ。

と、いうのは詩にうとい私の読み方だからアテにならないが、では『小銃』はどうか?
『小銃』でもおそらくこのような、あるいはもっと全体に及ぶ書き直しがあっただろう、というのが私の想像だ。
ここで、小島信夫が実際にどう書いて、どう書き直したのか、ということはわからない。「わからない」と書くと、「わからないことをあなたは勝手に想像するのか」とか「それはこじつけではないか」とか「小島信夫と交流があるんだったら本人に訊けばいいじゃないか」などという考えを持つ人が最近多くて、いちいちそういう反論を想定していると面倒くさくてしょうがないのだが、その人たちがただ私(保坂)への反感の表明としてそうするのではない場合、私はそういう考えをいちいち論駁する言葉を持っていない。哲学とは結論を読むものではなくて思考のプロセスを読むものだ。結論というのはプロセスそのものの中にあるとしか言えない。小説となるともっとプロセスしかない。音楽を聞くときに「結論は何か?」と考えないのと同じようなものだとでも言えばいいだろうか。音楽でも絵でもそれをいいと思っている人は言葉を必要としていない。音楽や絵の前で言葉を必要とする人はそれをどう受容していいかわからない人たちだ。
全然説明になっていなかったどころか、揚げ足を取りたい人にさらに揚げ足取りの材料を与えてしまっただけみたいだが、『小銃』に戻って、引用した部分をこのように書くにはかなりの勇気が必要なのだ。
最初の段落では銃のことしか書いていない。これは小説がはじまって三つ目の段落で、ここ以前はいわゆる導入としての情景しか書かれていない。銃が「ある女」を思い出すための媒介であるということが段落の終わりに少し書かれるがまあ銃は銃だ。
次の段落で女のことが書かれる。わずか二百字ちょっとの字数で女のことがじゅうぶんに書かれているが、最初書いたときにはもっと回想にちかい文章になっていたのではないか。下手な小説は回想を多用する。それも映画で現在時がフェイドアウトして回想の情景がフェイドインしてくるようにして回想がはじまる。
しかし回想はかったるい。回想が回想として整理されて小説に書かれているかぎり、現在時は本当は回想におびやかされない。書いている方は過去が現在時に影響を及ぼしているつもりで書くのだが、それで読者が納得してくれるとしたら、それは小説作法上の決まりごとだからでしかない。決まりごとになっているから、「ああこの作者は過去が現在と地続きになっていると言いたいんだな」と了解はするが、そういう了解は退屈でしかない。つまり、かったるい。
そこで作者は二つ目の「私は二十一歳で内地をたつ時、……」の段落を最小限に切りつめた。これを映画にしたら、フェイドアウト→フェイドインの回想にはならない。「さわらせて、もう少しさいごだから」という声だけが聞こえてくるような処理になるだろう。
と、ここまで考えると一つ目の段落もまた先駆形がどういうものであったかがわかる。この段落全体が一つの情景としての描写ではないことに気づく。つまり、こういうのを専門用語(?)で何と呼ぶのか知らないのだが、一つ目の段落は、ある日ある時の主人公(私)の動作の描写ではなく、「私はいつもこうしていた。こうしていると私はいつもこういうことを思うのだった」という、反復され、身に染みこんだ行為が書かれているのだ。
最近、一人称現在形の語りの小説が多く書かれる傾向がある。それは作者の意図としては臨場感とテンポを出すためだろうが、現在形を使っているかぎり、ここにある切迫感のようなものは出てこない。主人公(私)は、銃と、いつもいつもこういう密着した関係を持っていたのだ。ここで二四五ページに私が使った“切断”という言葉を思い出してもらいたい。一人称現在形の語りには“切断”がない。過去形にすることによって、「いつもいつもこうだった」という逃れられない雰囲気が生まれているのだ。

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