◆◇◆「小説をめぐって」(十一)◆◇◆
 病的な想像力でない小説 後半
「新潮」2004年11月号

『クレーターのほとりで』
新人賞の選評とその延長として書いた文章はここまでで、ここからは先月号の「新潮」に掲載された昨年の新人賞受賞者である青木淳悟の受賞後第一作『クレーターのほとりで』を読んでいくことにする。
前回私は、二十世紀の小説にある暴カヘの傾斜や救済のなさから引き継いで「自由」について次回書くつもりであるという風に書いて終わらせたが、『クレーターのほとりで』について書くことは、大枠として外れていず、小説にとっての「自由」について考えることにもなっていると思う。

私自身の体験を思い返しても、他の小説家の活動を傍から見ていても、小説家にとって一番苦しい時期はデビューしてからの最初の五年間ではないかと思う。——そんなことを言う私は今年がデビューして十五年目で、これから先にもっと苦しい時期が待っていたとしてもそれを知りえないわけだし、たかが十五年でしかないけれど、夏目漱石が小説家として活動した期間は一九〇五年の『吾輩は猫である』から一九一六年十二月九日の死までで足かけ十二年にしかならないのだから、漱石の活動期間を上回ってしまってもいる。
そんな物理的な量に価値はないけれど、ともかく十五年目の小説家として思い返してみると、一番苦しかった時期は最初の五年だったと思う。その五年をもっと限定すれば、最初の三年であり、さらに限定すれば最初の一年だった。
ひとつ書いてしまったら次に何を書いていいかわからない。デビューする前は書きたいことが浮かんできてそれがある程度たまったところで書きはじめればよかったものが、デビューしてしまうと編集者に「次はいつ?」とずっと待たれているような気持ちになって、なんだかいつも気持ちが急いていて、それから解放されるときがない。このまま書かないでいると忘れられてしまうような気持ちにもなる。しかしそんな外からのプレッシャー以上に、本人の内的な問題として、書かないでいるとこのまま書けなくなるんじゃないかという気持ちが生まれてくる。
小説というのは、「これをこうすれば小説になる」とか「ここをこう変えれば小説になる」という風にはっきりと言語化できる根拠を持たないもので、有名な「A」という小説と同じ語り口を使っても自分の小説が書けるわけではないし、「B」という小説と同じかそれ以上に劇的なストーリーが頭の中にあっても、それを言葉にしていこうとすると少しも情景が立ち上がってこなかったりもする。
私はよく〈音楽〉という言葉を自分の中だけで使っているのだが、面白いと思った書き出しのワンセンテンスないし一段落を実際に書いてみても、そこから〈音楽〉が鳴る感じがしてこなかったらやめるしかない。〈音楽〉といっても私が考えているのは少しも華やかなものではなくて、ロックのべースとかピアノ協奏曲のピアノの向こうからかすかに聞こえてくる弦の音のようなものなのだが、実際に書いた文章からそれが聞こえてくる気がしたときには「小説になっていく」と思うことができる。
いくら表面的にテンポよく出来上がっていても、私のイメージする〈音楽〉からは、ただのメトロノームのカチカチいう刻みのようにしか聞こえないことが多い。同じ曲なのに、演奏者によっては全然面白く聞こえないのと一緒と言えばいいだろうか。そう、ちょうど方言のようなもので、東京の人間がどれだけうまく大阪弁をしゃべっているつもりになっていても、地元の人にはまがいものとしか聞こえていないようなものだ。方言はどの方言でもそうで、外の人がしゃべっている「方言」が地元の人にはそれが方言になっていないことを聞き分けられる。方言固有の〈音楽〉が流れていないのだ。
しかし小説は方言よりももっとずっと厄介で、〈音楽〉は小説ごとに固有に生まれてこなければならない。反対に、語り口がたどたどしくても〈音楽〉が鳴っていることだってある。
その〈音楽〉が基底音のようなものになって、他のいくつかの要素が統合されて小説が生まれてくる。根底となる〈音楽〉が、鳴るときにはすんなり鳴ったのに、鳴らそうとしても鳴らないという、形のないものだから、デビューして次作を待たれている新人は焦ったり不安になったりする。そこでいっそのこと考え方を切り替えて、最初の小説を書いたときのように中身がある程度熟すまでゆっくり待つという手もあるけれど、「待たれている」「忘れられてしまうかもしれない」というプレッシャーの中で絞り出さなければ小説家になれないのだ。
プロ野球の落合が何年か前に、清原が三十歳を過ぎてダメになったのはプロに入った最初の五年間にハードなトレーニングをしなかったからだと言ったことがあったが、小説にもそれは当てはまって、「次は書けないのではないか」という不安の中で踏んばって絞り出すことが小説家にとっての力となる。しかしそこで多くの新人は踏んばりきれずに、形のあるものを頼りにしてしまう。小説然としすぎるシチュエーションだったり、小説然としすぎる登場人物たちだったり、あるいはありふれた狂気だったり、ありふれた癒しと再生の物語だったり……しかしそれは、地元の人には簡単に聞き分けられるまがいものの方言でしかない。
私の書いていることは、小説に〈音楽〉を感じたことのない人にとっては秘教的にしか感じられないかもしれない。そういう人たちは新人やこれから小説を書こうとしている人のやる気を私が挫こうとしているとしか思えないかもしれないが、私は巨人戦の放映権をあてにして、限られたパイの取り合いのことしか考えない球団経営者ではない。アメリカ大リーグがかつてやった試算で、球団数は減らすより増やす方が個々の球団の得る利益も増えるという結論が出たそうだが、小説だって小説にまわせる未開拓のカネと時間がふんだんにある。
映画、演劇、マンガ、コンサート、CD……のことではない。旅行、食べ歩き、パソコン、携帯電話、ペット、ガーデニング、リフレクソロジー……これらに使われているカネと時間があり、もっと言ってしまえばサービス残業と残業と、正規の労働時間に使われる時間まで潜在的な読書時間として眠っているのだから、小説に魅力さえあれば先細りになることはない。だから私は新人が登場することを歓迎している。

青木淳悟『クレーターのほとりで』は、日本の現代小説の既得権益とは無縁の場所で書かれているために、今後、単行本になったときに、出版社が既存の小説マーケットしか想定できなかったら売り上げ面での成功は見込めないが、しかるべき読者に届かせることができたら、熱狂的な支持を得るだろう。
『クレーターのほとりで』(以下『クレーター』と略す)は、きわめて異質な小説であるにもかかわらず、ここには、固有の〈音楽〉が流れている。新人の第一作として、形ある病的な想像力でない小説ものを拠り所にしないという姿勢をこれほど見事に実現させた小説は他に思い浮かばないが、この作者を「新人」と呼ぶのはすでに私には憚かられる。昨年新人賞を受賞した『四十日と四十夜のメルヘン』同様、私はピンチョン的想像力を感じたが、もっと未知のものとつながっているとも思う。——などという褒め言葉をいくら書き連ねてみても、作品を読むことにはならず、ということは作品のためにもならないので、読んでいくことにする。

とは言ってみたものの、私はこの『クレーター』を、読んでいない人や読んでも面白さを感じられなかった人に、どういう風に読んでみせればいいのか見当がつかない。昨年の新人賞受賞作『四十日と四十夜のメルヘン』の選評で書いたのと同じで、この小説もまた一読では意味がなく、再読再々読……と進めるうちに面白さが拡散的に増加していくようになって、しばらくはこの小説に書かれていることをめぐって日常の関心が構成されていくようになっているのだが、しかし一読目がなければ再読もないのだから、まずは一読目の印象から極力外れないようにして書いていこうと思う。
十四、五人の男たちがどこかから逃げてきたらしい。彼らは「みんなねているよるなのに/ひるのしごとするアブラハム/カマドにひをいれて/たましいのしっぽみつけた」という歌を歌うくらいだから、キリスト教か旧約聖書に関係した男たちのようだ。
しかしそれにしては風景が聖書らしくなく、深い森で、彼らは何かを怖れているらしく、一本の巨木の根元の暗がりに逃げ込み、動きのにぶい甲虫と樹皮の裂け目を流れるわずかな蜜で飢えをしのぐだけで、「昼間のうちは目をつぶっていたのだが、寝ているのか起きているのか誰にもわからなかった。夜もただ歩く夢を見ているだけなのかもしれないとは誰もが疑っているところだった」。
小説は評論とも日常語とも表面上は同じ言葉によって書かれているけれど、小説の中にある言葉は、音楽における楽器の音や絵画における色や線などにずっと近いものだから、たとえば「 」で引用した文章の面白さに気がついてくれとしか私には言えない。小説の評論が音楽の評論よりも有利なのは、小説に書かれている言葉をそのまま書き写すことができる点ぐらいだろうか。
引用箇所までが「新潮」の二段組みのページにして一ページに満たず、この小説は情景が滞ることなく次々と展開していく。この情景の展開の滞りなさが、まさに私が連載の四回目の「表現、現前するもの」で書いた文体であって、語り口の表面的なリズムでなく、読み手がイメージする情景の速度が文体としてのテンポを作り出している。
書かれているのはほとんどが、映像として再現可能な視覚による情景だが、心理的なこともまた、引用した箇所のように視覚程度の情景として書かれている。つまり、記述がじつに明決なのだ。
しかし、この小説では記述の明快さが「難解さ」を生み出している。部分として明快であるにもかかわらず、全体を見渡せる視点ないし枠組みがいっこうに与えられない。近距離はサーチライトでよく見えているのに、ライトの届かない先は闇に支配されている、とでも言えばいいか。
ここで「思わせぶり」という批判が想像されるが、「思わせぶり」というのは全体を匂わせておいてそれ以上明らかにしないことだから、普通の小説で「前兆」があったり「予感」がしたりする方がよっぽど思わせぶりなのであって、その批判はこの小説には当たらない。「故意に隠す」というのも当たらない。隠しているわけではなくて、あるものをそのまま書いたからこうなったのだ。つまり私たちは、物事の純粋な部分に接することに不馴れで、「部分」と思っていることもほとんどの場合、全体を知ったうえでの「部分」でしかなくて、物事の部分に本当に出会う経験を忘れていることを、この小説を読みながら思い出す必要がある。
土を掘っていたら何かの骨が出てきたとしよう。それが頭の骨であることは間違いない。しかし四足獣なのかトカゲのような爬虫類の大型のものなのかもっとさかのぼって恐竜なのか。それは目の前にある骨を検証することによってしか知りえない。たとえて言えば、これはそういう小説だ。
あるいはこうも言える。私たちは日常で、相手の仕種や口調からその人の心の状態を推測するのを当然と思っていて、小説もだいたいのところそういう風に読まれるように書かれている。その心の状態は、作者が故意に隠していることもあれば、仕種や口調によってしか書けないから書かないという選択をしていることもある。小説の全体もそういうもので、「つまり全体として何が言いたいのか」は普通書かれずに読者の想像に任される。この『クレーター』では、「全体としてこういうことが起こった」ということが書かれていないだけなのだ。——ではその「全体」を作者はよく知っているのか?先取りになってしまうけれど、作者はたぶんあまりよく知っていない。
「あの人はどうなったのか」「この人はそのあいだ何をしていたのか」という具体的なことは、作者に直接問い合わせればきっとすべて明快に答えてくれるだろう。しかし、ここで起こったことの全体がどうなっていて、それを「全体として何と呼べばいいのか」という質問にはきっと答えられないだろう。つまり、この小説にはメタレベルがないのだ。
「かなしい恋愛の話」とか「人間の内面に潜む狂気が熟すプロセス」とか「救世主がこの世界で被った無理解」、というように全体を言い表わせる言葉が小説のメタレベルで、メタレベルを発見することを通常は「読解」「解釈」と呼んでいて、だからカフカの『城』の「城」が何であるかと考えたりする人が後を絶たないのだし、事前にメタレベルを知っていればその線に沿って読んでいけるから読書という行為が楽になるのだが、この小説はそれを許さない。

——と、ここまで書いて、私は昨日、すごくよくしゃべる友達と何ヵ月ぶりかに会って、彼の近況をしばらく聞かされたのだが、妙にいろいろなことが起こる賑やかな生活を送っている男で、私が直接に会ったことのない人の名前が矢継ぎ早に出てきて、誰が誰と何をしたから反目していて、誰が何で困っているのか、というようなことがなかなか理解できない。
彼の話はいつもおもしろいから、頭の中で人物を整理しながらこっちも一所懸命聞くのだが、彼と別れてから私は、「もし彼がしゃべった会話そのままを小説で再現しようとしたら、彼でない私は、書き手である自分自身が話の見通しをよくするために、人物や出来事を彼がしゃべったそのままでなく、多少とも整理して書いてしまうんじゃないか」ということに気がついた。
彼本人はすべての人物と出来事を熟知しているから、局外者である私に向かってしゃべるときに、彼なりに整理しているつもりでもつい整理しきれていないしゃべり方をしてしまう(a)。それに対して私が彼の話を再現しようとなると、私の話を読む人にわかりやすくするためでなく、自分自身に対する整理として、どうしても見通しよく加工してしまう(b)。
この(b)は、小説家だったらきっと思いあたるはずだ。読者に対しての配慮というつもりがあるわけでもないのに、どうしても説明的な文章を書いてしまう。説明的文章、全体の見通しをよくする文章は、本当のところ、読者のためでなく書き手である自分自身のために書いている。そういう生理が、文章つまり文字化する思考形態の中に宿っている、としか思えないことが少なくない頻度で文章にあらわれてきて、(a)のようには書こうとしてもなかなか書けない。
もちろん今もまだ私は、『クレーター』の、「部分として明快であるにもかかわらず、全体を見渡せる視点ないし枠組がいっこうに与えられない」つまり、メタレベルを欠いた書き方について書いているのだが、この書き方はひじょうに高度で、戦略的なのだ。読み手である私たちは、全体の見通しを得るために、注意力をフル稼働させて、できるだけ多くのことを記憶する必要に迫られる。しかし普通は一回ではそんなにいろいろ記憶できないから、途中で前に戻ってみたり、二度三度通読したりすることになる。

そろそろ読む行為そのものに戻らなくてはならない。
彼らは「アブラハム」という名前が出てくる歌を歌っているわりには、ひどく原始的なことをしている。だから読みながら思い浮かべる私のイメージは火の起こし方すら知らない原始時代に流れていきがちなのだが、「家畜を投げ売りしてやっと手に入れたしろもの」「商人の口をついて出る胡散臭い売り口上」というフレーズにちょこちょこっと出会い、ついには「古歌の文句「産めよ増えよ地に満ちよ……」を唱えながら」という箇所が出てくるに至って、「やっぱり旧約聖書の時代のあとかその範囲内の話なんだろう」と時代の見当をつけることになるのだが、結局そんな見当づけに意味がないことが読むうちにわかってくる。
それにしてもこの時点で私はすでにこの小説の文章に魅きつけられて、惚々(ほれぼれ)している。私は心理が書かれない文章が好きなのだ。そのかわりにこんなことが書かれる。

……この日の夜はみな興奮してなかなか寝つかれなかった。明日からはあんな蟻塚みたいな狭苦しいところで寝ることになるのかなどと考えていると、背をじっとりと濡らす大地に寝そべって天上にまかれた砂子(すなご)に見入るのも悪くないように思われるのだった。いま寝ころんでいる大地も実はそのうちの一粒に過ぎないとは思いも寄らないことだったし、またその小さなかけらが大地に衝突して美しい正円形の沼をつくったことなど知るはずもなく、彼らの興味はもっぱら数の多さや明るさのちがい、色ぐあいに向けられた。

「いま寝ころんでいる大地も実はそのうちの一粒に過ぎないとは思いも寄らないことだった」という、視点の位置が一瞬にして変わるような文が私は大好きなのだ。
ところで彼らが作った蟻塚みたいな家には、彼らより先に「ウバル」ぐらいしかしゃべれない、猿に似ているが猿よりはやや毛が少なくて二足歩行する獣が住んでしまっていた。話はここからがいよいよ本当の筋になるのだが、読者である私は、このあたりまで「男たち」というのを漫然と、女も含めた「人間」という感じで読んでいたことに気がつくのだった。「男たち」は本当に男だけしか指していなかったのだ。
つまり男たちはアブラハムの末裔である。それに対してもう一方の女たちは、ホモ・サピエンス以前の、二足歩行はするが全身が毛で被われている種だ。——と、両者をこういう風に書き並べてみると、いきなりピンとくるのだが、この小説は混ぜてはいけないはずの二つのカテゴリーを結合させるという力業(ちからわざ)によって小説世界を立ち上げている。
一方が「アブラハムの末裔」なら、もう一方は「ヤマトタケルの末裔」とか「アラーの息子達」とか「月に降り立った者の始祖」とか、神話的な呼称を持ってこなければイメージの中で正しく対にならないのに、ここで出てくるのは「ホモ・サピエンス以前」、もう少し踏み込めば「ネアンデルタール」なのだ。
いや、実際には小説の中で「アブラハム」の名は書かれていても「アブラハムの末裔」とは書かれていないし、「ホモ・サピエンス以前」とも書かれていないけれど、そういう区分を理解しない読者はいない。「アブラハムの末裔」と「ネアンデルタール」では用いられるスケールが違うのだ。
そういうわけで、「ネアンデルタールの女たちとアブラハムの末裔の男たちとの結合」というのが、この小説を最もアバウトに説明するときの枠組だ。
その結合は隠喩的になされるわけでも寓話的になされるわけでもなく、神話的になされる。つまり、一種、即物的になされる。——と書くと、私は、ついこのあいだ、「ユリイカ」二〇〇四年七月号の楳図かずお特集に発表された樫村晴香の論文「Quid?——ソレハ何カ 私ハ何カ——」の一節を思い出す。

輪廻的なメタモルフォーゼとは何なのか、あるいは神話的な動物化とは何なのか、それは単純には語れない。「朔日の夜、ある者が狼になった」という時、「今まさに、狼になる」時、「生まれる前狼だった」という時、あるいは「死んで狼になった」、という時。とりわけ重要なのは、人は耳から狼になるのか、目から狼になるのか、口から狼になるのか、鼻から狼になるのか、爪から狼になるのか、ということだ。

「人は耳から狼になるのか、目から狼になるのか……」という、ここを電車の中で読みながら私は吹き出してしまったのだが、これが何を意味しているかを種明かしすれば、耳から入った言葉が考えを支配する力を持つのか、眼前の狼の姿の恐怖と躍動が目から入って人間の皮膚を突き破るほど大きくなるのか、子羊の生肉を噛みちぎったときかつて狼だったことを思い出すのか……という意味なのだが、こういう即物的な文章に樫村晴香以外の場所で出会えるとは私は想像したことがなかった。
すでに一度書いたことの繰り返しになるが、この小説に書かれている“情景”は視覚的情景だけではないけれど、すべてが目で見るように明快に展開してゆく。その理由は、おそらく神話的=即物的結合によって説明できるだろう。
女たちは言葉を覚え、「詩、というか虚構的な短文」を作ることを覚える。

沼を渡る船頭が櫂をなくして漂うように、行く末の不安なわたしの恋であるよ

これは一読、「由良の門を渡る舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋の道かな」という百人一首中の歌のもじりであることがわかり、つづく「虚構的な短文」もそれぞれ対応する百人一首中の歌があることがすぐにわかるのだが、子どもの頃から漫然と耳でだけ聞いていたために詳しくは理解していなかった歌が、ネアンデルタールの女たちが詠んだ短文によって、むしろ私の中で情景が明確になったものさえもあった!
これもまた即物的な書き方の威力ではないかと思うのだが、この、人を食ったところが著者青木淳悟の特徴であり、彼はデビュー作『四十日と四十夜のメルヘン』のエピグラフに「必要なことは、日付を絶対忘れずに記入しておくことだ」という野口悠紀雄の『「超」整理法』中の言葉を置いていたりもする。
ちょうど『クレーター』が掲載されている同じ号に鼎談で筒井康隆の名前があるから、七〇年代の、たった一人で純文学というジャンルに対峙していたと言っても言い過ぎにならないくらいの筒井康隆の小説群を思い出すのだが、筒井の小説には「笑い」という武器があった。当時の筒井がさまざまな実験を小説の中でやりつづけることができて、しかもなお多くの読者に支持されえたのは、「笑い」によって、読者が安心感を得られたからだ(『サム・クック論』について書いたことを思い出してほしい)。
「安心感を得られた」という一点をもって七〇年代の筒井康隆の小説の価値を下げるつもりは毛頭なくて、七〇年代に筒井康隆だけでなく、青木淳悟もいたら、あの頃大学生だった私はどれだけ勇気づけられただろうと想像しているのだが、青木淳悟は読者が安心感を得られる「笑い」を選ばない。
ついでに言えば、「SF」という枠組みも選ばないし、「メタフィクション」という手法も二作を通じて明確には打ち出していない。枠組みなり手法なりを明確にすることによって、小説の展開の自由度は飛躍的に高まる。たとえば、一人の人間の幼児期のトラウマだけで連続殺人を起こしたり家族が崩壊したりする話が、「ミステリー」という枠組みなしにそうそう容許されるだろうか。
枠組みの中でどれだけ多くのことが容許されても、「××小説」という枠組みを持たない、いわば“剥き出しの小説”“無防備な小説”つまり、ただの小説にはほとんど何も響いてくるところがない。それでもしかし長いスパンを取るとそれらもまた小説に影響は与えていて、枠組みに守られた自由度etc.の問題は、長いこと私の気に掛かっていることでいずれはこれもゆっくり考えるつもりだけれど、いまは青木淳悟が「笑い」も選んでいないということが大事なことで、『クレーター』を読むときに読者は枠組みのない小説を「笑い」など何の誘導もないまま、居心地の悪い状態で読むことになる。“剥き出しの小説”“無防備の小説”では、読者もまた剥き出しで無防備になるしかない。

ところで、百人一首のもじりはすぐにわかったけれど、それにつづく、「一目あなたに逢いたくて/わたしは沼を渡る鳥」というのは、作者の純粋な創作なのか小唄か何かのもじりなのか、私にはわからない。
この小説には、文学作品や聖書など、この小説世界の外側にある知識と結びつくものがいっぱいあり、そのために心当たりがないものにぶつかると読者は「自分が知らないだけなのか……?」と、そこでもまた立ち止まることになる。
暗示や象徴がいっぱいちりばめられた文学作品や絵画は本来私は好きではなく、特に絵画などで「これは死の暗示」であり「これは復活の象徴」であるなどと解説されても、「それじゃあ見てるんじゃなくて読んでるんじゃないか」としか思わないのだが、この小説では暗示や隠喩やもじりを読み落とさないようにしようとする注意力が小説を熱心に読む集中力みたいなものに転化する。フロイトが書いていたと思うが、心的エネルギーは明確な形や方向性を持たない純粋な“量”で、本人が知らないうちにいろいろな形として出力されるものなのだ。
暗示、象徴で言えば、男たちが土と葦の家を造るのに費やされた「二十二日」という数字や、天にある砂子(すなご)=星の中で、「アブラハムに従わない五つの砂子」が何を意味し、何を指しているのか私にはわからない。

何度も出てくる「アブラハム」というのは、新約聖書の最初に出てくる名前だ。「マタイの福音書」は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という書き出しではじまる。
旧約聖書の「創世記」で最初に神につくられた人間はアダムで、アダムにはカインとアベルの兄弟が生まれ、さらにセツが生まれ、セツの子孫にノアが生まれて、ノアは神への信仰によって洪水から逃れることができたわけだが、ノアはまだ割礼をしていない。神との契約によって割礼をするのは、ノアからさらに何代も下ったアブラハムであって、ユダヤ教はアブラハムからはじまるということになるのだろう。
こんなことは聖書を読んでいる文化の人たちには常識だけれど、私は聖書中の人物が出てくると、そのつど聖書を読み直して確かめなければならない。しかも呆れることに、目ぼしい箇所にはちゃんと線まで引いてある。線の引き方から推測すると、私は聖書のあちこちを二度三度と読んでいるらしいのに少しも知識として定着していない。聖書というのは登場人物が目まぐるしく替わり、冗漫なところもけっこう多いから頭に入りにくいのだが、特定の小説を理解する目的があって読むと、該当する箇所ぐらいは記憶に残る。——ということは、聖書をたくさん記憶している人たちは、何かを理解するという目的があって読んでいるということを意味しているのだろうか。
それはともかく、男たちは、「青い目と金色のたてがみをもっているうえ、正面から見ると額に一本だけ角が生えて」いる白い四足獣に導かれて、沼のほとりに辿りついた。男たちと女たちのあいだに最初に生まれたボーヤは、「体毛というものがまるでなく、あるのは頭骨の隙間からのぞく不思議な金色の毛だけで、父親とも母親ともちがう青い目」を持っていた。みんなから死んだと思われていたボーヤの父親は、タラチネの話すところによれば、「息を吹き返すまでに骨を次々と吐き出し」、おそらく「大きくて草をはむ一本角の四足獣」を「丸飲みして死にかけた」らしい。
ここで一角獣の意味するところが問題になる。アブラハムの確認のために聖書を読んだように、今度は私は『世界シンボル大事典』(大修館書店)の「一角獣」の項を開き、そこには二ページにわたる解説が書かれていたのだが、〔キリスト教〕という部分だけ抜粋すると、

一角はまた、「精神の矢、太陽光線、神の剣」である。額の真ん中に生えた一本の角ゆえに、神の啓示、〈神的なものの被造物への侵入〉を象徴する。それはキリスト教のイコノグラフィーでは、《聖霊》によって受胎した処女マリアを表象する。……うんぬん、かんぬん。

小説における謎解きは、最低一度は通読したあとでの作業で、たいていはそんなことをする必要はないというのが基本的な私の立場だけれど、ピンチョンのように暗示や象徴が作品のダイナミズムを作り出す小説ではそのかぎりではない。この『クレーター』も最低限、押さえておかなければならないことがある。
ボーヤとタラチネの母子の死のあと、村では十四人の女たちが十四人の子どもを生み、その子どもたちも一歳を過ぎる頃から共通に額から尖った骨が突き出てくる。子どもたちは村の男たちの子ではないということははっきり書かれているが、誰が父親であると明示されてはいない。
いまのところ可能性は三つある。(1)キリストのような処女懐胎。(2)一角獣を丸ごと食べてしまったらしいタラチネの夫。しかしこれは「タラチネの話を信じるなら」という条件つきで、タラチネ自身やはり処女懐胎だったのかもしれない。それから(3)、アブラハムの末裔たちが来る前に去っていたネアンデルタールのオス。昔の仲間であるオスがわびしげに舞い戻ってきたときに、言葉をしゃべれるようになってしまったために、自分たちがかつて「ママ」を何と呼んでいたのか思い出せなくなっていることを女たちが発見するシーンは私には感動的だった。
子どもたちとその親の血縁関係は、後半の第3パートで明かされることになる。子どもたちの父親は同一人物であり、その骨は発掘されない。しかし子どもたちは他の発掘された男たちと、おじ−甥、おじ−姪の関係になる。つまり男たちは全員が兄弟であり、実際に身ごもらせた男もその兄弟の一員である。——ということは実の父親は前述した可能性の(2)のタラチネの話を真に受けた線ということになるのだが、三〇九ページで書いた「混ぜてはいけないはずの二つのカテゴリー」というのを思い出してほしい。
ネアンデルタールは科学的なカテゴリーだからDNA鑑定の網に正しく引っかかるだろう。しかし「アブラハムの末裔」は伝説、口承、神話のカテゴリーに属するのだから、単刀直入に言ってしまえば「アブラハムの息子たち」であって、DNA鑑定的には「兄弟」としかならないのではないか。あるいは逆に、聖書を鵜呑みにしたら「アブラハムの末裔」は兄弟なのだからDNA鑑定さえもその通りになってしまったという風にも考えられる。いずれにしろ、聖書の世界の前では科学は機能しない。「マタイの福音書」に書かれているイエス・キリストの系図は、父親のヨセフまで正確に血筋が辿られていようと、イエス・キリスト自身はヨセフの妻のマリアが処女懐胎した子どもなのだからヨセフともアブラハムとも血のつながりはないはずだが、やはりイエスはアブラハムの末裔なのだ。そうならば聖書的DNA鑑定では、実の父親は空欄になろうとも、キリストはヨセフと、せめて、おじ−甥ぐらいの血のつながりは持つだろう。
——というのは、「子どもたちの実父問題」についての私の解答で、作者本人がどう考えているかはわからない。作者は実父の空欄はもっとずっと積極的に空欄にしているのかもしれない。「思わせぶり」や「ほのめかし」のために空欄があるのではなくて、語り手にもわからないことだから空欄なのだ。そして空欄を空欄のままにしておいた方が、何と言えばいいか、強い力が生み出される。
前作もそうだったが、青木淳悟の小説は、暗示や象徴がいっぱいにちりばめられているが、それを統括するメタレベルは書かれていない。それはいわゆる「読者の解釈に委ねられる」のではなくて、もっとずっと非−人間的で、カフカと同じように、書かれたすべてを記憶するしかないものなのではないか。聖書もそうだし、本当のところすべての小説がそういうもので、私たちは、現実によって小説を解釈するのではなくて、現実に出会ったとき小説が思い出される。つまり小説によって現実が解釈される。

私はいまだ前半を拾い読みしただけだ。後半の第2、第3パートは時代が飛んで現代になる。こちらはいよいよピンチョン的でスラップスティック・コメディじみてくるが、ピンチョン的だと思うと三倍か五倍くらいの長さにして、それぞれのシーンと登場する人物、団体をもっと入り組ませて複雑にして、荒唐無稽の度合いを高めて、偏執狂的な荒唐無稽さのありえなさゆえに「ありそうだ」と感じられるようにしてほしかったと思わないでもないが、それは読者のないものねだりなのだろうし、「短いから助かる」という気持ちもないわけではない。
この『クレーター』と全然関係なく、私は四、五ヵ月前にピンチョンの『V.』を再読したのだが、面白さとは別にしんどさも隠せない。『クレーター』の長さだったら、気軽に何度も再読できる。これは現代に生きる小説家が、商品として流通する小説を書くかぎり避けては通れない問題だ。
遠い昔を舞台にした第1パートと比べて、第2、第3パートがもの足りないと感じられたとしても——といってもじつはまだ私は第1パートしかちゃんと読んでいないのだが——、私はそれてこの小説を批判するには当たらないと思う(古谷利裕の「偽日記」というサイトでは、九月十七、十八日の二日にわたってすでに『クレーター』の書評が載っていて、第1パートと第2、第3パートの書き方が二段構えになっていることを積極的に評価している)。小説が作品としての結構がよくできているかどうかは、受動的な読書による判断であって、受動的な読書では第1パートからしてこの小説をじゅうぶんに楽しむことができないのだから、作品としての結構が整えられていたとしても受動的な読書しかしない人には関係ない。能動的に読む人なら、パートごとに繰り返し読んだりもするだろう。

私が四、五ヵ月前に『V.』を再読した理由は、「仕掛けだらけのああいう小説は、全体を完全に構成してから書き出すのだろうか」と思ったからだ。この疑問は『クレーター』にも当てはまる。
私は小説とは結論部を決めたり、全体をきっちりと構成したりしないで、「前から書いていく」ものだと思っていて、『城』はそうなっている。もっとも『城』は未完だから結論部はないわけだけれど、『V.』にも『クレーター』にも結末はあっても結論部はないのではないか。
『クレーター』では、ひとつには子どもたちの実父を空欄のままにして小説を書くことが、「前から書く」ことと作業の質として同じものになるのではないか……というようなことを感じるのだが、まだ私はそれをうまく説明できない。ジョイスもウルフも、全体を事前に綿密に構成して書き出したけれど、それでもなお事前の構成がない小説以上に執筆に時間がかかっている。それもまた、「前から書く」のと質的に同じ作業がなされるからではないかと感じるのだが、やっぱりうまく説明できない。
あたり前のことを言うようだが、文章というのは実際に文字で書いた状態を目で読まないかぎり感触が確かめられない。それは書いた一行一行から来る現前性の問題で、直前に書いた文を読むとき作者は読者と同じく、はじめてその文を読む。文がまだ頭の中にしかないときには、そこにある要素の現前性の感触を作者自身得られていない。
『クレーター』の書き出しはこうだ。

男たちが命からがら沼のほとりに辿り着いたその勇姿も、水辺に集う動物たちの目にはぼんやりとしたものにしか映らなかったにちがいない。

ガルシア=マルケスを彷彿とさせるこの導入のセンテンスは、前半でいわゆる客観描写のように、誰の視点でもない視点で書かれたものが、後半で突如、「水辺に集う動物たち」の視点に収斂される。私ははじめに「映像として再現可能な視覚による情景」と書いたけれど、そうでありつつ大胆な視点の移動ないし視点の質の転換が起こっているために、ワンセンテンスの中で激しい動きが生まれる。作者自身でさえ読まないかぎり確かめられない現前性の感触とはこのことだ。
つづく文章でも動きは生成されつづける。

——実際彼らは日の射さない森を長くさまよううちにピンク色の心臓が透けて見えるほど肌の色を失っていた。のびつづけた髪も髭も体毛も、老いのためではなく真っ白に変色していた。そんな人間が十四、五人も森にいて、昼間のうちは木の洞や太い地上根のつくる檻にひそみ、夜になると互いにはぐれぬよう手をつなぎながら移動した。

文章をまるで詩を点検するように細かく調べるのは私は得意ではないが、この文章から得られる躍動する感じの理由のひとつは、傍線で指摘したように、ひとつのセンテンスの中に対立するものが必ず入っているからではないかと思う。「日の射さない」と、いったん光が遮断された直後に「透けて見える」と、強い光のイメージが来る。「髪も髭も体毛も」と黒かそれに近いイメージを「真っ白に」で否定する。

月の光も届かない森の闇夜では肉体を失ったかのような錯覚さえ起こったが、彼らは絶対に火を使おうとしなかった。急に火をつけたら見たくないものまで見てしまいそうな気がした。

先の引用につづくこの文章は、ワンセンテンスでなく二つがセットになるが、「闇」によって視覚が奪われることで自分の肉体、つまり存在そのものまでが奪われるという、なんと言えばいいか、視覚の領域侵犯のようなことが起こって、次に「火」によって視覚が与えられると魂までもが見えると、視覚の領域侵犯が逆の方向にも拡張される。
「闇の中では自分の肉体さえ失い、光の中では実在しないものまで見える」という、この発想自体おもしろいのだが、私たちは普通、逆——というのとも少し違うが——に考えていないだろうか。つまり「闇の中では実在しないものを見てしまうが、光の中では見たいものだけを見ることができる」というような構図が私たちが普通に考えていることで、ここに書かれている構図は普通の構図と違っているために、二つの構図の食い違いが読み手の中での動きとなる。
簡単に言ってしまえば、この小説はセンテンスのひとつひとつが面白く、読者を退屈させないようにできているわけだが、これから小説を書こうとしている人に初歩的なことを言っておくと、文章に動きを生み出させるためのこういう対立を、作者はいちいち意識して計算ずくで書いているわけではない。しかしまた無造作にさらさらっと書いているわけでもない。「彼らは日の射さない森を長くさまよううちに肌の色を失っていた。」と、いったん書いてみて、「物足りない」「つまらない」「平板だ」と感じて、書き直すときに、対立する「ピンク色の心臓が透けて見えるほど」の部分が加わっている、というような感じなのだ。こういう風にワンセンテンスごとに注意を緩めずに書くのは、事前に小説の構成ができていたとしても「前から書く」ことにしかならない。一文一文がガラス細工のように
脆い、というのとも違って注意を働かせつつも神経質というよりわりとざっくりとした作業なのだが、一文一文が何やらモビールのように不安定な感じでそれを建物に組み上げていくようなイメージが書き手には終始あって、事前に構成ができていてもひとつのセンテンスが崩れてしまったら全体が崩れてしまう……。
しかし逆に作品として完成した状態では、その作業によって書かれた文章は、一文一文が密度があって、揺ぎなく力強い。事前の構成やストーリーに乗って書かれたスカスカの文章とは全然違う。
それだからだと思うのだが、この小説は、先が読めないというか、先の展開を考える余裕を読者に与えない。恋愛小説などの情緒的な話は、「これから二人はどうなる?」という先の展開ばかり気になるようにしか書かれないが、この小説では目の前で起きていることが読者の関心を支配する。だから当然「思わせぶり」な書き方ではないわけで、サーチライトに照らされたその先は闇、書いてあることはきわめて明快だが書いてないことは知りようがないという小説世界が徹底される。
この小説世界では、結局そうはならなかった運命までが、現実と同じに描かれ、読者は一瞬どれが現実なのかわからなくなったりもする……のだが、紙数もふだんの連載を大幅に上回り、締切りも迫ってきたので、言い尽せないまま今月は終わることにする。
もともと、今回の私の文章は、この『クレーターのほとりで』を読んでも面白いと思わなかった人を想定して書き出したために、やけに初歩的なことなどが混じっていつにも増してまわりくどくなってしまった。前回の『冷血』からの流れで言えば、現代小説が人を犯罪に導く類の歪んで病的な想像力を文学的創造力と混同している状況にあって、この小説は久しぶりに登場した、まさに文学や芸術によってしかあらわされることのない想像力による小説だと言えると思う。
今回は私はこのことだけを書けばよかったのだが、そんな一言で人に伝わるほど今の小説を取り巻く状況は簡単ではないので、これだけの長さになってしまったとも言える……。


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