◆◇◆遠い触覚  第十五回 『作品全体の中に位置づけられる不快』前半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.15 2011 Early Winter

 一九五六年に生まれ、七〇年代後半に大学生だった私と同年代の若者にとって、芸術とか表現というものの一つの雛形ないし完成形、ないし原型は、一九六六年にジョン・コルトレーンが演奏した『ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』のLPレコードB面全部を使った『マイ・フェイヴァリット・シングス』の、テーマ旋律が混沌の中から聞こえてくる瞬間だった。
 十七、八分ぐらいフリージャズ風の混沌とした音がつづいたあと、突然、というほどでもないが、その混沌がまたたく間に退いて、どこか別の場所から誰もが知っている、特にコルトレーンのファンならこれ以前に何度もコルトレーンの別の演奏で聴いてきた『マイ・フェイヴァリット・シングス』のテーマが聞こえてくる。夜の闇に一条の光が射すように、と言う人もいるだろうし、光の射さないジャングルをひたすら突き進んでいったら、ついに鬱蒼たる樹々のあいだから広々とした空間の光が見えた、と言う人もいるだろう。混沌との対比もまた「光あれ」と神が言った創世記的イメージがあるわけだから、『マイ・フェイヴァリット・シングス』のあの瞬間にはどうしても光のイメージがついてまわるが、それは重要かもしれないが、いまは重要ではなく、混沌としたものから、
「すべてはこの瞬間のためだったのか!」
 という快感が生まれることだ。
 これは中毒にもなりそうな快感だ。『インランド・エンパイア』のラストで、ニーナ・シモンの『シナーマン』が流れてみんなが踊る。夫役のピーター・J・ルーカスはノコギリで丸太をひく――しかし何故、かくも重要な役回りのピーター・J・ルーカスは、英語のウィキペディアでさえ『インランド』のキャスト一覧に載っていないのか。『インランド』のこのラストを撮りたいがために、「リンチは三時間にも及ぶ映画を作った」という言い方だってできなくはない。
 しかしもっとずっと大事なのは、万が一にもリンチがこのラストを撮りたいがためにこの映画を作ったのだとしても、とにもかくにも観客を三時間すわらせつづけたことだ。映画も小説も音楽もダンスも演劇も、それら時間をともなって展開される表現形式にとって、大事なのは、みんな本当にラストの善し悪し、ラストのカタルシス、ラストの強烈さにコロッとだまされてしまうのだが、大事なのは、ラストへといたる中間部、長い道のりだ。
 ラストというのは、作り手が受け手とほとんど重なる瞬間であり、作り手にとってむしろ異物ととらえることもできる。作者にとって今作っている作品、このあいだから自分だけがずうっとつき合っている作品というのは、つねに思いどおりにいかないものであるが、作っているかぎり作者はそれに対して一人で向き合っている。しかしラストになると作者が自分一人として、まわりと切り離していた気持ちが急にずるずるとだらしなくなって受け手に阿る、というのは少し言いすぎにしても、作者に人並みの弱さがおとずれる。
 テーマは言うにおよばず、作品にとって作者の意図などというものは重要ではない。作者が一人で、このあいだからずうっと進んでいる、できつつある作品と対峙するその姿勢だけは、賞賛か感嘆に値する。私もその一人なわけだが、書いているときの自分というのは、
「そんなにやらなくても読者は認めてくれるよ。」
 あるいは別の言い方をすると、
「そんなにやっても読者はわかんないよ。」
 という歯止めに対して妥協がない。
 作品というのはとても安易に自分をジャンル化されようとする習性を持っている。作品を作るのは作者であるのは言うまでもないから、その習性≠ネるものはつまり作者の中にあるのではないか? という反論・疑問はいかにもまっとうに聞こえるが、それは表面なことであって、作品はやはり作品自体が多様な運動性を持っているその中の一つ、一番わかりやすく安易なのが、自分をジャンル化されようとすることだ。ラストで作り手が受け手と重なるとすでに書いたが、ここでも作り手が受け手と重なる。というか、ほとんど受け手の立場になってしまう。ということは、ジャンル化というのは受け手の側の安易な要請ということだ。受け手の要請がつねに安易なわけでなく、受け手にも難解な要請もあれば複雑な要請もある。気難しい要請もある。
 ――ということは、受け手の要請は、難解だったり、複雑だったり、気難しかったりすればいいんですか?
 ――そういうことじゃあないんだな。「難解」とか言っちゃったのは「安易」でないということを言いたい言葉の弾みみたいなものだと思っといてよ。
 たとえばラブクラフトは怪奇小説とかホラー小説の名手と言われているが、いきなりいかにも「怪奇小説ですよ」という語り口で書き出す。私は何(人・物・事・場所)が、どういう加減で平穏な日常から逸脱して怪奇といわれる様相を帯びるのかが知りたくて、ラブクラフトをわりと何篇も読んだことがあるが、もうホントに最初の一行から怪奇小説然としているから途端にシラケてしまった。
 そのシラケを我慢して読んでいけば、それなりに面白くも読めないわけでもないが、入口のシラケは何と言っても致命的だ。怪奇好き・ホラー好きの人たちは、「だって怪奇小説を読みたいんだから」とでも思っているからか、いかにものはじまり方をまったく気にしないらしい。もしかしたらそのはじまり方に接するだけでワクワクするのかもしれない。だいたい私は怪奇好き・ホラー好きの人の気持ちがまったくわからない。『リング』だったか『らせん』だったか忘れたが、風呂場の排水口から長い髪の毛のかたまりが出てくるところがある。あれは恐い。
 絶版だから入手して読むのは難しいが、古井由吉に『栖』という長篇があり、その中で主人公の妻がだんだん気が狂っていき、箪笥の引き出しに夫の革靴がしまわれている場面があるが、あれはリアルに恐い。妻や自分がいつそういうことをし出さないか、という危惧も含めて恐い。
 排水口から長い髪の毛のかたまりが出てくるところもリアルに恐い。一人暮らしの頃のアパートの風呂場の排水口はまさにあのような髪の毛のかたまりだった。この「リアルに恐い」と私はわざわざ書いたその「リアル」というものが、ジャンル化された怪奇好き・ホラー好きの人にはどうなっているのか。
 文章の意味が読者に理解される(されすぎる)ことの不快感というのがある。あるいは、自分が書いている文章や場面が作品全体の中で感嘆に位置づけられることの不快感というのがある。私はこのことについて、この連載でリンチについて書きはじめたときにははっきりわかっていなかった。この『真夜中』は二〇〇八年四月が創刊で、リンチのことを書き出したのは第二号の〇八年七月刊の号で、ということは私はその号の文章を四月末に書いた。『インランド・エンパイア』の公開は前年の夏のこと。私はその年の十月か十一月から、いま書いている『未明の闘争』を書きはじめた。
 この連載の中でも書いてあるはずだが、私は〇七年の夏の少し前あたりにはじめてまともにリンチの映画を観るようになり、それが刺激となって、あるいはそれと並行して、むくむくと小説が書きたくなった。〇三年に『カンバセイション・ピース』を書き終えて以来、小説を書きたいという気持ちに全然と言っていいほどならなかった。映画も観ない。ごく一部の小説を除いて、映画も小説も、それが完成品として私の前にあることが退屈で退屈でしょうがない。が、その退屈さがリンチによって一気に破られ、私自身もむくむくと、ふつふつと、小説を書きたくなった。
 私が書きたくなった小説がどういうものかは見当が全然ついていなかったが、それは決定的にリンチの影響を受けたもののはずだ。何をどういう形で受けるのかはまったくわかっていなかった。そしてこれはもしかしたら、着手してもう丸四年になろうとする今となって言えることなのかもしれないが、その影響を受ける何かが、リンチの映画の本質――または、私がリンチをおもしろくてもうどうしようもないと思っていることの核心部分のはずだった。そしてそれは今、間違いなくそうなろうとしている。
 この影響の核心とか本質というのは、作品の題材や手法ではまったくない。さっき書いた、

自分が書いている文章や場面が作品全体の中で簡単に位置づけられることの不快感

 だ。この際、「簡単に」は削除しよう。自分が書いている文章や画面が作品全体の中で位置づけられることの不快感。これは作品の手法などテクニカルなものを超えた本当の本当に本質的な問題で、作品と作者、作品と読者というそのあり方が別のものになる。浅薄な人はここで私が自作の価値や意義についての宣伝をするっと挿入したと考えるかもしれないが、そんなことではない。私は『未明の闘争』をずうっと書きながらこれに気づきはしたけれど、これを作品として実現させられるかどうかはまだわかっていない。
 作品には、作品としてまとまろう、作品として意味あるものになろうとする求心力や凝集力がある。作者となる人と読者となる人が今までそのような作品にしか出会ってこなかったり、作品≠ニしてイメージされるものがそのようなものであるがぎり、作者となる人がある作品に着手した途端に、求心運動や凝集運動が必然的にはじまる。もちろん「まとまりを欠いた作品」という評言があるとおり、まとまり方の悪い作品とかまとまり方が弱くてそれぞれの題材が散らかった印象を与える作品はいっぱいあるが、それはまとまりがあることを前提とした批評や印象であって、いわゆるまとまりを欠いた作品が作品が持つ求心運動や凝集運動を意図して否定(無視)しているわけではない。
 しかし、この意図≠フあるなしは考えてみるとどっちでもいい。小説の何たるか、映画の何たるかが全然わかっていない人が、思いつくままであるイメージに駆られてでも何でもいいが作品を作ったとする。それは細部がバラバラで全体としての統一感が全然なかったとする。でもそれが読んだ(観た)人はなんだかおもしろくてしょうがなかった。とか、読み終わった(観終わった)後にいろんな場面がすごく印象に残っていた。というようなことがあったとしたら、その小説(映画)は、求心運動や凝集運動を必要とせずに小説(映画)たりえたと言える。というか、私はダンスはほとんどそのようにしか観ていない。そういえば、ピナ・バウシュのヴッパタール舞踏団の『パルレモ、パルレモ』が、ちゃんとした意味があると言われたら私はむしろ嫌になるだろう。意味など考えずにその場その場の動きをただ観ているのが一番楽しい。が、同時に私は個別の作品を離れて、人間の体のことやフィクションのことがあれこれ頭を去来している。
 フリージャズとなったらもっと全体を見ずに聴いているというかかけ流している。クラシックの解説で、第一楽章の主題が第二楽章でこう変奏され、第三楽章の××××を経て、最終楽章でこうなるという説明が面倒くさくてしょうがないし、だいたい私は主題とか主旋律とかが何か、聴いていてもう全然わからない。サックスの歪んだ音が私はただ気持ちいい。緩んだ音も気持ちいい。トリオやカルテットがいっせいに鳴らしまくる音も気持ちいい。
 意図せずにまとまりを意図しないものに日記がある。日記にはその日突然去来した思いが書かれることもあるし、何の説明もなく人名・地名が出てくることもある。その日に書かれた思いがいかにも大切そうで、書き足りていないから翌日にも書かれるのかと思えば書かれず終わることもある。私は二〇〇五年頃、ミシェル・レリスの日記を読み出して日記のおもしろさに目覚めたが、それ以前にカフカの遺した断片は好きになっていた。私の本棚には書簡集とか日記とかけっこういっぱいすでにあったのだから、私は何年も前から日記や断片を好きになる準備ができていたということらしい。アントナン・アルトーの『ロデーズからの手紙』なんか、書いてあることの半分は意味がとれない。
 

この詩人にとって絶対的なものとは死であり、相対的なものが彼の永遠なのです。なぜなら、私がいつも何かするとしたら、それは何かに関して相対的にあるからです。絶対的なものとは、時間の永遠の永続性の中に全体として存在させるべく探求すべき相対的な存在にすぎない。――存在があるときそれは絶対であり、存在が絶対なのであって、絶対があるのではありません。しかし今まで存在の存在は決してそれ自体の絶対性を獲得してこなかったのです。――ポンプの動きは、その中にある力の絶対性に関して、力においては絶対である。しかしこのポンプの動きの前にも、後にも、無限に別のポンプの動きがあるのです。

 これは一九四五年に書かれた手紙(宇野邦一訳)だが、すごくわからないが全然わからないわけではない。私はそれでも意味をとろうとして線を引いたりしながら何回も繰り返し読むから疲れるし、一冊の本が全然読み終わらないどころか前に進んでいかない。私はこの文を理解しないが、この文と関係なく私の中であるイメージが生まれる。それもまたすぐに消えてゆくがそれはきっといつか思いもかけないときに、わたしの考えや感情やイメージに私自身は気づかないところで、少し離れた場所でやられている工事のドシンと機械が地面を打つ振動が私の家の床を揺らすように揺らすだろう。

 意図せずまとまりを欠いた作品を作る人でない作り手は、キャリアの前半とそれ以前のトレーニング(?)期(修業時代)を通じて作品に求心力・凝集力を与える訓練をさんざん経ているから、彼にとって作品とはほとんど自然に求心運動・凝集運動を持つものとなる。細部と全体との関連もつねに考えている。細部と全体との連関とは求心運動・凝集運動のことだから、このセンテンスは前のセンテンスの言い換えでしかないが、あって邪魔になるものではない。
 しかし彼は作品の求心運動・凝集運動がうっとうしくてしょうがない。――と、ここまで来たら、もう「彼」とはほとんどデイヴィッド・リンチのことだ。しかし私はリンチその人について何かを言いたいのではなく、『インランド』と、それに至るリンチの映画のことを言いたい。
 私は最初の方で、作品とそれに向き合っている作者の姿を書いた。作品に向き合う作者の姿(作品と作者の小競り合い・駆け引き・綱引き)は作品ができあがれば、作品に反映する作者が作品がオーソドックスに持つ求心運動・凝集運動と折り合っていれば、作者の姿(作者が作品を作っている時間)は作品に吸収されて見えなくなる。と同時に、作品に吸収されて見えなくなった作者を想定して、ふつう「作者の意図」などと言われる。
 が、作者と作品との闘争がついに最後まで緩解しないとどうなるか。オーソドックスな作品に馴れた受け手にとって、「わけのわからない作品」となる。