◆◇◆遠い触覚  第十四回 『判断は感情の上でなされる』前半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.14 2011 Early Autumn

 フィクションとは、どういう状態がフィクションなのかを一撃を加えるように痛烈に感じさせたり、そのフィクションの状態を激しく揺さぶったりすることを言う。
「赤とは一番赤い色のことを言う。」というような定義の仕方だが、本当のことを言うためには、論理学や文法に遠慮する必要はない。論理学も文法もまた一つのフィクションでしかないのだから、フィクションに揺さぶられた方がそれらもきっと活性化するはずだ。
 チャーちゃんは九六年十二月十九日、ペチャは〇九年八月二十六日、ジジは一一年一月十七日に死んだ。ペチャが死ぬまでの十二年と八ヵ月、チャーちゃんはひとりで動物霊園の納骨堂の棚にいたわけで、私はチャーちゃんが淋しい思いをしているといけないと思って、チャーちゃんの毎月の命日かその前後二日ぐらいのあいだに納骨堂にお参りして、
「じゃあ、来月も来るからね。」
 と言って帰ってきた。ペチャが死にチャーちゃんが淋しい思いをしているかもしれないという私の懸念はなくなり、ペチャが死んで本当に淋しい思いをしたのはジジの方で、ジジは私と妻が夕食を外に食べに出たりして家を空けたとき、帰ってきて家に近づくとジジが「アーン、アーン、」と心細そうに鳴いている声が聞こえてきた。だからジジが一月十七日に死んで、翌日霊園の焼き場で骨にしてもらって、ペチャの隣りに骨壺を並べたときには、私はごく自然に、
「ジジが安らった。」
 と感じた。動物霊園の方はそういうわけで三匹が並んでいるのでもう淋しいなんて三匹のうちの誰も思っていないだろうが、ジジの命日の十七日からペチャの命日の二十六日までのどこかにいまだに毎月行くようにしている理由は、まあ自分でもよくわからない。月に一度行くのが私のお勤めのようなものになってしまった。というわけだが、今日も三匹が棚に並んだところを見てきて、そろそろ私は余計かな? と思わないわけでもない。
 まだチャーちゃんが元気だった頃、私なんかよりも猫たちとの生活がずうっと長い知り合いがうちに来たとき、ペチャとジジとチャーちゃんの三匹が、お客さんにあまり関心も示さずに適当に家のあちこちに散らばっているのを見て、
「ここの猫はやっぱり群れの猫っていうか、猫社会の猫っていうか、そういう顔をしている。」
 と言った。一匹だけで飼われている猫と、複数で飼われている猫では顔つきが違うのだそうだ。私はいまだにその違いがわからないが、その人はとにかくそう言った。

 三月十一日の大地震以来、余震が繰り返し来た。三月十一日の大地震のとき、私は自転車で片道十五分か二十分かかるところにある、新鮮で激安で狭い店の前にいつも客が何重にも重なって、手を上げて声を出さなければ中に常時四人か五人いる店員に見つけてもらえない店まで行って、千円で大皿いっぱいのホタテ貝柱を買いに行ったが、昨年の猛暑でホタテの収穫が悪く、その上二日前の九日昼の地震で水揚げが減ったとかなかったとかで、量は同じだが冷凍でしかも千二百円になっていたホタテを、外にいる鼻風邪の具合が悪く、ひどくなるとホタテしか食べられなくなるマーちゃん、白地に茶の柄が斑に入っているから「斑のマーちゃん」と呼んだのがきっかけでマーちゃんと呼んでいる猫のために買って、自転車で隣りの駅の高架の手前まで来たところだった。
 そこはサドルから立って力を入れて漕がないと登れないくらい、短いが急な坂があり、土地全体がぐにゃぐにゃしているところだから、そのせいか私は地面の揺れはまったく感じず、ガチャガチャガチャガチャ! とビンや金物を積んだ大きな台車を転がしているような音が聞こえてきて、それがいっこうに止まず、
「あ、そうだ。屋外でガチャガチャ音がするのは地震だった!」
 と気がついたときには、上から水がジャバジャバ落ちてくる。ちょうど改札を抜けて商店街を歩きはじめた人たちが騒然としている。ダンナに抱きついている奥さんや悲鳴をあげている人もいる。しかし私はなんか全然冷静で、しかし漕いでいた自転車がうまく進まず自転車を押して、上から物が落ちてこない場所まで逃げたくらいだから、地面の揺れで自転車が進まなくなっていたということかもしれないが、
「あそこ、見て!」
 と言って、ダンナに抱きついていた奥さんが指差した電柱の上を見ると、大きな変圧器なのかそういうのが乗った電柱がいまにも倒れそうにぐらんぐらんしている。ペチャが生後半年のとき、八七年の十一月か十二月の午前十一時頃あった千葉県北西部が震源だった地震のとき東京は震度4ということになっているが、実際はかぎりなく震度5にちかく、あれよりもずっと強いから「これは震度5強だな」と思い、まだ揺れは収まっていなかったが、家が心配なので携帯で電話すると携帯はまだ通じて呼び出しているが家にいる妻は出ない。
 そんなことをしていても仕方ないから自転車で家に急ぐと、本を収納するのに借りているトランクルームの人が二人道に出ているから、
「震源はどこだったんですか?」
 と訊くと、「宮城県らしい」という返事。私は東京近辺が震源だと思っていたから、そう聞いて少し安心したのは想像力が全然足りないが、阪神大震災規模の地震しか考えていず、その規模の地震なら、世田谷でこれだけ揺れたのだとしたら、何十キロか離れた震源つまり東京か千葉か神奈川のどこかが大被害にちがいない、という推測だった。
 私は震源がここから遠いと知っていったんは安心して裏道を自転車で走ると、マンションの敷地の入口で、白いワンピースを着た女の子と黒いスーツを来た若いお母さん、おそらく幼稚園の卒園式帰りの女の子とお母さんが茫然と立ちつくしている。私は薄情にも二人に声もかけずに近所の商店街の外れに来ると、小さい調剤薬局の前に店の女の人三人が、道にじかにすわりこんでいる。その三人にも声をかけず、私の経路は商店街の中には入らないからたしか他にはほとんど人を見ないまま、家のそばまでくると大谷石の塀が少し崩れて石の破片が道に散らばっている。
 そこから一分で家に着くと、妻は、ものすごい揺れで、あわてて外に出たら両隣りと向かいの人も出てきて、みんながいままで経験した中で一番大きい地震だったと言ったと言った。六十代と七十代の人がだ。しかしとにかく家の中は大きな被害はなかったが二階と三階で本が崩れ、あたしには上れる状態ではない。でも花ちゃんが二度目の揺れが来たときに恐くて二階に駆け上がってしまった。
 本を階段の上ったところに積んであるから、それが全部崩れて階段が本で埋まり、それを寄せて足の踏み場を作らないと私は自分の部屋に行けない。やっと行くと本が床に四層か五層に、難破船の中のように散乱していたが、これは私が本を立てずに寝かせて積んでいたからだ。本が散乱しているのより、高さ一八〇センチのサッシの引き戸が開いていたのに驚いた。本を片づける気にはならず、余震が何度も来たのはわざわざ書くまでもないが、恐がりでお客さんが来るとどこか奥に隠れて私にも見つけられない花ちゃんの居場所はまったくわからず、いったんあきらめて妻のいるリビングに降り、停電していなかったからテレビで地震の情報を見ていると、仙台市若林区の平らな土地に津波がどんどん広がっていくのが映った。私と妻はテレビに釘づけになった。
 こんなことは私がわざわざ書かなくてもみんな知っているのは私はわかっているのに書くのは物を書く人間というのは、自分の体験だけが特別だと思っているのか、とりあえず体験したことは書かなければ気がすまないからか、たんについ書いてしまったのかわからない。ひとつ言えるもっともらしいことは、私はいままでもみんなと共通であるとそうでないとに関係なく、何かを書くための前段としてのことをいちいち書いてきた。私はここでも自分の三月十一日を書きたいのではなく、書きたいのはその後の、つまり余震のことで、余震の前段として本震のことをちょっと書こうと思って書き出したら、さすがに興奮していっぱい書いてしまった。
 私の友人のコマーシャルの監督をしているNは、地震のちょうどそのとき、電通のガラス張りのビルを上っていくガラス張りの高速エレベーターの中にいて、カゴが、ガタン! ガタン! ガタン! ガタン! と、両側の壁面に打ちつけられて、「『ダイ・ハード』のブルース・ウィリスじゃない自分は死ぬと思った。」そしてそれ以来エレベーターに乗れなくなったと言った。
 私は東京とその周辺で三月十一日の地震を経験した中で、最も恐い思いをしなかったグループに入ると思う。私が自分の目で生に見て、「すごい地震だったんだな。」と思った光景は、自分の部屋と階段の本の散乱だけだ。揺れの体感はほとんどなく、被害も崩れるべくして崩れた本の山だけだから、わりと気楽に言ってしまうのかもしれないが、
「あれはたぶん震度5強で、あれで震度5強だったから、地震の揺れそれ自体で大きな被害になることは、よっぽど変なところにいないかぎりは、まずない(だろう)。」
 と感じている。
 それでも、東北ではなく東京でも「すごい地震だった」という思いがあるのは、揺れを経験した人たちの気持ちを共有したためなのか、あるいは逆に、自分が実際に経験した揺れは本当はもっとずっとすごかったのに、その後「たいしたことなかった」と、記憶を書き換えてしまったという可能性も否定はできない。記憶が書き換えられたものかそうでないかの検証は難しい。
 しかしやはり後者の可能性が薄いのは、それが直接の理由にならないが、私はもともと地震と津波には度を越した関心があり、人の話を(声)を聞いたり、テレビの光景に見入ったりしているのを通じて、自分自身の経験より、自分以外からの地震の経験を、本来の今回の経験として置き換えていったのではないか。
 そのあたりの正確な理由があいまいだが、私はしばらくは電車に乗らなければならない外出をしなかったのは、自分がいないあいだの家が心配なのと、外でまた大きな地震があったときに帰宅難民になって帰れなくなるのを恐れたからだ。花ちゃんは地震以来しばらくとてもナーバスで、ちょっと揺れるだけでも家のどこかに隠れようとする。私はおびえた花ちゃんの背中を撫でると花ちゃんは逃げずにじっとしている。私はひどい寒がりですぐに風邪をひくから、帰宅難民なんかになったら絶対風邪をひいてしまうし、何より暖房のないどこかで夜明かしするなんて耐えられない。
 実際、余震はひんぱんにあり、気象庁が言っていたとおり、四月七日の夜には東北を震源として一番大きい余震もあった。本震の直後には、長野でも静岡でも震度6強の地震があった。しばらくは次にどこで震度6クラス、マグニチュードで8前後の地震が起きてもおかしくない感じだった。揺れがはじまると、「この揺れは大きい揺れのはじまりなのか、これだけですむのか」「この揺れはこれですんだとしても、次に大きいのがまた来るんじゃないか」と考える。
 あの地震から二ヵ月経った今はそういう風には考えない。いつ頃からそこまで先のことを心配しないで、たんに「今の揺れがどのくらいの大きさだったか」で片づけるようになったか、もうはっきりとは思い出せないが、いつ頃からか、地震に対する感じ方が元にもどった。
 私は四月二十二日、二十三日、二十四日の三日間、いままでに二度か三度書いたことがある、劇団フィクションの主宰の山下澄人が、演劇未経験者とフィクションのメンバーが一緒になって作る芝居の公演が札幌であり、一月十七日にジジが死んでもう家を空けられない状態の猫がいなくなったので、四月のその公演には行くつもりだったが、三月十一日の直後は行けなくなったと思った。あの頃、私はまさか東京周辺ではこんなにもたんたんとすべてが元にもどるなんて考えもしなかった。
 計画停電と節電で、コンビニも夜の早い時刻に閉まり、電車に乗ると暖房が入ってなくて寒い。乳製品も食パンも納豆も豆腐も店頭にない。灯油もガソリンもない。半分は買い占めが原因だったとしても、いろいろな物の工場が東北にあるために、納豆のパッケージが作れないとか思いがけないところで生産がつまずく。しかし、三月二十日にはそう感じていた私自身が、三月末には、「四月二十三日には札幌に公演を見に行く」と山下澄人に連絡している。