◆◇◆遠い触覚  第十二回 『インランド・エンパイア』へ(9)後半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.12 2011 Early Spring

『審判』はヨーゼフ・Kの死=処刑の場面が書かれている。カフカは最初、朝の逮捕の場面を書き、次に最後の処刑の場面を書いた。いまはこれが定説であり、ヨーゼフ・Kが処刑されるのはまぎれもなくカフカ自身の意図であるとされている。
 一九一五年九月三十日。死の九年前。そのときカフカは三十二歳。『城』を書き出すのは一九二二年。一九一五年のこのときカフカは『アメリカ』も『審判』も主人公には死がふさわしいと考えていた。しかし『アメリカ』は死に至らずに中断された。そして『審判』だが、『審判』の歴史的批判版は現在、一冊に綴じられた書物としてでなく、各章ごとにバラバラに分冊され、章の順番は決定されないという形式で出版されている。たぶんそれは原文だけでしか出版されていないので私は持っていないどころか見たこともない。
 カフカは『審判』の最初の場面を書き、次にラストの処刑の場面を書いた。つまりそれがカフカの意図だ。もっと正確に言えば、それが『審判』に着手した時点でのカフカの意図だった。そしてたぶんカフカはヨーゼフ・Kの処刑へと作品を導くために『審判』の場面(章)をあちこち書いた。しかしとうとう『審判』は、ある朝の突然の逮捕から処刑へとつづいてゆく一つの流れにはならなかった。
 ヨーゼフ・Kを処刑するのはカフカの意図(着手時の意図)だった。しかし作品はヨーゼフ・Kの処刑を要請しなかった(処刑へと導かれなかった)。研究者たちはカフカの意図を絶対と考えているフシがあるが、書き手であるカフカの意図は絶対でなく、現に書かれた作品の展開が意図を上回る。では作品は絶対と言えるのか。作品に対して書き手がそれをいじる「権利」と言えるか知らないが、とにかく書き手が作品をいじることが可能だが、その書き手は時間的制約や書き手自身の能力・根気の制約の中にあるのが現実であり、作品もまた完成されない。
 たとえばクラシック音楽を考えたとき、譜面は完成形ではなく、それが演奏されてようやく形になるわけだが、演奏は奏者によって違うし、同じ奏者でも演奏ごとに違う。譜面を読める人には、演奏には完璧はありえないから譜面を読んで自分の頭の中で理想の音を鳴らしている方が楽しい、ということを言う人がいるが、では譜面は完璧なのか。作品をいじる機会があれば作曲者は譜面をいじる。
 ここで、完成形≠ニか完璧≠ニか、あるいは理想(形)≠ニいう観念が人々の考えにつきまとい、それが考えを別の方向に開くのをじゃましていることに気づく。ニーチェはすごいとあらためて思う。
 イデア。「存在の第一原因」といったか。この世界にある物や事はすべて、存在の第一原因であるイデアから投射された不完全なものにすぎない、という考えを徹底して批判したのがニーチェであり、そのニーチェは舞踏の比喩をたびたび使った。
 ニーチェの思い描いた舞踏がアフリカの舞踏だったか知らないが、舞踏→アフリカの連想の先にあるのはジャズで、ジャズはそのつどそのつどの演奏であって完成形はない。ニーチェが思い描いた舞踏は、ヨーロッパ中のどの民族も持っているそれぞれの踊りのことだったのかもしれない。民族音楽は譜面を持たない。本来、音楽と舞踏はセットになっていたのだろうが、いわゆるクラシック音楽は舞踏と切り離された形で発展した。それゆえ音楽には譜面という、あたかも音楽を再現できているかのような表現なのか記録なのか素材なのか、そういうものが生まれてしまったが、さいわいなことに舞踏は音楽と切り離されたおかげで譜面のような再現可能と人に錯覚させるものが生まれ育たなかった。それゆえ、舞踏では、
「舞踏には完璧はありえないから、舞踏譜を読んで自分の頭の中で理想の動きをさせているほうが楽しい。」
 という暴力的な発言を訊かずに済むことになった。
 歴史には岐路があり、舞踏だって楽譜のような精密(と思わせる)ものが生まれなかったとは言いきれない。しかし人間が扱いうる文字や記号では、音までは記録できるという錯覚を与えることはできても、全身の動きまでは記録できるとはさすがに錯覚させられなかったかもしれない。
 イデアに縛られた思考を批判し、舞踏の比喩を好んだニーチェの言葉は、いずれにしろここまで伸びる。作者が作品をコントロールできているという作品観において、作者は作品の「第一原因」のようなものになる。作者が作品の「第一原因」であれば鑑賞者は作品の意図を探れば作品を理解したことになる。
 ここにはいくつもの間違いがある。「理解する」とはどういうことなのか。そんなことが可能なのか。「作品のテーマを理解する」「作品の構造を理解する」「作者の意図を理解する」そういうことは可能だが、それらはどれも作品の一部分でしかなく、作品そのものを語ることにはならない。
 作品の全体を語ることは可能なのか。
 そんなこと、どうでもいいじゃないか。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。」という映画になること。『マルホランド・ドライブ』の弱いところは、現実とナオミ・ワッツ演じる主人公の妄想という二つに整理可能で、その整理=つじつま合わせができてしまうことによって、観客はある種の満足感を得ることができてしまった。しかしその満足感は『マルホランド』という映画の面白さとは関係ない。
『マルホランド』を観て、あるタイプの観客はとくにラスト何分間かでつまずいて、
「え? 何、あの映画。どうなってたんだ。わけわからない。」
 と言う。するとその人に、『マルホランド』の現実と妄想の仕組みを理解した人が、
「あれは、ピストル自殺した女優志願の女の子が死ぬ寸前に見た妄想だよ。」
 とか何とか言い、
「あ、そういうことだったのか。」
 と、わけわからなかった人が納得する。
 が、これでは『マルホランド』の面白さというか中身を全然伝えない。これが『マルホランド』の弱さであり、『マルホランド』を作ったデイヴィッド・リンチの弱さでもあった。
 映画という表現方法は、『ロスト・ハイウェイ』で、留置所の中にいる男がある朝いきなり別の人間に入れ替わっていても、それをそれとして話、というより映画を作ることができる。観客はそれに対してなんらかの理由づけをする。あるいは理由づけができなくても、どういう形でかそれを受容する。それが映画だ。
 映画や、テレビドラマでナレーションが入る。登場人物の声ならまだしも、そこに出ていない人が話の進行や背景について説明的なことをしゃべる。しかもほとんどの場合それは誤った情報ではなく信じるに値する情報だ。どうしてそんなことが可能なのか。しかしそんなことを誰も不思議とは思わない。映画にはナレーションがある映画とない映画がある。観客も作り手もただそう考えている。
 カットとカットのつなぎにバシバシバシッと文字を入れたのはゴダールだ。ゴダール自身による声も映画に入れる。その声ははっきりと進行中の映画の外から聞こえてくる声として聞こえていた。しかし『フォーエヴァー・モーツアルト』では、いままで外から聞こえていたゴダールの声が中の声として聞こえた。(しかし『フォーエヴァー・モーツアルト』を私は一回しか観ていないのでもしかしたら違うかもしれない。)
 と、このように( )に入れて書かれた部分は、不思議にも他の部分よりも冷めていて信憑性が高く感じらるのはどういうわけか。私は最近、( )のそのような作用がわずらわしくて仕方ないので極力( )は使わず、( )を使うときは、ああイヤだなあと思っている。
 ナレーションのようなありえないことがまかり通るのだから、映画は何だってすることができるだろう。と言って、何だってしてみても、それが「何だってすることができる」と思ってしたことでしかなかったら面白くも何ともない。そういうことだけを面白いと思ったり評価したりする人はいっぱいいるわけだが、そういう人たちのことはどうでもいい。したことが、観客の受容のギリギリか、受容の限界を超えていること。ギリギリであったり、超えていたと感じられたことが、観客にとって痕となって残ること。ついでに言うなら、批評とはその痕に誠実であること。
 数学とは、数学者の奇行を読んだり、たとえば若い日のハイゼンベルクが数学の教授を紹介されて訪ね、何に関心があるのかと訊かれて物理についての関心をしゃべると、「そんな不純なものに関心のあるヤツは俺のところに来るな。」と言われたというような話を読むと、閉じられた世界で精緻に何かをしたい人のように思ってしまうが、ユークリッド幾何学は一つの限定された幾何学にすぎないとして、リーマンやロバチェフスキーのように別の体系を考えた人がいるということを知ると、数学者の欲求もまた精緻さにあるのではなく、自分たちが持っている言葉の臨界点にあったのだ、そして数学者もまた宇宙を語る言葉を求めているのだと知ると感動する。
 あるいは、インド人数学者のラマヌジャンのタクシー数の話。
 療養所にいるラマヌジャンをケンブリッジ大学のハーディ教授が見舞いに行き、
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない、つまらない数字だったよ。」
 と言うと、ラマヌジャンがすぐさまこう答えた。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは二通りの二つの立法数の和で表せる最小の数です。」
 つまり、1729=123+13=103+93〔3はすべて3乗の意〕。
 精緻さへの志向とは偏執狂とほとんど同じであり、数学の世界では有名らしいこの「タクシー数」の話に私は感動する。数に感動したのか、偏執狂に感動したのか、それともラマヌジャンの夭逝が背景にあるから感動したのか、判然としないが偏執というのはその人自身の安定した生を内側から食い破る力であり、離れて見ているかぎりただ精緻さ、整然としたものへの志向であると思えていたものが、宇宙の真理を解明するため熱意や信仰を奥に秘めていたという数学の情熱と同じものだったことにまた感動する。と書きながら、私は自分でバカかと思う。これでは同じことを二つの書き方をしただけではないか。偏執狂というのはきっとその人として宇宙の真理を解明する熱意であったり、あるいはもっと言えば、私がこれを放棄しないから宇宙はこのようにして存在しつづけることができる、という信念だ。しかしその熱意や情熱や信仰や信念は、じつはそれ自身が依拠する体系をついには内側から食い破ることになる。
『インランド』について書くために、ナレーションのことを書いたり、数学のことは書いたりした。数学のことだったのか、偏執狂のことだったのか。どっちでもいい。するっと簡単に書いておけばすぐに元の文脈に戻ることができたはずなのに、話を先まで延長させていたあいだにどういうつもりでそれを書いたのか思い出せなくなる。読み返してみてもそれはすでに想定されていただろう文脈に嵌るパーツではなくなっている。
 しかしもともと想定されていた文脈など何ほどのものか。現に書くということは想定されていた文脈を超えることだ。そのように映画を作ること。『マルホランド』はパーツが厳密にはきちっとそこに嵌るようにはできていなかった。しかし厳密に考えなければ、というよりも文脈への嵌め込みを優先させた思考の上ではパーツは都合よく嵌め込まれた。『インランド』はそれをはっきりとできなくさせた。
 それをリンチの意図と呼ぶこともできる。ふつうはそう言う。しかしこれは、『ロスト・ハイウェイ』から『マルホランド』へと至り、その次の映画としての、映画の側からの要請だったのだ。