楚の男の口上の矛盾を指摘することを「わかる」とは言わない。しかし今の社会ではそれこそを「わかる」と呼んでいる。語る側の言葉が属する周波数帯に自分の思考を合わせず、自分の既存の思考様式から一歩も動かずにあくまで冷静に辻褄の合う合わないを判断する態度だ。
音楽が鳴っているときに、自然と体が動いている人とおもしろくもなさそうに腕組みしてコード進行や曲の構成ばかりを考える人のどちらが、その音楽をわかっているか? つまり「わかる」とはどういう心の様態なのか? 信じがたいことに、批評家的傾向のある人は前者のような状態を「わかる」をイメージするときに考えることができない。私の「わかる」が前者であることは言うまでもない。
「ちくま」で私は卒業して四十一年後に集まった小学校の同級生たちとのことを書き、小学校を卒業すると私は私立の中学に行って彼らと別れ、それは幸福な子供時代との別れでもあったと書いた。私は長いこと、もうすぐ四歳になる前に両親が生まれ育っていとこたちに囲まれていた山梨から引き離されたことが、自分のメンタリティのかなりの部分を決めたと思っていたが、同じことが中学入学時にもう一度あったのだと書き、私立の進学校での軋轢のことなど書き、小学校の仲間たちと同じ中学に進んでいたら自分はどうなったんだろうかということを書いた。
私立の進学校に進んでいなかったら私はきっと小説家にはなっていなかっただろう。私立の進学校での、学校との絶え間ない軋轢がいまの私を作った。私の核は何なのか? と考えると、小説家である以上に秩序や伝統や権威に対する反撥と軋轢なのだ。だから私は小説家になっていなかったとしても核としては、核という言い方が物にちかい実体をイメージさせすぎるとしたら運動の性質として、軋轢を自分としていた。これだけは確信を持って言える。
この文章を読んで、父ははじめて母に、
「俺はキミを兄妹親戚がたくさんいる山梨から鎌倉に連れ出して、悪いことをした。」と言ったそうだ。――父は母に向かって「おまえ」とも言ったが「キミ」とも言ったそうだ。私は父が母を「キミ」と呼ぶ場面に居合わせたことがない。それは事故で死ぬ一週間か十日ほど前のことで、まるで唐突に口にされた人生の総括や回顧のように聞こえるかもしれないが、母はこの言葉が「ちくま」の私の文章によって誘発されたものであることを知っていた。母は、
「そんな風に思ったことは一度もありませんよ。」と、これもまた奇妙なことに敬語で答えた。「キミ」も敬語も文字にすると違和感があるが、母の口から語られる分には何も違和感がないのだから、きっとその通りにしゃべったんだろう。しゃべりのイントネーションによって、「キミ」も敬語も、きっと一般にやりとりされるそれらと別の言葉になっているに違いない。
父は船員で、アメリカとの戦争をしている最中に商船学校に通い、卒業すると南方の戦線に人員と物資を運ぶ輸送船に乗ることになっていたが卒業を目前にして終戦になって命拾いした。といっても当時、ふつうに戦争に関わり、特別な反戦思想を持っているわけではない人たちは、「命拾いした」とどこまで思っていたかわからないし、仮りに「命拾いした」という言葉が心に浮かんだとしてもいまの人が思う「命拾い」と同じではないだろう。「戦争が終わって平和な時代が来た」という慣用句があるが、昭和二十年の八月や九月の時点で「平和」とはどういうものだったのか。戦争が終わって出征や空襲がなくなることが、そのままゆるゆるした平和を意味したわけがない。都市は空襲による瓦礫の山だし、食料も物資もない。結核の脅威もある。輸送船は日本と戦地をつなぐ生命線だったから、卒業すれば輸送船に乗ることになっている商船学校の学生たちはとても優遇されていて、昭和二十年に入ってもなお寮ではチョコレートなんかが支給されていたそうだ。だから父は戦争の悲惨をよく知らないというか、悲惨な現場に居合わせていない。
しかし父の第一志望は商船学校でなく理学部だった。旧制甲府中学の生徒の進路としては、旧制松本高校から東京帝大というのが理想だったらしく、入学試験直前まで父は商船か理学部かと迷いつつも気持ちは理学部に傾いていたらしい。入試は同じ日だ。ところがどういう事情によるものか、父は商船学校受験一本の友達の受験票をあずかってしまっていた。結果、迷う余地なく父は友達に受験票を渡すために商船学校の受験に行くことになった。
この間抜けなエピソードが私は好きだ。どうして友達の受験票なんかあずかっていたのか。人生のいくつかしかない大きな岐路が、意志ではなく偶然または手違いで決まってしまったという、そういうバランスの悪さが父らしい。と書いたら、「あれは飯倉さんが受験票を筆箱に入れたんだよ。」と母が言った。飯倉さんはどうしても父と一緒に商船学校に行きたくて、一次試験(か何か)の後、自分の受験票を父の筆箱にこっそり忍ばせ、父が松高に行けないようにした。と言うのだった。
その飯倉さんなる同級生はわりと若死にし、母は知っているが私は知らない。家に父のお客さんが来ると、その人は「保坂さん」か「機関長」という役職名で父を呼ぶ。しかし甲府中学か商船学校の同級生が来ると、「保坂」と呼び捨てにする。同じ「保坂」でも「さん」が付く「保坂」と呼び捨ての「保坂」では語気が違う。父が「保坂!」と同級生に呼び捨てにされるたびに私は自分が呼ばれたようで、「本当に父も保坂なんだ。」と思ったり、「父にも少年時代があったんだ。」と思ったりした。
「ちくま」を読んで、父は母へ向けた言葉ともう一つ、
「あのとき、商船学校へ行かずに松高に行ってたらどうなったかなあ。」と、自分のことも母に言った。
「ちくま」の私の文章は父に完璧に伝わったのだ。「わかる」とは書き手が何を言おうとしたのかを理解することでなく、書き手と同じ思考をすることだ。哲学の存在論はその最たるもので、「存在とは××××である。」と解説書のように理解しても意味はなく、哲学者が存在を実感した瞬間に接近して、手応えを掴むことができなければ感動も興奮もない。
私は父がこれから先何年も生きるとは思っていなかった。父が七十代後半に入って、野球のシーズンには毎晩横浜ベイスターズの試合を見ていながら、私が家に帰ったときに、
「向こうのピッチャーは誰なの?」と訊いたときに、動揺もせずに、
「誰だったかなあ。」と答えた、その答えに接したあたりから、私は父が最晩年に入ったと思い、病気かそうでなくても体が動かなくなったときに、それさえ読んでいれば満足と思えるような本に出合っていてほしいと思った。が、現実には私はアクションはまったく何も起こさなかった。が、日経の「プロムナード」と「ちくま」の連載がそのアクションのスタートになったのかもしれない。
しかしその次のアクションは実際にはありえたのか。なかったのではないかという気持ちが強いが、しかし本に出合うというようなやり方でなく、息子が書いた「ちくま」の文章などに触発されつつ、自分と妻の人生を辿り直すというようなことはありえたのではないかと思う。が、それは絶ち切られた。
交通事故というのは死としては最も暴力的な顕われで突然だが、死はいつでも準備のないところにくるのではないか。
父が死んで私ははじめて知ったのだが、父と同年代の知人が他に二人、自転車に乗っていて車に轢かれる事故で死んでいた。一つは父が死んでから母も知ったが、もう一つの事故の方は父も母も知っていた。それからもう一つ、十年ほど前、母が自転車に乗っていて突然転倒して後ろを走っていた車が急ブレーキを踏んだおかげで助かった、そのときタイヤが母の目の前五十センチくらいのところにあった、という事故寸前の出来事があり、それ以来母は自転車に乗らなくなったが父は乗りつづけた。
以前、私は石川忠司と「群像」で対談したときに未然問題≠ニいうことを言った。こうして事故が起こると、人は必ず「家を出るのが一分遅かったら、いや十秒遅かっただけでもあんなことにならなかった。」「急ぎの買い物ではなかったんだから明日にしておけばよかった。」ということを考えるけれど、事故に遭わずに無事に帰ってきた日に、
「今日もまた、ほんの十秒のズレで遭遇していたかもしれない事故に巻き込まれずに何事もなく帰ってこられた。」とは考えない。しかし、父の同年代の知人が他にも二人同じ事故に遭っていることを考えれば、父も母も私も毎日無事に帰ってきたことを心から感謝するべきだった。
しかしこんなことを思うのも当然事故が起きたからで、事故が起きない何事もない一日にこういうことを考えるのはやはりリアリティがない。――という考えはしかしやっぱり、日常の思考から一歩も外に出ない思考なのではないか。世界は可能性の渦であり、現実とは可能性の渦を縫ってただ一つだけの出来事を辿ることだが、過去と現在において現実がその一つの席を占有することによって他の可能性が弾き出されるわけでなく、実現しなかった可能性も現実につねに随伴して、可能性は消えない。
ということを書くのはまだ早い。早いというのは文章の体裁において早いということにすぎず、書いても書かなくても、書きつつこう思ってしまった私の文章は書いたのと同じにしかならないだろう。冬に備えてトカゲの木の幹の、雪が積もる位置よりも高くはりつけにしておく鳥は、冬になる前から雪が積もった時間を同時に生きている。
父が自分と妻の人生を辿り直す時間が交通事故によって絶ち切られた、というのは本当か。小島信夫は病気で明日死ぬと言われても昨日までの関心の継続の中で本を読んだだろう、というこれが本当なら、そしてこれは間違いなく本当なのだが、これを本当とするなら、死は行為の継続を絶ち切ることはできない。
そもそも一人の人間が生涯を通じて本を読んだり特定の関心に導かれて調べたりするのはどういうことなのか。一人の人間が死の床にあってなお本を読みつづけたとして世界の何かが変わるのか。
変わる。いや、世界など変える必要はないのだから変わらなくてもかまわない。ただ「何かが変わるのか」と問われたから弾みで「変わる」と答えただけのことだ。死の床にあってもなお、それ以前の関心と同じことをつづけるということは、死によって絶ち切られないと示すことなのではないか。死によって絶ち切られないということは、その関心がたまたま(傍点)与えられた生の期間という期限つきの関心ではないと示すことなのではないか。
それでも人や動物がこの世界に生まれて死ぬまでの限りある時間はある絶対的な特別さを持っているように思える。その特別さはたぶん、親と子の特別さと同じところから来ている。親は現実には生まれなかった理想の子どもより現実に生まれて育てた理想にはまったく及ばない自分の子どもの方がかわいい。現実の自分の子どもだけに心を砕く。同じく子どもも、こういう人こそ自分の親であってほしかったと思う理想の人物がいたとしても、その人物の死に際して涙を流さないが、自分の親が死ねば葬式で会葬者の前で挨拶をしゃべりきることができないほど泣く。
大人にとって涙を流して泣くとはやはり特別なことで、関係の薄い人の死に際してさんざん涙を流すようなことはない。涙はある強烈なリアリティをあらわしている。私は父が即死にちかい状態になった事故現場の詳細をいまだ聞いていない。いまはまだそれを聞く勇気はない。もし事故現場の写真があるとして、私はそれも当分見ることができないだろう。現場写真や詳細な事故説明は、父の事故それ自体はいまだ抽象的で一般的なものにとどまっている私に一挙に、まさに父の事故として襲いかかるに違いない。
ここで私は二つの世界が出合うことを回避していることになるだろう。その二つの世界、あるいはもっと単純に二つ≠ニは、死の可能性の高さを考えつつも現実にその死が起こるとは思っていなかったという二つ≠竅A死の床にあってもなおそれ以前と同じことを考えつづけることがたまたま(傍点)与えられた生の期間の関心であることを超えるという二つ≠ニ、同じことなのか違うことなのか。
私は現実の力を薄めて可能性に関心を開けなどと言っていない。現実とは可能性を強く随伴させるものでなければならない。現実と可能性が別のものと考える思考法こそが日常のものだ。宗教が血のつながりとしての親子の関係を
切って、修道院や僧院の生活に入るのは、現実の持つこの厄介なリアリティから解放されるためなのだろうが、厄介なものをそういう形で清算したら単純なフィクションしか生まれないのではないか。
しかしそれもまた宗教の本当のところを何も知らない者の浅薄な決めつけにすぎない。カール・バルトは一九五七年春のラジオでの説教でこういうことを言った。
「死からの救い・永遠の生命。それは、その人間の、その〔魂と身体との〕一体性と全体性におけるまさに此岸の生の――延長ではなくして――永遠化、〔すなわち〕この徹頭徹尾死すべきものが不死性を着ること、であります。」
(「不死性」天野有訳『聖書と説教』所収、新教出版社)
バルトは「彼岸」でなく「此岸」と言っている。永遠化するのは、「彼岸の生」でなく「此岸の生」なのだ。 |