◆◇◆遠い触覚  第十一回 二つの世界 前半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.11 2010 Early Winter

 去年の八月はペチャが二十二歳四カ月で死んで私はそのことをちょうど一年前のここに書いたが、今年は七月五日に父が八十四歳で死んだ。それも自転車の乗っているところを軽自動車にぶつかられるという交通事故で。ペチャは三月から変調があらわれ、変調というのは節外型リンパ腺が副鼻腔にできたことによる、口や鼻や目にあらわれた変調のことで、私と妻は二十二歳四カ月だから手術とか抗ガン剤治療は論外としてもそういう手段を使わずに治すことができないかと、ガンに効くというサプリを五種類か六種類、もしかしたらもっといろいろ取り寄せてペチャに服ませ、服ませるということは口を強制的に開けてそこに突っ込むということで、猫にとってそんなことが楽しいわけはないが、ペチャはそれをすべてされるがままに受け入れた。
 妻が通っている決してスピリチュアル系ではない鍼灸師が、写真気功もやったことがないわけではないのでやってあげようと妻に言い、妻は携帯電話に入れたペチャの最近の写真をその鍼灸師に見せて写真気功をしてもらったが、それから一週間もしないうちにペチャは死に、次にそこに行ったときに妻が報告すると、針灸師は「あなたのペチャのこの世での使命はすでに終わっていたが、あなたとダンナさんを残して旅立つのが忍びないために、ペチャはしばらく頑張っていたんですよ。」と言い、それを聞いて、というのは私は直接でなく妻からの伝聞で聞いて涙がまたしばらく止まらなかった。
 こういう話を聞くと、後からそんなことはいくらでも言えると批判する人がいっぱいいるはずだが、鍼灸師はこの言葉をペチャが生きているあいだに飼い主に言えるだろうか。言う人の方がおかしい。そしてこの言葉を聞いて、私と妻は、
「ペチャはあたしたちの気が済むように、服みたくもないサプリを毎日我慢して服んでくれたんだね。」と考えるようになった。
 一方、父は八十四歳とはいえ、元気でいわゆる「どこも悪いところはなかった」。元気でなければ自転車に乗って事故に遭ったりするはずがない。「交通事故だなんて、びっくりしたでしょう。」と、みんな言ってくれるのだが、私は父は自転車に乗っていて事故に遭うのではないかと、心のどこかの部分でいつも怖れていた、というか予期していた。ならばどうして自転車に乗るのを禁止しなかったのかと言えば、「やめろよ。」と私が五、六年くらい前に言ったときの父の「大丈夫。」という返事の響きで説得をあきらめたと言えば、冷淡と思われつつも少しは納得してもらえるかもしれないが、そうではなく、私は父が自転車で事故に遭う怖れや予期がまさか本当になるとは思わなかった。と言うとだいぶ近いが、しかしそれも本当は違う。世界が二つに分かれている、あるいは人が生きる時間には二種類があるのだ。
 私は今年は「真夜中」のこの連載だけでなく、「群像」の『未明の闘争』と「文學界」の『カフカ式練習帳』もやっていて、「ちくま」の『寝言戯言』というのも一月発行の二月号から連載することになっていたが、昨年の十一月末くらいだったか、日経新聞から「プロムナード」という週一回のエッセイ欄を一月から六月までの半年やってくれないかと言われて、けっこう手一杯だったがそれを引き受けたのは、「プロムナード」だけが父が読んでわかりそうな文章を書くと思ったからだ。交渉によっては半年か一年先に繰り延べられるかもしれないが、半年先一年先だと父がどうなっているかわからないと思ったから引き受けた。ついでに言えば、「ちくま」は活字の「ちくま」と「WEBちくま」の二つがあり、そのどちらを選ぶのも自由だったがWEBでは両親にわからないと思ったから活字つまり冊子の方にした。といっても「ちくま」の連載は父が読んでわかるとは思っていず、母にしても回によっては半分も理解できないだろうと思っていたが、親というのは子どもが書くものについて、内容ではなく形なのだ。
「ここでもここでも仕事している。」と思うだけで安心したり喜んだりする。だから文学賞など取ったりすれば親は一番喜ぶことになるが、文学賞はもういい。子どもが仕事をつづけていて、一定の読者の支持を得られている、そしてそれは一過性でなく自分が死んだ後も子どもはつづけている、という実感さえあれば親はいい。というのは半分は私の勝手な憶測ではあるが、大きく外れてはいないだろう。私がもっとずっと権威主義者で地位や名声にも貪欲で、それを次々実現させていったら親はもっと喜ぶかもしれないが、子どもがこのように権威主義者ではないということは親も権威主義者ではないということでもある。

 日経新聞の「プロムナード」は予期したとおり、父は毎回楽しみにして読んだ。といってもひじょうに表面的な読みであり、あまり本を読まない人なりの感想しか持たなかった。父はエンジニアであり、すべてのエンジニアが小説や思想書の類を読まないわけではないが、父は読まなかった。いったい私の小説を一つでも通読したことがあったのかも疑わしいというか、私は父は通読したことがないと思っていた。
 父は定年後は碁ばっかりやっていて、碁ばっかりやっていたが勝負事に淡白で、対面する相手との凌ぎ合いが本質的に得意ではないからいっこうに上達しなかった。大げさな言い方をすると、人生というものを自分が向上するためや真理に一歩でも近づくための道のりと思っているタイプと、目の前にいる相手との凌ぎ合いに勝つか負けるかのものだと思っている脂ぎった現世的タイプの人がいて、私はほとんど完全に前者だし父も最低言えることは後者ではまるっきりなかった。たぶん二つの中間にあるのが資格というもので、「ボイラー取り扱いなんとか一級」という類の資格を父は若い頃かいくつも取得したが、定年後六十歳をすぎてたしかもう一つ何かの資格試験を受けたらしいが、若い頃のようにはいろいろ記憶できず苦労しているという話を聞いたことがある。結果については知らない。
 最後の目標が囲碁初段だったが、それは二十年以上囲碁ばっかりの生活をしてもついには叶えられなかった。私は父に「碁や将棋はいかにも頭を使うように思えるが、同じ頭の使い方しかしないからボケの防止にはならない。」と言いつづけた。しかしすでに六、七年前から父の思考力や記憶力ははっきり衰えはじめていて、いくつもの断定されない命題を未解決のままプールさせておいて、考えを辛抱強く練り上げていくようなことはほとんどできなくなっていた。が、では年をとってボケる以前の人たちがどれほどそういうことができるかと言えば、ほとんどの人は決定済みの命題を積み上げることしかせず、命題が未決定であることを虫や蛇を見るように生理的に嫌う。
 日経新聞「プロムナード」で私はそうとは明記せずに何回か父へのメッセージを書いた。そのうちの一つは、小島信夫を例に挙げて、小説家など広く芸術をやっている人間は生涯現役でありうるということ。書物の世界は果てがなく、それに関心を持っている人間は、死ぬ寸前まで関心が完了することがないということ。小島さんは実際には脳梗塞でブツ切りの形で活動が中断されることになったが、病気で明日死ぬと言われても本を読みつづけたに違いないということ。
 父がどう振舞うべきだったのか、私は具体的なことは書かなかったし、私自身に具体的なイメージはなかったし、あったとしても父はそれを実行しなかっただろう。ただとりあえず、最晩年を迎える準備として、池に小さな波紋をつくるくらいのつもりで父の心に小石を投げ入れておきたかった。
「プロムナード」の連載を、半年先一年先に先送りしなかったのは、先送りしたらそのあいだに父に何が起こるかわからないと思っていたからだ。しかし「プロムナード」で父に送ったメッセージはもっと先の時間を想定してのものだった。これもまた二つの世界、二つの時間の顕われではあるが、これはまあたいしたことがない。この程度の二様の頭の使い方は日常生活の中でふつうにしている。浅薄な人はそれを「矛盾」などというわけだが、「矛盾」のもともとのエピソードの、矛と盾を売る楚の男の、「この矛は世界一鋭くどんな盾も突き通す。」「この盾は世界一堅くどんな矛も通さない。」という口上に対して、「ではおまえの矛で盾を突いたらどうなる?」という追及も私には浅薄に思える。矛と盾を売る楚の男にとって、いま自分が持っている矛と盾はそれぞれの世界に運ばれていき、もう二度と出合わないのだ。楚の男は誇大広告をしているわけではない。しかし、ひたすら日常を生きる人は、本質的に交わることがない二つの世界ないし二つの時間を、いまここと同じ日常の時間としか理解しないから、楚の男の言葉は滑稽な詭弁に成り下がる。
「プロムナード」で私が送ったメッセージが父に届いたか届かなかったか。それは確かめようがないというのは日常的な思考様式の方で、本当に池に小さな波紋ができるようにして父の心に小さな波紋が確かにできた。それは思いがけず、「ちくま」の連載の六月下旬発行の号と響き合った。私はそこまでは考えていなかった。
 父は「おまえの書いたのがおもしろかった。」と言ったわけではない。「プロムナード」で父がおもしろかったと私に言ったのは、もっとわかりやすくて、父自身がおもしろいと自覚した回にかぎられていた。そんな父の反応をどうして私が知っているかというと、私は緊急連絡用に二〇〇四年から父と母に携帯電話を持たせた。しかし二人はいっこうに真面目に使わず、私はしょっちゅう腹を立て、
「じゃあ、もう解約する。それでいいな。」と言うと、二人とも「それは嫌だ。」と答える。口ではそう言っても事態は少しも改善しない。そうこうするうちに、二〇〇八年の夏にソフトバンクから現在の機種が二〇一一年で使えなくなるという案内がきた。妻は、
「年を取れば取るほど新しい機種に対応できなくなるわよ。」
「どうせ、今も対応してない。」と私。しかし結局二〇〇八年九月に両親の携帯を新しい機種に替え、そのとき、
「携帯電話を持ち歩かなくてもいいから、まず使い方に慣れるように毎日午後六時に電話を入れてくれ。」と、私は父に言った。
 午後六時のコールはそれ以後、交通事故に遭う七月五日の前日まで二年ちかく、きちんきちんとかかってきたが、ほとんどそれ以上の進歩はなく、事故に遭ったときも父は携帯電話を携帯していなかった。私は父の携帯電話のアドレス帳を開くとすぐに、「息子」として私の番号が出るようにしておいたし、発信履歴・受信履歴を見たって私の名前しかないのだから、持っていれば、私に二時間早く連絡が入った。といっても、事故の時点で意識はまったくなく、かろうじて心臓が動いていただけだった。
 その午後六時のコールもほとんどは、
「今日もなんにもナーシ!」
「はい、どうも。じゃあ、また明日。」
 だったわけだが、たまに、
「今日の日経はおもしろかった。」
 と言った。小島信夫や小説や芸術や書物の世界のときには父の反応は何もなかった。しかし、「わかる」「理解する」「伝わる」というのはどういうことか? もっと踏み込んで言えば、どういう心の様態が「わかる」ということなのか?