◆◇◆遠い触覚  第十回 『インランド・エンパイア』へ(8)後半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.10 2010 Early Autumn

「塩の像」はどういう話か。
 これもまた旧約聖書「創世記」第十九章の、ソドムとゴモラ、二つの町を神が滅ぼした話だ。神の使い二人が町を滅ぼすためソドムに着いたとき、門でアブラム(アブラハム)の甥のロトが迎え、ソドムを滅亡から救おうとするのだが、話はうまく運ばず、神の使いがロトにおまえの身内の者だけは助けるから逃げろと言った。
「主は硫黄と火とを主の所すなわち夫からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」
 これが旧約聖書の記述で、「塩の像」は、この塩の柱(塩の像)になったロトの妻が、その姿のまま今もまだ生きているという話だ。
「その白い目と白い唇は、数世紀の眠りのなかで完全に静止していた。その塩の岩からは、生命の兆しのかけらさえ発していなかった。太陽は幾千年も前から、常に変わらぬ厳しさで、容赦なく像を焼いていた。ところが、それにもかかわらず、この像は生きていた。汗をかいていたからである。」
 心理的なことがどこにも書かれない。ルゴーネスは心理的に展開させずに、事実をごろっと差し出す。聖書もそうだ。新約も含めて、聖書の場面を簡略化して書こうとすると、心理的な説明がないところに私はつまずく。簡略化して書こうとすると「それを不審に思って」とか「疑いを晴らそうとして」とか、つい書きたくなってしまうのだが、聖書の方を読んでみるとそういうことは書かれていない。こちらが「それを不審に思って」などと書きたくなってしまうということは、それを読んだときに事態進展の説明として、そういう心理的機縁を、意識しないまま補足しているということでもある。
 場面を簡略化して書こうとしたときに心理的機縁を追加(傍点)してしまうのは矛盾と見えるのだが、そうなのだ。心理的機縁は事実に対するプラスの要素である、と漠然と考えているとそう思えるのだが、実際には心理的機縁というのは事実から要素を消し去る働きを持っているのではないか。
 下手な小説を考えてみればわかる。『マディソン郡の橋』というのは相当下手な小説だったが、主婦(映画ではメリル・ストリープ)が出会った男(クリント・イーストウッド)が靴の紐を結ぶ場面で、「このうえなく印象的な手つきだった」みたいな、描写とはいえない、何も具体的に再現していない書き方しかしていなかった。ただしこれは私の記憶なので、それに類する記述があったかどうか、そもそも男が靴の紐を結ぶ場面があったかどうかすら保証のかぎりではないが、下手な記述というのはそういうもので、具体的なことは何ひとつ再現せずに心理的に説明してしまう。
「しかし」「だから」「あるいは」のような接続語の話はたしか前回書いた。接続語を文や段落の頭に置くことで、書き手は読者を誘導する。もっと言えば、同意を事前に取りつけておく。読者の側から言えば、次を読む前に心理的な方向づけがされているから読解に要する負担が減る。書き手が接続語を書くのは読者に対する配慮でなく、書いている自分自身が話の流れの方向づけを必要としているからなのではないか。極端なことを言ってしまえば、接続語が書かれる瞬間、書き手は文章の流れの外に立ち、文章の流れを俯瞰する地点に立つ。
 それが私は最近退屈で仕方なくなるときがあり、接続語を書かずにいくつか文章を書いてみたのだが、あとで読むと自分で不安になる。文章を書くというのは書いている自分をどこかに連れてゆくことであり、接続語なしの文章を読むと開けてはまずい蓋を開けたのかもしれないと思うのだ。ジミ・ヘンドリックスに関する私の知識はここ数年以上停止状態にちかかったのだが、このあいだ新譜(傍点)の『ヴァリーズ・オブ・ネプチューン』が出た。「海王星の谷」という意味だろう。ここ数年以内の過去に、ジミヘンの音源の所有権が整理されたらしく、その所有権者がこれからジミヘンの音源を系統立てて出していくことになったのだそうだ。ジミヘンは膨大なスタジオ録音のテープを残してあり、それらを編集していくとまだまだいくらでも新譜が出るのだそうだ。
 ジミヘンの未発表音源ということでいうと、『サウス・サターン・デルタ』というのが一九九七年に出た。「土星の南のデルタ」ということか。『リトル・ウィング』とか『エンジェル』とか、ジミヘンは空を飛んだり、宇宙的であったりするイメージが好きなのだ。ドラッグの影響かどうかは知らない。『サウス・サターン・デルタ』は、ジミヘンが生きていたあいだに発表されたアルバムより私は好きで、きちんと完成させていないところがむしろいいのかと思っていたら、『ヴァリーズ・オブ・ネプチューン』はもっといい。のだが、ジミヘンのギターを聴いていると、
「開けてはいけない蓋を開けようとしている。」と感じる。発表=編集が最近のものほど私はそう感じる。
「だから開けちゃ、いけないんだって、あいつが死ぬ十年前から俺は言ってたんだ。」
 と、オーネット・コールマンは言うのだ。
「ドルフィーだってコルトレーンだって、みんなそうやって死んでったんだ。タコとか間抜けとか言われても長生きして吹きつづけていれば、きっといつかはわかってもらえる時が来るさ。わかられなくてもいいがね。」
 と、オーネット・コールマンは私に言うのだ。何かを作ったり表現したりする行為にかかわる者たちにとって、ストイックにキリキリキリキリ追い詰めていくことは簡単だ。簡単というのは精神のありようにおいて簡単ということであり、それをすることはものすごく大変だ。ものすごく大変だから、「自分はすごいことをやっている。」という満足感なり達成感なり使命感みたいなものが自分の中で生まれ、それに牽引されて本人はどんどん突き進んでゆくことができる。ジャンキーみたいなものだ。ランナーズハイやワーカーホリックと同じようなものだ。
 しかし「俺はそれはしないんだ。」とオーネット・コールマンは私に言う。
「ジミヘンでもドルフィーでも、聴くとやつらの呪縛にかかるだろ? あんたはしばらくやつらの圏域から出られなくなる。アーティストっていうのは、みんなそうすることがいいことだと思ってるからな。」「そうする」というのは聴き手や観客を自分の作品の力で呪縛するという意味なのだろう。
「でも俺のはどうだ? 体の緊張がほぐれて、あんた、いろんなことが頭を吹き抜けていくだろ? せっかく聴くんだから感動したいっていうのは貧乏人根性だと思わないか? みんな、『すごい演奏だ!』って言って感動を表現するわけだが、そこで起こった感動はその演奏を聴く前と同じ感動だとは思わないか? 『すごい演奏だ!』っていう言葉だって、それ以前に何度言ったか数えきれないしな。」
 オーネット・コールマンはただ蓋を開けるなと言っているのではない。開けるべき蓋はそれではない、なのか、蓋を開けても大げさに考えるな、なのか、蓋などもともとない、なのか、それはまだ私にはわからない。しかし答はすでにCDの中にあり、彼はもう五十年以上もそういう音楽をやってきた。それは間違いない。
 夫の眼差しに心理的機縁を見ず、それを結果でなく原因と見るようにこちらの態勢が切り替わると『インランド』の見え方はガラリと変わる。ガラリと変わると言っても、夫の眼差しを結果でなく原因と見るようになるのと同時に態勢の変化が起こるわけでなく、その変化は時間がかかる。いわゆる「アハ体験」のような、ひらめきが襲ってくる瞬間の呼び名があり、ある瞬間に大発見があるようなことを言う人がいるが、それは何も発見したことのない人が傍観者的に発見をそう見ている錯覚であり、ある瞬間の前か後には必ず長い蓄積や組み替えのプロセスがある。夫の眼差しが結果でなく原因と見えるようになってから、私には『塩の像』などの迂回が必要だったということだが、『インランド』についてのみ限定すればそれは「迂回」となるが、『インランド』も含めて何かを考えようとしているのだと考えれば『塩の像』も何もすべてがきっと前進であり、その前進は同時に『インランド』を観るためのものでもある。
 部屋で一人、テレビを見ながら涙を流している女(スクリプトではWOMAN、エンドロールではLost Girlとなっているカロリーナ・グルシカ)がいる。彼女はラスト近くでローラ・ダーンと抱き合う。いままで馴れ親しんできた世界と別の世界で、カロリーナ・グルシカが生きるはずの苦しみをローラ・ダーンが生き、カロリーナ・グルシカはそれをテレビを通じて見ていたから、ラスト近くで出会った二人が抱き合った、という風に私は考えていたのだが、そういうことではない。
 フィクションというのはどういう風にして起こるのか? フィクションの起源ということだが、それは起源ともまだ言えない、起源より遠いはじまりのように私には思えるのだが、空間と時間を圧縮すること、それが認識のはじまりなのではないか。それと同時に起こるのだが、登場する人物も圧縮される。つまり、本来八人の人間がその出来事に関係していたのに、Aが三役、Bが三役、Cが二役という風に三人に圧縮されたとしたら、そこで認識とフィクションが受精される。十ヵ所で起きたことを三ヵ所に圧縮したり、十年間の出来事を三日間に圧縮したりすること。
 これらはすべてリンチの映画の特性だが、映画一般の特性でもある。三ヵ月の出来事を二時間に圧縮するのが映画だ。十年かかって起こるような出来事を三ヵ月間の出来事のように圧縮し、しかるのちにそれを上映時間の二時間に圧縮する。リンチには世界がつねにそのように見えているのではないか。
 リンチ自身にどう見えていようが、観客はそんなことをいちいち考慮する必要はない。謎解きがふんだんに盛り込まれた小説(村上春樹『1Q84』もそういう小説らしいが、)に馴れている読者は、リンチに世界がどう見えているのかということを解くことを快感とするかもしれないが、そんなことはどうでもいい。上質な(傍点)フィクションなら、「作者に世界がどう見えているか?」がフィクション内世界にうまく溶け込み、それが作品のテーマとなったり、主人公の世界観となったりするだろう。しかし上質でないリンチの映画では、「作者に世界がどう見えているか?」がゴロッと違和感として投げ出される。私はきっとそこに惹かれ、あれこれ考えているうちにリンチが感染した。
 確認しておきたいのだが、部屋で一人でテレビを見ながら涙を流している女を私は「どういうこと?」という風には観ていない。謎解きや解釈の対象として観ているのではなく、リンチのように観ようと私はしているらしいのだ。樫村晴香みたいな言い方をすれば、リンチの病いを共有しようとしている。きっとそれが理由となって、私は二〇〇八年の初夏に遅ればせながらリンチの映画を観るようになったその時以来、リンチ以外面白くなくなった。というか、もう何年も映画に面白さを感じなくなっていた状態のところに、リンチだけが俄然面白いものとして飛び込んできた。だから私は、リンチの意図やテーマを知りたいわけでは全然ない。『マルホランド・ドライブ』のリンチ自身による十のヒントというのにもまったく関心がない。
『マルホランド』が、拳銃で自殺する女性が死ぬ間際に見た妄想というだけの映画なら、そのように撮ればいいのだが、それがすぐにはわからないように撮ったということは、そのすぐにはわからなくさせた部分にリンチがいる。十のヒントはリンチ自身の意図の及ぶ範囲だが、すぐにはわからないようにしか撮れない(または、撮りたくない)その態度まではリンチ自身の意図によってどうすることもできない。
 病いとはそのことであり、リンチは編集によって起こる時間の操作や空間の飛躍と結合や、俳優がフィクション内の人物と見なされることが不思議でしょうがない。リンチを観れば観るほど、なかでも『インランド』を観れば観るほど、私もそれが不思議というか違和感というかそういうものにどんどんなってゆく。
 部屋で一人、テレビを見ながら涙を流しているカロリーナ・グルシカはロスト・ガールであるが、フィクションを観るすべての人でもある。ローラ・ダーンが自分の苦しみを生きたと彼女が思っているのだとしたら、それは観客や読者のフィクションに対する感情移入のことでもある。画面の中で、たとえば誰かが目玉をフォークでえぐり取られたりするときに、観客は画面の中の人物が自分の代わりにそうされたかのように顔を歪ませるではないか。カロリーナ・グルシカはテレビに映っているのが自分の苦しみでなくとも涙を流しうる。いや、こんな言い方では、フィクションをいつでも自分のことと思って感情移入して読んだり観たりする人という一般論にしか聞こえない。リンチは一般論を書いたのでなく、あの映画を撮った。
 ある女性から夫の家庭内暴力の話を聞くとき、夫の顔かたちはどうなっているか。つまり、キリストが十字架に磔にされている姿を想像するとき、だいたいみんな何種類かの特定のキリスト像を思い描くわけだが、家庭内暴力をその女性にふるった夫の顔かたちをふつう人はどの程度具体的に思い浮かべながらその女性の話を聞いているのか。その女性の話を聞いて、
「ひどいヤツだなあ。許せないなあ。俺が会ったらブン殴ってやる。」と思って、翌日電車で夫である男と隣り合わせにすわったとしても、全然気がつかないだろう。
 家庭内暴力をふるう夫に誰か特定の顔・体型・声質などを当てはめ、その特定の人物が発するリアリティとともに暴力夫の話を聞くという人がいたら、その人はあまりふつうではないが、ふつうの人もキリストと聞いて特定の顔かたちを思い浮かべたりするのはそれと同じようなことで、歴史上の有名人に対して人はそういうことをしている。しかしそれでは画像はあっても声が聞こえてこない。声が聞こえないとどうしてもリアリティがないと、意図以前に感じている人は、キリストとかジャンヌ・ダルクとかに知り合いの顔と声を当てはめることになる。そんな変なことをする人がしかしいるだろうか? といえば、それがリンチなのかもしれない。
 肉体というのは容れ物なのか通り道なのか、いずれにしろふつう人は肉体という容れ物の中に私≠ェいたり自我≠ェいたりするものだと思っているが、この体がそれだけだったらとても芸術などを創り出すことはできず、何かを創ったり表現したりしようとするときには、この体はただ私≠竍自我≠フ容れ物であるだけでなく、媒介か中継点となり、自分以外のいろいろな人たちの試行錯誤をこの体が試行錯誤する。別の言い方をすれば、自分の中にいろいろな人が交差点のように交わり圧縮し、自分の試行錯誤はいつか(あるいは、たった今)他の人へと拡散してそこでまたまた試行錯誤される。
『インランド』の場面の転換や結合はそういう実感の顕われなのではないか。こういう書き方はいきなりで、『インランド』の映画としてのストーリーのレベルでの受け止めをすっ飛ばしてしまうことになるが、私は『インランド』のストーリー・レベルでの整合性とか人物相関とかはほとんどわかっていないし、どことどこをチェックしてそれを?げて……という風に考えない。
 映画というのは、二時間なら二時間、三時間なら三時間のあいだ、「観客の興味を引き止めておくにはどうするか?」ということで、芝居も小説も、あるいはダンスや音楽も、はじまりから終わりまで一定の時間のうちに展開する表現はすべてそれで、そのやり方を支持しない人が九割以上でもかまわない。現実にはリンチは上映館が少数とはいえロードショーを延長する程度には客を集めるのだからその辺は問題ないが、数の話はどうでもいい。作り手にとって受け手の「ほどよい数」など想定しようもない。
 媒介とか中継点とか圧縮とか拡散とかにいきなり飛ぶ前に私も観たのが画面だけであるのは間違いないのだから、画面についてはやはりまだ書く必要があるのだろうとは思う。