夫の眼差しによって妻の災厄あるいは混乱がもたらされた。
『インランド・エンパイア』はそういう映画だ。これは一面の説明にしかなっていないが、妻の映画出演が決まって、妻が友達と一階で大喜びしているときに夫が階段の上からそれを、その場にそぐわない、妻の喜びを共有していないことが明らかな、もう少し決めつければ不吉な眼差しで見るのは、その場面にいたるまでのいまのところ映画では何も説明されていない妻と夫の経緯または関係の産物(結果)ではない。夫のあの眼差しが映画=このフィクションの原因あるいは牽引力となる。あの眼差しは産物とか結果というような消極的なものではない。心理的なものではなおさらない。
あの場面は、夫の眼差しであるから夫婦関係にまつわるあれこれを観客が憶測するまぎらわしさを持っているわけで、あの眼差しを夫にさせずに、たとえば巨大な彫刻の頭部でも突然カットインさせて、妻が友達と大喜びするところをその頭部が怖い眼差しで見ているようにすれば、フィクションの構造としてはすごくすっきりしただろうが、もちろんリンチはそうはしない。
リンチでない映画監督でもそんな巨大な頭部を突然カットインさせたりしないわけだが、ではふつうならどうするかと想像すると、そういう機能を担うものは隠される。『ロスト・ハイウェイ』の白塗りの悪魔みたいな男とか、『マルホランド・ドライブ』のカウボーイとかファミレス裏にいる男とか最初のあたりと最後のあたりに出る老夫婦とか、そういう人物はふつうの映画ではキャラクターとして登場せずに、フィクションの流れを左右する因子であり、だから画面に映らない。「その瞬間、ニッキーは決定的に運命の女神に睨まれた。」ということで、「その瞬間」を少しはっきりさせたければ、通俗的には風でも吹かせるだろう。
それなら、夫の眼差しを含むここに並べたキャラクターをただフィクションの流れを左右する因子としてだけ観ればいいのか? といえば、それはそんな単純な話ではなく、現に役者を使って映っているのだから、観客は必然的にあれこれ考えたり感じたりすることになるわけだし、ピオトレック・クロールと読むのかPiotrec Kro´lと書く登場人物つまりニッキーの夫と、いまのニッキーの夫のほかに二つの役を演じるピーター・J・ルーカスという役者にその役割を担わせるというか詰め込むというか、そういう無茶をすることでリンチの映画はふつうのフィクションではないものになってゆくことになる。
ところでさっき「心理的なものではなおさらない。」などとわざわざ書いてしまったのは、最近私はルオポルト・ルゴーネスというとんでもない小説家を発見してしまったからだ。ルゴーネスはどうやら生涯通じて長い小説は書かなかったみたいだが、短篇には心理的に展開するようなものはひとつもない。
フロイトは心理学の学者だが、お母さんがいないあいだ子どもが糸巻きを投げて、Fort(いない)Da(いる)と言っていたという有名な話を読んで私がうれしくなったのは、ONとOFF、あるいは1と0のような無機的な次元として心理を記述したと感じた、ある種の開放感のようなものがあったからで、これは私の勝手な受け止め方であり、だいたいフロイトの説はそこから、言語という象徴がうんぬん、母親という大きな存在を糸巻きという小さな物に置き換えることでうんぬんという、言語の機能みたいな話になってゆくのだが、そっちの方は私にはおもしろくないというかどうでもいい。心理の発生の現場とか心理の起源とかには、当然、心理は関わっていないわけで(でももしかしてやっぱり関わっているのかもしれないが)、そこには事故のような出合いとか、突風で大木が倒れる瞬間とか、風で蝶の進路が曲がるとかそういう、心理を介在させて解釈しなくてもいいことが起きている、ルゴーネスの短篇とはそういう小説だ。
ルゴーネスは一八七四年にアルゼンチンで生まれて一九三八年に死んだ。私がルゴーネスを知ったのは、ボルヘスが編纂した「バベルの図書館」シリーズの一冊として『塩の像』という短編集が出ていて、日本語訳は一九八九年に図書刊行会から出版されたが、現在絶版。
こんなすごい本が出版当時まったく話題にならなかったとはどういうことだ! といえば、あいかわらず日本ではカフカでさえも現代社会の予言とか寓話とか諷刺として読まれる傾向が強く、そのページでどれだけ意外なことが起こっているかという徒手空挙の読み方をする人が少ないからで、ルゴーネスの短篇に意味や社会的テーマやまして教訓を探しても、そんなものは何もない。
そういうわけでどうやらルゴーネスはSFの文脈で読まれたみたいなのだが、 SF小説を読むつもりで読むと展開がなさすぎるのではないか。あることが起こる原因や背景とかあることがそうなっている原因や背景というのを説明するのがSF小説は好きで、仮りに展開は必要ないとしても原因や背景は必要となる。最近のSF作家といってもグレッグ・イーガンくらいしか知らないが、イーガンなんかを読むとそこのところの説明が緻密すぎてバカバカしくなる。そういうわけでルゴーネスには原因や背景もなく、出来事がボンッと提示される。ほとんどそれだけだ。
『塩の像』収録の「イスール」という短篇はこういう書き出しではじまる。
「私がこの猿を買ったのは、破産したサーカス団が持ち物を競売に付した時であった。
以下に記すのは、この猿に対しておこなった私の実験であるが、それを思い立ったのはある午後のこと、ものの本で、ジャワ島の住民が、猿が言葉をしゃべらないという事実を、能力の欠如にではなく、猿の側の自制心に帰している、というくだりを読んだからである。そこには、「猿が話さないのは、仕事をさせられるのがいやだからだ」と書かれていた。」
カフカを読んだ人はこれだけで、『田舎医者』の中の「あるアカデミーへの報告」を思い出すだろう。猿が学会でしゃべる短篇だ。一八七四年にアルゼンチンで生まれてスペイン語で作品を発表したルゴーネスと、一八八三年にプラハで生まれてドイツ語で作品を発表したというよりもほとんどを発表せずにひたすら書いたカフカとの間に影響関係があったかなかったか、ということを考えても意味がない。どちらかがどちらかをもし仮りに読んだとして、そこからインスピレーションを得ていたとしても、形だけの真似なら、材料が同じでしかない似て非なるものにしかならない。読者は、
「同じ材料を使って、どうしてこっちはおもしろくないのかねえ。」ぐらいにしか思わないもので、影響を受けて同じ材料を拝借した側の作品がおもしろければ、影響を受ける以前に、そっちにも同じものがあった。あるいは潜在的であったものが先人に触れることで開花した。ルゴーネスとカフカの間に影響関係を考えるのは難しいわけで、となると二人はだいたい同じような時期に同じようなことを考えた。同じような時期というのは、ダーウィンの『種の起源』が出版されたのが一八五九年で、社会全体がその熱の中にあった時期ということだが、そのような時代背景はこうして見当がつくよりつかない方がおもしろかったのにな、と私が考えるようになったのも、しかしやはりカフカやルゴーネスのインパクトによるところが大きいと思う。
『塩の像』収録の二つ目「火の馬」は、旧約聖書の「レヴィ記」第二十六章十九節の「あなたたちの天を鉄のように、あなたたちの地を赤銅のようにしよう。」という言葉をエピグラフに置いた、街に突然火の雨が降りかかる話で、話はほとんど終始それだけと言ってもいい。
ところで、手元の聖書(日本聖書協会発行)で「レヴィ記」のその箇所をいちおう確認しようと思って読むと、
「わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、」
とあるではないか。いちいちそんなことに驚いたり喜んだりするのもたわいないし、それだけのことだと言えばそれだけのことだが、顔を向けるというのには強い霊力のようなものがある、という了解というかイメージというか、そういうことが人々の心の中にあるのではないか。時代劇でよくある「面をあげい」というのは、眼差しには相手に災厄をもたらしかねない力があるから、目下の者は目上の者の許しが得られるまでは相手を見ることができない。などとここまで書いてしまうとつまらなくなる。
眼差しには相手に災厄をもたらす力があるからリンチは夫の眼差しを映したのではない。昔の人が眼差しの力を発見したのと同じプロセスを辿って、あそこで夫の眼差しを映した。平たく言うと、平たすぎて物足らないがとにかくそういうことだ。しかしこの平たい言い方の物足りなさは、つまりこの簡略化は何か言い落としか抜けがあるはずだ。平たくしたから物足りないのではなく、平たくなってしまうそれには抜けがある。こんなことはどうでもいいことのように見えるかもしれないが、リンチとフィクションのプロセスを考えるためには、こういうことをどうでもいいことだとして通りすぎていたらたぶんわからないまま終わってしまう。
『塩の像』収録の三つ目、表題作の「塩の像」は前の二作と比べると複雑で説明しにくい。それで私は保坂和志名義のホームページに「塩の像」を全文掲載した。http://www.k-hosaka.com/nonbook/shionozo.html これは無断掲載だ。出版社に許可を求めたらきっと面倒くさいことになるだろうから、せめて訳者の牛島信明氏にひと言ことわりを入れようと思い、牛島氏を調べるとウィキペディアに載っていた。しかし、二〇〇二年に死去したとなっていた。私は牛島さんにお目にかかったことがある。
一九八二年、私は入社二年目で、カルチャーセンターの講座企画の担当者になった。なってすぐのことだから自分自身で企画した講座はなく、すべて引き継ぎで、その中にスペインの文化・歴史全般を講義する講座があり、全体のコーディネイターはスペイン学では一番の権威とされていた神吉敬三氏だった。しかしどこどこの文化・歴史全般というのは私が最も嫌いな企画の一つであり、私は講座の一回目に、それがあることを忘れて昼食に出てしまっていた。カルチャーセンターにおいて、講座の一回目に担当者が居合わせないというのは最悪のミスで、私は神吉先生に平謝り。講座はそれから毎週全十回あり、歴史、美術、文学などテーマごとに講師が一人につき二回ぐらいずつ来ることになっているから、他のときにはくれぐれもきちんとやるようにと、二十五歳の私は説教され、その後講義に来たのが、文学では牛島信明氏、美術で大高保二郎氏。他の講師は憶えていないが、この二人をとてもよく憶えているのは、他の講師と比べてこの二人は若く、感じがよかったからだ。だから好き嫌いで仕事をするなという話では全然ないが、私は好き嫌いで仕事をする人しか基本的には信じない。
四月にNHK教育の「日曜美術館」に大高保二郎氏が出演し、ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」の話をした。「ラス・メニーナス」というのは縦三一八p×横二七六pという驚く大きさで、フーコーの『言葉と物』の導入部で人物たちの視線について書いているのを読んだときには、何をそんなに緻密すぎることを言うんだと思ったが、スタジオで大高氏やアナウンサーの前にCGで「ラス・メニーナス」を再現すると、もう本当に大きい。高さ三一八pというのは、たぶんたいていの家の天井より高い。描かれた人物たちも等身大に近く、絵の前に立つと自分も空間の中の一員であるような気がする――というところが、人物たちの視線がそれぞれどこを向いているかという観察の起源となる。それはもう考察とか理屈とかそういうことでなく、「ラス・メニーナス」があれだけの大きさであることによって生まれる自然な出来事だったのだ。大高保二郎氏は、かれこれ三十年前と変わらず謙虚で感じがよかった。いまではきっと六十代なのだろうが、当時の三十代前半の雰囲気がそのままあるような気がした。
牛島信明氏は大高氏よりいっそう謙虚、というか学究の徒という感じだった。私はそのときにはすでに『ドン・キホーテ』が一番好きな小説の一つであり、とはいえ、二十六歳の若造としては『ドン・キホーテ』の正・続全六巻を読んだ俺って、すごいだろみたいな自慢とか、小説を好きで小説家になろうというからには当然『ドン・キホーテ』ぐらい押さえておかなきゃね、みたいな気持ちがそこに作用していないと考える方が難しい程度の『ドン・キホーテ』好きだったわけだが、講義の後だったか、牛島氏に一所懸命話しかけた憶えがある。迷惑な話だ。何かをちょっと知っているというだけであれこれ話しかけてくる人が、返事に一番困る。
それ以来、牛島信明という名前を見ると、私は子どもみたいに「あのときの牛島さんだ。」と思っていたのだが、ウィキペディアで東京外国語大学の名誉教授であり、正四位勲三等瑞宝章などと書かれているのを見た途端に、私はウィキペディアの中の牛島信明と私が八二年に会ったその人が同定できなくなり、
「あの人は牛島信明という名前ではなかったのではないか……」と思うようになってしまった。
ウィキペディアの中の牛島信明氏の生年は一九四〇年。私が会ったとき、すでにあの人は四十二歳だった、というのは本当なんだろうか。大高さんと同じくらいの年齢だとばかり思っていた。というか、大高さんは当時いったい何歳だったのか? 三十代前半というのは私が勝手に思っていただけのことだったのか。出講日の確認で電話したとき、奥さんが感じよく、とても若かった。声だけだが。
私はあれから三十年ちかく、「牛島信明」という名前を見るたびに全然違う人を思い出して、「あのときの牛島さんだ。」と思っていたのか。私の中のいったい何が、しかしここまで、ウィキペディアの中に書かれている「牛島信明」があの人ではないと思わせるのか。二十六歳ぐらいというのは、まだ全然、大人の年齢というものがわかってなく、実年齢より十歳くらいの見間違いはふつうだろうし、いま自分が二十六歳だったとしても、四十歳をすぎている阿部和重や磯崎憲一郎を四十代とはきっと見ないだろう。というか、以前この連載にも書いた劇団FICTIONの主宰の山下澄人のことを、どういうわけか最近まで私はずっと三十五歳だと思っていたが、本当は四十五歳だった。私の年齢推測はまったくアテにならない。
というようなことをあれこれ迂回させて、私はようやくあのときのあの人が牛島信明だったと考えるようになったのだが、それを覆えされて驚く心の準備はつねにできている。そうして驚いたとき、しかし、「あのときの牛島さんだ。」と、ラテン・アメリカ小説の翻訳で見たり、岩波文庫の『ドン・キホーテ』の新訳で見たりしたそのつど思っていた私の三十年ちかくというのはどういうことになるのか。とはいえ、「あのときの牛島さんだ。」という私の思いは、その後二分と持続することなく、電車の窓から見た建物のように通りすぎてゆくだけで、「ああ牛島さん……。」と、いつまでもじぃんと感慨に耽っていたわけではないので、こんなに大げさに言うようなことではないのかもしれない。シウマイもギョウザも区別せず、どちらもギョウザと呼んでいる家族がいて、大人になってシウマイを食べたくて店で「ギョウザ」と注文したら、シウマイでなくギョウザが来てしまった。というその程度のことだし、それにそもそもあのときのあの人は牛島信明さんで間違いないのだ。 |