先日、ある雑誌でレトルトパックされた鰻を推薦するという取材があり、その取材は事前に試食して私がおいしいと思ったら取材を受けるというもので、私はおいしいと思ったから取材を受けることにした。取材の当日、もう一度あらためて鰻を食べ、編集の人に促されるまま私は感想をしゃべる。という段取りなのだが、
「脂の乗り具合」
「身のしまり具合、またはやわらかさ」
「タレの味」
などについて訊かれるまま応えていると何かウソくさい。質問に応えるまで私は鰻は大好きだが年に二回ぐらいしか食べないと思っていたら、二ヵ月に一回ぐらい食べていることがわかった。有名な店の鰻もけっこう食べていた。食べるといったって二ヵ月に一回だし、店を知っているといったって十軒以下だ。グルメ評論家みたいに、脂がどうの、身のしまり具合がどうのと言って食べる食べ方を私はした記憶がない。だいたい私はしょっちゅう食べている食べ物だって、味とか歯ごたえとかあんまり気にしない。「うまい」か「イマイチ」か「うまくない」かのどれかだ。歯ごたえがどうの、味つけがどうのといちいち考えるのはさもしい気がする。うまいと思ったらその証拠にもう一回食べる。うまいかどうかはその店にもう一回行きたいと思うかどうか、それしかない。
鰻はめったに食べないのだから、「うまい」にはただ「うまい」でなく幸福感が湧き起こる。その幸福感が私が鰻を大好きと感じる理由なんじゃないか。うまくて幸福な気分でいるときに、「脂の乗り方が」「身のしまり具合が」と言う人はおかしい。鰻だってイマイチの店があり、そういうときには幸福感を感じていない。それでじゅうぶん私は鰻の味を判断しているというかそれが私の鰻の食べ方だ。
カフカについて、このページのこの場面の書き方がおもしろいとか、この場面の思いがけない、読者の足元をすくうような、というのは読者が漠然と予期してしまう次の展開がくつがえされる展開がおもしろいという風に書くとき、私はカフカに対してある構え≠ェできてしまっている。その構えは私が考えるかぎりでは最も無防備で同時に最も注意深く、何度読んでもそのつどどこかに意外さを発見できるような構えであり、構えそれ自体が間違っているとか硬直しているとかということはないけれど、構えは構えだ。その構えが私の中に出来上がる以前に私はどういう風にカフカを読んでいたのか? あるいは読みそこなっていたのか? 私にとってカフカの小説がどういう風に映っていたのか?
ベケットの『モロイ』をはじめて手にしたのは大学三年か四年のときで、三輪秀彦訳の集英社の世界文学シリーズのその本の帯には、「モロイはついに言葉からも自分の名前からも見放される」とか「モロイはついに言葉も自分の名前も失う」とか、そんな風なことが書いてあり、私はベケットという名前をまったく知らないままそれを古本屋で買った。私はその惹句に惹かれたわけだが、読み出してみると『モロイ』は惹句に書かれているようなことは私には全然わからないままおもしろかった。おもしろいが二段組のその本を十ページくらい読むと飽きる、というか気持ちが飽和する。読んではやめ、読んではやめを繰り返すうちに話の流れが完全に見えなくなって、とうとうそのまま放り出し、しかし気持ちにはかかりつづけていた。私は読みかけの本をやめることは何とも思わず、むしろいつ途中でやめるか、そっちに比重がかかっているくらいだと言ってもいい。読みかけの状態でそのままにならず気持ちにかかりつづけたというのは例外で、大学六年の十一月に骨折と全身打撲で入院したときに通読することになった。
通読しても『モロイ』の全体の見通しは私は全然得られなかった。地を這うように読んだおもしろさだけが強烈にあった。それから私はカルチャーセンターで講座の企画をするようになるのだが、ベケットという名前は特別で、名前を目にするだけで私は気持ちを持っていかれるようだった。当然、講座をやりたい。適任者が見つからない。いろいろな人に相談してみる。返ってくる応えはそろいもそろって芝居のベケットばっかりだ。「ゴドー」という言葉を聞くだけでうんざりする。
「ベケットは難解だ難解だって言われますけど、演劇を見るとけっこうわかるんですよ。だから演劇の方からやってみたらどうですか?」と言われたときには気持ちが削がれた。こんなやつより絶対俺の方がベケットをわかっていると思った。わかることからとりあえず手をつけていくタイプの人間が私は嫌いだ。というか軽蔑する。一人、こう言った人がいる。
「ベケットは好きなんだけど、何をどうしゃべればいいんでしょうねえ。『モロイ』なんかでも、ちょっとぼんやりしていると全然違う話になっていて、「あれ?」って言って前にもどったりして、おもしろいけどわからないんですよねえ。」
私がこの人の言葉に激しく喜んだのは言うまでもない。この人は大学の先生だが編集者のような立場から仕事をさせるにはひじょうに厄介だという定評があり、あれから二十五年くらい経つが、いまだに単著がない。共著もないかもしれない。この人自身、もし講義をするとして「わからない」「わからない」を連発するとは思えず、講義をするなら「ちょっと気を抜くとすぐ全然違う話になっているけど、全体としては」と、「わからない」がよもや話の中心になることはなく、「わからない」は前段としてしか使わなかっただろう。
ベケットの小説は「わからない」抜きに語ったらベケットでなくなってしまう。
「わからないけどおもしろい」なのか、
「おもしろいけどわからない」なのか、
「わからないけどおもしろいけどわからない」
なのかわからないが、よくわかることがおかしい。そのときの「わかる/わからない」とは全体を見通すことができるかどうかという意味にすぎない。モロイに順に何が起こったかを記憶することとか、『モロイ』という小説に何かテーマがあるとしてそのテーマを言えることとか、そういうことをふつう「わかる」と言うわけだが、『モロイ』においてはそのようなことはわかったことにならない。『モロイ』を読むということはそのような引きの視点つまり俯瞰で読む態度を放棄して、地を這うような低さの視点に耐え、そして読後に『モロイ』について語るとしたら俯瞰しない地を這う視点にのみによって語るという、ベケット以前にはほとんどどの小説からも要請されたことのない小説の捉え方しか『モロイ』を語ることにはならないだろうが、おそらくそれはまだ誰もできていない。
人はわかりたくて、ということは「わからない」と表明することは間抜けっぽいし、自分自身に対しても不安だからわかりたくてしょうがないのだが、「わかる」というのは大げさな言葉を使うなら逃避なのではないか。私は同じことばかり書いている。
『インランド』で夫の目がある。それに対応するようにニッキーがジャスティン・セロー演じるデヴォンとの関係が夫に発覚することを怖れる。ニッキーはしかし事態を見誤っているわけで、ニッキーがこれから陥る試練は不貞が発覚することによって引き起こされるわけでなく、時間とか空間とかが狂った世界に迷い込んだことではじまる。というか、その世界に迷い込んだこと自体がニッキーの試練ないしトラブルであり、ということは夫の目は、妻への不審(不貞を疑う)とか妻への不満(映画界への復帰)というようなことを意味するわけではない。それは局所的な因果関係を設定して物語を動かす、つまりベケットやカフカ以前の文学的発想というものだ。
夫の目は心理の産物(結果)ではない。夫の目は結果でなく原因だ。こう書くと人によってはうがった観方と感じるかもしれないが、この観方が一番受け身というか、作品世界に必要以上の因果関係や心理的要素を導入せず、『インランド』の場面が映る順番に沿って自然にこの映画を観る姿勢なのではないか。夫の目に心理的な意味を読むということは、夫の目が映った時点から離れて映画のどこか別の時間から回顧することになる。それは文学的なつじつま合わせでもあり、この映画のあれこれの場面についてつじつま合わせをしようとしていると必ずどこかで破綻する、というかつじつまが合わない箇所が出てくる。つじつまが合わない映画を観る姿勢として、ふつうの映画やふつうの小説にある因果関係や心理を持ち込まない方がいいに違いない。
ニッキーが別の世界に迷い込んだときに階段の壁に落書きされていた AXX゜NN みたいな文字とか、ニッキーとデヴォンが出演する映画の元の映画のタイトルが 47 で終わり間近に47という部屋番号が出て来たりするのは、たいした問題でなく、そういう小さな記号から意味や作品世界の構造を考えたりしてもきっとほとんど得るものはない。
この映画にちりばめられた細部の記号を組み合わせて意味を組み上げていくのは、ジグゾーパズルのピースを組み合わせるような、つまりは謎ときということで『マルホランド』ではたしかにリンチ自身が、映画を読み解く十のヒントとして「赤いランプシェードに注目せよ」みたいなメッセージを発したけれど、『マルホランド』もまた過渡期的なものであったというか、リンチ自身が自分が何故このように現実と幻想が入り乱れたり時間が錯綜したりする作り方をしたいのかの理由を、こんな言い方は荒っぽいがふつうの映画の側から説明しようとしていたのではないか?
という風に作者の思考を忖度することが、リンチが現に撮ってしまった映画を作者のサイズに矮小化することになる。私たちは作品が作者のものだという思い込みからどうしても自由になれないことに、いわば苦しんでいる。作品について作者はまず間違いなく一番よく知っているし、作品について一番よく考えている。それと作品が作者のものであることは同じではない。作者は作品についてすべて知っているわけではない。
そこで私は今回のはじめに小説とエッセイの違いについて書いたことの理由に思い当たる。私は六行前に「私たち」という主語を書いた。私はあそこで「私たち」でなく「私」という単数というよりも一人の人間としてあのセンテンスを書かなければいけなかったのだが、「私たち」でなく「私」と書くためには私の中に飛躍ないし思い切りが必要であり、まだ私にはそれがなかった。エッセイとして書くということは「私」を「私たち」として書くことであり、書き手の思考は共通了解の圏域の外に出ていかない。しかし私がこの連載を「私」だけで書いてしまったら、それはそれで小説としての構えができてしまう。リンチの映画がフィクションをフィクションとして成立させている了解に抵触して、人のすべての思考が孕むフィクション性が駆動し出すそこに、小説としての構えができてしまった文章では響かせることができない。
エッセイにはもう一つ接続詞の問題がある。小説も接続詞を使う。小説は例外を除いて筋があり、筋は時間に沿って進行することになっている。小説は接続詞に依存する度合が少ない。エッセイは内容が時間に沿って展開されるわけではない。「だから」「しかし」「たとえば」「もし」「もっとも」という接続詞によって読者の気持ちを自然に誘導する。自然に読者の気持ちの構えを作る。事前に共通了解をやんわりと醸成したり仕掛けておいたりする。
映画はどうなのか? どこがどうのとは私には言えない。映画にも接続詞があることは間違いない。カットつなぎでそうなるのか照明やアングルや演技でそうなるのかわからない。一概には言えない。俗な映画ほど接続詞がはっきりしていて、筋を追うのに苦労しない。リンチとカフカが最近の私の指針になっている。いろいろなきっかけでこの二人のことを考えるモードにすぐ入る。いろいろな考えが頭をよぎる。リンチは接続詞なしで映画を作ろうとしているのではないか?
映像あるいは視覚それ自体には接続詞は内包されているのか? 接続詞はどこから来るのか? 接続詞は現実なのか? フィクションなのか? というようなことをリンチは考えているのではないか? リンチとはリンチ本人のことではない。私はそれらの思考を作者の思考と仮定してしまう。これらの思考は映画、つまり『インランド』によって遂行されている。
以上、「エッセイはもう一つ接続詞の問題がある。」からはじまる三段落を接続詞を使わずに書いてみた。というか、書こうとしたらどうしてもちゃんと書けないので、一度接続詞入りで書いてから接続詞を取り払った。しかし「接続詞を使わずに書こう」という考えが頭から離れきらないので、少し考えが自分らしくなくなった気がする。話は逸れるが、この三段落がなんだか日本近代文学の随筆に似た感じがするのは私だけか? 私の感じ方が正しいとしたら、子どもの頃から日本文学の随筆として読んできた文章は、あんまり紆余曲折がなく、ということは、「しかし」等の逆接、「もっとも」という留保、「ということは」という言い直しなどがなく、するする自然に前に行くということで、文章の全体が共通了解の圏域の外に出ないことを意味するだろう。
ついでに言うと、じつは今回は冒頭から「しかし」「だから」を一度書いた文から可能なかぎりそれを取り払ってある。だから文と文のつながりが不自然だったり、映画でいえば一秒二十四コマのカットつなぎの十コマ分くらい飛んでいるように感じたところがあるかもしれない。やってみてもたんに文意をわからなくさせる無駄にすぎなかったかもしれないが、とにかくまあやってみなければ文章から接続詞を取り払った感じというのはわからないし、取り払った今となっては、私の手書きの原稿のぐしゃぐしゃ消してある三文字が「しかし」なのか「だから」なのか、けっこうわからなかったりもする。「だから」や「しかし」が文頭にある方が読むときの手触りのようなものとしてすわりがいいが、接続詞というのはその程度のものなのかもしれない。
だから私は無駄なことをしてみただけなのかもしれないが、『インランド』が折りに触れて思い出されなければ私は接続詞についてこんなことをやってみようとも思わなかった。 |