◆◇◆遠い触覚  第八回 『インランド・エンパイア』へ(6)後半 ◆◇◆ 
真夜中」 No.8 2010 Early Spring

 ダーウィンの『ビーグル号航海記』の一八三二年七月二十六日の日誌の、「次の日」と段落されたところに、ガウチョについて書かれている。ガウチョというのはアルゼンチンやウルグアイのパンパで牧畜をして生活していた南米版カウボーイのような人たちのことで、ガウチョがいかに野蛮で凶暴であり、しかし同時に彼らには神話的なオーラがあったという話を一八九九年に生まれたボルヘスが幼少年期に自分自身が見聞きしたことをまじえて、『ブロディーの報告書』という短篇集で書いていて、形而上学的な話ばかり書いたボルヘスが一転してここでは具体に就いて書いているのだが、しかしじつは『ブロディーの報告書』の短篇群の中でガウチョの外見については書かれてなかったんじゃないか? つまり、読者である私は映画などで知ったにちがいないガウチョの姿を漫然とあてはめていただけだったのかもしれない。と、このダーウィンの記述を読んで思ったのだった。
「夜はプルペリアすなわち居酒屋に宿った。宵の間は、大勢のガウチョ(岩波文庫では「ゴウチョ」となっているが、ガウチョとしておく)たちが来て、酒を飲み、シガーをふかした。ガウチョたちの様子には極めて眼を驚かすものがある。一般に丈は高く、容貌は端正であるが、高慢で不適な顔つきをしていた。往々口ひげの者もあり、長い黒髪を背に波打たせていた。あざやかな服に大きな拍車をがちゃつかせ、腰にはナイフを短刀のようにさして(しばしば短刀として使う)、およそ田舎者という意味のガウチョの名称から想像するところとは、ひどく異なった人たちと思われた。この人たちの礼儀も度はずれの大げさで、他人が酒を飲まねば、自分も飲まない。ところがばかていねいなお辞儀をしながら、仕儀によっては、遠慮なく他人ののどを切ってしまう。」
 ここでガウチョについての引用をしたのは、ガウチョの姿とイメージの関係がキリストの姿と形而上学の関係と似ていると少しは思ったからなのだが、それ以上に、「長い黒髪を背に波打たせていた」ところなどウィンキーズの裏の男を連想しないか? いやしなくてもいいのだが、『ブロディーの報告書』にはガウチョの外見の描写があると編集者から指摘されることになる。つまり私は『マルホランド』や『ツイン・ピークス』を経由したことで登場人物の外見に敏感になったということなのかもしれない。ガウチョが遠慮なく相手の咽を掻っ切ってしまうところがなんともいい。私はシビレる。ダーウィンのこれを引用した理由はじつはそれだった。

『マルホランド』のカウボーイを魔法使いと言ったり、老夫婦を天使と言ったりしたが、大事なのは彼らが魔法使いや天使と本当に同じなのかということでなく、進行中の映画の外から突然侵入して、他の登場人物たちのように進行中の映画の物語にしばられていないことで、やはり『マルホランド』でのカウボーイの存在(機能)は際立っている。
 いやたしかに『ファウスト』のメフィストフェレスのように(ちゃんと読んだわけではないが)、あるいは旧約聖書のヨブ記で神をそそのかすサタンのように、悪魔的な存在というのは物語世界に強引に侵入して登場人物の人生を全然別のものに捩じ曲げる。のだから、それらの存在は物語に介入する作者の意志の顕在化、つまりそれによって作品世界に内と外があることを顕在化させる。わけだが、悪魔とか魔法使いとか天使とかと分類=命名されてしまうことで、読者や観客の注意は、作品世界に内と外があるということにはふつう向かわず、物語に飲み込まれてしまう。分類=命名されてしまった存在者たちはだから『マルホランド』のカウボーイほどの違和感は読者や観客に与えない。
 これはもう私が一番最初から書いていることで、つまり、カウボーイの「何、これ?」感はすごい。ということだ。
 読者によく伝えるためにあれやこれやいろいろ書くというのはつまり、「読者がまだわかっていないんじゃないか」という思いに化けた「私本人がよくわかってない」ということであり、だから本当に自分はもうよくわかっているくせに読者によく伝えようという意図だけで書く大学の先生風の文章は本当に退屈なわけだが、私自身、カウボーイや老夫婦やウィンキーズの裏の男を、魔法使いや天使や悪魔や悪の形象・災厄の形象と書いてしまうと、そこで映画に映っていたカウボーイや老夫婦やウィンキーズの裏の男の姿が希薄になり、彼らの荷なう抽象性が強くなってしまう。
 しかし抽象性の方を大事だと思っているのならリンチはあのような姿で登場させないわけだし、そのようなわかられ方は求めていないわけだし、映画はまったく別物になっていた。
 しかしここで確認しておきたいのは、リンチつまり作者の意図は問題ではない。ということ。映画でも小説でも作品の構成が複雑になればなるほど、評論、解説、解釈をする人たちは作者の意図を知る方に注意が向かってしまうのだが、解説の必要が何もないほどシンプルな作品における作者の意図と、基本は何もかわらない。作者のリンチ自身、『マルホランド』では「赤いランプシェードに注目せよ」だとか何とか、自分の操作が及ぶ範囲のことをきちんと解釈すれば映画の何かがわかるかのようなメッセージを発するわけだが、作り手はそれより遠くからの声によって動かされている。
 リンチに登場するカウボーイのような特殊な機能を荷なわされた人たちは、あくまでもその姿をしているから、他のフィクションと別のフィクションにリンチの映画はなる。トーマス・マンの『魔の山』は非現実的なことはいっさい出てこない、きわめてまっとうなリアリズム小説だが、一箇所だけ、交霊術をする場面があり、そこで主人公ハンス・カストルプのいとこだったかが、戦場で死んだ軍服のような姿でぼおーっとあらわれる。ここは読者として吸収できない圧倒的な異物だ。私は比喩や幻想か夢ということわり書きがあるのを読みとばしたのかと思って二度三度読み返したのだが、小説にはそのようなことわり書きめいたものはなく、あくまでもそれまでの流れにのってリアリズム小説の枠内として交霊術が書かれ、そこに霊があらわれ出てきているのだった。
 たとえば小津安二郎『東京物語』で戦地から戻らない次男、つまり原節子の夫がぼーっと姿をあらわして眠っている妻=原節子を見つめるシーンがあったりしたら観客はそのシーンをどう吸収していいかわからなくなる。小説にも映画にも、幽霊とか魔法使いとか超常現象とか異界との交信とか、それらが登場しうるものとしえないものの二種類があり、それははっきり分かれている。
 そんなことを言いながら私は、ページを折ったり、線を引いたりしてある『魔の山』を探したのだが出てこない。このページのここと指し示せないのが残念だし、現物のそのページを開いて確認しないことには自分でも交霊術のエピソードを勝手にでっち上げたような気持ちになる。『魔の山』は第一次世界大戦によって古き良きヨーロッパ世界が崩壊する前夜を時代背景とする話であり、つまり二十世紀初頭ということなのだが、十九世紀の前半からか中頃からか、交霊術はヨーロッパでブームになっていて、トーマス・マンも交霊術を荒唐無稽の全然ありえないこととは考えてはいず、「もしかしたらそんなこともある」という風に考えていたのではないか。というか、そう考えないかぎり交霊術をやっていたら本当に霊があらわれてしまうことを読者として私は吸収できない。が、一方で、マンが本当の自分自身の体験として、交霊術で霊があらわれた、という実体験の裏打ちがあるのだとしたらもっとおもしろい、という期待もあると書くと当然のように編集者が『魔の山』にあたって裏を取ってくれた。
 第七章、というのは最終章なのだが、そこの「ひどくいかがわしいこと」という項だった。いったん入稿してから私も『魔の山』を買い直してそこを確かめると、やっぱり間違いなくいとこのヨーアヒムがあらわれていた。著者のマンはその場面について出来事を書くだけで、それ以上の判断は何も語らない。項の「ひどくいかがわしいこと」というのは、霊媒となった若い女性が、なかなか霊があらわれないために出産のように苦しむそれをまわりでみんなが励ましている様子が主人公のハンスにはいかがわしく見えてどうしようもなかったということであり、交霊術を指しているのではない。
 それにしても新潮文庫の『魔の山』はどこへ消えてしまったんだろうか。私は二、三週に一度ずつ三十センチの定規を使う。プラスチックの透明のやつだ。定規はもともと二本あったのだが、一本は一年以上前にどこかにいってしまい、もっぱらもう一本の方を使っていた。のだが、一カ月くらい前、一階で使い終わった定規を上まで持っていくのが面倒くさかったので階段の三段目くらいのところに階段の踏み板に対してタテに目立つように置いておいて、次に上にあがる用事のときについでに持っていこうと思っていた。
 が、次に階段をのぼったときにうっかり定規を踏んでしまい、タテにしてあったから踏み板から五センチぐらい出ていた部分を踏んでしまい、見事にポーンと階段の上めがけて弾け飛んでいった。踏み板から出ていたところを踏んだらふつうは自分の上の飛ぶのだろうが、一段上の踏み板の出っぱりに一度引っかかって方向が転回して上へと飛んだのだろう、きっと。で、階段の一番上まで定規は飛んでいったのだが、そこにはいろんな荷物が片づけずに積んであって、定規はその中へと消えてしまってわからなくなった。
 しょうがなく私は新しい定規を数日後に買ってきたのだが、それから二週間ぐらいして、階段をあがったすぐの部屋=和室の座卓の上に定規があった。この座卓というのは前の家で炬燵に使っていたやつで、テーブルの板の裏にヒーターが付いているやつなのだが、十年前に今の家に引っ越してきて以来使わず、かといって捨てるのも忍びなく、部屋の隅にずうっと置かれて、上には本などが散らかっている。妻に訊いたらもちろん妻は、そんなところに載せてないし、定規なんか見てもいないと答えた。
 が、今度はその妻が一週間前に、一年以上前から行方不明になっていたもう一本の定規を見つけた。それも玄関の外で。定規にドロ汚れなどいっさいついていなかった。
 こういうことをポルターガイストと言う人がいる。
「ホントにいるのよ。もうホントにいたずらでさあ、どこか行っちゃったって思ってると、しばらくするととんでもない所から出てくるんだから。」
 と私に言った人がかつていた。当時彼女は三十代半ばだっただろうか。しかしこの人はちょっとアブナイ人だったので私は信じる信じないという仕分けはせずに、「アブナイ人の話」という引き出しに入れることにした。
 映画・小説というフィクションでなく現実にも霊とか超常現象とかを信じている人はいっぱいいる。が、その人が信じることで安定してしまっていたらやっぱりおもしろくない。現実世界でもまた人はそれぞれのフィクションを持って生きているわけで、霊を信じるのも否定するのも私には同等のフィクションとしか映らない。科学の側に立つ人たちは霊とか超常現象の話がはじまると即座に一蹴するが、その一蹴の仕方はたいてい話し合いの余地がなく、信仰としか私には思えない。話に耳を傾けることぐらいしたっていいじゃないか。
 七月七日の深夜三時、私はペチャの病気の快癒を祈る思いで夜空を見ていると、東の空の低いところに、こんな時間に飛行機が飛んでいる。星にしては明るすぎるから飛行機でしかありえない。と思いながらその光を見ていると、光はわずかにゆらゆら動くだけで何分たっても飛行機のように移動していかない。
「これって、もしかして……。」
 私はUFOは信じないのだが、こんなに明るいのはUFOしかもう可能性がないじゃないかと不安になって双眼鏡を取り出してきて覗くと、光はその位置で激しく動きつづける。が、それは双眼鏡を持つ私自身の揺れであることがすぐにわかった。別にガタガタ揺れていたわけでなく、双眼鏡で遠くの一点を見つめようとすると三脚などで固定しないかぎり、人体の微動が見る対象の激しい揺れという錯覚を起こす。それくらいの分別はそのとき私も持っていたが、不安になりながらむしろUFOであることを私は期待しはじめていた。UFOぐらいの奇跡が起こればペチャのリンパ腫だって治る。まさにいまあそこに見えているUFOがペチャを治してくれる。
 その夜三十分以上、光を見ていたがとうとう私には結論が出せず、翌日、同じ三時頃に東の空を見ると低いところにやっぱり光はある。そのとき私はようやく、「スターディスク」という、月日と時刻から星座を割り出す円盤状のものを持っていたことを思い出し、七月七日の深夜三時に円盤をくるくる回して合わせると、東の空の隅つまりごく低いところに一等星以上の明るさの星が一つあるではないか。
 アルデバランという名前だった。
 私は星や星座には基本的に関心がなく、しかしそれでも大人になってからは夜空を見上げること自体は好きで、冬のオリオン座ぐらいはわかるようになったのだが、こんなに明るい星は見たことがなかった。……と、思って星の明るさに注意するようになったら、そうでもなくて、ものすごく明るい星というのは金星以外にもあるもので、夏でいえばわし座のアルタイルはすごく明るい。そんなことがあって以来、毎晩アルタイルを見上げるようになったのだが、本当に明るい。が、アルデバランはもっと明るい。と思っていたら、メルヴィルの『ビリー・バッド』の冒頭にいきなり、
「雄牛座の巨星アルデバランが、おのれの星座の劣等星を随えて運行している姿がこうもあろうか。」
 と書かれているではないか。人生というのは不思議な連関によって成り立っているものだ。七月七日深夜のあの光はUFOでなく、つまりアルデバランだった。アルデバランは調べてみると、富と幸福の前兆とされている。私がその頃にただ一つ願っていた幸福は実現されなかった。

 リンチの映画は、そのような霊や超常現象の類が全然出てこないわけではないが、カウボーイのように異物として出てくる。私にとって現実という枠組みは、つまりすべての人間が現実とある枠組みなしに接することはできず、その意味で現実というのは人間の前にフィクションとしてあらわれるという意味において、リンチが映画で出すところの異物を私はどうやらいつでも待っているらしいのだ。
 リンチの異物は進行中のフィクションの内容には無関心である――という性格を一番端的に体現しているのは『マルホランド』ではカウボーイであり、『インランド』では助監督のフレディだ。彼らは進行中のフィクションの内と外ないし縁を指し示す。進行中のフィクションの内容に影響を受けないということを考えれば、やはりカウボーイを魔法使いとか悪魔と同類視するのは正しくない。魔法使いや悪魔はやはりフィクションの中の存在であり、彼らがフィクションの進行に影響を与えるとしても、彼らは自分自身がいるフィクションまでは見えていない。というか、彼らが読者や観客にそれを見せてしまったら彼らの住むフィクションは消えてしまう。
 リンチのカウボーイや助監督のフレディはやはり一般的な分類=命名は不可能の、彼らそのものの存在でしかない。ところで、『インランド』には進行中のフィクションを積極的にいじる人物が一人いる。ローラ・ダーン演じるニッキーの夫だ。
 ニッキーの映画出演が決定した電話がきて、一階の広間か応接間でみんなで大喜びしているときに、夫は階段の上からみんなと喜びを共有せずにただ怪しげな眼差しでそれを見ている。そういう態度をしている彼の心理は映画の中で説明されていないし、その必要もない。というかそれについては説明することはできない。なぜなら、ニッキーの夫の眼差しこそがニッキーがこれから辿ることになる出来事すべての原因なのだから。