◆◇◆遠い触覚  第八回 『インランド・エンパイア』へ(6)前半 ◆◇◆ 
「真夜中」 No.8 2010 Early Spring


『インランド・エンパイア』は長い映画なので、とてもその全体を記憶するわけにはいかない。が、記憶できないのは長さだけではなく、構成というかもっと大ざっぱに作り≠ノ原因があるのは言うまでもない。
『インランド』は三時間あるわけだが、三時間ぐらいは何ほどの長さでもない。人は長篇小説を前にするとその長さにたじろいだり、うだうだ言ったりするけれど、たとえば『失われた時を求めて』など、こんな長いものはとても読めないと思ったりするわけだけれど、ふつうに本を読む人であれば一年間で『失われた時』に相当する分量のページ数を必ず読んでいる。『失われた時』はとても長いけれど、長いといったって文庫本とか単行本で十二、三冊のことであり、本棚にそれを置いてみれば並んでいる本のほんの一隅を占めるにすぎない。
 三時間の映画は長いと言われるわけだが、昔だったらいわゆる名画座と呼ばれていた二番館三番館に入ったら、一度に最低二本、名画座によっては一日に三本ずつ上映していて人はみんなそれを観た。映画の筋や構成を憶えるのは得意な人と苦手な人にはっきり分かれるが、どんなに苦手な人でもいままでに観てきた映画の筋を記憶しているかぎり全部言い並べてみたら、それはもう楽に三時間の映画をこえる。
 という風に考えてみると、映画や小説に関する人の記憶というのは量でなく質に関わっている。極端に言ってしまえば、出来事が盛りだくさんのたとえばよく知らないが『ハリー・ポッター』とか『ロード・オブ・ザ・リング』についてなら、あれが起きて次にこうなってそれからこうなって……と三十分しゃべりつづけることができても、たった十分間の映像について、そこに何が映っていたのか二分もしゃべれないかもしれないということで、それを小説に置き換えてみれば、上下巻の出来事盛りだくさんの話について三十分しゃべりつづけることができても、五ページしかない短篇を丸暗記することはできないということだ。上下巻の小説を合計十時間かかって読むことはできても、その十時間を使って五ページの短篇小説を暗記することはできない。
 弘前劇場という劇団の芝居の冒頭で太宰治に扮する役者が自分がいま書いた原稿を音読するという設定で『津軽』の冒頭の二ページくらいを、特別な抑揚をつけずにたんたんと声に出したことがあったのだが、これには驚いた。スペクタクルでさえあったと言ってもいい。舞台の上の太宰治の目の前の机の上に広げられた原稿用紙に書かれた『津軽』を音読するという演技だが、そこにはもちろん何も書かれていない。それが書かれた文字を目で追う朗読でなく、役者が記憶している文章の語りであることは耳で聴いているだけでもわかったが、芝居のあとで演出家の長谷川孝治に確かめてもやっぱりそのとおり役者は『津軽』の二ページもしかしたら三ページを丸々暗記してたんたんとそれを声に出したのだった。歌の歌詞だったら、たいていの人は文庫本百ページ分くらいは暗記しているかもしれない。しかしそれをメロディをつけずに声に出すとなると一コーラス分でさえもおぼつかない。
 人はべったり丸々暗記するよりも構成や筋を抽出する方がどうやら得意らしいのだが、これは人として生きる上での認識の経済学なのか、それとも近代あたりにはじまった認識の一形態なのかはわからない。というのも、たとえば聖アウグスティヌスの『告白』や『神の国』を読むとそこにはほとんど一行ごとに後世の注がついていて、その注によってその一文、ないし一節、ないし一語が聖書のどこの引用かということがわかることになっていて、ということは聖アウグスティヌスは聖書の全文を丸々暗記していたということであり、それは聖アウグスティヌスだけでなく、日本の僧だって教典をいくつも空で唱えることができるわけで、ということは丸暗記している。時代劇をみればよく寺子屋で子どもたちが、「師のたまわく」と言って『論語』を朗読している光景が出てくるが、それを根拠に言うわけではないが、近代以前あるいはつい五、六十年前まで読むことの訓練は丸暗記することが基盤になっていて、構成や筋を抽出する能力は二の次だった。に、違いない。
 

 いっこうにきちんとそこに踏み込んでいって勉強するわけではないけれど、ここ数年、あるいはもしかしたら十年以上、私の関心は聖アウグスティヌスなど近代以前の宗教家たちにとっての宗教であり、カフカであり、そこに二年前の二〇〇七年の夏からドッとディヴィッド・リンチが入ってきた。近代以前の宗教家たちにとっての宗教と書いてみて、『ローマ書講解』のカール・バルトもいることを思い出した。何と総称していいかわからないから聖アウグスティヌスということにしておくが、聖アウグスティヌスとカフカとリンチがどれだけ別々と見えようとも一人の人間の中で関心が途絶えることなく続いているということは、その三者に共有するものがきっとあることを意味する。
 というか、カフカとリンチは私にとって、まずほとんど同じことをやろうとしていた人としか思えない。リンチがけっこう出たがり屋であり、カフカはそのようなことを決して望まないつつましやかな人であったとしても。しかしカフカは仲間が集まったサロンのようなところで何度も自作を朗読し、マックス・ブロートの伝えるところでは、『判決』なんかは最初の数行を読んだだけで、カフカのたくみな目くばせなどによって、一同が爆笑したことになっている。のだから、バカバカしいことをやって観客を笑わせたがるリンチとやっぱりあまり違わないのかもしれない。違っていても全然OKだが。
 ところで『判決』(柴田翔訳)の書き出しはどうなっているか? 
「それはこの上なく美しい春の、日曜日の朝のことだった。若い商人のゲオルグ・ベンデマンは自宅の二階の自分の部屋に座っていた。河沿いには低く手軽な造りの家が何軒も長々と立ち並んでいて、ほとんど屋根の高さと壁の色でしか互いに区別できなかったが、彼の家もその一軒だった。彼はちょうど、現在は外国で暮らしている幼なじみの友だちへの手紙を書き終えたところで、ことさらぐずぐずと手紙の封を閉じてから、肘をデスクに突き、河や橋、緑に乏しい対岸の丘の起伏などを、窓から眺めていた。」
 これのいったいどこで爆笑できるというのか! しかしマックス・ブロートというのも、初期のカフカの現代人の魂の彷徨≠ンたいな深刻なカフカ解釈の枠組みを作ってしまったくせに一方で、カフカが自作を朗読するとサロンが爆笑に包まれたなんてことも書いているのだからおもしろい、というかやっぱりかなりまともな人なんじゃないか。私の記憶に間違いがなければ。
「ことさらぐずぐずと手紙の封を閉じて」のあたりは身振り手振りをうまくまじえると笑わせられるかもしれない。「河沿いには低く手軽な造りの家が何軒も長々と立ち並んでいて」をうまくしゃべり、つづいて「ほとんど屋根の高さと壁の色でしか互いに区別できなかった」もうまくしゃべって、「が、彼の家もその一軒だった」と言ったら、けっこうズルッとなって爆笑もんだったかもしれない。
 が、笑いというのは文化の産物なので、本当のところは誰がどこで笑ったかなんてことはわからない。それが『判決』であったことさえ私の記憶違いで、朗読したのは『変身』で、爆笑でなく、ただ笑っただけだったかもしれない。が、東京乾電池の公演のとき、カーテンコールで役者が全員並び、真ん中の柄本明はただ型通りの挨拶をしただけだったのだが、観客は笑った笑った。大爆笑だった。柄本明のような人は笑わせようと思ったら、いつ何時でも笑わせることができる。左手で右の二の腕あたりをちょっと掻いたり、右足の靴で左足の甲をもじもじ掻いたりするだけで、笑わせられる。た、た、た、たと、たんたんと淀みなくしゃべっていたのを、ふっ、、、と途切れさすだけでも笑わせられる。カフカもその手を使ったのかもしれない。なんてさんざん書いてから、マックス・ブロート『フランツ・カフカ』を読むと、みんなが大笑いしたのは『審判』の第一章だった。
「われわれ友人たちは腹をかかえて笑ったものだ。そして彼自身もあまり笑ったので、しばらくのあいだ先を読みつづけることができなかった。」と書いてある。 
 私はいままで『フランツ・カフカ』を敬遠して読まずにきたのだった。しかし『フランツ・カフカ』は素晴らしい。カフカへの愛に満ちている。私は上段の、「初期のカフカの現代人の魂の彷徨≠ンたいな深刻なカフカ解釈の枠組みを作ってしまったくせに」の部分を訂正しなければならない。ブロートのカフカの読みはそんな単純なものではない。ブロートはカフカの全集を編纂するのにふさわしい人物だった。『判決』もカフカは朗読した。カフカが朗読を好きだったのか、当時朗読がふつうのことだったのか、わからないが、とにかくカフカは自作を頻繁に朗読した。というか、朗読することで、親しい友達に新作を披露した。そのときの光景は詳しくは書かれていないが、『審判』で笑ったのなら、『判決』で笑わせられないはずがない。カフカに笑わせるつもりさえあれば。『判決』の終わりちかく、話が急展開して、いままで病気でベッドにこもっていると思われていた父親が、息子ゲオルグの嘘をあばかんと、
「「嘘をつくな!」父親は叫んだ。ゲオルグの答えが問いに激突したのだ。掛け布団が父親の強い力で撥ねのけられ、一瞬、大きく拡がって空中を飛び、父親はベッドの上に仁王立ちになった。片手だけは天井に軽く伸びて、身体を支えている。」
 ここは絶対笑える。身振り手振りをうまくまぜたら腹がよじれ頬が筋肉痛になるかもしれない。

 とはいえ、笑わなくてもいいわけで、「ここで笑わないおまえはわかってない」と言ったとしたら、深刻な解釈の押しつけと同じことになってしまう。笑いというのは一様ではないわけで、しかし今のようにお笑いが全盛の時代では笑いの概念が案外一様になっているのかもしない。西武百貨店のカルチャーセンターに勤めはじめた頃、事務所に性格が歪んでいたために上司から嫌がられて、いわゆる出世コースから外された三十代男女のコンビがいたが、その二人が笑うときは人を嘲笑するときだけだった。だから、その二人が笑うとまわりは不愉快で寒々とした気持ちになったものだった。
 ペチャが死ぬ前、ペチャはようやく立ち上がり、さっきは立ったと思ったらパタンとすぐに襖が倒れるように横に倒れてしまったけれど、今度は立って、倒れないと思っているとペチャはすぐにトイレ目指して歩き出す。ペチャにとって歩くことは大変な運動であり、鼻の奥に節外型リンパ腫ができて気道がふさがっているそこを必死の呼吸が通るから鼻がブタみたいにブーブー鳴る。鼻の穴はもう両方とも出血した血がかたまってふさがっているが、息はそこからブーブー通る。ペチャは黙々とトイレ目指して歩いていくのだが、鼻からブーブー音が鳴り、
「ブーブー言ってるねえ。」
 私も妻も笑ってしまう。
 ようやくトイレが終わり、ペチャはいったんいままで寝ていた場所を目指した。と思うとまたトイレを目指して歩き出す。
「ペチャ、お布団にもどろうよ。」
 と言ってペチャの体に手を添えて方向転回させると、また、いっそう強くブーブー鼻を鳴らす。
「ブーブー言ってる。」
 今度のブーブーは必死の呼吸のブーブーでなく、主張のブーブーだ。死ぬ前十日間くらいだったか、もうペチャはニャアと鳴き声を出せなくなっていた。ニャアと鳴いて何かを訴えたい、そのかわりのブーブーだ。そういう事情はすべて承知して私と妻は「ブーブー言ってる。」と言って、そして笑ってしまう。その笑いはやっぱり救いでもある。が、私たちは同時に涙が流れる。書いていたら思い出してまた涙が流れてきた。
 私はたしか『カンバセイション・ピース』で書いたし、ほかでも書いたかもしれないが、悲しみとは、その人やその時を身近に感じた瞬間のことだ。私が悲しんでいるときペチャは身近にいる。キリスト教のイコンが十字架なのは、キリストの苦しみを忘れないだけでなく身近に感じるためだ。九六年に死んだチャーちゃんを思い出しては悲しんでいたときに私はそう考えるようになった。悲しむこと、その人の苦しみ、その時の苦しみを身近に感じることは、しかし安易な方法ではないかと思う。それは聖アウグスティヌスが言ったように、身体的次元のつまりは表層的次元の反応であって、精神によって知る知り方はそのような形ある手がかりを必要としないだろう。

 あまり共通点にこだわっていると、相違点で滞って話がおかしな方に流れるから、あまりこだわろうとは思わないが、『変身』の虫≠ニ『ツイン・ピークス』のボブは似ている。虫≠ヘ『判決』の父親でもよく、ボブは『マルホランド・ドライブ』のカウボーイや老夫婦でもいい。それはいきなり形而上学的世界の災厄≠ニか権威≠ニか悪≠ニか醜なるもの≠ニかそういう抽象化(純化)された概念でなく、まずその姿をして登場人物と読者・観客の前に立つ。
 カウボーイや老夫婦は魔法使いや天使として人々が長年馴染んできた姿と似ても似つかないが同じことをやっている。ウィンキーズの裏の男もそうだ。しかしでは、魔法使いや天使はどうしていま人々が共通に思い描くようなあの姿をしているのか? というか、どうしてキリストはあの姿をしているのか? 人々はキリストの姿にあまりによく馴染みすぎてしまったために、キリストの姿それ自体をあまりよく見つめず、キリストはいきなり形而上学的世界に行ってしまう。
 リンチではボブやカウボーイや老夫婦やウィンキーズの裏の男があまりにそのものの姿で映されているために、観客は抽象化しそこなってそのものとして見てしまうわけだが、たぶんそれはリンチ自身が望んでいることでもある。『ツイン・ピークス』のボブはその意味で、荷なわされている抽象概念が大きすぎる(多すぎる)ために、カウボーイたちの初期形態と言ってもいいかもしれない。
 一方、カフカでは虫≠ノついて細かく描写されているにもかかわらず、「虫は何を意味するのか?」と抽象化されがちなために、キリストの姿と荷なう抽象概念の関係にずっと似ている。
 ということを考えたのはペチャが死ぬ過程の中でのことだった。ペチャはもうすでに死ぬ過程にいるうちに私や妻にとって、いままで感じていた最初に飼った猫≠艪ヲの特別さをこえて特別な存在になりつつあった。か、すでになっていた。折口信夫の『死者の書』のモチーフとなった「山越阿弥陀図」という、二つの山の向こうに山よりも大きな阿弥陀如来があらわれている仏画があるが、ペチャはすでに私の心の中では青空の遠く高いところから山越阿弥陀図の阿弥陀様のような大きな姿となって私たちを見ている。しかしそれは阿弥陀様や神様ではなくペチャだ。