◆◇◆遠い触覚  第七回 ペチャの魂 (前半) ◆◇◆ 
「真夜中」 No.7 2009 Early Winter


 ペチャが死んだ。一九八七年四月十九日、それは母の母の母の母が名牝スターロッチという血統を受け継ぐ不世出の名馬サクラスターオーが皐月賞を制した日であり、サクラスターオーはその後、皐月賞以来の七カ月ぶりの休み明けの菊花賞を九番人気で制し、十二月にペチャを去勢するときに、
「ペチャの血統はサクラスターオーの子どもたちが受け継いでくれるさ。」
 なんて私は言ったのだが、去勢手術直後の十二月二十七日の有馬記念の四コーナーを回っていたところで、テレビの画面を見る私の耳にボキンッと骨が折れる音が聞こえたほどの転倒をして、レース後知ったところではそれは正確には靭帯断裂と関節脱臼で、懸命の治療にもかかわらず、翌五月十二日にサクラスターオーは帰らぬ馬となった。
 その四月十九日、まだ結婚する前の妻が住んでいた高田馬場のマンションの植え込みに、へその緒がついたままの状態で捨てられていて、朝からピーピー高い声で鳴きつづけていて、ペット飼育厳禁のマンションだが、その鳴き声が耳について離れず、やむにやまれず拾うことになったのがペチャで、その日私は日曜出勤で、子猫を拾っちゃったという電話を会社にもらったとき、
「そんなことして。」
 ぐらいにしか思わないほど、私は猫に関心がなかった。
 子猫を拾ってはみたものの飲ませるミルクがない。ミルクがあったとしてもそんな生まれたばかりの子猫は皿からなんか飲めない。哺乳ビンかスポイトが必要だ。困った彼女がそのときすでに結婚して志村坂上に住んでいた親友のヒロちゃんに電話すると、ヒロちゃんのところには一年半前に飼い出した子猫に使った哺乳ビンとそのときの残りの猫用ミルクがまだ残っていた。
 というわけで彼女の志村坂上と高田馬場との往復がしばらくつづくことになるのだが、猫に関心がない私は見たいとも何とも思っていなかったのだが、ゴールデンウィークのあとだから、五月十日くらいのことだったんだろうか、「子猫がうちに来たから今日、会社の帰りに見に来なよ。」
 と言われて、何の期待もしないまま彼女の部屋に行くと、ドアが開くなり、
「ほら!」
 と、子猫を肩に乗せられ、その瞬間に私は子猫にめろめろになってしまったのだった。
 八月二十六日の午後六時五十分にペチャのかすかにつづいていた呼吸が止まり、そこでペチャの二十二年と四カ月の生涯は終わったのだが、私とペチャのつき合いはだから二十二年と四カ月には満たず、はじまりの二週間か三週間が私にはないのがいまは残念でたまらない。
 ペチャは二十歳をすぎても椅子からテーブルに跳び、場合によってはテーブルからかつて食事の定位置だったキッチンのカウンターまで跳ぶこともあったが、去年の夏あたりからそれはしなくなり、階段による上下運動と水を入れた洗面器がある風呂の蓋に跳び乗る以外は全体としては床から離れることのない生活になってしまい、猫であるペチャはそういう自分の変化を抵抗せず嘆きもせずに受け入れ、私も妻もそれを平静に受け入れていったわけだが、死が迫って看病しているあいだ、思い出されるのは子猫の頃のことばかりだった。年をとって不活発であってもその猫が現前するかぎり、いま目の前のこの猫が圧倒的に優位になっているのだろうが、何年経とうが、ということはペチャの場合には二十年経とうが二十一年経とうが、子猫の頃の記憶と映像は地下水脈というよりも伏流水のように現実のすぐ下の層に息づいていた。そして死を目前にすると記憶と映像は雨期になると激流に変化する砂漠のワジとなった。
 ペチャの変調がまずあらわれたのは口だった。二〇〇四年の八月十二日の深夜、ペチャはそれより七年くらい前から便秘気味になり、それがだんだん頑固になっていったため液状の下剤を口から二、三滴たらすようにしていたのだが、下剤も回数を重ねるとだんだん効かなくなるため二、三滴が四、五滴になり……と量が少しずつ増え、その晩はつい調子にのってボタボタ何滴もたらしてしまったために激しい下痢になってそれが止まらず、翌日一日様子を見ていてもいっこう回復しないために獣医に連れていき、しかしそれでもまだ消耗が激しく自分で食べることがなかなかできないために、口を開けさせてペースト状にした缶詰を指で上顎にすりつける強制給餌というのを教わってきて、それ以来私は一日三回か四回強制給餌で食べさせるというのが四年以上ずうっとつづき、強制給餌とはいってもペチャがすぐに給餌される呼吸をのみこんだから少しも強制的なところがなく、私が口の端に指をあてると自分でぱっと口を開けてくれて手間がないといえば嘘になるがこれも一種のスキンシップで私はペチャとの関係の濃密さを楽しんでいたのだが、今年の二月末に突然、給餌しようとする私の指をペチャが手を出してはねのけようとした。
 はねのけようとするペチャの手をかいくぐって私は強制給餌をつづけたのだが、四日経っても五日経ってもペチャの反応は変わらない。というより嫌がり方がひどくなるように見えた。
「口内炎なんじゃないの? 早く先生に連れていった方がいいよ。」
 猫の口内炎は人間の口内炎よりずっと始末が悪い。人間の口内炎のようにただの疲労なんてことはほとんどなく、たいていは細菌感染などを起こしていて、適切に対処しなければ食欲をしだいになくして衰弱死に至る、と猫の病気の本には書いてある。猫は年をとるにつれて、いよいよ獣医に行くのを嫌がり、それだけで病気になってもおかしくないほどのストレスだから連れていきたくはないが事が事だから見せにいくと、
「口内炎はない。」
「じゃあ、なんでなんですか?」
「わからない。もう少し様子を見よう。」
 と応えた獣医が特に頼りにならないわけでなく、人間の医者だって少々の腹痛や腰痛ではこんなものだ。
 それからまた二、三日したら、足許にすわって私を見上げるペチャの表情がなんか違う。「あれ? なんか違う」と思ったけれど、私にはわからなかった。が、それから三日経ったときにわかった。右目の鼻の側、涙腺のところがものもらいみたいに腫れかけているのだ。まだまだすぐにはわからない腫れ方だが、いつも見ている私には腫れているとわかる。右の鼻にはトロっとした鼻汁もつまっている。
 それでまた獣医に連れていったが、応えはまたも「様子見」。
 ペチャは四月には二十二歳になる。腫瘍とかそういうものができていたとしても今さら根本的な治療はできない。むしろ病気そのものより治療による体への負担で弱ってしまうだろう。と思うから私も病気の診断を確定させようとは思わなかった。しかし目の腫れは確実に大きくなっていった。大きくなるにつれて腫れているのは目でなく鼻梁の方だというのがはっきりしてきた。私も妻も、
「明日になったら腫れがひいてますように。」
 とペチャに言って寝る。翌朝、本当に腫れが小さくなっているように見えることがあったがそれは気のせいで、一日単位では変わらないように見えても三日前にさかのぼって比較すると確実に腫れが大きくなっている。
 ペチャの腫れは何なのか? もともとの病巣が鼻の奥にあることはたぶん間違いない。猫の病気の本を調べると、鼻の詰まりとそれにともなう鼻梁の腫れは「上気道炎」と総称され、これは原因でなく現象の名称にすぎず、猫の場合鼻の奥を見ようとしても狭く小さいから原因の診断がとても難しい。かりに腫瘍でなくてもどれも口内炎以上に厄介で、鼻→口内炎→食欲減退→衰弱死という経過をたどる。そういう知識を仕入れる一方で、私と妻は具体的には何一つ手を打つことができず、三月の中ごろから終わりにかけて、ペチャが寝ているお気に入りのマットレスでまわりを囲んだバスタブみたいな形をしたベッドから離れる気持ちにもなれないため、一年以上前に買ったまま全然見ていなかった『ツイン・ピークス』のシーズン1と2が入ったボックスセットを、毎晩二時間ぐらいずつ見た。
 いま思えば、十一月あたりから私は何かというと「猫が年をとってるから」と言って外出を避け、外にいて食事や酒でもどう? と言われても断って早々に帰っていたのだが、その断わり方はふつうではなかった。そして年末になり、カレンダーを掛け替えながら、「来年の十二月にはペチャはいないんだろうな。何しろ二十二歳だもんなあ。」と考えるというか、頭の中ではっきり言葉にしていた。しかし、だからといってペチャと別れる覚悟ができていたわけではまったくなく、だいたいそんなことに可能な覚悟があるとは全然思えないのだが、目と鼻梁が腫れてきて一日のほとんどをバスタブみたいなベッドで寝ているペチャを見ると死が現実になりつつあることは否定できなかったが、同時にそういう姿であれ、それが現に見えているということは死を肯定する気持ちが起きないということでもあり、しかし目と鼻梁の腫れが不吉であることは間違いなく、私と妻はもやもやした気持ちを抱えて『ツイン・ピークス』を毎晩見ることぐらいしかすることができなかったのだが、『ツイン・ピークス』はおもしろかった。ということは『ツイン・ピークス』を楽しむ余裕ぐらいはまだまだ全然気持ちにあったということでもあった。
 悪の象徴とか形象化のようにしてあらわれるボブという長髪の男がいる。ローラ・パーマーはボブに取り憑かれた父親によって殺されたわけだが、殺したとき、父親はボブその人になっている。ボブは悪の形象だが悪魔ではなくあくまでもボブだ。『マルホランド・ドライブ』で、現に進行している物語の外側に立つことができるカウボーイが、予言者や魔法使いや悪魔でなく、カウボーイであるのと同じことだ。
 カレンダーを掛け替えながら頭の中ではっきり言葉にした考えは、はっきりとした言葉になりすぎているために、私に何かがわかっていたとは思えないが、十一月あたりの闇雲に外出を避けていたあの行動は、私は「わかっていた」といまになって思う。ペチャが死んだのは八月二十六日の午後六時五十分だが、八月十一日の午後三時頃、突然ひっくり返って窒息しているように手足をばたばたさせて、「ペチャ!」と言ってそばに行くと瞳孔が開いている。妻が「ペチャ! ペチャ!」と必死に呼びかけて、ペチャは帰ってきたが、その晩十時頃、ジジが絶叫するように大声で鳴いて階段を駆けあがった。
 ジジは一九八九年十月にうちに来て、そのときジジはずりずり這いずって歩くような子猫で、排便もまだ自力ではできなくて、そのジジのお尻をペチャがペロペロなめてウンチを出してやった。それ以来、ペチャとジジは、親子のように兄妹のように夫婦のように恋人のようにべったり仲が良く、つまり二十年ちかくも同じ家の中どころか、たいていは同じ一つのベッドの中で寄り添うようにして一緒にいたのだから、ジジにペチャの変化がわからないはずがない。二十年ちかくもそんなに密着して生きるなんて、人間では考えられないし、猫同士だって、猫はめったに二十年も生きないのだから考えにくい。
 もっとも夏は暑いから冬と違って一日中べったりというわけでもないが、それでもやっぱりちょくちょくペチャが寝ているバスタブのようなベッドに入って一緒に寝ていた。が、十一日の夜以来、ジジはペチャにちかづかなくなった。しかし死ぬ前々日からジジはつねにペチャから一メートルくらい離れたところかに寝そべって、眠るわけでなくずうっとペチャのことを見ていた。ペチャに何か重大なことが起こりつつある、というよりも、ここにいるのはペチャなのかペチャでないのか、ペチャのはずだけどペチャじゃない……という感じだろうが、しかしやっぱりペチャに大変なことが起こりつつあることもわかっていないはずがない、とこうして「わかる」「わからない」という言葉でジジの中で起こっていたことを書こうとすることが、ジジの中で起こっていたことをわからなくさせる。
 ペチャが一度死にかけた十一日の夜にジジが大声で鳴いたというより絶叫して階段を駈けあがったとき、私と妻は「ペチャの魂を追いかけていった」と感じたのだが、私と妻はまだペチャに死んでほしくないと思っていたから、ジジのあの行動をまるごとは肯定せず、それを他の人にも理解可能な程度の意味で「ペチャの魂を追いかけていった」と理解することにした。ということは、ジジの行動をまるごと受け止めることを拒んだ。
 私と妻がそのときその場ではほとんどまるごとわかったことを、その場に居合わせず、ペチャとジジのべったり密着した関係も見ていない人に向かって伝えようとすることは、自分がわかったことを否定することになる。言葉というのは本質において出来事の否定なのだ。私はいままでもそういう風に考えてきたのかもしれないし言葉で書いたこともあるのかもしれないが、いまはっきりそう思う。言葉を使って、出来事の現場に居合わせなかった人に向かって、その人に納得させたり実感させたりしようと思って伝えるということは、現場に居合わせなかったその人のサイズに変形することにしかならない。それによってその人の理解や世界観がかりに劇的に変化したとしてもそれは語り手の熱意や語りそのものの力であって、その人が変化した原因は語りの方であって出来事そのものではない。
 私と妻は十一日の夜にジジが絶叫して階段を駈けあがったのをまるごと受け止めそびれたけれど、私たちは私たちの感じ方で「ペチャはもう今日明日の命」だと考えるようになっていた。死は間違いなくそこまで来ていた。呼吸は静かで弱く、目はうつろに開き、立ち上がろうとしてもパタンと襖が倒れるように倒れる。しかし何度倒れても立ち上がり、私が手を添えているとトイレまで歩いていって、しかし手前で立ち止まったかと思うとそこでオシッコをしてしまう。が、次にはちゃんとトイレの縁をまたいで中でする。かつてなんのことなくまたいでいたトイレの二十センチにも満たない高さの縁がペチャにとっては大変な障壁になっていた。だんだん立つ力もなくなり、横たわったままチィィィとオシッコをしてしまうようになっていったが、それでもまだ立ち上がり、トイレにたどりついた。