◆◇◆遠い触覚 第六回 「インランド・エンパイア」へ(5)後半 ◆◇◆ 
真夜中」 No.6 2009 Early Autumn


 彼はまたまたこんな一節を発見した。といってもこれまたすでに読んで、ページにしっかり線が引いてあった一節だが、彼はアルトーのときと同様、読み直すまで、こんなことが書かれていたこと、そして自分がそれを読んだことをすっかり忘れていた。
 しかしそれは本当だろうか。彼はそれを忘れていたのだろうか。記憶から引き出すことができるという憶え方はしていなかったが、消滅せずに彼の思考のどこかにしっかり棲みついていたからこそ、彼はいまリンチについてこんなことを考えたり書いたりしているのではないか。カフカが書き遺した八冊の八つ折り判ノートの四冊目だ。編集したマックス・ブロートの話によると、四冊目のノートは一九一八年に書かれた(ということはカフカは三十四歳だった)。四冊目と三冊目には、小説よりも哲学的思索の断片の方が多く書かれていて、そこから抜粋したアフォリズムが、『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』と題して、カフカ自身の手によって清書されている。が、あまり簡潔に刈り込まれたものは彼にはたいして面白くない。以下の二つの引用はどちらも二月五日に書かれた。日付がある文章というのはなんかちょっと面白い感じがしないか? しなくてもいいが。『田舎の婚礼準備、父への手紙』という表題がつけられたカフカ全集第3巻(飛鷹節訳)に収録されている。

(略)この現実界を破壊することなど、ぼくらにできはしない。なぜなら、現実界は、ぼくらが築きあげた、自分たちとは無関係な自主独立したものなのではなく、そのなかへぼくら自身が迷い込んでしまったもの、いやそれどころか、ぼくらの迷いそのものだからだ。そこで現実界は、それ自体としては破壊不可能なものである。あるいはむしろ、ぼくらの断念・放棄によってではなく、それ自体を最後まで、行きつくところまで、行きつかせることによってしか破壊できないものである。もちろん、この最後まで行きつかせることも、ぼくらがさんざん傷めつけた挙句に出てくるひとつの結果かもしれないが、しかしそれも現実界の内部での話ということになる。

 われわれにとっては二種類の真理がある。それぞれ、知恵の樹および生命の樹によって表わされているもので、活動するものの真理と休息するものの真理である。前者においては、善・悪の区別がなされるが、後者は、それ自体が善そのものにほかならず、したがってそこでははじめから善も悪もないことになる。第一の真理はわれわれに現実に与えられているが、第二の真理は予感の域をでない。これは悲しいことである。ただ喜ばしいのは、第一の真理が瞬間に属するのにたいして、第二の真理が永遠に属しており、したがってまた、第一の真理が第二の真理の光のなかで消滅することである。

 メンタリティにおいて、カフカもアルトーも世界に取り憑かれたタイプであり、リンチも同じタイプであり、そして彼もきっとそうなのだ。世界とは――自分が感触として予感している世界とは――哲学や科学を基盤にしてオフィシャルに語られているようなものではなく、ある錯綜した語り方を通じてやっと少し描きえて、それによって本人の世界の感触は明確になるどころかいっそう錯綜する、しかしその錯綜は世界の感触から遠ざかるものでなく、錯綜ゆえに近づく、遠ざかる―近づくなどという空間的物理的な表現がそれに当てはまるとしてだが。
『マルホランド』を観て、娯楽映画を撮る某映画監督は「全然わからない」とテレビで言った。この「わからない」は答を前提にした「わからない」であり、この人にとって「わかる/わからない」はどちらにせよ収束する狭い世界への入り口でしかない。
「わからない」にはもう一つのベクトルがあり、その「わからない」には「わかる」という対はなく、「わからない」ゆえに思考が先へ先へと進んでゆく。「わからない」とは広い世界へ出ていく出口だ。
 何度でも何度でも繰り返さなければならないのだが、〈作者の意図〉は中継点にすぎない。「この作者は何を考えて、こんなことを書いたのか?」とか「『審判』においてカフカの意図は何だったのか?」というようなことを批評は問題にしたがるが、作者は自分の意図なんて小さなものに生涯をかけたりしない。現実にはそういう作家がいっぱいいるとしても、その人たちは作家として残らないのだから、「いない」と考えてさしつかえない。
 作家には遠いずっと先にあるイメージがあり、それをいまここで仮に〈遠触〉と呼ぶとしよう、その〈遠触〉に向かって自作を開こうとする。すべての作家には本来〈遠触〉があり、〈遠触〉がなければ作品など作り出せるわけがないのだが、多くの人はすぐに〈遠触〉を忘れ、自分の作るものを作品として完成度の高いものにして当座の評価を得ることで満足するようになってしまう。〈遠触〉とはその人固有の世界の予感のようなものであり、ユングの集合的無意識のように共通したものではない。フロイトの無意識によって分析しうるものでもない。カフカは作品を完成させることに関心はなく、〈遠触〉だけがカフカにとっての指向だった。
 私たちはスポーツのルールを全然知らずにスポーツ中継を見るという経験がふつうないからスポーツそれぞれを一定の了解内で見ることしかできないが、スポーツに全然関心のない人はとんでもないことを思いながら見ている。たとえば黒柳徹子は野球中継を見ながら、
「バットを持って立ってる人とその向こうにしゃがみこんでる人がいて、そのまた向こうで黒い服を着て立っている人がいるでしょ? それで、バットを持ってた人が打って、一塁っていうの? そこに走っていくとさっき一番後ろに立っていた黒い服を着ている人が走ってきた人より先に一塁のところにいて、アウトとかセーフとか言ってるんでしょ? あの人が一番足が速いのに、どうして選手で出ないの?」
 なんてことを一人で思っていたそうだ。
 つまり黒柳徹子は本塁の審判と一塁の審判という二人がいるのでなく、一人の人がやっていると驚嘆しながら見ていたわけだが、何が言いたいのかというと、映画とか小説とか、個別の作品に接するとき、人は黒柳徹子のようにルールを全然知らずにトンチンカンなことを考えている可能性がある。ほとんどの映画や小説は、それ以前の既知の思考の枠内で理解可能だが、たまに読者や観客がまるっきりルールを知らない状態に置かれる作品があり、――つまりその作品こそが本来の、フィクションの起源を照らし出す強度を持ったフィクションなのだ――、しかもその作品のルールないし法則は、白紙の状態で野球やサッカーを観ても、目の前で展開している動きからだけではルールがわからないのと同じようにわからない。
『マルホランド』はナオミ・ワッツがベティと呼ばれていて、リタと名づけたローラ・ハリングと二人でリタの本当の名前を探す世界(A)いわば幸福な世界と、ナオミ・ワッツがダイアンと呼ばれていてローラ・ハリングに捨てられた世界(Z)いわば不幸な世界の二つに大きく分けることができる。
 Zが現実でAがナオミ・ワッツ=ダイアンの幻想だというのがまあ一番ふつうに流通している解釈だが、それは作品という未知の法則によって作られたものを、〈現実/幻想〉という既知の思考法の枠に押し込めたことにしかならない。『マルホランド』を観ている最中に感じている感触は、〈現実/幻想〉というような安定した二分法で回収できるようなものでは全然ないはずだ。
 世界Aで記憶喪失のローラ・ハリングが「ダイアン」という名前を思い出し、ダイアンが住んでいると思われるアパートに二人で訪ねてゆく。そこで、ダイアンと部屋を交換した隣人と二人は顔を合わせて会話するのだが、隣人はナオミ・ワッツのこともローラ・ハリングのことも知らない。ダイアンの部屋のベッドに横たわる死体を見て、激しく動揺するのはダイアンであるはずのナオミ・ワッツでなくローラ・ハリングの方だ。横たわる死体はローラ・ハリングと同じ長い黒髪であり(と書いたら、編集部から「髪は茶色だった」と指摘された)、着ているタンクトップとショートパンツは黒だ。世界Zで、同じそのベッドの上で自殺するダイアン=ナオミ・ワッツは金髪のショートヘアでタンクトップとショートパンツは薄いグレイで、その上にバスローブを着ていた。
 世界Zの情報が不正確に世界Aに入り込んでいる――というよりも世界Aの中のダイアンの部屋と世界Zの中のダイアンの部屋が同じだというのは観ている側の思い込みなのではないか。世界Aのベティと世界Zのダイアンは同じ外見をしているが、同一の人間ではないんじゃないか。もしかしたら、世界Zでのカミーラ(ローラ・ハリング)が世界Aのベティ(ナオミ・ワッツ)で、世界Zのダイアン(ナオミ・ワッツ)が世界Aのリタ(ローラ・ハリング)なのかもしれない。というのは、世界Aのアパートの管理人ココ、ベティの叔母で女優のルース、オーディションで選ばれるカミーラが集まる、世界Zのジャスティン・セローの家でのパーティを見ると、役が玉突きのようにズレている。ジャスティン・セローの映画監督という職業だけが世界Aと世界Zで同一なのは、彼がカウボーイに魂を売ったからなのか。
 世界Aと世界Zは本来別々の独立した世界として存在していた。しかし、老夫婦とウィンキーズ裏の浮浪者風の男にある力が作用して、世界Aと世界Zが出合ってしまった。ないし、混線してしまった。――と、ここまで書いてきて彼はなんだか突然つまらなくなってしまった。気持ちが倦んだ、とでも言えばいいか。途中まで自分自身で高揚して書いていたはずなのに、いったいどこでおかしくなったのか。
「世界Aで記憶喪失のローラ・ハリングが……」ではじまった三つ前の段落の途中あたりでおかしくなりだしたのではないか。『マルホランド』の細部の検証というか、作品世界の読み解きというか、そういうことが、そのあたりからはじまりだしてしまっている。作家が固有に持っている遠くにあるイメージ、〈遠触〉と仮に名づけたそれについて書いたばかりなのに、〈遠触〉を忘れてリンチの意図を読み解きはじめてしまった、ということのようだ、気持ちが倦むこの感じは。
『マルホランド』を観ている最中、観客は作品世界の構造の解読ないしつじつま合わせをしようなどとは感じていないはずだ。しかし映画が終わった瞬間、作品世界の構造を解読したりつじつま合わせをしたいという願望が生まれ、何しろもはや映画それ自体は目の前から消えてしまっているのだから、観客は事後の作業しかすることができない。
 しかし観客は事後の仕事をせずに、映画が上映されていた時間に戻らなければならない。つまり上映中の感触を自分の中で再現すること、そうしないかぎりリンチの映画はリンチの映画でなくなってしまう。実際問題として彼は映画が上映されていない今この時にこれを書くことしかできないわけだが、書く前段階として『マルホランド』をDVDで観直しているときの方が何倍も気持ちが連れていかれていて、その状態は何度観ても弱まらないのだ。
 眉毛の太い若者が、ウィンキーズ一般でなくまさしくこの店を夢に見たんだと話すのを聞いたときの奇妙に居心地が悪い感じ。この若者は相手が反応に困るこの一言を言うことで一定の了解の外に踏み出そうとしている。それは映画内の人物としての正常という了解の外つまり狂気のようなものでなく、映画がある安定を得ている了解の外で、若者が夢に導かれてウィンキーズの裏に回ると浮浪者風の男にバッ! と出くわす。
 このようなシーンを観て、観客はこのシーンなり浮浪者風の男なりの比喩的な意味を考えたりしない。ここにはもっとずっと即物的な何かが口を開けていて、それはカフカがノートに書いた、世界の二重性とか世界の二つの真理というようなことに向かう感触なのではないか。言葉によって説明しようとすると、アルトーも同様、やたらと複雑に入り組んだことになるのだが、現に目の前にあるのはひじょうに即物的な事態なのだ。
 これは矛盾でもなんでもない。即物的なものは言語化すれば複雑なのだ。それがじゅうぶんに複雑すぎるために、観客は上映後、そこから逃避して作品世界の解読をはじめてしまう。しかし、上映されていた最中、観客はダイレクトに世界の二重性(複数性)と向き合っていた。だから、作品世界の解読などはじめても全然おもしろくないし、上映中に確かにあった高揚感を裏切るとしか感じられない。
 ここには言葉が不要なのではない。言葉はいくらでも必要だが、しかしそれは作品世界の解読や作者の意図に向かうようなものではなく、それらを中継点としてその先にあるものを語ろうとしなければならない。

 誰にとっても〈私〉はかけがえがない。すべての人は〈私〉というフィルターを通してしか見たり聞いたりすることができない。しかしそれを原理として認めれば認めるほど、自分以外の〈私〉の見たり聞いたりする経験は自分自身の経験と別の次元にあるものとなってしまう。〈私〉はこの地上に六十億人分あり、過去の人間たちの〈私〉までカウントすればそれこそ〈私〉は無数にあることになる。一人一人にとってかけがえがない〈私〉が掃いて捨てるほどたくさんあるとはどういうことか? これが一つ目。その中には冤罪で三十年以上刑務所に入れられ、青年期も壮年期もすべてフイにされてしまうような信じがたく不運な人さえもいる。「不運」という一語は雑すぎるが。
〈私〉はこれまで生きてきた記憶や経験を持っている。しかしそれらは今この時となってしまえば、自分の前で再演させることはできない。忘れがたく、ひじょうにリアルな記憶があり、それが現在の自分を拘束しているとしてもそれは〈私〉の中にあるだけで、その記憶や経験を情報や物語としてでなく、質そのものとして自分以外の人に共有させることはできない。
〈私〉が生まれ育った家があり、長いこと故郷から離れていた〈私〉が生家の父母と過ごした居間や自分の部屋を見たいと思って、何十年かぶりに故郷を訪ねたら生家はとっくの昔に取り壊されていた。生家があると思っていた〈私〉の時間と生家が取り壊された後の時間、同時進行していたこの二つの時間はどう調整すればいいのか? というようなことが二つ目。
 たぶんこれの変奏なのだが、〈私〉は家族の歴史によって作られてもいる。家族の中に伝わるすでに〈私〉自身は会ったことのない、曾祖父やそれより前の先祖たちが残したエピソードもまた歴史だ。〈私〉は家族の歴史によって作られ、地域の歴史によっても作られている。雪の多い土地と雪の降らない土地とではそこで語られる歴史が違う。つまりメンタリティが違う。〈私〉は自分の職業や属する社会集団によって、一定のイメージを受け取ったり、それを受け取ることを拒んだりするのだから、職業や社会集団の歴史によっても〈私〉は作られている。それら歴史はフィクションだ。フィクションとして最高ランクのフィクションと言える。それらのフィクションを相対化するためには、フィクションの起源を指し示すことができる本来のフィクションを作り出さなければならない。
 しかしところで、〈私〉とはかけがえがなく、すべての人は〈私〉というフィルターを通してしか見たり聞いたりすることができない、というのは本当か? 〈私〉の目や耳がそれぼど忠実に、つまりは透明に、見たり聞いたりすることができているのなら、芸術など人間は持たなかったのではないか。見えているものを見るため、聞こえているものを聞くために、芸術というフィクションを人間は作り出したのではないか。芸術はフィクションだが、〈私〉というフィルターを通してしか見たり聞いたりすることができないというのもまたフィクションで、そんなことはいわば信仰の一種で、それがいつはじまったのか、時代が確定できるほどに新しい思い込みなのではないか。
 現状優勢なフィクションは世界に輪郭を与え、世界と私たちの関係を安定させるベクトルとして機能する。しかし私たちが世界と結べる関係はそのつどそのつどの感触だけなのではないか。感触、触覚、あるいは予感。それらは固定せずたえず流動している。つまり、二つあるいはそれ以上の世界のあいだで取り交わされている発信受信とその誤信のことなのだが、世界に輪郭を与えようとするのでなく、この流動につくことによって、彼は『マルホランド』は当然として、『インランド・エンパイア』をよく観ることができると思うに至るのだった。