◆◇◆遠い触覚 第六回 「インランド・エンパイア」へ(5)前半 ◆◇◆ 
真夜中」 No.6 2009 Early Autumn


 考えるということはわかることだと一般に考えられている。しかしそれは「考える」のすべてではないということが、小島信夫の書いたものや本人との会話の経験とカフカとデイヴィッド・リンチのことを考えているうちにわかってきた、というより感じられてきた。もっと言えば、身に近づいてきた。
 いつまでもそれについて考えられること、それについて語りつづけられるものこそ楽しい。考える時間は終わらないでほしい。小説や映画の筋を手短かにまとめられたり、輪郭や構成を記述したりできる人を、私たちの時代は「聡明」とか「明晰」とか言う習わしになっているのだが、それは習わしでしかなく、人間の営みのどこかで路線変更されてはじまったことでしかないのではないか。過去をどこまでさかのぼってもそのような習わしと相違する思考の様式などないと言うなら、これからそれをはじめればいい。
 小さく親密で緊密なコミュニケーション空間が歴史上、この地球のあちこちにあった。と同時に、その上空には現代のグーグルのような、一つの言語=思考様式によって小さなコミュニケーション空間で醸造された思考を濾過して、広い社会でそれのいいところだけを流通させようという勢力があった。私たちはほぼ全員がその勢力によって育てられたのだから、私たちの思考様式は隅々までそれが浸透している。そのようなことを意識して、何かを書いたり語ったりしようとしても、困ることにすべての言葉・概念がその産物だから、それを相対化したり、それの外に出たりすることがきわめて難しい。しかしきわめて難しいが不可能ではない。現に小島信夫やカフカがいたではないか。そしてリンチもまちがいなくその系譜に連なる人だ。 
 まず、多くの人に通じようなどと思わないこと。「おまえのそんな考えなど、誰にも理解されない」という声が自分の内側から聞こえてきたとしても無視すること。だいたい、自分の内側≠ニいうのが曲者で、それはたいてい人生を通じて出合ってきた人たちの言葉、つまり外の言葉なのだ。言葉とは語る私に先行して存在するということを思い出しさえすればきわめて当然のことではないか。
 一つの小説や映画についてあっさりと的確なことを語って、次の小説や映画へとさっさと移っていくことは思考の機能不全でしかないと考えること。音楽は好きになったら何度でも聴く。それに終わりはない。終わりがきたとしたら、それはその音楽に飽きたということだ。絵や写真や彫刻は部屋に置いて繰り返し眺めるものだ、現実にはそのようなことがおもに金銭的な理由によってかなわないとしても、一つの理想はそういう接し方だ。
 まだ読んでいない小説、まだ観ていない映画にどんなことが描かれているか知りたい? それは自然な願望のように見えはするが、大量生産が可能になった印刷技術と大量消費の社会によって作り出され強いられた、外から注入された願望でしかないのではないか。騎士道物語に読み耽ったドン・キホーテの蔵書は、第六章に「百冊以上」としか書かれていない。たったの「百冊以上」だ。その「百冊以上」を生涯かけて、繰り返し読んでいたドン・キホーテを想像すると、子ども時代、十冊かせいぜい二十冊しか持っていなかったマンガ本を隅々まで暗記するほど繰り返し読んでいた自分を思い出す。四世紀後半から五世紀前半に生きた聖アウグスティヌスは羊皮紙に書かれたであろう書物を何冊読んだのか。何冊までしか読まないのなら、アウグスティヌスのように聖書を隅々まで記憶することが可能なのか。
 一人の人間と一冊の小説はどちらが語り尽くせないか。カフカの『城』ほどの言葉が費やされた人物がいまの地球上に数人といるだろうか。ダンテ『神曲』、シェイクスピアの戯曲のどれか一篇、プルースト『失われた時を求めて』に費やされた言葉ほどに一人物に言葉が費やされることはほとんどない。すぐに恋人に飽きる男(女)でも三桁はそうそう替えまいし、そのようなことを勇敢にも実践する男(女)は何か精神の疾患を疑われるのがオチだ。つまり、小説を一読しただけで的確なことを語ることなど、恋人と一発か二発やっただけでわかった気になる男(女)の浅薄さと違わない。もっとも小説や映画は一度だけでポイされても恋人たちのように恨みつらみは言わないわけだが、的確なことを語ったと思うその浅はかさはいずれその人の思考や人生を貧しくすることになるはずだ。

 リンチ『マルホランド・ドライブ』で、ナオミ・ワッツは老夫婦と談笑しながらロスアンゼルス空港から出てくる。どうやら彼女は機内でこの老夫婦と知り合い、自分の経歴や夢などをしゃべってきたらしい。彼女と別れると老夫婦はリムジンに乗り(リムジンだ!)、ナオミ・ワッツとの会話の余韻に浸っている――あるいは、満足そうに笑っている。あるいは、意味ありげに笑っている。あるいは、無気味に笑っている。いや正しくは、そのような形容語による誘導なしにただ「笑っている」と書くべきなのかもしれないが、リムジン車内の老夫婦の表情に何か意味=形容を感じないで観ることはかえって不自然というものだろう。
 この老夫婦はラスト間近、ナオミ・ワッツが拳銃自殺するところで、もう一度だけ登場する。いきなりナオミ・ワッツの部屋にあらわれるのでなく、まずウィンキーズの裏の浮浪者風の男が青い箱を入れて捨てた紙袋の中から小さな姿で出てきて、小さな姿のままナオミ・ワッツの部屋にあらわれて、それから大きくなって彼女を責め立てる。
 この老夫婦は人の運命を司ったり、あるいは運命にちょっかいを出したりする、つまり天使とか妖精のような存在なのではないか。映画監督役のジャスティン・セローが出会ったカウボーイは、この映画の外にいて登場人物の運命を操ることができるような予言者か魔法使いのような存在ではないか、と前に書いたが、老夫婦もまたそれに似た機能を持っている。
 ということになれば、ウィンキーズの裏にいる浮浪者のような男も映画の外と内に股がる存在ということになるわけで、この浮浪者が捨てた紙袋から老夫婦があたふたと逃げ出してきたところを見ると、どうやら浮浪者は老夫婦よりも力が強いか格が上らしい、ということにもなる。
 あの老夫婦が天使か妖精などということは風貌からは考えにくいが、そう考えるとすっきりする(しかしそれが本当のすっきりにはならないことはこの先で言う)。あの老夫婦が天使か妖精だとするなら、リンチは老夫婦と天使という外見のギャップが面白いと思っているということか。そんなことでは全然ない。ウィンキーズの裏の浮浪者風の男が運命を操る女神なのだとしても、その外見のギャップの面白さが大事なわけではないのと同じことだ。
 女神・天使・妖精……それらは人間の想像の中に生まれ、いつの頃からかいま私たちがイメージするような姿が与えられたわけだが、老夫婦や浮浪者やカウボーイの姿が与えられることも可能だった。なんてことを言いたいのではない。
 女神・天使・妖精……これらは人間界と別の世界に生きている。人間界が時間によって支配され、そこに生きる人間が誕生―成長―老い―死から逃れられなかったり、忘却から逃れられなかったりするのに対して、女神・天使・妖精……たちは時間に支配されず、たぶん不死なのだろう。形而上学ということだ。リンチが描こうとしているのは、そういうはっきりと階層化されたとでも言うのか、そういう世界ではない。
 ここで注意してほしいのだが、このことはいままで何度も言ってきたし、これからも何度も言わなければならないだろうが、ある明確な世界のイメージが『マルホランド』に先行してリンチの中にあるわけではない。老夫婦をあそことあそこで登場させて、二度目の方は小さくして登場させて、ウィンキーズの裏にいる浮浪者は青い箱を持っていて……と、一つ一つの部分を具体的に積み重ねていくことで、ある世界が姿をあらわしてくる――または、ある世界が予感されてくる――、そのあらわれや予感をリンチ自身も待っているのだ。そしてそういう世界を描く営みは『マルホランド』一作で完結しているわけでなく、処女作から最期の作品となる映画までずうっとつづいてゆく。
 リンチが描こうとしているのは、人間界と天上界がはっきりと分かれている世界ではない。しかし世界は一つだけということでもなく、二つが(もしかしたら三つか四つあるかもしれない)情報を正確に発信、受信せずしょっちゅう誤信しながら相互に影響関係にある。
 メビウスの輪とかこれを三次元にしたクラインの壺とかを言葉の次元で言うことは簡単だし、おもしろくもないが、現実にメビウスの輪のようなことが起こったら動揺する、というか、どうしていいかわからなくなる。というか、そういうことは決して起こらない(たぶん)。たとえば、帰宅して玄関に上がり、ジャケットを脱いだら玄関のドアの外に逆戻りしていたとか、風呂を沸かそうと思って蓋を取ったら井戸で、蓋から落ちた水滴が深い井戸の奥でポチャンというのが聞こえてくる、などということは起こらない。あるいは商店街の近くの家だったら、帰宅して昨日からプレイヤーに入れっぱなしのシューベルトのピアノ曲のCDをかけようと思って再生ボタンを押したら、さっきまで商店街でかかっていた児童合唱団が歌う『夏は来ぬ』が流れ出す、なんてことも現実には起こらない。
 メビウスの輪を映画の中で作り出そうとした場合、いまここで例に挙げた出来事だけでは、それは言葉や概念の範囲で収まるメビウスの輪、つまり決まり事としてのフィクションにしかならない。観る側が自動的に区別しているフィクションの内と外という境界を乗り越えるものでなければ、メビウスの輪にならないし、そのときはじめてフィクションをフィクションたらしめる起源にまで届く本来のフィクションが立ち上がってくる。
 メビウスの輪に取り憑かれた映画作家がいるとしたら、その人の撮る映画はそういうものになるのだろうし、リンチは――リンチこそが――その人ではないかと彼は思うのだ。しかし、よくよく注意深くなければならないのは、たとえば、「リンチはメビウスの輪に取り憑かれている。」と言ったところで、それはとっかかりにすぎず、いまだほとんど何も言っていないに等しいということだ。

 人が思考するやいなやすべてが神秘となる、そして思考すればするほどさらに神秘は深まるのです、

 これはロデーズ精神病院に収監されたアントナン・アルトーが、そこの主任医師であると同時にアルトーの文学・芸術に深い理解を示したガストン・フェルディエール博士にあてて一九四三年三月二十九日に書き送った手紙の一節だ。リンチのことをずうっと考えている彼が、今回分の原稿を書きはじめて、「そういえば……と言って、アントナン・アルトー著作集X『ロデーズからの手紙』(宇野邦一、鈴木創士訳)のページをぱらっとめくったら、今回の冒頭に置くのがふさわしいこの箇所がすでに彼自身によって線を引かれた状態でさっそく目に止まったのだった。同じページにはこういうことも書かれている。

 世界とはこの観念一つの異様な現われでしかないのです。
 

 あらゆる意味の説明できない底知れなさの生産者、その〈霊験〉とその〈本質〉は神の特徴そのものです。
 

 この二つをこう読み換えてみると、彼にはそっくりそのままリンチの映画とその映画によって描かれようとしている世界のことのように読める。

 世界とはこの複数世界の誤信を含めた発信・受信の一つの異様な現われでしかないのです。

 あらゆる意味の説明できない底知れなさの生産者、その〈霊験〉とその〈本質〉は複数世界の誤信を含めた発信・受信の特徴そのものです。

 アルトーにとって世界(人間界・地上界)とは神という形而上学の反映ということになるのだが、ここで神のあるなしは本質的なことでないように思える。いやあるいは、本質的すぎて実際に思考を進めるときには、神のいない世界の仮説と区別がつかなくなると言うべきか。そんなことがありうるとしての話だが。とにかく、極度に明晰な思考というのは語りえないものを語りはじめるために、どんどんもつれてゆく。
 思考にレベルとか次元などという物理的数量的な次元があるとしての話だが、レベル4に達した思考によってすでに考えたレベル4までのことを考えれば、すっきりとした、いわゆる明晰なものになるだろうが、これから考えようとするレベル5から先のことを考えるなら、すっきり明晰なものにはなりえない。これは道理ではないか。明晰と見える明晰さなど明晰さとはいえないのだ。
 

『マルホランド』において、老夫婦とウィンキーズ裏の浮浪者風の男は別の世界からの力の中継点のような機能を果たしているのではないか。メビウスの輪でいうなら、最もその機能を果たしているのはカウボーイで、カウボーイはこの映画の内側として囲われるはずのフィクションに対して外を持ち込む。
 老夫婦の役割の人物に天使か妖精を置き(ということはわかりやすく、小さな女の子にでもその役を演じさせ)、浮浪者風の男の役割の人物に容易に女神を想像させるような女優を置いたとしたら、それはやっぱりリンチっぽくなくなってしまうわけだが、その理由は、見た目がイカレてないというのは当然あるが、それとは別に天上界のような形而上学を想像させてしまうということがある。その意味では『ロスト・ハイウェイ』の悪魔然とした無気味な男は失敗と言えるのかもしれないが、『ロスト・ハイウェイ』を観直していない今は軽々しい言葉は慎まねばならない。
 おそらくリンチの世界――と言っても、リンチ自身が映画を作ることを通じて描こうとしている、つまりリンチ自身にも遠い感触しかまだない世界のことだが――にあっては、老夫婦や浮浪者風の男やカウボーイがある力を持っていたりある機能を果たしたりするのは、二つの世界の誤信や混線の産物であって、彼らがつねに特別な存在であるということではない。つまり、天使や女神や悪魔がこちらの世界で仮の形象として老夫婦や浮浪者風の男やカウボーイの姿を借りたということではない。〈一つの異様な現われ〉の一端が、たまたま老夫婦にあらわれただけなのだ。一定の期間が過ぎてしまえば、老夫婦も浮浪者風の男もカウボーイもただの人になっているかもしれない。では、どこかの個室で小さなマイクをつけて椅子にすわって指令を送っているかのような小人はどうなのか?
 あの小人は何も指令など送っていないのではないか? いや、小人が個室から何か指令を送っているのだとしても、それでナオミ・ワッツが住む世界が影響を受けているわけではなく、もしも小人がしゃべった言葉とナオミ・ワッツの世界の出来事が関連しているように見えたとしても、それはたまたまの一致でしかなく、あの小人は、二つの世界があることや二つの世界の間での誤信や混線の産物としての人間がいることを観る側やリンチ自身に予感させるためにいるということなのではないか。とすれば現実には何も力を行使していないということになるが、それゆえにとるに足らない存在と言い切れるかどうかはわからない。神というのが人間界に何か力を揮ったことを経験した人はほとんどいないが、神をいうのは絶大な存在感を持っているのだから、存在感の大きさは、その人が現実にどれだけの力を行使しうるかということとは関係ない。という考え方もありうる。