『ロスト・ハイウェイ』の入れ替わりをそのまま受け入れられずに言葉で理解しようとしてしまうように、『マルホランド・ドライブ』では複雑に入り組んだ(と思われる)時間をナオミ・ワッツの幻想と現実という二種類の質の時間に区別して整理しようとしてしまう。
「あれはどうなってるんだ?」
と、自問したり、『マルホランド』を観たという人に向かって、つい訊いたりもしてしまうのは人情というものだろうが、それは同時に会話の発端でもある。
「あれはどうなってるんだ?」と考えることによって、映画を何度も反芻する。と同時に、反芻する人ごとの映画にもなる。――いや、そんな話はどうでもいい。つまらない。
何がそんなにおもしろいのか。彼はリンチの映画のどこにそんなに惹かれてしまうのか?
というわけで、ゆうべ彼はまた『マルホランド』を観た。一回目に観たときには全篇を支配する緊迫感がおもしろさの元だったということを、彼は観ながら思い出した。しかし「次どうなる」という緊迫感だけで二回目三回目はもたない。
二回目からは、それこそ「あれはどうなってるんだ?」「ここはどういうことなんだ?」という、一種の謎解きになるわけだが、それは、「作品の構造を解明したい」とか「作品の意図を知りたい」という、いわば作品についた、作品次元で安定する謎解きなのではない。
彼にとって、細部についての疑問――それは疑問ではく正しくは細部の齟齬≠ニか 細部の全体に対する裏切り≠ニでもいうようなものなのだが――は、『マルホランド』という個別の作品を通りこして、存在の揺さぶりとなる。大げさに聞こえるだろうが、そうなのだ。だから、彼にとって『マルホランド』の細部に疑問を持つことは、一時期流行った『磯野家の謎』のような、オタク的な興味とは全然違っている。
『マルホランド』は、細部が噛み合わないようにできている。
ナオミ・ワッツがチンピラみたいな殺し屋にローラ・ハリング殺しを依頼したとき、殺し屋が「成功したときにはこの鍵を置いておく。」と言って青い鍵を見せる。一方、『マルホランド』には映画全体のイメージのアイコンのような青い小箱があり、その小箱はローラ・ハリングがリタと名乗っていて、二人の仲がうまくいっている――ナオミ・ワッツの幻想とふつう分類される――世界にも出てくるし、ファミレスの裏のホームレスみたいな男が持ってもいる。しかし、この青い小箱の鍵は厚みがあり、殺し屋が見せる鍵ではない。が、まあこれはどうということはない。
ナオミ・ワッツとローラ・ハリングの蜜月はクラブ・シレンシオでナオミ・ワッツが気分が悪くなり、部屋に帰ってきたところで唐突に終わるわけだが、この幻想の世界に取り残されたのは、幻想を見ている主体のナオミ・ワッツでなく、ローラ・ハリングの方だった。
もう一つ、拳銃で自殺したのはナオミ・ワッツだが、幻想の蜜月の世界の中で記憶喪失になっているローラ・ハリングの本当の姿ないし本当の名前を捜して、自殺したナオミ・ワッツの死体が腐乱して悪臭を放っている部屋に二人で入っていったときに二人が見るその死体は、ナオミ・ワッツの死体でなくローラ・ハリングの死体だった。
この二つは彼の解釈であり、『マルホランド』をもっと精密に観ていけば、すっきりとつじつまが合うようになっているのかもしれないが、正解うんぬんの問題ではなく、彼が自分の存在が揺さぶられるように感じるのは、この齟齬、噛み合わなさなのだ。
たとえば夢というのは、睡眠中に特定のその人が見るものだ。つまり、目覚めたら夢は終わるはずのものだが、目覚めても夢は夢でそれを見た人から離れて勝手につづいていたらどうなるか? この想像は彼にとって、自分が他の誰かが見ている夢の中の登場人物だとしたら……という懸念につながる。自分とまるっきり無関係のところで、自分がこうして生きていると思っている夢を見ている人が目覚めたら自分は消える。
世間で一番ふつうの想像は、「私が死んだら、私が見ているこの世界も消える。」という、唯我論的な世界観だが、リンチの映画に出合ったことで持つようになった懸念は、「私が誰かの夢の一登場人物だったとしたら……。」だった。しかしこれは彼にとって、リンチ以前に全然なかった懸念でなく、前回のフィリップ・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』の主人公タヴァナーが陥った世界であり、つまり彼は前回書いたことをそのままなぞっているだけなのだが、前回まだ気づいていなかったことは、リンチの映画にどっぷり浸るようになったのと同じタイミングで昔読んだディックの小説を読み返すようになったその理由が、彼にとって同じ懸念だったということだ。
自分が誰かの夢の一登場人物だったとしたら、妻もまた別の誰かが見ている夢の一登場人物である可能性が生まれてくる。
奇妙なことだ。一登場人物にすぎない人間たちが、全員内面を持ち、全員が「自分の人生では自分が主役だ」と思っている。しかし、その全員が本当は、自分があずかり知らぬ何者かたちの夢の中の一登場人物にすぎない。
***
ナオミ・ワッツの幻想だったはずなのに、その幻想から覚める寸前にその世界にいたのはローラ・ハリングの方だった。あるいは、自殺したのはナオミ・ワッツだったのに、そこに横たわっている死体はローラ・ハリングだった。
簡単に言えば、入口と出口が違う。あるいは、行為の結果がズレる。
これについて、精神分析ないし心理学とそれを成立させている文化・社会という構図で、精神分析を反古にしてしまうようなことをいまや彼は言える自信がある。が、そんなことよりも、これは彼の生の感触に関わることなので、説明の言葉を百万語費やしたところで、感触を共有しない人にはその感触が伝わらないし、すでに感触を共有している人にはこれ以上の説明の言葉は何もいらない。
言葉を費やせば伝わるという考えがそもそも幻想なのだ。わかる人にしかわからないという考え方を「秘教的」「閉鎖的」などと言って批判するのが現代の主流だが、自分で感じる努力を怠って、言葉による説明だけで生の感触≠ワで理解しうるという思考のモードの何と傲慢なことか。
――俺、ゆうべ釣りに行って、こんなにでけえ鯛を釣った夢見たんだよ。で、せっかくだからそいつを肴におめえと一杯やろうと思って、おめえん家行ったんだけど、留守だったじゃねえか。あんな夜中にどこほっつき歩いてたんだよ。
――わりぃ、わりぃ。ゆうべは吉原行ってて、朝帰りだったんだ。
もともと彼はこの手の小噺が妙に好きで、ただのナンセンスだとは思わない。意味とは、フィクションとは、ナンセンスであるはずのものがリアリティを帯びる、その境い目に生まれるのではないか。というか、ナンセンスと呼ぼうが不条理と呼ぼうが、そこにほんの少しでもリアリティがなかったら、ナンセンスでも不条理でも何でもない。
一九七五年、彼が大学一年のときに『タワーリング・インフェルノ』という映画が公開された。最新技術の粋を集めた超高層ビルが、落成式のパーティの最中に、配線の手抜き工事による漏電か何かで火事になる。設計者のポール・ニューマンと消防隊長のスティーヴ・マックイーンが上の階に取り残された小さな女の子を救出しに行く。
こんな話だったと思うが、「おかしいじゃないか。」と彼はずうっと思っていた。ひじょうに優秀な男二人が将来どうなるとも知れない小さな女の子のために命を投げ出す。映画の結末で、二人が生きたか死んだかは忘れたが、とにかく二人は自らの生命の危険をかえりみずに小さい女の子の救出に向かった。
ストーリーとしてはわかりやすくハラハラドキドキものだが、「これはアメリカという国家の幻想を支える物語でしかない。」と彼はずうっと考えていた。(しかし、なんということか! 彼のこの記憶自体がそもそも誤りだったということが、編集者の指摘で判明したのだった。しかし、ともかくも彼は三十数年間こう記憶していた。)
新大久保の駅のホームから転落した男性を助けようとして、韓国人留学生と日本人カメラマンが死んだという事故があったのは、二〇〇一年一月のことだ。あのとき転落した男性は夕方なのにすでに酒に酔っていた。転落した男性よりも助けようとして巻き込まれた二人の方がずっと人間として価値があった。「美談は美談だけれど、あんまりにも割りに合わない……。」と、映画でない現実の出来事に対しても彼はずうっと否定的に考えていた。「こういう美談を喧伝することで、社会は何かを企んでいる。」と。
しかしごく最近、ほんのここ一、二ヵ月のことだと思うが、急旋回するように彼は考えが変わり、
「それが人間なんだ。」
と思うようになった。
助けなければ死んでしまう人が目の前にいたら、自分のことなんか投げ出して、とにかく助けなければならない。
夕方から酔っぱらってる男がホームから転落した。電車はすぐそこまで迫っている。酔っぱらいを助けようとしたら、間違いなく自分も死んでしまう。下手をすれば、酔っぱらいも死に、全員が死んでしまう。――なんて計算をした瞬間に、その人の人間としての価値はゼロになる。そんな計算をした自分に生涯苦しむことになるだろうし、ましてそれに苦しまないような人間だったとしたらもともとその人は周囲の人かすべてから軽蔑されているだろう。
というのは、現代社会的なわかりやすい――つまり、これも損得勘定の上に立った――説明だが、そんなことではない。
目の前にいる人が窮地に陥っていたら助ける。それが人間としての基盤だったのだ。「汝、殺すなかれ」と同じくらい根本的なことだと言ってもいい。
彼は善人ぶってこんなことを言っているのではない。人間は個体として孤立して生きているのではなく、繋がって生きている。動物も繋がって生きているが、その繋がりは遺伝によるタテの繋がりと渡り鳥の群れとか蟻や蜂の集団で見られる本能によるヨコの繋がりで、どちらも生得的なものだが、人間は目でも繋がる。自分以外の人や動物が惨殺されるのを見て、感情次元の抽象的な痛みだけでなく、肉体にじかに痛みを感じるということが人間には間違いなく起こる。
もう二十年以上も前のことだが、オランダ現代美術展が西武美術館で開催され、入って最初に展示されていたのが百号以上もある大きな油絵だった。そこに描かれていたのはキャンバス全体を横切る一本の指とその指先をナイフで切るように傷つけた先の尖った一葉の草だった。草の葉のギザギザした縁でうっかり指先を切ってしまった瞬間、それだけが百号以上のキャンバスに大きく描かれていたわけだが、その絵を見た途端、彼は思わず自分の右手の人差指を左手でかばってしまった。しかし左手でかばっても目からの傷はすでに彼の人差指に届き、彼の人差指は実際に草の葉で切ったように、一瞬だけだが、痛みが走った。
鋭いナイフで柔らかい肌をピーッと一筋切る映像などを見て、本当に切られたような痛みを経験したことのない人はいないだろう。あるいは、爪の下(爪と皮膚の間)に針をぐーっと突き刺す映像による痛み。そこに言葉による経験の貯蔵が介在していることは間違いなく、言葉を持ったことで人間は、視覚や聴覚による離れた地点での出来事までも、自分の痛みと感覚するようになってしまったのだ。
すぐ目の前で起こっているのに「俺のことじゃない。」と、無関係を装う一見合理的だったり科学的だったりする判断は、言葉を持った動物として生存する根拠を裏切る。人間は目も耳も鼻も皮膚も、すべて言葉を介在させて刺激に輪郭を与えて感覚たらしめているのだ。だから感覚に届く刺激は自分自身の肉体を襲ったものである必要はない。言葉を介在させて世界と繋がっているがゆえに、人間は肉体でさえも皮膚の外にまで延び広がってしまっている。早い話が、
「人生は自分一人のものじゃない。」
ということだ。
「人生が自分一人のものだったら、こんなにつまらないことはない。」
と言ってもいい。言葉は根本において、意味を伝達するなどという静的なものでなく、目や耳からの刺激を自分自身の肉体に襲いかかった出来事と混同させるという、暴力的な事態を人間の精神に引き起こした。そうでなくて、言葉が動物であった人間に刻み込まれたはずはないし、人間がこれほど言葉に魅了されるはずもない。
リンチの映画の、齟齬、ズレ、噛み合わなさに彼が惹かれてどうしようもない理由は、人間が視覚や聴覚によって繋がるということのリアルさによるのではないか。
『インランド』で、ひとり部屋で涙を流しながらテレビの画面に見入っている女性がいる。彼女は映画のはじまりすぐからテレビの画面に見入っていて、終わり間近で彼女がずうっといた部屋に入ってきたローラ・ダーンと抱き合う。
彼女が見入っていたのは、彼女自身の苦痛だ。ただし彼女が見入っているテレビの画面の中で、彼女の苦痛を生きてきたのは彼女ではなくローラ・ダーンだった。
前回の冒頭部で彼はいま書いたことと同じことを書いた。意味や情報としては同じことだが、しかし今回の長々とした迂回を経たことで、『インランド』という映画の体験=強度に対応しうる強度を前回と同じ言葉が今回は持ったのではないかと感じている。それは説明≠ニいうようなことではない。
指先が草の葉で切れた大きな油絵を見たその人が、絵の中の指先に対応する指先を持っていること。その指先には絵を見た瞬間に絵の中で描かれたことと同じことが起こること。
「真夜中」 No.5 2009 Early Summer
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