彼はこの「真夜中」でデイヴィッド・リンチについて書くあるいは考える一方で、「新潮」でカフカについて書くあるいは考えている。彼にとって、書くことはそのまま考えることと言ってよく、書くという行為によって拓かれる空間の中で彼は考えるという行為を持続させる。
「新潮」の連載は「カフカ『城』ノート」と題されているくらいで『城』が話題の中心だが、連載をつづければつづけるほど、ちょうどリンチについて考えれば考えるほどリンチの映画しか観たくないし、現に他の映画におもしろさを感じられないのと同じように、カフカしか読みたいと思わず、カフカにしかおもしろさを感じなくなっている。カフカばかり読みつづける日々を通じて一つわかってきたのは、フィクションはある仕掛け――といっても、はずみのようなことだが――で、たちまちはじまるということだ。
「仕掛け」「はずみ」、文章においてそれを持っているものを小説家といい、映像においてそれを持っているものを映画作家という。それと同じものを、画家も彫刻家もミュージシャンも持っていて、メルロ?ポンティが書き遺した、
「ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ。」
という事態が出来する。
「ソナタに奉仕する」「ソナタが彼を通して歌う」。この「ソナタ」に「フィクション」を置き換えればいいわけだが、具体的な作業としては、小説家なら「文章」、映画作家なら「映像」、画家なら「絵」、彫刻家なら「彫刻」、ミュージシャンなら「音」となる。映画の場合、ひとことで「映像」でなく、音も含むし、モンタージュも含まれるのは言うまでもなく、小説家にとっての「文章」、ミュージシャンにとっての「音」というのもそういうことだ。
この「フィクションに奉仕する」「フィクションが歌う」ということがわかっていない人たちは、たとえば絵を描くのに先立ってある考えを画家が持っていて、その考えを絵によって表現すると考えているのだが、そうではなくて、画家は絵によって思考する。
ここまではすでにいろいろな場所で書いてきたことだが、フィクションに奉仕する行為はフィクションがフィクションとして立ち上がる瞬間を照らし出しもする。フィクションとは健全な社会生活を送る人たちの暇つぶしや明日また社会生活に戻っていくために一日たまった負のエネルギーを発散させるガス抜きではない。これと同じ意味だが、世間でニートが増えればニートを題材にし、地方と東京との格差が問題となれば地方を舞台にしてその人たちの 心の闇≠描く、というような小説は、すでにじゅうぶん社会に流通している言説を強化するだけで、これをフィクションとは言わない。ここにあるのは社会に寄りかかった既存の概念による思考、というよりも既存の概念の組み合わせであり、思考と呼べるようなものではない。思考と呼ぶに値するものは、フィクションとして立ち上がる。
フィクションは思考の様態や世界の見え方にそれ以前と以後の切れ目を入れる。それゆえそこで起こっている思考を正確に言葉で説明することはできない。小説は言葉によって書かれるわけだが、小説の中で使われている言葉は小説を説明するために使われる言葉とは別のものなので、小説もまた映画・絵画・彫刻・写真・音楽・ダンス etc.、と同じく言葉によって正確に説明することはできない、というこれもまたあらためて言うことでもないが、二度や三度や四度や五度書いたくらいでは共有される了解にはとうていなるはずがないのでやはりあらためて書かなければならない。
つまり、リンチの『ロスト・ハイウェイ』で、刑務所にいる中年男が突然若者に入れ替わってしまうという事態それ自体を、言葉によって説明することはできない。なぜなら、私たちはいまだ、この入れ替わり以前の言葉しか持っていないのだから。
あるいはこうも言える。リンチの映画において、基本的にすべての出来事は説明不可能である。なぜならそれらは公理なのだから。
私たちは、Aさんが ×× アパートの二○三号室に住んでいて、いつもどおりAさんが二○三号室で就寝したら、翌朝ベッドで目覚める人はAさんだと、世界をそういうものだと思っているから、それに対して、「何故?」と訊いたり、驚いたりしない。つまり、それが私たちがそうだと信じている世界の公理だ。
この私たちの信じている世界の公理を、言葉にすれば、「前夜Aさんがベッドで就寝したら、翌日そのベッドで目覚めるのはAさんだ。」というようなことになるのだろうが、本当にそんな単純なことなのだろうか? 言葉にしたらその程度のことだが、私たちが公理として了解していることは、そんな単純なことなのだろうか?
さっき、「なぜなら、私たちはいまだ、この入れ替わり以前の言葉しか持っていないのだから。」と書いたばかりだが、以前・以後の問題でなく、もしかしたら、「公理とは言葉では言いあらわせない。」ということなのかもしれない。
この世界には、ある現象・出来事に対していっさい疑問をはさまず、その前で立ち止まったり戸惑ったりせずに、それをスルーすることができる現象・出来事等があって、Aさんの就寝〜目覚めがまさにその例だが、それがスルーされるかぎりにおいて、結果的にそれを公理と言えるのではないか?
いや、それでは話がリンチの映画と関係ない方へと離れてしまう。そんな認識一般のことについてリンチは考えているわけではないだろう。
映画は視覚優先の表現形式だ。基本的に。あくまで基本的にだが。たとえばこういう二つのセンテンスを並べたとき、
(A) 犬が歩く。
(B) 犬は歩く。
(A) は視覚起源のセンテンスで、(B) は視覚に拠らない一般論とか分類を意味するセンテンスという違いがある。
「犬が歩く。」という単独のセンテンスは日本語としては少し変で、落ち着きをよくするには、「犬が歩いている。」とか「犬が歩くのを見た。」という風に加工する必要があるが、加工されても「犬が歩く。」というセンテンスの持っている意味合いは変わらず、(A) のセンテンスは犬一般を指示しない。(A) のセンテンスにはあくまでも、出来事としてそれを見たという行為や一回性の反響がある。映画の本質はたぶんここにあるだろう。というか、映像として提示されるかぎり、人は必ず (A) の「が」のセンテンスとして受容しているだろう。
しかし人は (A) の「が」のセンテンスとして目撃しても (B) の「は」のセンテンスにたちまち加工して、出来事を一般論として安定させてしまう。映画が人の口から口へ伝わるときにはほとんど必ず「は」のセンテンスになっているだろうし、宣伝のコピーも「は」のセンテンスだ。
「携帯電話もパソコンもなかったけれど、あの頃、人々は幸せだった。」
『ALWAYS 三丁目の夕日』は確かこんな宣伝文だった。
「男は妻を殺害した容疑で死刑判決を受けた。」あるいは、
「妻を殺害した容疑で死刑判決を受けた男は、護送中の列車事故で逃亡した。」
『逃亡者』の宣伝文はたぶんこんな風に書き出されるのだろうが、ここの「は」は「が」に換えることもできる。「が」に書き換えたセンテンスがどこかすわりが悪いように感じられたとしても、それは馴れのせいでしかないだろう。私たちは「は」を使った宣伝文に馴れてしまっているのだ。しかし、次の宣伝文は「は」ではきっとおかしい。
「警官殺しの小悪党は、米国娘に惚れるが裏切られ、路上で射殺された。」
これはゴダールの『勝手にしやがれ』だが、映画を観た人ならきっと絶対に、この「は」は「が」でなければおかしいと感じる。つまり、
「警官殺しの小悪党が、米国娘に惚れるが裏切られ、路上で射殺された。」
この架空宣伝文自体がもともとアマゾンのDVDの内容紹介から借用したものだが、アマゾンに内容紹介を掲載したメーカーも気がきいていて、ちゃんと「が」を使っている。センテンスとしては『逃亡者』のそれと違っていないはずだが、『逃亡者』の宣伝文の響きを『勝手にしやがれ』に持ってくると、『勝手にしやがれ』でなくなってしまう。
では、リンチの映画はどうか? アマゾンのDVDの内容紹介を見ると、全体としては「は」が使われている。が、問題はここだ。なぜ、リンチは『マルホランド・ドライブ』や『インランド・エンパイア』のような錯綜した作り方をするのか? なぜ、『ロスト・ハイウェイ』での中年男から若者への入れ替わりのような、説明に困ることをするのか?
「は」で説明されたくないのだ。「は」による理解では破綻するように作っているのだ。だからといって、ただ「が」だけですんなり伝わるような映画を作りたいと思っているわけでもない。なぜなら、「は」による理解が破綻するものこそが、フィクション――フィクションがフィクションとして立ち上がる瞬間――だからだ。
つまり、処女が妊娠したという話だ。処女は妊娠しない。しかし、処女が妊娠したことは事実なのだ。
「神の子が死んだということはありえないがゆえに疑いがない事実であり、葬られた後に復活したということは信じられないことであるがゆえに確実である。」と書いた二世紀の神学者テルトゥリアヌス風に言えば、
「処女が妊娠したことはありえないがゆえに事実である。」
ということになる。
そこで小説や映画は、マリアの懐妊を題材にして話を作るのだが、それらの話にはすでに「ありえないがゆえに事実である」という、まさにフィクションがフィクションとして立ち上がった瞬間の響きがない。なぜそれが人々に受け入れられるに至ったのか彼には説明することができないが、処女のマリアが妊娠したという出来事はいまではすでに広く受け入れられてしまっている。
それだけでなく、いわゆるフィクション――つまりフィクションとして立ち上がる瞬間なしにフィクションとして自足している、約束事としてのフィクション――の中でなら、どんな処女も妊娠することがありえ、それに対して読者や観客は、「ありえない」という驚きを経験することなしに、マリア としてその妊娠を受け止めてしまう。
『ロスト・ハイウェイ』の、中年男から若者への入れ替わりの瞬間は、まさしくありえない出来事で、目は間違いなくそれを受け止めた。映画の中で、入れ替わり前夜の若者の行動が語られかけるが結局それは語られない。なぜ入れ替わったのか? あるいは、若者がなぜ突然刑務所の中で目覚めてしまったのか? その理由はついに語られない。観客は入れ替わりをそのまま受け入れるしかない。
あの入れ替わりに何か理由をつけてしまったら、私たちは「ありえないがゆえに事実である」ところの入れ替わりを、入れ替わり以前の思考様式によって歪曲することになる。ということは、結局入れ替わりはなかったことになってしまう。
私たちの目は確かにありえないことを事実として受け止めたのだ。しかしそれは、ものすごく受け入れがたい。しかし、受け入れるとは受け入れがたいことを、加工せず、一般化せず、そのまま受け入れようとするプロセスとその軋みのことなのではないか。違和感、異物感、それらをそのまま飲み込むことが「受け入れる」という行為の起源であり、それはそのまま、フィクションとして自足している約束事としてのフィクションでないフィクションが、フィクションとして立ち上がる瞬間とパラレルな関係にある。そんなことを誰も言っていないとしてもそうなのだ。
「は」のセンテンスと「が」のセンテンス。思考とは一般に「は」のセンテンスによるものだと考えられ、現に彼もいまこうして「思考とは」と「は」のセンテンスでそれを書かなければならない不自由さを生きているわけだが、「が」のセンテンスの思考もまた思考なのだし、もしかしたら「が」のセンテンスの思考の方が「は」のセンテンスよりも強いのかもしれない。
と、こんなことを書いているとリンチの映画がどんどんもっともらしく小難しく見えてきてしまうので、彼はこんなことはほどほどにしておかなければならない。
リンチの意図がどうであるとか、リンチその人がどのような真面目さで映画のことを考えているかとか、現場ではとんでもなく深刻な表情をしているとか、クソ真面目なことしか言わないかどうかなんて知らないし、全然真面目でないような感じで現場にいたとしてもそれも知らない。
とにかく大事なことは、リンチの映画にはいつもバカバカしい感じがついてまわっているということで、『インランド』で台本の読み合わせの初日、監督と一緒に入ってきた助監督のフレディが、椅子にすわったときにはすでにどういうわけか深刻そうな、物思いに沈んだような顔をしている、それだけで観客である私たちは笑い出したくなっている、そのような心の構えでリンチの映画を考えることを忘れたら、リンチの映画ではなくなってしまう。少なくともリンチの映画にバカバカしい笑いがなかったら、彼はリンチの映画を観ていないだろう。
きっとバカバカしい笑いが一つもなくなってしまったら、リンチの映画ではなくなっているだろう。バカバカしい笑いはリンチの映画にとって、きっと本質的な何かなのだ、バカバカしい笑いに本質があると言っているのではない。バカバカしい笑いなしには語れない何か、それこそが本質的な何かなのではないか、ということだ。ただただ真面目な顔をしていなければ伝わらないことなんてろくなものじゃない、なんてことまでリンチの映画にかこつけて言ってしまったら言いすぎになるが、そういうことでもある。
リンチの映画について考えていると、こんなことをよく考える。映画の中で、俳優が一人足りず、脚本や映画の意図とまったく無関係に、役Aと役Bが同じシーンに登場しないからという理由だけで、一人に二役をさせてしまったらどうなるか? 映画の意図にその一人二役は含まれていないのだから、作り手は一人で二役をしていることがバレないように、髪型も変えるし、必要なら肌の色やコンタクトレンズで瞳の色だって変える。発声法や声質も変える。しかしそういう加工にはどうしても限界があって、映画の途中で一人で二役をやっていることが観客にバレてしまう。
だいたい作り手だって、そんな姑息なことをしてバレないわけがないとどこかで思っているし、俳優が一人足りないまま見切り発車してしまうような人たちなのだから、どだいいい加減なところがあって、役者にほどこす変装の精度もたかが知れている。
しかしその映画を観る人は誰一人、「俳優が一人足りなかったから」とは思わないだろう。
「主人公の離婚した両親が一人二役だったのはどうしてなんですか?」とか、「母親役の ×× さんに父親役までさせたのは、この作品世界にエディプス・コンプレックスは存在しないということなんでしょうか? それとももっと単純に宝塚へのオマージュとでもいうようなものなんでしょうか?」
という質問が出てくるだろう。
というか、そんなことを考える以前に、母親役の女優が父親も演じていることに気づいた瞬間から、観客の頭の中は「?」「?」「?」でいっぱいになるだろう。しかし監督は渋い顔で、
「やっぱりバレてましたか……。」
としか答えない。が、その答えも質問に対するはぐらかしとしか思われない。
「やっぱりバレてましたか……。」と答える監督の顔は、『インランド』の助監督のフレディみたいな、これ見よがしな沈鬱な表情ではない。そんなことしたら、いよいよ意図があったとしか思われないだろう。いや、どういう表情をしようが、意図でそうしたとしか思ってもらえないわけだが。
こんなことを書いていたら、友人の長崎俊一が撮った16ミリの自主映画『ハッピーストリート裏』に、出てきてすぐに撃ち殺されてしまうギャング役で出演したときのことを思い出した。
廃ビルみたいなところで銃撃戦があり、彼演じるいかにもチンピラのギャングが脚の傷を押さえて逃げてくる。ということはつまり、そこで彼がフレームに入ってくる。廃ビルの片隅、彼は傷にうめきながら、片手に掲げてきた小さめの鞄くらいの大きさのカセットテープレコーダーのスイッチを押して――あの頃テープレコーダーはどれも大きかったのだ――沢田研二『LOVE〜抱きしめたい〜』を流す。
♪抱きしめたい 抱きしめたい♪
と、沢田研二の歌が十秒ほど聞こえてきたところで追っ手があらわれ、彼は撃ち殺される。
『ハッピーストリート裏』というのは、バンバン銃撃戦が出てくるような映画だったが、きわめてシリアスな映画だった。そういうことを、たったこれだけ言っても今では通用しないが、七〇年代末には、バンバン銃撃戦が出てくるような映画でもシリアスな映画でありえたのだった。
彼が出演したのは監督の長崎俊一と中学以来の友達だったからだ。そして彼は友達であることをいいことにして、「おれ、『LOVE〜抱きしめたい〜』をかけながら死にたい。」と言った。
長崎俊一はわりと躊躇なく、「いいよ。」と答えた。が、「イントロはカンベンしてくれ。大げさすぎる。せめて歌い出しにしてくれ。」と言うので、彼も「しょうがない。」とそれを飲んだ。
が、この場面だけがシリアスな映画で浮いていることは間違いなく、ある映画評論家は、
「ギャングが沢田研二をかけながら殺される場面は、シュールでついていけなかった。」
と書いた。もちろん仲間うちでは、その場面を、
「保坂はしょうがねえな、まったく……。」
と、笑っただけだった。その場面を難解だなんて誰も思わなかった。
かれこれ三十年経った今、七十分あった16ミリ映画を読者に観せもせずにこんなことだけ書いたら、場面そのものはともかくとして、端から見たら、あるいは客観的に見たら、唐突すぎて笑うタイミングを逸してしまうような場面をシリアスな映画に入れてしまったことこそが難解と感じられるかもしれないが、現場というのはそういうものだ。その現場に居合わせなかった人たちに不可解さのかけらもないような映画なんてありうるだろうか! いや、あったところで文句を言う筋合いのものではないのだが。そして読者に注意してほしいのは、こんなエピソードを書いたからといって、彼はリンチの現場を想像せよ、そうすればその想像から『ロスト・ハイウェイ』の入れ替わりが理解可能になる、なんてことを言っているわけでは全然ない。
「真夜中」 No.5 2009 Early Summer
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