『インランド・エンパイア』で、ひとり部屋の中でテレビに見入りながら涙を流している女の人が何回も映る。終わり間近、その部屋にローラ・ダーンが入っていって、テレビに見入っていた女性と抱き合う。涙を流しながらテレビに見入っている女性は映画の冒頭でもすでに映っていて、そのテレビにはこれから映画として映るローラ・ダーンの豪邸に向かって近所に引っ越してきたという小柄で気持ち悪いおばさんが歩いてくるのが映っている。
――と、こう書くだけでも、私が書いていることは『インランド・エンパイア』そのものよりもずっと整理されてしまっている。「整理される」というよりも「理解している」と言った方がいいか。
デイヴィッド・リンチの映画は、観る側が理解しきれないように作られているとしか思えないのだから、あることとあることを関連づけるのは仕方ないとしても、何かを理解したように書いてしまった途端に、リンチの映画そのものは遠ざかる。書く以前の「考える」ならリンチの映画は遠ざからない。しかし書くと遠ざかる。リンチの映画を遠ざからせないように書くにはどうすればいいのか?
「書く」と「考える」は同じことではない。私はだいたいいつも、考えるように書くことを心がけているというか、そういう風に書くことしかできないのだが、いまこうしてリンチの映画を書こうとすると、「書く」と「考える」の間に、こんなにも距離があり、二つはこんなにも異質なことだったのかと思う。今回、書く前に考えていたことが、文字として書きはじめた途端に台無しになっていく感じをついさっき私はもろに感じたのだが、しかしこの感じはリンチの映画の中にある何かと同じなのではないか? という感じが生まれてきてもいる。
『ロスト・ハイウェイ』で、観たすべての人にとって一番忘れがたい場面は、殺人犯として刑務所に入れられていた主人公の中年男が、ある朝青年に入れ替わっていたところだろう。
「どういうことなんだ?」と思いながらも、それを、つじつまが合った説明など必要とせずに、そのまま受け入れようとしているという気分がある。その説明が自分でできるとは考えられないが、その説明を映画の中でしてほしいとも思っていない。しかし、この映画のこのシーンを忘れずにいつまでも持ちつづけていれば、これをそのまま受け入れることができるような考え方なり世界の見え方なりが自分の中で生まれるんじゃないか? と、どうも私は考えているらしい。
中年男から青年へのあの入れ替わりは、私たちがいま持っている既成の言語や概念や倫理では説明することが全然できないけれど、しかしこの入れ替わりはこのまま納得できるような世界というか世界像というか世界の見え方というか、そういうものがいずれ私たちの中に生まれるんじゃないか、という予感というか遠い感触のようなものが私にはある。
現に映像としてはそれが起こり、それをなんとも説明しがたい興味ないし興奮を持って受け入れているのだから、そこにはリアリティと呼べる感触がある。映画や小説は、リアリティがあるからおもしろいのではなく、おもしろいものにはリアリティがあるんだという私の信念に照らしてもそういうことになるが、そんなことを持ち出す遠回りをしなくても、あの入れ替わりにはリアリティがある。
しかし心と言えばいいか思考と言えばいいか、とにかく私たちの持っているそういうものは、とても保守的であって、あの入れ替わりを言葉で根拠づけたいと思う、ということは「保守的」というよりも、依頼心が強いとか言葉に依存しているとか言った方がいい、そういう傾向を持っていて、入れ替わり以降のパートから入れ替わりを根拠づけてくれるものを捜しつづける。目が素直におもしろがっていたものを、言葉によって台無しにしようとでも望んでいるかのようだ。
『インランド』でラスト間近、涙を流しながらひとりテレビの画面に見入っている女性の部屋にローラ・ダーンが入っていって、二人で抱き合ったとき、私は「私の苦悩(苦痛)を生きた人とめぐり逢った。」と感じた。しかしこれはいかにも言葉らしくきれいに整理されていすぎるし、「私」「あなた」「人生」「苦悩(苦痛)」などの内実=時間の厚みが消えてしまってもいる。リンチは人が発する言葉が身体内部のベクトルをともなっているという誰もはっきりとは考えなかったことへの注意を映画の中で喚起するのだから、「私の苦悩(苦痛)を生きた人とめぐり逢った。」ぐらいの言い方では、三時間の映画のラスト近くに起こった、あの二人の出会いについて言えていない。
『ロスト・ハイウェイ』のはじまってわりとすぐ、アンディという男の家のパーティで、主人公の中年男のフレッドのところに、顔を白塗りにしたような不気味な男が、
「前にお会いしましたね。」
と言いながら近寄ってくる。
「覚えがないんだが、……。
どこで会ったと?」フレッドが怪訝そうに答える。
「お宅でですよ。覚えてないんですか?」
「まったく覚えてない。
確かに私の家で?」
「そのとおり。実際、今も私はあなたのお宅にいますよ。」
「今どこにいるんだって?」
「あなたのお宅ですよ。」
「君は狂ってるよ。」
男はフレッドに携帯電話を差し出し、
「私に電話を。(Call me.)」と言う。
「私はお宅にいます。
さあ、早く電話して。」
そして本当に、目の前にいる男の声がフレッドの家の電話からする。
「実際、今も私はあなたのお宅にいますよ。」
という台詞が言われた瞬間、観ていた私は、体の中の一つしかない矢印が二方向に向いて体に裂け目ができた気がした。
人はただ言葉をしゃべっているのではなく、体を担保にして体を使って、聞いたりしゃべったりしている。相手が「私」と発語したら、私の体の中の矢印は相手に向き、相手が「あそこ」と発語したら、体の中の矢印はどこか遠くに向く。そんな矢印なんか考えたこともなかったが、間違いなく人は体を運動させたり指示させたりして言葉をしゃべっているのだ。
こういうことを発語(音声)をともなわない文字だけでわかってもらうのは不可能にちかいことを承知で書くのだが、
「ほら、俺はそこにいるよ!」
と、ふつうの会話でしゃべることはありえない。こうして文字に書かれたこの台詞を読んだら、ほとんど自動的に読者は、「俺」が映っている写真かビデオの映像を思い浮かべているだろう。この台詞を写真やビデオがない――つまり、「俺」を「ここ」でなく「そこ」に切り取るフレームがない――、言葉どおりの、
「俺はそこにいる。」
というセンテンスとして、そのまま受け入れることはふつう人間にはできない。センテンスの構造としてはじつに単純で、文法的な間違いなんかどこにもないにもかかわらず、人はこのセンテンスをそのまま受け入れることができない。
もっとも、この例だけでは体の中の矢印の問題でなく、「俺」という一人称の特殊性とも考えられる。ではこれはどうか? 夏の夜、羽化寸前の蝉の幼虫が地面を這っていた。それを見つけたお父さんが子どもに、
「あ、これは蝉の幼虫だよ。ほら、蝉のぬけ殻と同じ形をしてるだろ?
一晩かかって、蝉がここから抜け出てきてねえ、明日の朝には蝉になってたんだ。」
どうだろう。ピンと来ただろうか。「明日」という言葉を受けてそっちに向いた矢印がポキンと中折れしたような気にならなかっただろうか。
劇作家で小説も書く岡田利規の『わたしの場所と複数』というのは、一人称なのに三人称的に別の場所にまで広がっていくおかしな小説だということは私はすでに他のところでも書いたけれど、岡田利規という人間そのものにどうやら茫洋とした広がりというか輪郭のあいまいさがあるらしく、彼と対談した帰り、渋谷から井の頭線に乗ると彼の芝居にそのまま出ていそうな若い人たちが電車の中のあちこちで声高にしゃべっていて、それが全部、岡田利規が仕組んだ情景のような気がしてしょうがなく、私は彼との対談の終わりのところに、発言のつづきとして、
「それで、この対談を岡田さんとした後にぼくは井の頭線で帰ったんだけど、電車の中で大学生くらいの子たちがあっちこっちでしゃべっていてさあ。「これ全部、岡田さんが仕組んだ演出なんじゃないか」って考えたんだよ。」
と書き足したくてしょうがなくなったのだが、ただそんなことをしても校正者に時制を直されるだけだと思ったからやめることにしよう。
「あれはいったいいつのことだったのか? きのうだったのか、あさってだったのか? 私は思い出せないんです。
もしあれがあさってだったら、あなたはそのときあのソファに座っていました。」
『インランド』で、引っ越しの挨拶をするためにローラ・ダーンの豪邸に訪ねてきた気持ち悪いおばさん――シナリオではREDHEADとなっている――がしゃべるのは、こんなような時間の混乱だ。
人間は「明日」という言葉を聞いた途端に、「明日」という領域をこれから語られる文章の残りの部分用に作り、そこに「未来」や「予定」を落とし込む体の構えをとっている。暗い道を走る車のヘッドライトに照らし出された三角形の光の領域のようなものが、「明日」「昨日」という言葉に即座に反応して心の中に生じ、それにふさわしい言葉しかその領域に入らない。――「体の中の矢印」を言い換えると、こういう感じだ。
気持ち悪いおばさんREDHEADが玄関に立つと、次は玄関からローラ・ダーンの豪邸の中をゆっくり眺め回すカメラになる。しかし、その次のシーンでわかるのだが、REDHEADはまだ邸内でなくドアの外にいる。では、豪邸の中を眺め回したついさっきのカメラは誰の視線だったのか? まだ中に入っていなくても、やっぱりREDHEADの視線だったのか。そうだとしたら、時間の混乱はすでに起こっていたのか。
それはさておき、こういう言い方もある。
「私の毎日の日課を大まかに言うと、朝八時起床、近所を約一時間散歩して九時過ぎに朝食。歯みがき・洗顔・ヒゲ剃りなどを済ませて十時頃から執筆。昼食はとらずだいたい五時まで仕事をして、それから夕食の買物がてら約二時間散歩。七時から夕食を作った。」
「作った」の一語で、日課が個別の出来事に閉じてしまう。あるいは逆に、個別の出来事として開いてしまったのか。
『ロスト・ハイウェイ』で、顔を白塗りにしたような不気味な男は後半ふたたび出てきて、小さなビデオ・モニターを手に持っている。「俺はそこにいる。」とか「明日になったら蝉の幼虫は羽化していた。」とか「私の日課は……夕方七時から夕食を作った。」というような、言葉を持っている体の構えが外されるセンテンスに出合うと、こちらの体の中の何かが外化されるように私は感じる。不気味な男が手にしている小さなビデオ・モニターがその外化と対応している――というようなことは話を急ぎすぎだし、「対応している」とまでは今のところ私は思っていない、というかそんな簡単な対応はたぶんないだろう。話は急がず、ゆっくり進めないとリンチが思い描いている(ないしは、リンチもちゃんと思い描いているわけではない)像はあらわれてこない。
リンチの映画を熱心に観るようになったのは去年の夏だったというのはすでに書いたが、その頃、テレビで『リング』だったか『らせん』だったかを放送していて、そのラスト十分間ぐらいをたまたま見た。真田広之がテレビの画面から這い出てきた幽霊みたいなのに殺されるとかそういうやつだが、そのラストを見ながら、というか見終わったとき私は、
「あれ? オチはないの?」
と、つい感じてしまっていたのだった。「この大まじめぶった結末を全部チャラにしてしまうような付け足しはないの?」という意味だ。そしてすぐ、「そりゃあそうだよな。リンチじゃないんだから、そんなことするわけないよな。」
と、自分の気持ちを調整しなおしたのだが、この「全部チャラにしてしまうような付け足し」というのはどういうことなのか。これは、
「え? これで終わっちゃうの? どこで笑えばいいの?(笑うところがないじゃん)」
と同じ意味だ。
リンチのラストで笑うところがあるとしたら、『ワイルド・アット・ハート』ぐらいのものだろう(しかし、実際に笑う人はきっといない)。では、実際に私が笑ったのはリンチのどこか?
まず最初に思い出すのが、『マルホランド』のウィンキーズの店の裏でホームレス風の男が突然あらわれたところ。次にカウボーイが映画監督のジャスティン・セローに「私の言ったことを聞いてないだろう。」と言ったら、ジャスティン・セローがちゃんと聞いていてカウボーイの台詞を復唱できたところ。『ブルーベルベット』の、デニス・ホッパーが唇に口紅をべたべたに塗ってカイル・マクラクランにキスしまくったところ。『ロスト・ハイウェイ』で、室内が映っているビデオを見た中年男フレッドとレニーの夫婦が二人組の刑事を呼んだときの刑事の無表情ぶり。これと同じ笑いなのだが、『インランド』で顔に痣を作ったローラ・ダーンが自分が受けた暴行を憎々しげにしゃべるのを聞いていた、眼鏡がやけに曲がっている男の無表情ぶり。
しかしなんといっても一番笑ったのは『イレイザーヘッド』のあの気持ち悪い赤ん坊が、「ウパ……」「ミュウ……」というようなかわいい声を出す
ところだ。私は自宅で一人でビデオを(それもごく最近)見ていたのだが、あの赤ん坊の声が聞こえると笑いが止まらなくなる。おかしいから笑っているというよりも笑うしかないから笑っている。笑うことで赤ん坊の気持ち悪さが緩和されるかと言ったらそんなことはなく、笑うことでいっそう赤ん坊は気持ち悪くなる。
が、いったんそう書いてみたあとで、あれこそが、あるいはあれもまたひとつのユーモアというものであり、赤ん坊が「ウパ……」「ミュウ……」とかわいい声を出すところはやっぱり純粋におかしいのかもしれない。そして笑うことで赤ん坊の外見の気持ち悪さそのものが緩和されることはないにしても、笑いを自分がしているという事実が心の余裕のようなものになって(錯覚かもしれない)、赤ん坊の気持ち悪い外見を笑う前よりもしっかりと見ることができている。
映画の中の変な生き物で私がいままで一番気持ち悪かったのは、イザベル・アジャーニ主演の『ポゼッション』の、イザベル・アジャーニが秘かに産んで育てた怪物の、二度目に映ったときの体長三〇センチぐらいのときの姿で、たしか二、三秒しか映らなかったけれど、正視に耐えなかった。映った瞬間、「ゲッ!」と思うほど気持ち悪く、すぐに目をそむけたくなった(と記憶している)のだが、「目をそむける」のと、え? 何? どんな姿なんだ? と思って、姿を確認するために「もっと見る」という、二つの選択肢を選び取る前に、怪物を映したカットは切り換わっていて、二度と映らなかった。
『ポゼッション』は笑うところのない真面目な映画だったけれど、最後にイザベル・アジャーニより大きくなった怪物がイザベル・アジャーニとセックスしているカットは、しかし笑うしかないようなものでもあった。イザベル・アジャーニという人はどうしてこういうゲテモノ映画に好んで出たがるんだろう? イザベル・アジャーニのファンである私は片思いの同級生の家族が夕食に芋虫を食べているところを思いがけず覗き見た、とでもいうような気持ちになってしまった。
思えば『ポゼッション』のあの怪物が気持ち悪く、それを見たこっちの気持ちに逃げ道がなかったのは、「目をそむける」か「(確認するために)もっと見る」の選択肢が猶予なく奪われたからではなかったか。一方『イレイザーヘッド』では、笑うことによって「もっと見る」ことが可能になり、実際あの赤ん坊は長い時間映るのだから、客が「もっと見る」ことが可能になるように笑わせようとした、ということなのかもしれない。
「見るために」笑わせる(『イレイザーヘッド』)。「見せると同時に」笑わせる(『マルホランド』のホームレス)。笑わせて「印象づける」(『マルホランド』のカウボーイ、『ロスト・ハイウェイ』『インランド』の聞く側の無表情)。という風に実際こうして整理して書き出してみると、学生のレポートのようで全然おもしろくない。自分の関心の対象であったはずのものが、こういう風に書き出してみると、あっという間に遠のく。しかし、頭の中ではいつもこういう風な整理をしてもいる。しかし、これは書き出してみてわかるのだが、整理するようなことではなく、方向性を与えずにただ頭の中にプールさせておくべきものだということらしい。それはきっと全然別なところでポンッと発酵するのではないか。
とにかく言えることは、リンチではいつどこで笑いが襲ってくるかわからない。その笑いはリンチを見る喜びのひとつであることは間違いない。が、それを“リンチ的リアリティ”と呼んでしまっていいのかはまだわからない。リンチの笑いは、進行中の映画ともしかしたら無関係のものなのかもしれない。つまり、進行中の映画の出来事のリアリティを強めるとかはぐらかすとか、そういう効果とか意味伝達とは全然関係なく、進行中の映画と並行して独自に別のことに向かっている関心や感情をリンチが持っていて、そこから降りかかる笑いとでも言えばいいか。しかし、そんなことが現実にはあるだろうか。
「真夜中」 No.4 2009 Early Spring
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