デイヴィッド・リンチ『インランド・エンパイア』のことを書きたい。『インランド・エンパイア』(以下、『インランド』と略す)は観るたびいろんなことを考えて、考えが次々出てきて止まらなくなる。私はそれを全然制御できないのでこれから何回かにわたって書く予定のことも全然まとまりがない。その最たるものが、ローラ・ダーンが顔に痣をつくって、眼鏡がやけに曲がっている男に向かって話をしている場面だ。彼女はかつて男にレイプだったかレイプまがいの乱暴だったか、そういうことをされた時の話をしていて、それを見ながら私は、
「どうして性器は排泄器官といっしょになってるんだろう。」と不思議になってしまったのだった。
性器が排泄器官といっしょになっていなくて、服や下着で隠すようなものでなければ、レイプされることも、レイプされる苦痛を経験することもこの人はなかったのに。しかし人間だけでなく、思いつくかぎりすべての動物はセックスとウンチ・オシッコの場所が同じところにある。これはどうしてなんだろう。
思えば私は、『インランド』のこのシーンを見るまで、セックスする場所とウンチ・オシッコをする場所が同じであることを不思議だと思ったことがなかった。だいたい人間にとって恥ずかしいのはセックスの方なのか? 排泄の方なのか? 排泄器官が欲情してしまうことなのか?
リンチの映画は私にとって全体にその傾向があるのだが、とりわけ『インランド』は、現実とフィクションがどちらも円環を閉じない。口を開けている。
現実というのはただ現実として人間の前にあるのではなく、それが人間が経験するものであるかぎり、現実としてのつじつまが合っているように人間は感じているのだが、それは現実が現実だけで自律的につじつまが合っているわけではなく、人間がもう一方で築き上げたり語り継いできたものであるところのフィクションの力を借りて、現実としてつじつまが合っているように人間には見えている、ということだ。こういうことを私はいままで全然考えなかったようなタイプの人間でなかったことは確かだけれど、リンチを見てとりわけ切実に感じる。
『マルホランド・ドライブ』(以下『マルホランド』と略す)で、ジャスティン・セロー演じる映画監督が製作サイドの要求が気に入らなくて、会議室を飛び出し駐車している製作の偉い人の車のフロントガラスを割って、そして家に帰ったら女房が浮気していてそれにまた腹が立って……というようなことをやっていたら彼は突然クレジットカードが使えなくなり銀行の預金残高もゼロになり、という目に遭って、カウボーイに呼び出される。
「カウボーイって何のことだよ。ふざけた話だ」と思ってその場所まで行くと相手は本当にカウボーイで、カウボーイが、
「人の態度はある程度その人間の人生を左右する。
そう思わないか?」
と言う。ジャスティン・セローが「そうだな」と言うと、カウボーイが、
「話を合わせてるだけだろ。
それとも考えた上で正しいと思って同意したのか?」
と訊き質してくる。ジャスティン・セローは、
「正しいと思ってるよ、心から。」
と答える。カウボーイは、
「何を?」
とさらに訊いてくる。(この「何を?」はWhat I say.と私には聞こえた。)
ここで私はすでについさっきカウボーイが何と言ったか忘れていた。こんなことを唐突に言ってくる男の言うことは、カウボーイ自身が言うとおり、話を合わせているだけでまともに聴いているはずがない。
ところがジャスティン・セローはちゃんとカウボーイの言ったことを憶えていて、
「態度がその人間の人生を決める。」
と答えたのだ。私は驚いて、笑ってしまった。梯子を外されたというか、関節を外されたというか。リンチのフィクション観が通常のフィクションの受容され方とズレていることをこのやりとりは如実に示している。
ふつうのフィクションではこのやりとりで、ジャスティン・セローはカウボーイの言うことを絶対にまじめに聴かない。私は「絶対に」と断言してもいい。観客もたぶんちゃんとは聴いていないだろうが、観客のことは置いておくとして、しゃべっているカウボーイ自身も自分の言うことがふつうのフィクションにおいては相手がまともに聴かないことをよくわかっている。だから「話を合わせてるだけだろ。」と言ってくる。
しかしカウボーイはフィクションの外から来た。フィクション内の一登場人物ではなく、ジャスティン・セローの運命を知らせに来たと言えばいいか、ジャスティン・セローの為すべきことを教えに来たと言えばいいか。ジャスティン・セローがふつうフィクションだったら聴いていないはずのカウボーイのこの言葉をちゃんと聴いて、復唱することができたということは、カウボーイが、ジャスティン・セローがいまいるフィクションの外から来たことをジャスティン・セローが理解したということだ。
それで、カウボーイは何者なのか? とか、カウボーイが何を意味するのか? というようなことは私は全然関心がない。もともと『マルホランド』という映画はどういう構造になっているか? ということにも私は関心がないし、この映画の時間の配列がどうなっているか? ということにも関心がない。それはただの謎解きで、こういう謎解きを設定した途端に、その謎をすべて説明できる存在がこの映画の外に、なんと言えばいいか、"無傷で"いることになってしまう。
フィクションを作るかぎり、その作り手もまたフィクションの中にいくらかでも住むことがフィクションから強制される。ひとりの人間が完全にコントロール可能なものなんてタカが知れている。フィクションで自分が描いたすべてを作り手は理解できているわけではなく、フィクションの細部すべてに自分の意図があると作り手が思っているとしても、その意図を生み出したもののすべてまで作り手が理解できているわけではない。
ジャスティン・セロー演じる映画監督とカウボーイは住んでいるフィクションの層みたいなものが違っている。しかしそれはメタフィクションとか、"入れ子構造"というようなわかりやすいものではない。それではフィクションはフィクションとして安定してしまう。カウボーイの登場は、"フィクションのほつれ"なのだ。というか、カウボーイが登場することでフィクションがほつれる。
友人Kが五年くらい前にこんなことを言った。
「小説の登場人物って、文字の中にいるだけで生きてるわけじゃないだろ?」
「え? どういう意味?」と私が訊き返すと、友人はびっくりした顔で、
「え? 生きてるの?」
と言い、その顔に出合って私は彼が言っていることの意味がわかった。
それはそうだ。小説の登場人物は現実に存在しているわけではなくて、ただ文字の中にしかいない。その文字の連なりを読んで、読者はその人の姿を思い描き、その人に思い入れをして、心配したり、一緒になって腹を立てたりするのだが、その人が現実の世界に生きているわけではない。
「その登場人物が、自分が文字の中の存在でしかないことに気づいたら、どうなるかということだよ。」
この友人Kの考えもまたメタフィクションではない。登場人物が自分が文字の中だけの存在であって生きているわけではないことに気づく瞬間に読者として出合ったときの驚きとはどういうものなのか。ボルヘスだったら読者である自分もまた、もうひとつのフィクションの中の存在であったことに気づく、というようなことになるのだろうが、それではフィクションとして閉じられてしまう。
読者である自分自身はフィクションの中の産物ではないというのは動かしようがない。しかしそれに出合った瞬間に、自分の方に何か亀裂が生まれるだろう。その亀裂をフィクションのように解消することはできない。『マルホランド』のカウボーイに出会ったのは、ジャスティン・セロー演じる映画監督であって、観客である私ではない。私は私自身の人生の中でカウボーイやそれに相当する人物に出会うことは絶対ない。「カウボーイに出会ったらどうなるか?」という考えはフィクション――このフィクションは古いフィクションだ――に逃げ込むものであって、現実のものではない。観客である私は、ジャスティン・セローがカウボーイとやりとりするのを見ながら、別の何かに出合った。
今さら言うまでもないが、カウボーイは『オイディプス王』に登場する、オイディプスの運命を言い当てる予言者とは全然違う。作品の構造において、予言者はオイディプスと完全に同じフィクションの層に住んでいる。だから予言者はオイディプスの運命を変えられない。しかしカウボーイはジャスティン・セローの今後に積極的に介入する能力を持っていた。カウボーイは、
「ここで作者として一言説明しておきたいのだが、映画監督は製作サイドの言い分を聞き入れないかぎり彼の居場所はないのだ。」
という風に、作品の外から作品の進行に関して口をはさむ作者とも全然違う。作者がこういう風に口をはさんでも、作者のその声が聞こえているのは読者だけであって、作中人物には作者のその声は聞こえていない。しかしカウボーイの声は作中人物であるジャスティン・セローと観客の両方に聞こえている。
ではカウボーイは魔法使いか悪魔か何かなのか?「私がこれから言うことをおまえが聞くなら、私はおまえの望みをかなえてやろう。」とでも言ってくる。
この線が一番ちかいのかもしれないが、「魔法使いはないだろ?」という気持ちがまず一番に出てくる。魔法使いはふつうの映画には出てこない。しかし予言者なら出てきていいのか。たぶん出てきていいのだ。フィクションであるかぎり、映画や小説はこれから進むであろう物語の可能性を観客や読者に情報として早い段階で与えておく方が、関心の指向性を強化する、平たく言えば、興味を煽ることができる。予言はそういうものとして機能する。これも厳密に言えばフィクションの小さなほつれだが、しかしこのほつれには観客の関心があまりにすっぽり嵌ってしまうために、観客はそれがほつれであることに気づかない。
もちろん予言者が出てきて違和感のないフィクションとあるフィクションがあるわけで、たとえば小津安二郎の『東京物語』や『晩春』に予言者が出てきたらマズい。小津安二郎の映画には、「おがみ屋」の類いも出てこないし、新興宗教の熱烈な信者も出てこない。考えうるとすればせいぜい「胸さわぎ」ぐらいか。しかし思えば、予言者が出てくる余地がまったくないと思わせる映画は小津安二郎の他にあるだろうか。全然能力のない口実だけの予言者や気がふれておかしなことを口走る予言者風の人まで含めれば、ほとんどすべての映画には予言者が出てくる余地はほんの少しでもあるのではないか。
しかし魔法使いや悪魔となると話は全然違う。どうしてこんなに違和感があるのか不思議なほど魔法使いや悪魔には違和感がある。『ファウスト』にはメフィストフェレスという悪魔が出てきて、主人公の運命を方向づける(しかし私は『ファウスト』を読んでないのだが)。しかし『ファウスト』はファンタジーに分類されるだろう。ホフマン『砂男』の晴雨計売りも悪魔みたいな存在で主人公を破滅させるが、『砂男』もファンタジーに分類されるだろう。ガルシア=マルケス『百年の孤独』には行商人のような魔法使いが出てくるが、この魔法使いは作中人物の運命を方向づけたりしない。
魔法使いや悪魔が出てくるとファンタジーということになってしまう、という一般的了解があるようだ。ではなぜファンタジーには魔法使いが出てきてもいいのかというのは話が逸れすぎるが、魔法使いが出てくる余地があることによって『百年の孤独』は「魔術的リアリズム」という特異な、私にはその場しのぎとしか思えないような、名称が与えられ、カフカ『変身』は変身なんて魔法のようなことが起きてしまうことによって「寓話的」という、これもまた「これはふつうの小説じゃないんだから」という形容が与えられることになった。
しかしファンタジーなら何でもありかと言えばそんなことはないわけで、ファンタジーでも絶対にあってはならないのが、友人Kの言う「登場人物が、自分が文字の中の存在でしかないことに気づく瞬間」だ。ジャスティン・セローがカウボーイとするやりとりはこれなのではないか?
『インランド』では、これほどはっきりした場面はないと、いまのところ私は思っているけれど、少し別の感じで、ある。うさぎ人間ではない。うさぎ人間は登場人物たちと出会わない。最初のところに出てくる近所のおばさんでもない。このおばさんは予言者の方だ。『マルホランド』でもアパートの住人で予言めいたことを口走る、気がふれたような女が出てくる。近所のおばさんはこの人よりずっと強烈な役割りを果たすが、カウボーイでなくこっちに近い。『インランド』でフィクションをほつれさせるのは、ハリー・ディーン・スタントン演じる年とった助監督だ。倉庫のような撮影所で台本の読み合わせをしているときに、彼が、
「あれは何だ。」
と言う。助監督は主役の二人が真剣に台本の読み合わせをしているあいだ、主役の二人のことも台本も見ないでずっと奥の方を見ていたというわけだ。
助監督が見たのが迷い込んできたローラ・ダーンであったということがわかるのはだいぶあとのことで、この時点では助監督が見たものが何であり、それが何を意味しているか、観客にはわからない。そして次に助監督のしたことが何かと言えば金を借りることだった。
このシーンより前、ジェレミー・アイアンズ演じる映画監督が、最初にスタッフを主役の二人に紹介したときに、「この業界では情報が重要で、ここにいるフレディ(助監督)は情報を集めている」というようなことを言うのだが、撮影現場で助監督は何もしていない。ただキャストとスタッフから金を借りるだけ。
「情報を集めている」という監督の言葉が、迷い込んできたローラ・ダーンを目ざとく見つけるその瞬間を指すかどうかはわからない。劇中の言葉を出来事にいちいち対応させるのは深読みしすぎというものだろう。助監督は終始一貫、心ここにあらずで、みんながいる輪の外にいる。はっきり言えることはそれだけだ。しかし、それがただごとではない。ただ輪の外にいるだけでなく、彼は"インランド・エンパイア"という名前を持った映画として当面進行していて私たちが観客としてそれを観ている、ある約束事が想定されているフィクションの外にいるのだ。もっとも、助監督にはカウボーイのような魔法使いか悪魔に似た能力はないけれど。
「真夜中」 No.2 2008 Early Autumn
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