意識とか心とかとは何なのか。それへのものすごい興味が喚起されて、何冊か本を読んだのは十年前から二、三年前くらいまでだっただろうか。このエッセイを依頼されて「はい」と答えたにもかかわらず、私はすでに意識とか脳に対する興味をほとんど失っていて、、、興味を失うというのは怖いことで、熱心に本を読んでいた頃に自分が何を期待してそれへの興味を持っていたのか、ということを忘れている。つまり、その興味を私の中でいきいきと活動させていたその基盤が、いまでは私の中で蘇ってこない、、、ということなのだが、飛躍した言い方をすると、意識とか心とかいうのはそのことなのだ。 脳は今でもどんどん解明されている。脳というのはおもに、解剖学的な地図とそこで流れる化学物質のことで、その部分はどんどん解明されている。今ぐらいまで解明されていない十年ぐらい前までの段階で、すでに脳を知ることはじゅうぶんに面白く刺激的だった。素人の知識はまず、脳というのは“精神”とか“魂”とかとだいたい同じようなもので、前頭葉だの海馬だのウィルニッケ野だのという言葉を聞いても漠然としていて、リアリティがあんまりない。しかし本を読んで知識が増えるにしたがって——というか、そういう本の著者が前提としている“解剖可能な脳”という考え方が、本を何冊か読んでいく過程で、こちらにも身について——、脳の像がそれ以前と違ったものになっていて、いよいよ脳が解明されることへの期待が高まる。というわけなのだが、、、 そこから先の、脳が脳たりえている肝心のところがいっこうに見えてこない。脳はただ解剖学的な地図とそこを流れる化学物質を解明するだけでは脳たりえず、脳を脳たらしめている“何か”がなければ脳としての活動が起こらない。つまりそれが「心脳問題」ということなのだろうが(というか、私は勝手にそういう風に解釈しているのだが)、そこでいっぺんに手詰まりになってしまい、私の興味もさーーっと引いてしまい、、、そこで私はハイデガーを思い出した。 ハイデガーは『存在と時間』で、まず人間がこの世界に存在している感じを、空間との関係を拠り所にして書いていった。しかし人間というのは空間的に存在している以上に時間的に存在しているわけで、その感じを書こうとしたがうまく書けず、その後、ハイデガーはケーレ(転回)を経て、芸術作品の解明に向かった。というのが、正規にハイデガーを研究したわけではない私の我流の解釈だが、ハイデガーが芸術作品の解明に精力を注ぐようになったというのは、意識の解明の手詰まり状況を見ていると、“必然”としてよくわかる。というか、脳の研究が広く注目を集めたときにみんなが知りたかったのはそこだったのだし、脳の科学者たちが本当に解明したいのもそこだったはずなのだ。 音楽を音楽たらしめているものは何なのか? 絵を絵たらしめているものは何なのか? 昔だったら、“音楽家の魂”とか“絵画のオーラ”と言えば済んでいたかもしれないが、近代人である私たちは、物質を離れて物質と別に“魂”や“オーラ”という次元があるわけではないことを知っている(少なくともそういう世界観の中で生きている)。音楽も絵も物質以外の何かでできているわけではない。そこには徹頭徹尾、物質しかない。 しかしそれなのに、一方には退屈なだけの演奏があって、もう一方には私たちの人生の多くの時間を呼び覚ますような演奏があったり、人生の時間とは完全に別に屹立しているような演奏があったりする。ハイデガーの「存在」という概念は、そのような、「音楽を音楽たらしめているもの」という風に考えるべきだろう。「存在」というのはふつう「在るを在らしめているもの」という風に言われるけれど、それでは漠然としすぎている。それからもうひとつ、この「在るを在らしめているもの」という言い方には欠点、というか落とし穴がある。 心脳問題の本でよく引かれている実験だが、カウンセリングのようなことができる機械があって、しかしじつはその機械は、質問者の質問に鸚鵡返しに応えたり、「はい」とか「なるほど」とか「もう一回言ってください」とか適当にプログラムされた返答をランダムに応えたりするだけなのだが、質問者は回答する機械に知能があるとすっかり思い込んでしまう(ところで、「鸚鵡返し」とか「なるほど」「あ、そう」という同意とかは、カウンセリングでは確立している技法でもあって、質問者とのコミュニケーションを築いていくうえで、こういう単調なやりとりは案外効果を持っているということで、人間(のコミュニケーション)とはこの程度に単純なものだ、とも言えないわけではないのだが、、、)。その実験を肯定してしまうと、人間の内部をいっそのことブラックボックスと考えて、局面に応じて、それにふさわしいやりとりさえできれば「それは人間と言えるんじゃないか」という考え方が成り立ちうる。 心脳問題の本ではその実験は否定的に書かれていたはずだけれど、人工知能が今よりずっと発達して、だいぶ人間にちかい思考ができる“人間もどき”が作られるような時代になったとき、その開発を推進した側は“人間もどき”を「局面によっては人間の役割を代行させることができる」と主張するのではないか。あるいは、その程度のことができればそれを“人間”と呼んでもかまわない、というような人間観が生まれてくるのではないか。 人間と“人間もどき”の差は何なのか? 「“人間もどき”は人間ではない」と言える根拠は何なのか? そのとき、ハイデガー式の「音楽を音楽たらしめているもの」という、焦点を絞った設問を立てる方が紛らわしさを断ち切る力を持つ。 いや、実際には人間というのは基本的に無能者の集団で、モーツァルトとかバッハとか、ほんの一握りの天才が成し遂げた成果を「自分たちの成果」とカン違いしているわけだけれど、、、人間とは一握りの天才が成し遂げた成果をある種我がことのように錯覚して、その高みから自分を測るものなのだ——ということを忘れてしまったら、心脳問題はずるずると人間の価値を引き下げることにしか貢献しなくなってしまうだろう。 音楽でも絵でもダンスでも小説でも、すべての表現は要素に還元しうる。しかしいくら要素に還元したところで、「ダンスをダンスたらしめているもの」「小説を小説たらしめているもの」は見えてこない。要素に還元するのはひとつの有力な方法であることは間違いないけれど、要素への還元というのはなんというか自己目的化してしまうところがあって、そもそも何が知りたくてそれを始めたのかを当事者に忘れさせてしまう危険をつねに孕んでいる。 人間と“人間もどき”の差は、局面への反応の違いでもなければ、要素の違いでもない。そういう現時点での記述可能性で測れるようなものではなくて、なんといえばいいか、人間が「人間を人間たらしめているもの」「精神を精神たらしめているもの」を内側から見ようとする意識を持つことにしかないのではないか。この同語反復的で秘教的な言い方を超えた思考法を見つけられなければ、人間は“人間もどき”との差を主張できなくなる。 私が心脳問題への興味をなくしたのは、しばらくは意識の解明へのブレイクスルーは出てこないだろうと思ったからだ。意識の解明というのはやっぱりあまりに難しすぎる。しかも一方では、地図を作成したり、脳内物質を調べたりという、要素への還元はどんどん成果が上がっていて、成果が上がれば上がるほど、「脳を脳たらしめているものは何か?」という根本の疑問が覆い隠されていくように思える。 しかしそこで我身に振り返ってみると、私自身は「小説を小説たらしめているもの」を考えることの代償行為として、意識の生成に興味を持っていたのだということに思い当たった。……というか、はじめに書いたように興味とはそれが薄れてしまったら興味を作り出していた基盤が何であったのかということまで一緒に消えてしまうものなのだから、「意識とは何か」という疑問を経て、それへの興味をなくすことによって、「小説を小説たらしめているもの」「芸術を芸術たらしめているもの」という設問が、意識に関心を持つ以前よりずっと強く生まれてきたということになるのではないかと思う。 「小説を小説たらしめているもの」という設問は、「意識とは何か」という設問と同じだけ解きがたいけれど、それぞれのジャンルにいる人間がいっせいにそれを考えようとすることが、全体として何かブレイクスルーを生み出しうるのではないか? ——というのが、いまの私の居場所だ。「意識とは何か」というハードプロブレムと、「小説を小説たらしめているもの」という設問はつまり、同じ時代の同じ基盤から生まれた設問で、人間の帰趨も芸術の帰趨も、その設問に対する回答の達成にかかっているのではないかと思う。 |