一面識もない人から句集が送られてきた。経歴を見ると、昭和四年生れ、女性。 私は自慢じゃないが、自分で俳句を作ったのは中学のときの一度しかない。俳句・短歌・詩、それら韻文から極力遠いところで、だらだらだらだらと書くのが私の小説のスタイルであり、「韻文的な美学にだまされないようにしつこく考えつづけるのが小説というものなのだ」とつねづね主張している。 しかし俳句・短歌・詩を嫌いなわけではない。そら【そらに傍点】で言える句だってけっこうたくさんある。今回、まったく何も知らない人から届けられた句集をぱらぱらとめくりながら、俳句の魅力の別の側面を発見した。 俳句というのは当たり前だがものすごく短い。短いからスケッチのように淡泊になるのではなく、短いからこそぎゅっと詰め込まれるのだ。かりにスケッチのようなものだとしても、それが俳句となると、その花や景色を見ている人の存在、もっと言ってしまえば「人間として生きた時間の厚み」が対象を見る視線に凝縮される。 芭蕉や虚子や子規など有名な人の句は、何と言えばいいか、作品として昇華されている分、かえって作者の人生の時間の厚みが薄れているような気がする。しかし、こちらがその人について何も知らない句はかえって、その人自身と出会う体験のように感じられる。 山歩きの途中でたまたま一緒になった人みたいだと言えばいいだろうか。ある人は、歩いているあいだ一貫して視線が高く、空の青さや雲の流れに関心があり、それを形容する言葉にも精通している。また、ある人は、道の傍らの草花をとても注意深く観察していて、名前もたくさん知っている。壮大な視線と細やかな視線、どちらにも人生の反映がある。 外に向かう関心のあり方で、その人の内省が表される。送られてきた句集をめくりながら、私はしばらくその人と対話した気持ちになった。 |