――評論家には小説のことはわからない、と保坂さんは前からおっしゃっていますね。その真意をうかがえますか。 保坂 評論家だけじゃなくて、新聞記者にも編集者にも小説家が考えていることはわからないと言ったんです。本当は、最初に言ったのは小島信夫さんなんだけ どね。デビューしてすぐ、小島さんがそう言うのをじかに聞いて、すごく開放感があった。評論家の読み方と自分の実感との齟齬が大きいと、特に最初のころ は、自分の書き方が悪いのか? と思いがちなんです。でも、そうか、評論家にはそもそも小説家が何を考えているかはわからないんだ、と思うと、すごく自由 な感じがした。頼りになるのは書いているときの自分の手ごたえ(手ごたえに傍点)で、それを信じろということなんです。自分を信じろというのとはちがいま すよ。確かなものは、瞬間瞬間にしか訪れないから。 評論家は、小説というフレーム、音楽や絵というフレームがあると思っていて、事前の基準に沿って作品を見てしまう。でも、つくっている側にとっては、い つもその都度その都度まったく新しいものなんです。ぼくの書くことは実作者の方にしか向いていないけれど、読む人にも、その言葉のほうが通じやすいと思 う。読む人も、実作者的に読むか、評論家的に読むかという違いがあって、評論家的に読んでいると、作品自体ではなくフレームの方ばかり見てしまうことにな る。それでは本当に読んだことにはならない。 実際に書きながら考えているのは小説家だけだ、それをきちんと伝えるための連載だった気がします。結果的に、「小説論」という新しいジャンルを立ち上げら れたんじゃないかと思う。 ――小説論は評論とはちがうわけですね。 保坂 そう。かといって小説とも違うんだけど、評論よりは小説のほうにだいぶ近い。小説を読みながら自分の経験や考えを総動員していくという、読むことと 書くことと考えることが渾然一体となって進むようなそういうジャンルがある、そのことは言えた気がする。 ――小説というのは、小説家の実感で言うと、どんなものですか。 保坂 書いている本人もわからないくらい遠くからの声に従って、その声に応えるように書く。そのことによって、書く前よりも遠くに連れていかれる実感があ る。小説を読むおもしろさも、その遠くを体感できることにあるんじゃないかな。 |