十月十四日の午後四時から五時ごろまで、私は清瀬に住んでいる友達と金山緑地公園というところを歩いていた。そこは埼玉県との境界にあって、柳瀬川という川に沿った遊歩道が続いている。十二日からの三連休は連日晴れて、乾いて柔らかい秋の陽射しがいっぱいに降り注いでいた。周囲には高い山も視界を遮る高層建築もなく、大きな空が見渡すかぎりに広がっていた。それがちょうど日野啓三さんがご自宅で息をひきとった時刻だったと知ったのは夜家に帰ってからのことだが、はじめて行った場所で、この秋一番と言っていいくらいの天候の中で、何年か振りの大きな空を見ていたというのは、なんだか偶然とは思えなくて、私は日野さんが感じた秋の歓びを感じていたような気持ちになった。
日野さんは乾いて柔らかい秋の陽射しが大好きだった。九九年の夏に私が日野さんと同じ世田谷区の代田に引っ越し、何の手術の後だったか(日野さんはあちこち手術したから)、「退院後の療養の気晴らしに」と言って私の家に三時間くらい来て、少し発声がおっかなびっくりな感じで、抑え気味の声であれこれしゃべって帰ったのは十月上旬のことで、あの日も亡くなったときと同じような秋の陽射しが降り注いでいて、日野さんは窓から見えるその光を終始とても幸福そうに眺めていた。 単行本収録時には『冥府と永遠の花』と改題された短篇の初出時の題名は『十月の光』で、その短篇は「私はこの月のために他の十一か月を我慢して生きている」という一文ではじまり、 「その日も冴えた日射しが、東京都世田谷区の住宅街に惜し気なく降り注いでいた」 「ホームの屋根の向こうから、そして屋根越しに斜めに射し込む午後の日射しが、ホームの上の人たちを、線路際の雑草を燦々と照らしている」 「――十月の光は他のもろもろの季節の光の、いわば光の光」 と、十月の光に対する歓びが繰り返し綴られる。 最後の短篇集となった『落葉 神の小さな庭で』の最後に収められている『神の小さな庭で』(初出時『公園にて』。これが最後に書かれた小説だろうか)もまた、九月から十月にかけての話で、 「実のところはよくわからないが、その日が一年に何日とない秋のイデアのような素晴らしい日であることで、私という生理・精神現象を刻々につくりだしている細胞たちのすべてが、サワサワ、プチプチと戦(そよ)ぎ、いっせいにかすかな喚声をあげ始めていたことは間違いない」 「その日、小公園には幾分眩しくなくもない初秋の正午の陽射しが真上から燦々と降り注いでいた。決して強すぎることのない乾いて澄んだその光の中で、公園中央の平らな砂地の地面を、三人の男の子たちが走りまわっていた」 と、秋の光に対する歓びが書かれている。 自然の一部分たる人間にとって、光は絶対的なもので、降り注ぐその光の中で、人間はただ感じるのでなく、世界を受容し、それを別の形に変容させて出力するための〈媒介〉となりたいと感じる(なぜなら、それが自然の一部分にとどまらない人間というものだから)。日常の光景からはじまって一挙に世界の別の相が噴出するような小説を書いた日野啓三という作家は特別にその願望が強かったのではないか。
「群像」2002年12月号 |