◆◇◆「半歩遅れの読書術」3回目◆◇◆
日経新聞 2008年5月25日(日)


 私達は初対面かそれに近い人について語るときには、「何歳で、職業は何で、出身地はどこで、家族が何人」というような外側の社会的属性から入るのが普通だ。しかし自分自身となると、そのような外からの説明だけでは満足しない。その中間にあるのが友達で、彼とのエピソードや、ありきたりの言葉では説明できない彼達の内面をどれだけ知っているかによって、関係の深さが決まると言えると思う。
 肖像画や写真を見ていると、ただフレームの中にいるだけの人物なのに、その人の心情や、その人が辿ってきた人生が、こちらに伝わってくる瞬間がある。もちろんそんなことは滅多に起こらないけれど、フレームの中にいる人物の内面に触れた感じたときには、激しく心が揺さぶれる。それが芸術の力というものであって、「科学的」「客観的」な立場から、「そんなことは錯覚だ」と言う人は、芸術がわからないだけでなく、人間が内面を持っているという当たり前のことがわかっていない。しかし困ったことに時代はどんどんそっちに流れていっている。
 『鼻』『外套』など絶妙な短篇で有名なロシアの作家ゴーゴリ(一八〇九−五二年)に、『死せる魂』(平井肇・横田瑞穂訳、岩波文庫)という長篇小説がある。チチコフといういかがわしいが憎めない男が、農村をまわって地主達から死んだ農奴の名簿を集める。地主は死んだ者など用がないと思っているから簡単に名簿をくれるのだが、税金のからくりによって、それが金になるのだ。
 集めた名簿をある夜チチコフが浄書していると、思いがけない細かさで農奴の一人一人の性格まで書かれた名簿に出合う。「指物をよくする」とか「物わかりよく、酒を嗜まず」とか、「父親不詳にして下婢カピトリーナより生まれたるも、性善良にして盗癖なし」などなど……。チチコフは奇妙な感情に襲われる。名前だけしか書かれていない農奴も含めて、一人一人が独自の性格を持っているように思われてきて、彼は「一体、お前たちは生涯何をやっていたんだ?」と心の中で対話をはじめてしまう。
 イラクでのアメリカ兵の死者が累計で何千人、イラク人の死者が何万人、ミャンマーのサイクロンの死者が何万人で、中国・四川大地震の死者が何万人……等々、メディアでは数しか話題にならないが、一人一人には当然人生があった。
『死せる魂』を読んで以来、私は数だけの報道を見るたびにチチコフを思い出す。どんなに遠い国の出来事でも、死者は名前を列挙することで、その重さが伝わるんじゃないか。

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