一九八二年に死んだフィリップ・K・ディックの作品は、二〇〇〇年代になっても『マイノリティ・リポート』や最近の『ネクスト』等々、映画化が続いている。というか、二〇〇〇年代になっていよいよ映画化が活発になっている。 私はディックには心酔していたけれど、SF全般が好きというわけではなかったから正確な知識という保証はないが、SFのピークは六〇年代から七〇年代前半あたりまでで、その後、衰退していると言われている。理由は社会そのものがSF化してしまったからだ。ロール紙で「電送新聞」が送られてきたり、録音機がテープレコーダーだったりする六〇年代SFを読むと、なんとも古風な感じがしてしまうわけだけれど、最近ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(ハヤカワ文庫)を再読したら、作品世界を貫く気分のリアルさに驚いた。 『パーマー……』では、世界は巨大企業によって支配されていて、企業の外に出ることは半ば死を意味する。世界を動かしているのは国家や世界連邦ではなく企業なのだ。そして、企業の中にいる個人は忠誠心を証明するために必死の努力を強いられるのだが、その根底には主体性を奪われた者の無力感がある。この設定はディックの多くの作品に共通している。 ディックが書き続けたテーマは、“記憶に対する不信”や“主観の混乱”だが、これは「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とパラレルな関係にあるということが今回再読してわかった。リアルさの核は間違いなくそこにある。 “記憶に対する不信”というのは「自分の記憶は誰かによって偽造されたのではないか?」ということで、つまりは“主観の混乱”に行き着くのだが、ディック作品は手が込んでいて、予知能力を絡めたりする。未来が予知される世界にあっては、未来の出来事もまた記憶の一種となり、過去と未来が一緒になって“主観の混乱”を引き起こす。 『パーマー……』では、パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグを一度でもやったら最後、その人の住む世界のいたるところにパーマー・エルドリッチが侵入してくる。それは主観の世界の出来事のはずなのだが、主観と断定するにはあまりに生々しい。というよりも、主観とは本当に自分の物なのか? ということだ。 事実、私達の主観はすでにメディアと企業に浸食されている。メディアと企業が人から奪っているのは、時間の自由でなく、内面の自由、つまり個人の主体性なのだ。 |