◆◇◆「半歩遅れの読書術」1回目◆◇◆
日経新聞 2008年5月11日(日)


  ミシェル・レリス(一九〇一−九〇年)を紹介したい。レリスはいま私が最も好きな作家の一人だ。が、説明するとなると非常に難しい。彼は民族学者であり、人類博物館に勤務した。若い頃はシュルレアリスム運動に関わった。レジスタンスにも参加した。ジャコメッティ、ピカソ、ベーコン等と親交があり(三人とも彼の肖像画を遺している)、美術評論も書いた。詩集も出した。エッセイともアフォリズムともつかない短い文章を集めた本を何冊も出した。民族学の本も当然出した。中でも民族調査日記『幻のアフリカ』は出色だ。
 しかし何にでも手を出せばいいというものではない。すべてにおいて中途半端だった可能性もある。しかし『愛人(ラマン)』のマルグリット・デュラスはかつて、こう言った。
「男で信じられる書き手は、ロラン・バルトとフィリップ・ソレルスの二人だけ。ただしミシェル・レリスは別格」
 作家というのは文章を書くときに、文章としての体裁を整えるためにどうしても少し“加工”してしまう。事実を加工したり、自分の感情を加工したり……。悪く言えば“歪める”ということだ。思うに、最も加工せず、生【なま】な書き方をしたのがレリスなのではないか。加工しないから、前述のエッセイとも何とも分類不能な短文を集めた本がレリスには多いのだ。そういう未加工の文章の集大成が『ミシェル・レリス日記』全二巻(みすず書房)だ。
 日記は一九二二年から死の前年の八九年までに渡る。ただし几帳面に毎日つけていたわけではないので、すっぽり一年抜けている年があったりもする。それでも膨大な量だ。誰とどこで会ったという事実と、その日見た夢と、文学・美術・死などについての観念的な内容の三つに分けられる。日記に観念的なことを書くと青臭くなりがちだが、レリスの記述には現実の手応えがしっかりある。八十代になっても観念的な記述は減らず、私はそこに勇気づけられる。人生とは現実との闘いである以上に、観念・思考の衰えとの闘いなのだ。はっきり言ってこの『日記』は値段が高い。しかし分量で計算すると相当割安だ。自分で日記を書く替わりのつもりで、何年もかけて少しずつ読めばいいのでは。
 日記を通じてレリスが生涯、尊敬している作家が、レーモン・ルーセルだ。レリスに導かれて私はルーセルの大ファンになった。『アフリカの印象』『ロクス・ソルス』(ともに平凡社ライブラリー)、どちらも奇想溢れる小説で、はまるとしばらくは抜けられなくなる。

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