小島信夫さんほど、人となりについて語りにくい難物はいない。見方によっては「破綻している」と言ってもいい文章のうねり
を小説として成立させてしまったように、本人についても褒めようとして話すことが多くの人には「けなしている」と映ってしまいかねない。 六十代くらいまでの小島さんと身近につきあいのあった人たちは、本を読む速さ、理解の正確さ、洞察の鋭さ、記憶の膨大さを絶賛するのだが、小島さんは作 品と人生を通じてそのようなわかりやすい“有能さ”を脱ぎ捨てて、茫洋たる曖昧さを身につけていったのだと私は思う。 小島さんの書いたものを読んでいると、「理解する」ということがじつは薄っぺらいことだということがだんだん実感されてくる。小説を読んで、その小説が 言わんとするところを「理解した」と思ったとき、私たちはそこでそれ以上考えることを終わりにしてしまっているのではないか。しかしそれはつまらないこと だ。本当におもしろいことは「理解する」ことでなく、「際限なく考えつづける」ことだ。 人生とは? 人間とは? この世界とは? それらは「わかった」と思うことなどできるようなものではなく、私たちはただ考えつづけることしかできない。 だから小島さんは、答や結末に向かって小説を書くのでなく、終わることのない問いを書きつづけた。「問い」というのは、人生やこの世界に対する違和感とか おかしな手触りとか不可解さと言ってもいい。 それは伝統的な小説観からの逸脱だが、音楽や美術が大きく変化しつづけた二十世紀の百年間を思えば、小説だけが百年前と同じでいいはずがない。だから小 島作品はここ数年、年配の人達よりむしろ若い人達から支持されつつある。 私自身は小島さんの人生の最後の十五年間おつきあいさせていただいた。それは、アルコール依存症の息子さんと痴呆が進んでゆく奥さんという二つの大問題 を抱えた時期でもあった。しかしその現実が書かれた小説は不思議な明るさや快活さを持っている。 「人生は悩んだり考えたりすることが多ければ多いほど豊かになるんだよ。」小島さんはそう言っているように思える。 |