「紙媒体(本)は、これから減る一方だ。あと十年もしたら雑誌なんかなくなってるんじゃないか。」
ついこのあいだもたまに会う知り合いがこう言った。この発言がなぜ不愉快というか、くだらないのか。
私のまわりにいる人間だからなんらかの形で、出版・マスコミ・テレビなどの業界にいる人が半分以上で、彼らが自分の足許の脅威として言うのはわかる(ということにしておこう)。しかし、出版・マスコミの周辺にいない人でも同じことを言う。人はみんな、どうなってほしいかの希望を語らずに予想ばかりを口にする。くだらないと感じる一番の原因はそれなんだと思う。
話は関係ないが、大学生の就職シーズンがはじまると(って、いつはじまるのか私は知らないが)、テレビのニュースで、
「不況で先行き不透明な社会情勢を反映して、学生の就職希望先も安定志向が強まり、官公庁・大企業などに集中する傾向が―――」
みたいなことを言うが、テレビというのはいったい誰の味方なのか。「本などほとんど読まずテレビばっかり見ている人の味方です。」と言われたらそれまでだし、「誰が大麻を吸った、誰が覚醒剤を所持していたと、少し名の知れた個人をワイドショーでよってたかって叩くのを、『そうだ、そうだ』と言って何も考えずに見ている人の味方です。」と言われたらもっとそれまでだが、
「安定志向の根性ナシの学生が今年はさらに増えて―――」
ぐらいのことは言ってしまえばいいじゃないか。
テレビは中立だとかニュートラルだとかいうことになっているが、中立とかニュートラルという建て前のいまの報道姿勢は明らかに偏向している。どっちに偏向しているかと言えば、いま勢いがあって、これからも勢いが増しそうな分野や現象を、中立という報道姿勢で肯定している。というか、それらの追い風になっている。
中立というのは何ごとにおいてもありうるのか。中立であろうが偏向であろうが、事態を断定する伝え方であれば、受け手に及ぼす心理的な結果は同じになるんじゃないか。必要なことは、〈中立〉でなく〈優柔不断〉〈煮えきらない態度〉なんじゃないか。
話を戻して、希望を語らずに予想ばかりを口にするという話だ。
「紙媒体(本)は、これから減る一方だ。あと十年もしたら雑誌なんかなくなってるんじゃないか。」
という台詞に、その人自身の考えは何もない。いや、あると言えばある。「出版関係者のヤツらめ、ざまあみろ。」とか「あんたもいつまでも雑誌周辺で仕事するわけにはいかないよ。へへへ。」という、これをすらメタレベルと言うことができるなら、形となった台詞で言われていないメタメッセージが、彼の考えと言えば考えだ。
が、「メタ」という、ふつうに思い浮かぶ上位というイメージと違って、ここにあるメタメッセージは、何かを根に持っている人間がこちらの一言一言につっかかってきたり、隙を突いてささいな意地悪をするような、ひどく下位の、というか考えの下に横たわっている、本人でもうまくそれを制御できないようなそういうものだ。
あるいはこうも言える。これはたぶん、希望を語らず予想を口にする社会での要請であると同時に一種の生き残り戦略なのだが、誰もが知っていることを先に口にした者が、その場の展開で攻めの立場に立ち、なりゆきで守りの立場になったそれを聞く側に対して、その場かぎりのことではあるが優越感(じつに小さな優越感でしかないが)を味わうことができる。
じつに小さなことだが、ちょっと美味しいコーヒーを飲みたいとか、ちょっと旨い酒を飲みたいとかで、店や銘柄をいちいちチェックして選んでいる我々にとって、その場かぎりのじつに小さな優越感であっても、大事なのかもしれない。毎日、イマイチだなあと思うコーヒーや酒を飲むのより、美味しいと思えるコーヒーや酒を飲む方が大げさに言えば精神の健康にとっていいように、「紙媒体うんぬん」の、聞き飽きた話題であっても、毎日そういう小さな話題で守勢にまわるより、攻勢に立つ方が健康にいいだろう。攻勢に立つことの無意味さから自己嫌悪に陥ったりしないかぎりは。
値上がりする株は先に買った方が儲けの幅が少しだけ大きいわけで、希望でなく予想もまた――予想を口にすることなどに何かメリットがあるとしたら――、先に口にした方が少しであっても優越感が大きくなる。少しのことであっても損するよりは得する方がいいじゃないか!
というのは、「紙媒体うんぬん」にしろ何にしろ、儲かるかどうかで考えてしまうタイプの人たちがいかにも嵌まりそうな落とし穴だ。嵌まった本人はそれが落とし穴であることに気づかないが。
反論やクレームが怖いので固有名詞は出さないことにしておくが、主に八〇年代後半ぐらいから九〇年代前半ぐらいに、ことに音楽をやっていた若者のあいだで広まった、口コミ販売というのかマルチ商法の一種というのか、
個人が販売者になり→その人が売った分の何割かが上納金になって上の人に行き→上の人にもまた上の人がいて→製品を製造しているのはもちろん本社工場だが、販売という局面ではいったいどこまで辿れば本社に行き着くのか見当がつか→何代か辿っていった上の元締めみたいな人は、膨大な数の下位グループを持ち、
という会社があった。というか今もある。九〇年代に入るとそれを批判する本が出版されたりもしたが、そこに有名な而さん(仮名、何と読めばいいか、私もわからない)という人がいて、「日本のその会社は実体は而さんのことだ。」と言われるほど而さんの下には膨大な人たちがいる(いた?)のだが、ある批判本の中で而さんが、「時間を返してくれ。十年間という私の時間を返してほしい。」と言っていた。
而さんは、この仕事で大成功して大金持ちになったのだが、ハッと気づいたら十年(あるいはそれ以上)の時間が、その仕事(活動?)のために丸々空白になっていた。
もともと音楽をやっていた若者たちのあいだで広まったというくらいだから、「就職したら自分の時間がなくなる。これの販売者になれば一日の何時間かをこれに使うだけで、あとはバンドの練習に専念できる。」というのが、広まったきっかけというかコンセプトというか、そういうことだったに違いない。而さんもまた音楽をやりたかった人だったのかもしれない。
人生や世の中を損か得かでしか見ない考えに出会うと私はこの而さんの言葉を思い出す。而さんの言葉は真実だ。
と私は書くが、二十年も前に出版されたこの批判本なんてきっとアマゾンでも手に入らないだろう。ソフトカバーのチープな作りで、バーッと出て、サーッと消えていく本の典型の顔をしていた。それに批判本は何冊も出たはずだから、私が読んだ一冊には捜しても辿り着けない可能性の方が高い。
何を言いたいかというと、「時間を返してくれ。」という而さんの言葉は、私の創作かもしれない。百歩譲って、記憶違いか捏造記憶かもしれない。結局こういう話というのは、証拠のあるなしでなく、それを信じるか信じないか、だ。
この批判本でもう一箇所忘れがたいのは、而さんが、この本の著者であるAさんから(この本の中で)インタビューされているときに、
「私はいまからでもあなたを勧誘して、メンバーにしてみせることができますよ。」と言うところだ。著者であるAさんは、
「何をバカな。」と言い返す。
「だって私は、この仕事をして失敗した人たちをいままで何人も取材してきたんですよ。その私が誘いに乗るわけがないじゃないですか。」
「いや、それでも私はあなたをその気にさせられるんです。」
「絶対に応じませんよ。。応じるわけがないじゃないですか。」
このやりとりは尻切れトンボに終わったと私は記憶するが、私の記憶はあいまいだ。而さんが言うとおり、而さんが本気で勧誘すれば批判本を執筆中のAさんも入ってしまうと私は思った。著者であるAさんがこれに入らないで済んだのは、而さんが本気で勧誘しなかったからだ。それにもしこの著者が入っていたらこの批判本は出版されていなかった。しかし而さんが本気で勧誘していたら、この本の著者であるAさんは「批判本なんかで多少印税が入るより、而さんのメンバーになって而さんの仕事をする方がずっと儲かる。」と
思ったことだろう。
結局、而さんが本気で勧誘しなかったためにメンバーにならずに終わったAさんは、「批判本を書くほどの自分を而さんといえども勧誘できるわけがない。」と、いわば自画自賛したわけだが、口のうまい人・しゃべりにメチャメチャ説得力のある人の言葉からは誰も逃げることはできない。という事実の方が私はずっとおもしろい。
だいたい疑り深い人は私は好きではないし、疑り深い人は想像力にも創造力にも欠けると私は考えている。小説や芝居や映画を作る人間は当然として、音楽も絵も写真もダンスも、自分のひらめきやそこまでの自分の成果にだまされて、というかおだてられて作品を作りつづける。
というのが私の考え方の基盤であるとすれば(現にそうだ)私がこの批判本を読みながら、著者のAさんの側に立つはずがない。私は而さんの側に立つのが道理なのだから、私の記憶は而さん寄りになっているというそれを私はたぶん自分では修正できない。しかし一つ、私は而さんに言いたい。というか、「やっぱりこの人はつまらない人だな。」と思うのは、
「時間を返してくれ。」
と言ってないで、さっさとやめて、この仕事をする前にしようと思っていたことをやればいいじゃないか。
と言っても、はじめることは簡単じゃない。が、そう思ったときにはじめる人が他の人の共感を得ることができる。『雨月物語』の中の「菊花の約(ちぎり)」という話で、自分の命を投げうってまでも約束を果たそうとした男がこう言う。
「大丈夫は義を重(おも)しとす。功名風紀(こうめいふうき)はいふに足(たら)ず。」(男子たるものはなによりもまず義を重んじます。名をあげたり、金持になったりするのは言うにたらないつまらぬことです。)(稲田篤信訳)
ここで言われている「義」と「他の人の共感」を私はほとんど同じ意味で使っている。で、「他の人の共感」の「他の人」とは、私にとっては、けっこう一途でバカだった十代の自分のことでもある。と同時に、心の中に息づいている神のような何かのことでもある。
「ということは、あなたにとって、十代の自分が神ってことになるわけ?」
という切り返しは全然おもしろくない。というか的を外している。十代の自分が人に誇れるようなヤツだったとは思っていないが、それでも一途でいいところはあった。その一途さは、結局のところ自分の指針となる人間を求めることであり、もっと具値的に言ってしまえば自分を認めてくれると同時に頼りにもなる大人がほしかったというかなり甘えた気持ちではあるが、それに値する大人がいたのかどうか、私が言っているのはそのことだ。
「紙媒体(本)は、これから減る一方だ。」なんて予想を口にする大人を十代の私は、「くだらないヤツ!」としか思わなかった。「紙媒体って何?」という人を私はカッコいいと思った。そんな予想など全然関係なく、自分が出したい本の話をする人のことももっとカッコいいと思った。
件(くだん)の而さんは、自分が今からはじめるのが遅すぎるのだと思うんだったら、若い人のためのスタジオやライブハウスを作ればいい。「義」とはそういうことだ。
何回か前の新聞のときにも書いたが、本も雑誌も新聞もここ三十年か四十年のあいだに大きくなりすぎたのだ。テレビもそうだ。音楽業界もそうだ。
本来の適正規模に戻ればいい。とはいえ、「適正規模」なんてもの自体が幻想かもしれないし、適正規模が本当にあるとしてそれに戻ったとしても、肥大した現状の中身スカスカ状態の悪い方だけが残って規模が縮小される、ということもありうる? それはない。規模が縮小していく過程で損得で生きている人たちは去っていくのだから。もっともそのとき去ることすらできない愚図が残ることもありうるか? それもない。その愚図とは損得で生きる人からそう見えるだけで、やりたいことがあるから残る。
だいたい、出版・新聞・テレビ・音楽業界はもともと良質なところなんてろくになかった。私は少なくとも、文学の業界にかつていた名物編集者≠ニか伝説の編集者≠ニ言われている人たちがろくなものではなかったことを知っている。
一番の問題は、減ることではない。損得計算ぬきにやりたいことをやろうと思ったときに、やりたいことがないことであり、どれだけ好き勝手にやりたいことをやっているつもりでも損得計算から自由になれない自分がいることだ。 |