藤井貞和『源氏物語の始原と現在』を興奮しながら読んでいる。
一年に一度出会うかどうかの、読みながらひたすら興奮して、いろいろなことが、目が字を追うのと並行して頭の中で動きつづける、そういう本で、これは本を読む喜びそのものだ。
「読んでいる」と書いたということはまだ読み終わっていない。全部読み終わってから書くべきだと思う人がいるかもしれないが、本を読んでいるときの最高潮時がいつなのかは読んでいる最中にはわからない。人生と同じだ。この本がこれから先、いまよりももっと興奮するかもしれないが、いまが最高潮時なのかもしれない。私はまだ全体のたったの六分の一しか読んでいず、いまが最高潮時だったら困るという意見が出てきたら、それはもっともだと思えるかもしれないが、いまこの時点ですでに私はいまこの原稿を書いている十二月半ばという一年の締め括りにあって、一年で一番興奮する本だと思っている。
いや、しかし、そういう「一番なんとか」という表現はやめよう。序列をつけたり、他と比較したりするのは、この本――だけでなく、固有名詞を持つすべての物や人――に対して失礼だし、何よりそんなことでは何も言ったことにならない。この本は読みながらいろいろなことが頭の中を動きつづける。そういう動きは動いている最中に書きとめておかないと忘れてしまう。あるいは、消えてしまったり、色褪せてしまったり、つまり動きが止まってしまう。読書というのは、本に対して距離をおいて、本を俯瞰したり、岡目八目だったりすることでなく、本に書かれてる文字や文章と一緒に走ったり、それを追いかけたりすることだから、読み終わってから考えるのでは遅い。別のものになっている。
しかしそれにしても保坂和志が『源氏物語』か。と自分でやはり思う。『万葉集』や『古事記』というのならまだわかる。しかし『古今集』や『源氏物語』は違うんじゃないか。なぜなら、それは平安貴族のものであって、その洗練や落ち着きこそ、私は好きとか嫌い以前に関心がないんじゃないか。――という疑問に対して、藤井貞和のこの本は何よりも応える。
物語の内容は、それでは、すでに与えられているのか。いな、非所有である。それは構想としてさえ非所有だ。なぜなら物語を書くとは、構想を紙面に書きあらわすことでなく、構想を越え、構想以上を書く行為であるから。どうか、文字を書くという行為を、楽観的に考えないでいただきたい。文学とは、何かの構想が先行していて、それを紙面に実現してゆくというような行為とちがう。どんなにたくさんの構想が渦巻いていようと、書く瞬間に、それらは、すべて、死滅せざるをえない。書く創造のあやうさとは、文学が構想の実現でありえないところにある。
この長い引用を読んで、「あれ?」と思った人がいたとしたら、私はありがたい。私はその人にお礼を言う。私の本を読んでくれてありがとう、と。
私はこのとおりに言ったり書いたりしたことはないが、これは私がいままでに何度も言ったり書いたりしてきたこととほとんど同じだ。
この『源氏物語の始原と現在』は今年(二〇一〇年)二月に岩波現代文庫から出た。ということは当然親本があるわけで、親本はなんと一九七二年に出版された。いまから三十八年も前だ。
ここで私は二つ驚く。一つは一九四二年生まれの藤井貞和氏がそのとき三十歳だったということ。しかしこれはたいしたことではない。たんに自分の三十歳と比べているだけのことだ。三十歳の頃、私はカルチャーセンターの講座の企画をしながら、自分が小説をどう書いたらいいのかをただただ頭の中で考えていただけで、形になる何もまだ作り出していなかった。
しかし二十代にして本を書けてしまう人というのは往々にして整理能力に長けた場合が多く、じつはたいしたことを書いていない。たいしたことを書いていないというのは何よりその本の中にその人のエモーションがない。読んでいるこちらがうずうずしてくるようなそれのことを私はいまエモーションと呼んだのだが、整理能力に長けた人の本にはそれがない。ただ偏差値が高く、分析的でひたすら妥当で、現状追認の思考が底流にあり、読んでいる私の心はどんどん冷えてくる。しかし新聞や雑誌はエモーションがないそういう人を好んで登用する。新聞・雑誌が根本において現状追認なんだから仕方ない。しかしこの『源氏物語の始原と現在』にはそのエモーションがある。二十代にして、エモーションを抑圧せずに文章を書いたことに私は驚く。
私はちょうどその三十歳の頃に藤井貞和さんにお会いして、カルチャーセンターの講座を依頼した。そのときは私はおもに、『源氏物語』研究者としての藤井さんでなく、詩人としての藤井さんに言葉に関わる講座をお願いしたが、あいにくその全体はちゃんと憶えていない。私は藤井貞和という人に対してじゅうぶん敬意を払っていなかった、と言わざるをえない。
「言葉の体というのは、身体性とかそういう抽象的なことではないんです。言葉には手も足も生えているんです。」と言いながら、藤井さんが両手をあちこちに動かして見せたことや、
「『源氏物語』の有名な書き出しは、完璧な文章のように言われるんですが、紫式部がもう一度『源氏物語』を書くとしたら、同じものにはならないはずなんです。」
という言葉など、いくつかの印象深い断片としては憶えているが、全体はちゃんと憶えていない。とくに後者の話は、さっきの引用と読み比べてみれば意味するところがよくわかる。
このように話の筋がズレていくことはこれをいま読んでいる人にとってはきっと不快なことだろうが、もしこういうことを私が誰かに向かってしゃべっているとしたら、この程度の話のズレはふつうに起こり、話し相手の人もとくに不快とは感じないだろう、もっとも友達のあいだでも私の話がとりとめなくまとまりなく筋がないのはみんなが指摘するところではあるが。
話し言葉では受け入れられることが書いた文章では受け入れにくくなる。これはどういうことか。人は話を聞くときと文章を読むときに、どういう風に構えが違うのか。
文章に何を求めるのか? という問いはしかし、文章が読者にどういう態度を求めるのか? という問いと同じことになるだろう。まず何より、文章を読むということは読み手に負担がかかる。言葉を耳で聞くのと違って、目で文章を読むことは母国語であっても聞くのよりずっと大きい負担が前提とされる。そのうえで文章があちこち散らばったら読み手はどうなるか。
しかしこのように話が散らばるのは、『源氏物語の始原と現在』を読む私がまずいろいろ考えてしまうからだ。藤井さんとお会いした頃、私は『言問う薬玉』という藤井さんの本を読んでやっぱりかなり興奮した。『言問う薬玉』をまわりのみんなに宣伝した。しかしなぜか私はそれ以上藤井さんの本を読まなかった。本当にどうして読まなかったのかと思うが、私はいまこうして興奮しながら読むことができている。
さっきの驚きの二つ目。私は『小説の自由』『小説の誕生』『小説、世界の奏でる音楽』という三冊の小説論の本を出し、そのときに小説翻訳なども出している文学研究者二人から、
「小説には事前の設計図がないという話には驚いた。小説家はきちんとした作品の構想を立ててから作品を書き出すものだと思っていた。」という感想をもらった。
しかし、一九七二年に藤井貞和氏がすでに、そうではない、物語とはそういうものではない、と書いているではないか。物語とは、文学とは、小説とは、そのような静的な構えから生まれない。それをこの本の「物語の発生する機制(メカニズム)」の章の冒頭で、藤井さんはもう一度強調する。
物語のはじまりを考察するにさき立って、ひと言ふた言、言っておきたいことがある。私は文学の発生を事実として発見し、それを報告しようとしているのとちがう。事実として発見されるようなかたちとしては、発生する文学をさし示すことなどできない相談であると言ってよい。私はただ文学発生の必然を現代に復権させ、感受し、できることならば問題意識をひとと共有したいのだ。文学は、私のなかに発生するだけだ。それをたまたま物語の発生する倫理的時空の解明に限定することにより、できるだけ客観性をねらおうとしているに過ぎない。そして絶対に私が透明にさせることのならない、ふれがたい何かにつきあたるだろう。それは詩の真実(「詩の真実」に傍点)とでもいうほかはない何ものかであるとして、それの解明をここではしない。ここでするのは言ってみれば物語の真実(「物語の真実」に傍点)の解明である。(傍点、原文)
ひじょうに乱暴な言い方をすると、この世界には、文献、事実として提示されうる、つまり誰もが確認することができる証拠を並べれば原因を説明したことになると考えている人がいっぱいいる。しかし、素材や状況だけがいくらそろっても、発生や発火は起こらない。子どもができたのはセックスしたからだが、セックスをしたからといって子どもができるとはかぎらない。
それを数学で教わった、必要条件と十分条件に分け、素材や状況を並べただけでは必要条件でしかないと言う人がいるとしたら、そういう考え方自体が静的で引いて俯瞰したもので、その態度そのものがまず発生・発火からその人を遠ざける。文学はとにかく、発生・発火の瞬間と持続でしかない。そこから目を離したら、何も言ったことにならない。
これは私の完全な偏見でしかないが、『源氏物語』や『古今集』を支持する人たちは、平安朝の貴族たちと同じ静的な人たちだと思っていた(しかし、平安朝の貴族は本当に静的だったのか)。私が藤井さんの本を『言問う薬玉』一冊っきり読まなかった理由は、平朝文学に対するこの偏見と、物語の発生ににじり寄ろうとする藤井さんの野蛮さとか、発生・発火に関心を集中させたら必然的にそうならざるをえない徒手空拳・無手勝流の構えが私の中で同居できなかったからなのではないか。
この本に、「物語」は「ものがたる」の名詞形ではなく、その逆に「物語」という言葉が持っていた力が弱まったことによって「ものがたる」という動詞が生まれたということが書かれている。「物語」の動詞形は、「ものがたる」でなく、「物語す」だった。では「物語」「物語す」の内実とはどのようなものだったのか。
多くのばあい、「物語」ということばは、はかなき、しんみりした、夜深く、あるいは夜すがら語り明かすといった、何らかの特殊な雰囲気を込めて使われることがばであった。
越えにくい一夜を語らい明かす。居室のすぐそとには、悪霊らがしのび近寄ってきている。物語は、まことに、言語の持続によって四囲の悪霊らとはげしく緊張的な境界線を作り出す人間的努力以外の何ものでもない。
私はここのところとみに、現代というこの時代にうんざりしている。それである時代のある人々、ある時間や空間を伝えてくれる文章に出会うと気持ちが吸い寄せられる。
物語をついに論じる前に――そして、なんと私の読書は物語を論じるその本題にいまだ踏み込んでいないのだが――、藤井氏は芸術の起源としての歌と踊りを経由する。『常陸国風土記』の行方郡の記事に、中央の権力によって滅ぼされた先住民の最後が書かれている(「記事」というのがいい)。
中央から建借間(たけかしま)の命(みこと)が攻めていくと、先住民たちは砦にたてこもってしまった。そこで建借間の命は一計を案じ、兵を山の死角に待ち伏せさせたうえで、船をつらねて海を飾り立て、七日七夜歌舞音曲に明け暮れた。すると、
時に賊党、盛りなる音楽を聞き、房(いへ)を挙(こぞ)りて男も女もことごとに出で来て、浜を傾けて歓び咲(わら)へり。
〔そこで賊党は、盛んな音楽を聞き、家から男も女も全員出てきて、浜もゆるがさんばかりに歓喜し、咲っている。〕
「それら、滅ぼされてゆく先住民が、ほんとうは音楽を愛し、うれしいときに歓びもし、咲(わら)いもするひとびとであったことを知って、悲しいきもちにおそわれるのである。」
「歴史はかれらを虐殺したこちらがわにはじまるだろう。」
「「男も女もことごとに出で来て、浜を傾けて歓び咲へり」という奇妙な明るさはおそらく『古事記』『日本書記』の世界をつきぬけたむこうがわの奇妙な明るさであるにちがいない。」
平安朝の文学について語る人たちが、その王朝が滅ぼした先住民たちへの関心が薄いと考えるのもまた私の偏見なんだろうか。藤井貞和の『源氏物語』研究はこのような歴史・歴史以前をつねに心に留めながらなされている。だから、『言問う薬玉』もまた私は興奮した。しかし、偏見との折り合いがあの頃の私にはどうしてもつけられず(平安朝の文学に対する私の思い込みが偏見であることに気がつかず)、私はもっと藤井貞和を読むことができなかった。
しかし今ははっきりわかる。63ページ上段の、徒手空拳・無手勝流の話にもどるのだが、資料・根拠に頼る論述には、根拠を持つゆえの弱さがある。冷めていて、すべての読者の一定の理解を得ることはできるが、それ以上の支持を得ることはない。読者自身がその論述を支持するために危険を冒す必要がないからだ。
文章には音楽を聞いて体が自然と動き出すときのように、文章のドライブによってしか伝わらないことがある。韻律や言葉の響きのことではない。書き手自身にとっていまだ展望が得られていない(保証されていない)ことへ向かって、一歩一歩強く進む態度、これが散文のドライブであり、そこにはもう書き手を助けてくれる根拠は何もないが、そうでなければ文学も哲学も本質的なことは何もわからない――というこのことは、しかし60ページ下段と62ページ下段の長い引用で、藤井貞和氏が書いていることの書き換えにすぎない。
資料・根拠の上に乗って大勢の支持を取りつける(大勢を説き伏せる)思考形態はおそらく文字による伝達によって発達した冷えた伝達法であり、それが国家を生み歴史を生んだ。この妥当性の城壁のような堅固さに対抗する思考法を、私たちは学校教育やその他の場で教えられなかったから、「根拠を持つゆえに弱い」というひと言になかなかジャンプできない。しかし、音楽家も画家も彫刻家もダンサーも、一流な人ならみんな、「妥当性の上で何かやろうとしているから、おまえはダメなんだ」と言うだろう。文字を介さない表現をするこの人たちの言葉をきっとみんな納得するはずだ(しないやつはバカだ)。しかし、文字を介するものも、本当はすべてそうなのだ。 |