◆◇◆寝言戯言 9 「ちくま」2010年10月号◆◇◆

 七月五日の、私の携帯電話の時刻表示によれば、午後三時一分に父の携帯電話から電話がかかってきた。そのとき私は、前日の夜にコピー機能が急に使えなくなったパソコンのプリンターのことでメーカーのサポート窓口に家の電話から電話していて、ようやくつながってプリンターの症状を説明していたところだったので、父からのその電話を取れず、しかし父からその時間帯に電話があることは珍しいので、プリンターの症状の説明だけし終わると、サポートの担当の人に「ちょっと待っていてくれ」と言って、三時三分に父の携帯に電話すると、父でない若い男の声が、
「鎌倉警察交通課の者ですが、」
 と話し出した。私はとうとうその時≠ェ来た、と思った。父は八十四歳だが体はどこといって悪いところがないので、市内のどこに行くのにもたいてい自転車を使っていた。私はいつもそのことが気にかかっていて、毎日夕方六時に父から私の携帯に定時のコールをしてもらう約束をしていて、父からの電話はいつも、
「今日もなんにもナーシ!」で、
「なんにもないのはいい便りだよ。」と私もそっけなく答えるだけで、六時のコールは一昨年の九月末からだから一年九カ月つづいたことになるが、夕方六時にもう外出する用事もなくなった時間に電話があることで私は毎日小さく安心していた。
 もともと父と母が一台ずつ携帯電話を持つようになったのは二〇〇四年の五月だったか六月だったか、そのとき私は離れていても操作方法を教えられるように父と母と妻と私の四人で同じ機種を持った。それで最初の頃は夜に時間ができたら電話するように言っていたのだが、だんだんその約束はいい加減になり、そうこうするうちに四年経ち、四年経ったということは父も母も四歳年を取った。七十代後半からの四歳だ。これは大きい。それは当然多少の個人差はあるだろうが、七十代後半からぐんぐん年を取ってゆく。それで二〇〇八年の九月末に機種変更したときに、だらだらずぶずぶになっていた一日一回のコールを夕方六時に固定した。最初の目的はそういう風にして携帯を使えるようになることだったが、私はもうすでにだいぶあきらめていて、無事の確認のコールになっていた。
 だから父は事故に遭ったときには携帯電話を持っていず、警察から知らせを受けた母が私と妹に連絡を取るようにとにかく自分のと夫のと携帯電話二台をバッグに入れて家を出たが、手がふるえてボタンを押せない。手がふるえていなかったとしてもいつも父に任せていたのでかけられなかっただろう。病院までのタクシーには隣りの家の今年六十歳のリュウちゃんが一緒に乗ってくれたが、リュウちゃんは携帯を使わないのでやっぱりかけられない。携帯電話がやっと本来の機能を果たしたのは、病院にいた若い警官が「私がかけましょうか?」と言ってくれたからだった。
 私は心配していたが心配はつねに杞憂に終わるものだと思っていたので、父が自転車に乗ることをとめなかった。事故のあと、父と同年代の人が最近になって二人も、自転車に乗っているところを車にはねられて死ぬ事故に遭ったことを知ったが、それを知っていたとしても私はとめただろうか。父は父でやめただろうか。「二人も死んでいる」と聞いても自転車に乗りつづけたのではないか。そのような事故が自分の身に振りかかると人は考えない。というか、考えることが難しい。外で起こる死を我が身のこととつなげるには、そのための特別な回路がいる。死はつねに他人にしか起こらない、というようなことをたしかブランショが言っていたが、それほど明晰に考えられたら、死は少しは他人のものではなくなる。それどころか、父は、自転車で事故に遭うことを知っていても乗っていたのではないか。
 父が事故に遭ったときに携帯電話を持っていなかったということ以外にも原因があって、私が連絡を受けたのは事故の二時間後で、病院に着いたのはそれからさらに一時間半以上経った四時五十分。私が着いた時点で医者が父の口に差し込んでいた呼吸器の管を外して臨終ということになった。
 私自身、冷静だったわけではないし、ふだんのように見たり考えたりしていたわけではなかったが、病院のベッドに横たわる父を見ても私は動揺したりひどく悲しんだりしていず、これから一人で生活していかなければならない母の心配だけをしていた。父はすぐに霊安室に移され、そこは線香立てだけが目立つような何もない部屋で、私はそこでまず葬儀屋の人と話をしたと思う。横で母も妹も、私が病院に着いてから一度も泣いていなかったと私は記憶するが、その記憶が間違っていなければ家族はまだ誰も、何が起こったかを受け止めていなかったということだから、私がひどく悲しんでいなかったのもそういう理由にすぎなかったかもしれない。
 交通事故の場合、検死をしなければならないのでお父さまのご遺体は今夜は葬儀屋の遺体安置室に置き、明日の昼に検死して、もしご自宅にいったんお父さまがお帰りになるようにされたいなら明日夕方になる、と葬儀屋は言った。今夜は父は、自宅に帰れないだけでなく、葬儀屋の遺体安置室だから付き添いはできない。つまり一人だ。
 殺人事件なんかだったらもっとひどいのだろうが、交通事故でも家族はこのようにして死んだ人から引き離され、蚊帳の外に置かれる。四年前、妻の従姉が五十代で癌で亡くなったとき、火葬場が混んでいて四日後でないと火葬できず、それに合わせて通夜・告別式もすぐには行えず、そのあいだ亡くなった従姉は自宅に帰るのでなく葬儀屋の遺体安置室でドライアイスで冷やして保管されると聞いて、私は、
 そんなに何日もドライアイスで冷やされるなんて、「冷たくてお母さんがかわいそうだ。」と子どもたちは言わないのだろうか? と思ったということは、私がそう感じたということだが、死んだこの夜に葬儀屋に一人で寝かされると聞いて、私は父がかわいそうだと感じなかった。
 明日の夕方家に帰れるなら、とにかく一度帰れるんだからそれでいい。それよりも、年取った父親でなく、小さな子どもが交通事故で死んだりしたときに一晩引き離されると言われたら親はたまらないだろうなと思っていた――ということは、そのようなシチュエーションに仮託して、自分がいるシチュエーションの外に出ようとしていたのかもしれないが、私は、母はどう思っているのか? 母はそれで納得できるのか? ということだけ気にして、自分自身は一晩葬儀屋に寝かされる父がかわいそうだという風には感じていなかった。
 というのは、父がここにいるとは思えなかったからだ。ここにあるのは父の体だがこれはもう父ではない。では父はこの部屋のどこか、私たちの上あたりにいるのか。そこにいるとも私は思わなかった。
「人は死なない」と荒川修作は書いた。先月も書いたことだが、私はここ三、四年このことばかり考えている。
 荒川修作つまりアラカワが「人は死なない」と言ったのは、芸術家が作品を残すから、作品=芸術が一人の人間の命より長くこの世界に存在する、という意味ではない。「人は死なない」はもっとずっと文字どおりの意味だ。しかし事実として、父は交通事故に遭い、いまこうして遺体が横たわっている。
 その夜はさすがに一睡もできなかった。私は家にもうすぐ二十一歳になる老猫のジジがいて、一日二回ずつ薬を飲ませなければならないので夜遅く家に帰った。これから何日間かのジジの世話の対策も妻と練らねばならない。帰れば帰ったでやることがいろいろあり、布団に横になったのは三時すぎ。それでもともかく布団に横にはなったが、目を閉じていると胃のあたりから咽にぐーっと突き上げてきて、朝六時までその波がつづいた。
 知らせを受けて出かける準備をしているあいだ私はずいぶん冷静だと思っていたが、駅までの道を歩きはじめると道がなんだかとても長かった。父が運び込まれた湘南鎌倉総合病院は大船駅からタクシーだったが、大船駅で電車を降りた位置は考えていた以上にホームの端で、改札に上がる階段までがやたらと遠く、急ぎ足で行こうとするのだが太腿から下が重くて小走りすることができない。四年前従兄の自殺の知らせを昼に受けたとき、夕方外に出ると太腿から下が鉛のように重く、腕が地面の下に引きずり込まれるようだった。大船駅のホームを歩きながらあれ同じだと思った。
 こういうとき子どもだったらワンワン泣いて、なだめるお母さんの腰やお腹をこぶしで叩いたりするが、大人はそういうことで世界が元に戻らないことを知っている。従兄のときは昼から涙も流さずただぼんやりしていて、夕方道を歩いているときに父から携帯電話に電話があり、通夜は明日になった、和志来るか? と言われて、「行くに決まってんだろ!」、この短い言葉を言い切らないうちに涙が出て、その途端に腕と足が急に軽くなったが、今回は一度も軽くならないまま翌日になった。
 小島信夫が小説の中で書いていた。一燈園というある種宗教的な団体を組織した西田天香が若かった頃、リーダーとして率いた開拓団が挫折し、ひとり京都の郊外に辿りついたとき、「赤子のように泣いた」。
 翌朝七時に世田谷の自宅を出て九時に鎌倉に着くと、すぐに葬儀屋から連絡が入った。警察の方は問題なく進む見通しだから通夜は明日できる。十時に葬儀屋が来て、通夜・告別式の打合せになった。私はサラリーマン時代からイベントや式の段取りが得意じゃない。そういうことは人に任せっぱなしだった。それが会社を辞めて専業作家になってからいっそうひどくなっている。母は金の出し入れや役所関係の用事は父に任せっきりだったのでやっぱり得意じゃない。私は「葬式なんかテキパキこなせるヤツはいないんだ」と自分に言い聞かせながら、母と二人で葬儀屋の、お棺はどれにするか、斎壇はどのランクにするか、花はどれくらい用意しておくか、という質問に、「××さんのお葬式で『あんな立派なお棺である必要はない。』ってお父さんが言ってた。」という母の言葉を頼りに、母と二人で「でもあんまり下はお父さんだって嫌だろ?」なんて言いながら、迷い迷い答えていった。 
 父は船員だった。夫婦の故郷というか、親戚がいっぱいいる本拠地である山梨の甲府盆地から鎌倉に引っ越し、両方の親戚が母と子ども二人だけの家庭になるのを心配して、私が小さかった頃はこっちの大学に通ういとこが交替で下宿していたが、私が小学校四年になった頃から下宿する親戚はいなくなっていた。家の男は私一人だから、夜、庭の隅で物音がしたり犬が変な吠え方をしたりすると「和志、見てきてくれ」と母が言う。私は、なんで俺なんだよ、俺はまだ子どもだぞと内心文句を言いながら、庭の隅っこをちらっと見て、
「何もなかったよ。」と報告する。
 家に父がいないのが私の気持ちにとっての常態で、三十ちかくなったとき父親が船員だったという後輩社員と話をしていて、
「オヤジがまた出航という連絡が入って家を空けるって聞くと、淋しかったですよね。」と言われたとき、「根性ナシ」と思った。船員の子どもという知り合いは彼しかいないが、彼の話を聞いてそう感じるくらいだから私はその後、彼と船員の子どもということの特殊性みたいなことを話した記憶はない。父は定年で船員生活を終えてからすでに二十年以上経ち、そうなると今度は私は父が家にいるのをあたり前と思っていたが、私は父の葬儀の打合せを母と二人で父ぬきですることになった。
 死ねば思い出話がいっぱい出てくるもので、思い出話は若い頃のものほど濃厚というかイキイキしている。それでどうしても母の思い出話は、私が小さかった頃か生まれる前の船員の話になり、それは海運業が花形だった昭和二十年代から三十年代前半の話だから楽しく明るい。父が死んで母がその頃の話をいっぱいするから、父に関する私の記憶はまたまた船員時代の不在の父というモードがだいぶ入ってきて、私は父が家にずうっといるようになってからの記憶があまり確かでなくなったようなところがある。だいたい、父が仕事を辞めたときにはすでに私は東京に住んでいたから、父が家にずうっといる鎌倉の家というのをよく知らない。妹も結婚して家を出て、老夫婦となってから父はずうっと家にいるようになった。老夫婦二人の生活ということでは世間一般と共通だが、その老夫婦は若い頃夫が家にいなかった老夫婦で、そこは世間と同じではない。
 葬儀屋との話が終わると、決定した通夜・告別式の時間を親戚に連絡したり、知り合いに連絡したり、こまごましたことは際限もなくつづいていたが、夕方父の遺体が帰ってくるという時刻まで、空白の時間もまた妙にたくさんあった。母は父がいた日と同じようにこの日も洗濯をしてそれを取り込み、妹は父の遺体を寝かす部屋を片づけたり、台所で何か動いたりしていて、そのあいだ私はいつもと同じように居間の長椅子で横になって眠れはしないがうとうとしていた。今年は六月から東京で梅雨冷えの日以外は冷房をつけっぱなしだったが、鎌倉では窓を開けていれば風が通って冷房がいらない。庭からの風が吹いてくる。洗濯物を取り込みに庭に出ていた母が入ってきた。
 そのとき私は、父がここにいると感じた。仕事を辞める前から父は歳をとるにつれて庭いじりが好きになり、庭は私の子どもの頃とは様変わりしている。鎌倉に帰るたびに私の新しい記憶より植物が増えて、雑然としているが面白味がある。
 私は父が庭を遺したと感じたのではない。私が子どもの頃、隣りとの境の塀にボールをぶつけた庭が、今の庭に姿を変えた時間とか気候のようなことだ。遠い昔だったら、子を育て、子が孫を生んで、広がっていった一族として記憶されたり土地に痕跡を標したりした何か。それはそこに移り住んだ一組の男女がその土地の気候と折り合いをつけることからはじまったのではないか? という意味での庭で、ラスコーの洞窟の壁に絵を描いた人が感じた世界にふれた感触や、パブロ・カザルスやジミ・ヘンドリックスの演奏に響く、彼らに先行した人たちの試行錯誤と通じ合う。
 居間の長椅子でうとうとしていたあのとき、私は「人は死なない」という言葉の一端に確かにふれたと思った。前回、この光景を書いて一回分の締めにしようと思ったが、話がうまくできすぎると思って書かなかった。書こうか書くまいか一カ月考えていた、というか一カ月のあいだにあの光景が変化したり色褪せたりしないか、自分の心の状態を観察しつづけた。一カ月経っても変化はまったく起きないどころか、いっそうくっきりした。
 これを錯覚とか思い込みの類いと思う人は、絵も音楽も何もわからない。芸術というのはつねに何かを心に留めて、結論に安易に逃げ込まずに心を宙吊り状態にしたまま、世界に対して注意を払いつづける人にしか働きかけない。そこで語られる言葉は、たくさんの人に通じる、科学的思考の中でも最も大ざっぱな思考を基盤としている日常的思考様式で語られる言葉ではない。
 パウル・クレーの絵を見た瞬間に「動いた!」と感じた経験。『春の祭典』を聴いていたらオーケストラボックスの上に色彩の波が起こるのを見た経験。それらの経験が自分の中で、時間の経過とともに動かしがたくなるように、長椅子でうとうとしていたあのときに、庭から吹いてくる風とともに「父がここにいる」と感じた経験は確かなものとなっていく。それは「人は死なない」という言葉への道筋となるはずだ。