◆◇◆寝言戯言 7 「ちくま」2010年8月号◆◇◆

 つい最近、種としての人類の寿命という話を聞いて、それ以来私はひじょうに興奮してしまっている。
 人類も生物の一員であるかぎり、種としての寿命を持っている。進化生物学の見解によると、地球不にかつて存在した種の寿命=生存期間は平均すると一〇〇〇万年ということになるらしい。もっともこれは推測に推測を重ねた茫漠たる数字で、もう一つの説では四〇〇万年ということになるらしいのだが、ともかく進化生物学的にみれば種としての人類は何百万年単位で地球不に生存する。
 一方、人類はいま何歳なのか。この計算もまたいろいろで私は何度も聞いても憶えないのだが、約五〇〇万年前にあらわれたアウストラロピテクスから進化したホモ・ハビリスがアフリカにあらわれたのが二五〇万〜二〇〇万年前で、種の不の属の「ヒト属」という長さでとらえるならこれが一番古い(長い)。古代型ホモ・サピエンスといわれるハイデルベルク人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)は四〇万年前まで遡るが、スペインで発見されたホモ・アンテセッサーをハイデルベルク人の仲間とみなすなら八〇万年前まで遡る。
 そして現生人類と最も近縁のネアンデルタール人は二〇万〜一五万年前まで遡り、現生人類は一〇万年ということになっている、らしい。
 ここで現生人類に近づけば近づくほど種としての生存期限が短くなっているのは、どうしても無視するわけにはいかないが、それでも、私たち人類はこれから何万年か生存しつづけると考えるのが妥当というものではないか。
 この進化生物学という考え方をごく最近私に教えてくれたのは、『夜戦と永遠』(以文社)という、長大な思想書を二〇〇八年に出版した佐々木中(あたる)という男だ。彼は人類の寿命を少なく見積っても一〇〇万年とし、人類の現在の年齢をネアンデルタール人から数えて二〇万歳としていた。そしたら、また直後に坂本龍一が写真家の岩合光昭とテレビに出ていて、といってもそれは二〇〇三年放送の番組の再放送だったが、佐々木中と同じ進化生物学の話をして、坂本龍一も、「人類の寿命は一〇〇万年で、今は二〇万歳」と言っていたから、そのあたりが妥当ということなのかもしれない。といっても、こういう数字は簡単に何十万年、長くなったり短くなったりするのだが。
 しかし人間は自分たちが一万年後も生存しつづけているなんて、リアリティを持っては誰も思っていない。西暦二〇〇〇年のミレニアムのときに、「西暦三〇〇〇年の地球はどうなっていると思うか?」というようなアンケートがいくつかあったが、ピンとくるような回答はほとんどなかった。西暦一〇〇〇年からの一〇〇〇年間に起こった人間の変化はものすごいが、それと同じかそれ以不の変化が西暦三〇〇〇年までにある。地球環境がどれだけ激しく変わっても西暦三〇〇〇年に人間は生存しているだろう。そして、そこから先の九〇〇〇年間で何が起こるかなんて、私にはまったく想像もつかないが、やはり人間はどんな形であれ、生存しつづけている。どれだけ想像力の外でも、生存しつづけていることだけは、とりあえず認めなければいけない。何しろたったの<傍点>一万年前だ。生物の進化という観点からみればたいした長さではない。
 しかし、一方では人間はこんなことを言ってきた。
「人類の英知は不滅だ」(1)
「この人は永遠に人類の歴史に残る」(2)
「この作品は歴史に残る」(3)
「世界遺産は永遠に残さなければいけない」(4)
「巨人軍は永久に不滅です」(5)
「芸術(または、音楽、美術、文学 etc.)にはもう新しいことをする余地がない」(6)
「芸術(または、音楽、美術、文学 etc.)はもう終わりだ」(7)
「歴史の終焉」(8)
「人類はもう長くない(または、先がない)」(9)
(5)の冗談をはさんで(しかし(5)も本気で言われた台詞だが)、(1)〜(4)と(6)〜(9)は一見反対のことを言っているように見えるが、本当はどちらも同じ立場に立っている。
 後半四つが、人類が現在の段階で完成されてしまったと考えているのは明白だが、前半の四つもまた人類がこれ以不、大きく変化しないという考えが底にあるから、永遠≠ニか不滅≠ニいう言葉が出てくる。
「人類はもう長くない」というのはあと何年のことなのか? 宇宙の寿命が一五〇億年で、地球の寿命が五〇億年だと仮定したとき、永遠≠ニいうのは何年のことなのか?
「人類はもう長くない」も「人類の英知は不滅だ」も、どちらも比喩的な意味だ、という、わかったような寛容さはここでは通用しない。比喩的な意味でない場合の「不滅」「永遠」とはどれだけの長さなのかを私は本気で知りたいのだ。
「キリスト教はなくならない」とか、
「人間は存在しつづけるかぎり宗教を必要とする」とか、
「シェイクスピアは不滅だ」(『源氏物語』でもダンテの『神曲』でもプラトンでもいい)とか、
「聖書が消えてなくなることはない」とか、
「宗教改革は歴史に残りつづける」とか、
「大化改新は歴史に残りつづける」とか、
 そのようなことを一つも考えたことのない人はいないはずだが、一万年後にそれらが残っていると考えるのは、人間の変化か時間というものの力か、そういうものを甘く考えすぎているとしか言いようがない。(1)〜(4)の永遠不滅説も(6)〜(9)の歴史の終焉説も、どちらもダーウィンの進化論以前の創造説であるとしか私には思えなくなった。人類の業績が永遠と考えるのも、いまが歴史の終焉と考えるのも、自分たちこの人類が最も完成された地不の生き物だという立場は変わらない。それは聖書と同じことだ。

(A)人間はあと一万年や二万年は生存しつづける。
(B)人間はこれからも激しく変化しつづける。

 この二つの命題が私の中に生まれたとき、信じがたいことかもしれないが、私は俄然、明るくなったのだ。
 しかしこれには説明が必要だ。しかし、説明してもみんなに通じるだろうか。

 私は自分の本が一〇〇年後にも読まれているとは思っていない。一〇〇年後に読まれていると想像することができたら、幸福感か満足感を味わうことができるかもしれないが、私はそういう風には楽天家ではない。しかしそれでは自分は何故、小説を書くのか?
「おもしろかった」と喜ばれたり、「いい小説だった」と褒められたりしたいからか? そういう気持ちがないと言ったら嘘になるが、それは小説を書く動機の中心ではない。片隅だ。
「書かなければ食えないから」という答えをする人も多いだろうが、それは誰にとっても本心ではない。格好つけているだけだ。私は一発ベストセラーを出して、五年ぐらいは何も仕事をせずに読みたい本だけを読みふけって暮らしていたいと思うことはしょっちゅうだが、読みたい本を読んでいるあいだも、いずれは次の小説を書こうと思いつづけているだろう。
 小説家が小説を書くのは、小説を書くという行為を通じて何かを考えたいからだ。そして、できるなら人間の考えるという営みに関わりたい。
 ここで注意してほしいのだが、私は作品という形で残りたいと思っているのでなく、考えたり感じたり記憶したりするプロセスに小説を書くことで関わりたいと思っているのだ。小説家になりたいと思った最初からこういう風に考えていたわけではないが、たぶん『プレーンソング』でデビューする前からこの考えはかなり固まっていた(と思う)。
 みんなはたいてい、とても素朴なことを言う。
「芥川賞をとって、これで保坂も文学史に名を残したな。」など、その素朴の最たるものだが、名が残ってどうなる。文学史などいったいいつまであるか。しかも芥川賞程度で。作品という形のあるものはいずれ消える。だいたい名など私ではない。
「作品は残る」という考えをとりあえず認めておくとして、私がずうっと考えているのは、
「じゃあ、猫はどうなる?」なのだ。
 猫が死んだらそれっきりなのだとしたら、作品や名などが歴史というものに残っても何の意味もないではないか! 作品が残る。作品を書いた作家の名が残る。では作品を残さない人はどうなるのか。ただ消えてゆくだけなのか。
 ここでいう「歴史」とは、さっきの(1)〜(4)と(6)〜(9)の、とても曖昧な人間生存観の産物であって、
(A)人間はあと一万年や二万年は生存しつづける。も、
(B)人間はこれからも激しく変化しつづける。も、
 どちらにも応えない。
 人が考えたり感じたり記憶したりするプロセスに関わるというのは、作品や名が残るというのとはまるっきり別の人間観から私がぐずぐすとずうっと考えてきたことであり、作品や名だけが残るというのでは『蜘蛛の糸』の、自分の下で糸を切るカンダタと同じことではないか。大事なことは、小説家は小説を書くことによって、作品や名を残さない人の生きた時間を不滅へ近づける道筋を探すことだ。
 
 と、ここまで書いて、やはりあまりに雲を掴むような話なので、読む人が何もリアリティを持たないだろうし、私自身、進化生物学の種の生存期間の話を聞いて私の中で沸々と沸き立った興奮からだんだん遠ざかってしまった気がしたので、いったんこれを反故か保留として、あらためて一枚目から全然別のことを書いた。それが前号の「寝言戯言(6)」だったわけだが、それの終わりにいたって、この原稿のつづきというか、私としての現時点の回答を書いていることに気がついた。
 簡単にまとめるとこういうことだ。私が中学受験をせずに、鎌倉市立第一小学校の仲間である今村、高野、森、ゲンちゃんたちと同じ中学に行っていたとしたら、私はきっと小説家にならなかっただろう。私がいまのようなプロセスで考えるようになったのは、なんと言っても私立の進学校での学校との軋轢によるところが大きかった。しかし考えてみれば、私はどういう環境にいても必ず仕来(しきた)り重視・秩序重視の考えとは軋轢を起こしていた。それだけは間違いない。ということは、私の核は、小説でなく軋轢だ。
 いまはもう自分が小説から離れることがあるとは思えないが、自分の核にあるのは仕来り嫌い・秩序嫌い・権威主義嫌い…… etc. であり、小説家にならなかったとしてもそこは変わらなかったことは間違いない。私は断言できる。「核」という言い方は、静的で固定して物質的な存在を想像させるかもしれないので、もっと自分の実感に即した言い方をするなら、原初的な運動≠ニ言った方がいい。貧乏揺すりとか声の大きさとかしゃべる速さとか身振り手振りとか筆圧とか、そういう身体的次元のことだ。あるいは、脳幹が意志の強さや生命力を決めているという説が本当だとしたら脳幹次元のことだ。
 人間に、永遠・不滅あるいは不死性があるとしたら、作品や名でなく、その原初的な運動こそがそれへの回路なのではないか。ラスコーの壁画は一万五〇〇〇年前に描かれたとされているが、それは作品とか文化遺産という静止したものでなく、一万五〇〇〇年前に生きたクロマニョン人が世界と接触した運動であり、それと同じものを一万五〇〇〇年後の人間も持っているから、自分たちの芸術の起源・メンタリティの起源と感じる。
 ラスコーの壁画は形として残っているから「作品」のように思われるのだが、一万五〇〇〇年前のあの運動が持続しているから現代の人間のそれに響き合う。それにしても、ラスコーの壁画がわずか一万五〇〇〇年前のものでしかないのなら、一万年後、二万年後の人間というのはどうなっているのか。目に見える形としての連続性をそこに見つけるのは不可能だと言うしかない。
 同じ運動を、一万年後、二万年後の人間も持っているかぎりにおいて、それに触れる者の心が響き合う。人間がするべきことは自分の中にある原初的な運動が何かを探し、それをつねに更新したり活性化したりすることなのではないか。これがさっきの(A)と(B)二つの命題に対する答えであると言うつもりは毛頭ないが、夜空の北極星を指し示す方位磁石をポケットから取り出したときに、いずれは北を指すだろう針が揺れている状態ぐらいの、答えの入り口から吹いてくる風が運ぶ匂いがわずかに感じられる状態ぐらいのものになっているのではないか。
 永遠・不滅・不死性…… etc. の概念によって人は本当のところ何をイメージしようとしていたのか? 作品や名や、さらには歴史もまた形≠ナあり、運動こそが形より永遠性ないし耐久性を持っているという考えにリアリティを与えること。突きつめてゆくと個性とはかぎりなくある集団の産物であり、そのとき本能・衝動と個性は同じなのか、違うのか? いまここで答えられる問いでなく、遠い未来がその問いの答えとなっているような問いの答えとなっているような問いとは何かと問うこと。