◆◇◆寝言戯言 5 「ちくま」2010年6月号◆◇◆

 飼っていた猫が死んだ五十代の男。といっても私のことではない。知り合いから聞いた話だ。その人は一人暮らしなんだろうか、猫が死んだ悲しさをまぎらわそうと、一人で酒を飲みに行った。店に入ると若い女の子が出てきた。
「長年飼っていた猫が死んで悲しくて仕方ないんだ。」と言うと、
「へえー。おじさんでも猫が死ぬと悲しいんだ。」というひどい応えが返ってきた。その人はおこってすぐに店を出た。
 これだけの話だが、この話を聞いて二つの話を思い出した。正確には一つの光景と一つの話だ。
 昨年夏、二十二年飼っていたうちの猫のペチャが死んで翌日、妻と二人で府中のお寺に火葬に行った。八月二十七日。晴れて暑かった。お寺には三基の火葬設備があり、朝九時か十時から夕方四時まで、行く直前でいいから電話さえ入れておけばその日に火葬して、お経をあげてくれる。頼めば遺体を引き取りに車で迎えに来てくれて、飼い主も同乗してお寺まで行ける。私たち夫婦は車の迎えも頼んだ。
 火葬は四十五分くらいと言われていたが、三十分で済んだ。午後二時から二時半。待っているあいだ境内を歩いたり、簡単な待ち合い室で無料の麦茶を飲んだりお菓子をつまんだりしていると、もう一人、六十代後半か七十代の男性が入ってきた。
 ここに来るのはペットが死んだ人しかいない。老人というには体ががっしりしていて全体に張りがある。着ているのはポロシャツだ。こんなとき中年以上の女性だったらほぼ間違いなく向こうから声をかけてくるし、向こうから声をかけなくても妻がきっと声をかける。そのおじさんはにらむような目で、両手をそれぞれ両膝にしっかりつけてすわっていて、妻も声をかけなかった。
 私は年に一、二回ぐらいずつカルチャーセンターの講座に呼ばれて話をするが、中年以上のおじさんは決まって仏頂面で表情を決して崩さずに聴いている。私は軽率なことをしゃべるからその人たちを不愉快にさせたんじゃないかと思う。中年以上の女性は対照的に穏やかで、にこにこ笑いながら聴いていてくれるから安心する。仏頂面で聴いていたおじさんの二、三人が講座が終わると私の方に微笑みながらやってきて、
「大変おもしろかったです。ありがとうございました。」と言う。
 そういうことをもう何回も経験してわかった。中年以上の男性は楽しんでいてもああいう場では仏頂面になってしまう。ふだんきっと私もそういう顔をしているんだろう。火葬が終わるのを待ちながら妻と二人で待ち合い室にいた私はどういう顔だったのか。夫婦でいると男も少しは表情が緩んでいるのかもしれない。待ち合い室はバスや電車の待ち合い室のように一歩で外に出られるところだから外光が入り重さはない。表情がどうであれ、その待ち合い室にいるかぎり気持ちはみんな同じだ。ペットの葬式は人間の葬式のような余計なものがない。
 火葬が終わり、お坊さんの読経も終わって、もう一度待ち合い室にもどると、そのおじさんが私たちより前に入ってすわっていた。小さい骨壺を持ち、横に「愛猫×××」と書かれた卒塔婆を立て掛けている。私たちはもうペチャの骨壺を納骨堂に置き、卒塔婆も納めてきていた。いま骨壺を持っているということは、四十九日までいったん家に連れて帰るか、お寺に預けずにずうっと家に置いておくかのどっちかだ。男一人で猫をずうっと飼っていたものか、途中で奥さんが亡くなったか、それとも入院でもしているのか。とにかくこの人は一人で猫を火葬しに来た。
 という話が一つ。もう一つはテレビで何年も前にゲイバーのママ三十人が集まった番組で聞いた話だ。
 ゲイバーにある日、地味なスーツにネクタイのいかにも真面目そうな初老の男性が入ってきた。
「あたしはさあ、最初、なんだろうこのおじさん。うちの息子を返せとでも言いに来たのかと思ったのよお。」ところが話は全然そうでなく、学校を出て以来定年まで同じ会社に勤め、結婚もし、子どもも二人育てて何年か前に二人とも無事結婚した。
 そんなある日、いままでの人生で一度も目にしたことのなかったゲイ専門誌をその人はたまたま目にした。ぱらぱらとそれをめくるうちに、自分はもしかしたらこの世界の方に興味があったんじゃないか……と考えるようになった。それ以来、ゲイ専門誌を読むようになり、ゲイバーというものがあることを知り、何度もこの店の前に来てはためらっていたが、今日はじめて勇気を出して入ってきた。
 私はこの話が大好きなのだ。ゲイバーでそのおじさんが温かく迎えられたことは言うまでもない。死を前にした一人暮らしの老人が初恋の人とめぐり逢えたという話と同じくらいの感動がある。実際の初恋の相手は自分と同じだけ歳をとってしまうのだから、初恋の女性の娘とめぐり逢う方がいいだろうか。最初の、「へえー。おじさんでも猫が死ぬと悲しいんだ。」の話では、二つの話がとても不幸な出合いをしたと私は感じたのだった。
 いままで小説なんか一度も書いたことのない八十代の英文学者が、はじめて小説を書き、同人誌に掲載されたものを私に送ってくれた。正確にはアメリカ文学者と言う方がいいのかもしれない。
 小説はエッセイのようにはじまる。妻の葬式を終えた老人が一人で縁側から庭の木を眺めている。妻は情感に乏しい女だった。自分がいま眺めている梅の花にも妻はろくに関心を示さなかった。そんな妻にも思いを寄せた相手がかつてあり、その男は兵隊にとられて戦死した。そこに自分があらわれ、戦後まもないことゆえ両者の生活上の都合から結婚することになった。
 というようなことを考えているうちに、自分にも昔初恋の人と呼べる女性がいたことを思い出す。戦争に社会全体が向かっていた時代、小学校低学年だった自分はひ弱でいつもまわりの子どもたちにいじめられていた。そこに割って入ってくれた二歳年上のサバサバした性格の女の子がその人で、年長になるにつれて男女が別々になる時代だったからその後、その人と親しく会うこともなくなっていったが、十代を通じて自分の心の中にずうっといたのはその女性だった。
 今こそ自分はその人にひと目会いに行かなければならないと思う。その人が郷里の九州で結婚し家庭を持ったことはわかっている。英文学者である自分の住所を出版社に問い合わせて、その人から何年も前に届いた手紙が一通だけある。手紙にはただ、書店で偶然あなたの名前を見つけ、懐かしくて手に取ったということと、今は郷里で幸せに暮らしているということが書いてあっただけで、自分もおそらく通り一遍の返事を書き送ったものだろうが憶えていない。
 明日朝の羽田発の便で行こうと、決して唐突というのでなく、大げさでもなく、剣の構えのように、すっと決意するところに私はドキドキした。恋愛はつき合いがはじまってしまったら、どれだけ濃厚に書いてもどうってことはない。はじまる瞬間、アクションを起こす瞬間だけは心臓が本当に口から飛び出るかと思うほどドキドキする。これはいくつになっても変わらないんじゃないか。
 九州の空港に着いて控えておいた番号に電話をすると女性が出て、躊躇なく迎えてくれた。行くとその女性は本人でなく娘さんだった。初恋の女性はすでに亡くなっていて、語り手の私は仏壇に線香をあげ、娘さんから、「母もあなたのことをずっと忘れられなかったようです」という話を聞く。
 もう十年以上前になるが、私は、
「死は〈無〉だ。」と書いたことがある。
〈無〉といっても存在しないことでなく、存在したとしても人間には届かない、それを語る方法がないという意味の〈無〉だったと思うが、言葉というのは油断するとすぐに簡単な方の意味にズレていくから、私は自分が「死はゼロになることだ」と書いたと思い、ぐずぐずずっと考えていた。正しい意味で記憶していたとしても考えていたが。
 ペチャの死がいずれ避けられないことは昨年冬あたりから明白であり、私は死とか魂とかについてずうっと考えていた。私は科学的な立場から魂を「ない」と言う人と対話をしても不毛としか思わないし、魂が「ある」と言う人とも対話したいと思わない。
 私はペチャの死がいよいよ避けられなくなった、死の三日ぐらい前にペチャの魂を感じて、それから死んだあと一週間ぐらいありありと感じることができたが、すぐにその感じは遠ざかっていった。
「死別という危機的な心理状態の中で、心は魂という避難場所を作り出す。つまり錯覚だ。」という合理的説明がいまは大勢(たいせい)だが、それは合理的ではない。
 音楽でも絵でも写真でもダンスでも、私の場合は特に音楽だが霊感に打たれる瞬間とか、世界の輪郭がくっきり見えたと感じたりする瞬間とかがあり、芸術のその働きを肯定することは魂を肯定することと変わらない。その音楽が、こちらのコンディションが違っていれば遠くぼんやりしたものにしか聞こえなかったり、とっかかりのない音の雲のようなものにしか聞こえなかったりする。
 芸術ではその後何度聴いたり見たりしてもぴんとこなくても、一度の強い経験の方が優る。その後のぼんやりとした受容が強い経験を否定することはない。いつかまたあの強い経験をすることの方を期待する。流れる音、見える絵には変化はなくても、そのように経験の差が生じる。芸術とはそういうものだと知っているかぎり、魂がそのようなものとして、ある瞬間または限られた一時期だけリアルにその存在が認められると考えることに不思議はない。
 だからきっと芸術という活動を人間がはじめたときに魂が生まれた。魂が生まれたときに人間が芸術という活動をはじめたのでもどっちでもいい。魂は人間の中に生まれたものだが、芸術と同じように完全な無から、つまり完全なフィクションとしてそれを生み出すことはできない。打楽器は言うに及ばず、管楽器も弦楽器も自然が鳴らしていた音を、鉄鉱石から鉄を精錬するように形成した結果であり、絵の具の色も辰砂の朱、マラカイトの緑、フェルメールで特に有名なラピスラズリの青、などなどほとんどすべて自然から抽出された。
 魂もきっとそのようなものだから、こちら側に強烈に働きかける力がないときとか敏感にそれを察知する能力がないときには何も感じることができず、人間は魂がかぎりなく無にちかい世界にふだんは生きることになる。こう書く私の「働きかける力」とか「察知する能力」というイメージ自体が、そもそも物理の力学や観察から借りてきた概念であり、魂を否定する科学の側の用語・概念・図式によってしか語れないところに、もともとの矛盾がある。
 白黒の写真ではフェルメールの色彩はわからないとか、憎しみしか知らない人に愛を語らせることはできないとか、そういうことでなく、数字しかない世界。気象や動植物を数字だけで記述するということでなく、数字とそれを結ぶ記号しかない世界。風も吹かず雨も降らず、それどころか大地も何もなく、ただ数字とそれを結ぶ記号しかない世界で、色彩や愛について語る不可能。
 思考の様式の根本、つまり見たり聞いたり感じたりしたことを自分の中で再現することとそれを誰かに伝えることの二つが、どっぷりと科学的思考様式に浸っている私たち。たとえば2と3を並べると3の方が大きいと無条件に考えることしかできなくなってしまっている私たち。私がこんなことを書くと、「バカか、こいつ。」としか思わない私たち。
 1とは全なる状態なのだから、1より完全な数はなく、そのときに2と3を比較することは空しいだけだ。と考えることのできない私たち。無とは原初の充満であり、無の中にすべてがあり、したがって無とは空虚でなく石のように寸分の余地もなく詰まっている。と考えることのできない私たち。そのような私たちは平生においては、魂からかぎりなく遠い。