◆◇◆寝言戯言 3 「ちくま」2010年4月号◆◇◆

 パソコンのメールができて便利になったと思っている人がいっぱいいるが、とんでもない。メールはごく一面的なことしか便利にしていないし、メールを便利と思うその心がメール的なものネット的なものパソコン的なものによって侵害された結果の心でしかない。鳥は空を飛べることで海の中にいる魚よりずっと自由と見えるかもしれないが、魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない。全然喩えにはなっていないが、言いたいことはそんなようなことだ。
 テレビがなかった時代、夜を退屈だと思った家族はいなかっただろうし、電気がなかった時代に電灯とか電気なんとかがなくて不便だと思った人はいなかった。けれど一度電気を知ってしまったら、電気のない生活は明らかに不便だと言ってさしつかえないだろう。という意味でメールがまだなかった時代に、メール的なコミュニケーション手段を夢見て不便だなと思った人はいないと言っているのでは全然ない。魚や鳥より哺乳類の方があとで生まれてきたわけだが、それにもかかわらず魚みたいなライフスタイルの哺乳類はいっぱいいるが、鳥みたいなライフスタイルを目指した哺乳類はあんまりいない。というのはたんにいまクジラやイルカや、もう少し手を広げてアザラシやラッコがブームで、一方コウモリはいまのところブームではないからクジラやイルカやアザラシたちほど多様に見えないということだろうか。しかしだいたい、個体数でいったら何万匹という群をなすコウモリの方がきっと圧倒的に多いんだろうし、鳥の方が哺乳類より先だったのかどうかも判然とせず、哺乳類の原始的なものの方が鳥より先だったという説まであるらしい。
 メールは夜中でもやりとりができるが、夜でもメールが届くと思ったら眠らずに起きていなければならず、眠っているあいだにコミュニケーションが取れないという点ではメールも郵便も変わらない。が、大問題なのは、眠っていればメールを受け取れないことでなく、眠っていなければメールを受け取れてしまうことで、結果、みんなメールに使われることになる。石川淳の『普賢』は昭和十一年に書かれた、当時の社会が描かれている現代小説だが、その中で、前夜に投函した手紙が翌日の夕方には届いているくだりがあり、前夜投函ということはきっと朝一番の集配であり、それが夕方には届いている。速達ではない。普通郵便だ。
 以前読んだなんとか言う私小説作家の文壇昔話によると、戦前は速達だったら三時間後ぐらいには都内なら届いていたそうだ。その私小説作家の文壇昔話は、これのどこが文学の話だ! と思うほどくだらない内容だったが、唯一、昔の郵便がいかに迅速だったかということはわかった。速達を使えば、
「本日、午後三時にそちらに伺いたい。」なんて、約束を取りつける文面が可能だったというわけだ。郵便は今では一日一回届くだけだが、私が記憶するかぎり、九〇年代前半までは午前・午後の二回配達されていた。昔は三回ぐらい配達されていたそうだ。もっともこれは東京か大都市限定の話で、まさか青森の山奥のポストに朝投函した手紙がその日の夕方に鹿児島に届くということはありえなかったわけだが、そのような時には電報があった。電報だったら数時間以内に届いたし、眠っていても、
「電報ですよーッ!」と言って、玄関をガンガン叩いて起こしてくれた。しかしそれは今の社会ではとても迷惑な話だ。
 正岡子規の『墨汁一滴』というのはエッセイ集というには多様すぎる文章が入っているが、文章のジャンルの名称はともかく明治三十四年の一月十六日から七月二日まで「日本」という新聞に毎日(傍点)連載された文章で、子規は同じ「日本」でその前に『松蘿玉液』を連載し、あとには『病牀六尺』を連載し、『病牀六尺』はなんと死ぬ二日前まで連載された。子規の命日は明治三十五年九月十九日で、最後の掲載は九月十七日ということなのだが、事情がわかる人ならきっと、
「それは書きためておいたんだ。」と言うだろう。
 しかし子規は、というかその頃はそうではない。いまでも朝日新聞の「天声人語」とか他の新聞でも一面の下に載るエッセイは内容から推測してたいてい前日に書かれているが、子規の連載もそのように前日に書かれた。しかも事情に通じた人ならすごく驚くだろうが、毎日分量がまちまちなのだ。
 事情に通じていない人は、分量がまちまちであることにはきっと驚かない。新聞というものは毎日毎日起きる事件・事故に対応するために前夜ギリギリの時点まで記者がみんなで記事を書いて、長短いろいろな分量の記事を、新聞紙面にうまく配分するために、記事の分量を減らしたり、少し書き足したりしている。と、思っているだろうが、実際には新聞は何日も前に書かれている記事が多く、分量も記事の内容にかかわらず前もって決められていることの方が多い。日々の出来事に即応している記事って、新聞の中で案外少ないのだ。
 という事情がわかっていると、子規の連載の分量が毎日まちまちであることは大変な驚きだ。「天声人語」はいつも同じ分量であり、それゆえ確保しておくスペースが同じだから前日の入稿に対応できる。ところが子規の『墨汁一滴』ときたら、六月一日は、
「ガラス玉に十二匹の金魚を入れて置いたら或る同じ朝に八匹一所に死んでしまつた。無惨。」
 と、岩波文庫ではたった一行。しかし翌六月二日は、岩波文庫で二十行もある。ささっとチェックしたかぎり一番長いのは三月二十八日で八十四行もある。そんな長い文章、いったいどこに載せたんだろう。
 三月上旬には何回か、子規は活字ができたことで漢字が本来の書き方がされなくなったことを指摘し、たとえば三月四日に「」のつくりは「頁」ではなく「負」というようなことを書いているのだが、子規の指摘もまた間違っているという投書が届いた。投書によれば「」のつくりは「負」でなく「刀貝」であって、貝の上は刀なのだから負と同じではない。ということだと、三月八日の連載で書いている。
 三月四日に掲載された文章の誤りの指摘が八日に掲載される迅速さがすごい。四日の新聞を読んだ人がハガキを書いて投函して、それが子規の元に届いて、子規が七日のうちに書いた。
 メールを使えば、朝刊を読んだ人がすぐに送信すれば夕刊には訂正できると言うかもしれない。ま、「天声人語」も『墨汁一滴』も朝刊限定だから夕刊はありえないが、しかし、ありえたとしても明治三十四年の三月四日から八日までに起こった迅速さが、今の新聞では起こらないのだ。
 そんなバカな! と思う人が多いかもしれないが、実状はそうなっているのだ。現代を生きる私たちは、本来もっと自由で勝手気ままであるはずの動きを何かによって拘束されて奪われている。メールができて、速くなった、自由になった、というのは大間違いで、流しそうめんがあの長い竹の樋を流れ落ちていくような動きでしかなく、竹の樋から飛び出たらベチャン! だ。喩え話になってないが私のイメージはそんなようなことだ。
 私はホームページがあるから、私のホームページあてにメールを送れば、管理人をしている友達を経由してだいたい半日以内に私に届く。で、私がメールの返事を書いて連絡がついた人は、
「ああ、メールがあってほんとによかった。
 あのメールだって、送ろうかどうしようか、さんざん迷って送ったんです。」と言うのだが、それがまた間違っている。
 まず、基本的に私は最初にメールで送られてきた連絡は返事しない。最初からメールで連絡をとってくる人は対話能力が低い人が多く、メールのみの連絡になりがちなので私は嫌なのだ。メールを読んだり書いたりするより電話の方がずっと早い。
「でも電話だと、保坂さんの忙しいタイミングで連絡しちゃうかもしれないから。」というこれは間違っていないが、気が合うかどうかは電話するタイミングの善し悪しにも関係している。どういうわけかいつもこっちが忙しいときに電話してくる人はやっぱり気が合わないのだ。気が合う合わないで仕事を選ぶ私も問題だが、そんなこと今さら変えられない。いや、変えられるか。
 だから、その人のメールに私が返信したのだとしたら、きっとそのとき私は淋しかったのだ。話し相手が誰もいず、せめてメールぐらい。なんて、こんなことを書くと、2ちゃんねるレベルではすぐに本気にされてしまう。と書くと、2ちゃんねるの人たちは本気にされたいんだと解釈する。
 先日、おもに音楽の方で書いたり活動したりしている三田格という男としゃべっていて、「××君とはどういうきっかけで知り合ったんだ。」と訊くと、三田の返事は、
「『フィリップ・K・ディック研究読本』を読んで電話してきた。」
『フィリップ・K・ディック研究読本』というのは八〇年代前半くらいに出版されたムック(?)で、当時大学生だった三田が編集した。で、それが出たらすぐに××君が電話かけてきた、というわけだ。で、「じゃあ、△△さんとは?」と訊くと、三田は笑って、
「△△さんも『ディック研究読本』。」
 この反応の良さがすごいと私は感心した。八〇年代というのは、こんなにも反応が速く、熱く、世間が狭かった。明治の話を読むといわゆる有名人が狭いサークルにぎっしり詰まっているような印象を受けるが、『フィリップ・K・ディック研究読本』にまつわる三田格の八〇年代の話もなんかそれにちかい。
 メールは便利だと言われているが、私たちからその機動性を奪ったんじゃないか。
 メールを使うようになって私は手紙やハガキが書けなくなった。手紙よりもとりわけハガキが書きにくい。ハガキという狭いスペースに、どんな大きさの字でどれだけの量の文章を書けばしっくり収まるか、を考えるとわからなくなる。でもたまに書いてみる。どうせあんまり書くことはないから、と思って大きめの字で書き出すとすぐに半分以上が埋まってしまい、少しずつ小さくしていっても収まりきらない。
 中学一年で一つうしろの席にすわっていた関野君はものすごい合理主義者で、授業中ノートを取るのに、まず青の万年筆で書き、次に同じページに青の万年筆の上に赤のボールペンで書く。
「色が違うからどっちもちゃんと読める。」
 というわけで、ハガキに収まりきらなくなったときには私も赤のボールペンで書いたりするわけだが、そんなハガキはどう考えても失礼で、出さない方がよっぽどマシというものだが、せっかく書いたんだから投函する。こんなことはメールが悪いんじゃなくて、おまえが悪いと言われたら私は返す言葉がない。だいたい私はメール以前からハガキと文章の分量がわからず、赤のボールペンも使っていた。
 メールにはメール依存症がある。電車の中で特に若い子たちは本も読まずに携帯電話ばっかり開いて何かやってる。電車が揺れて目の前で老人がよろけても気づかない。本に読みふけっている人もそうだ。携帯電話ならまだわかるが、本を読んでいて目の前の老人がよろけるのを知らんふりとはどういうことか? 昔から、
「いまどきの若い人は、老人が乗ってきても席を譲らず、急に本を読み出したり眠ったふりをしたりする。」と言われてきた。しかし、そんなこと言われたら、電車の中で若者は何をしていればいいのか。
 家に帰ってもメールばっかり打っている。そうは言っても「打つ」と「書く」の違いで、メールがなかった時代だって一日に何時間も日記を書いていた人がいた。カフカだってその一人だ。一晩中かかって朝まで書きつづけたとしか思えない長さの日記の日がカフカにはある。しかもカフカはその合い間にフェリーツェとかミレナとかの恋人や、あるいは友人や妹に長い手紙も書いた。メール依存症やブログ依存症の人たちとあんまり変わらないことをやっていたとも言える。
 私にはメールを論理的に批判することができない。すべての批判が論理的である必要はないし、論理的でなければ批判が批判として機能しないということもない。論理的であれば客観性・普遍性を持ち、より多くの人を納得させることができる。批判がより多くの人の賛同を得なければならないという考えは数の論理だ。真理は数の論理ではない。私は数の論理につきたいわけではないし、真理の側につきたいわけでもない。
 メール的なもの、ネット的なもの、ブログ的なもの、パソコン的なもの。それを私が批判したところで、批判に対する反論が出てきたら私はそれに太刀打ちできないから反論はぜひともしないでほしい。ただ、メール的なものによって失うものがたくさんある。メール的なものが世界の中心になるということは、メール以前の世界ではぱっとしなかった人たちが力を持ったり脚光を浴びたりすることだ。人間の歴史はそれの繰り返しであり、時代がどんなに違っていても彼は絶対、社会を動かす人間になった、という言い方があるが、そのようなことが本当だとは私は思わない。メール的世界ではそれにふさわしい人が成功する。
 そこに私は期待を持っていない。私はとりあえずそれを表明しただけだ。