◆◇◆寝言戯言 2 「ちくま」2010年3月号◆◇◆

 人が木や草花に関心を通り越して過剰とも見える思い入れをするとはどういうことか。
 四、五年前、うちの最寄り駅の私鉄の駅舎がロータリーも含めた大々的改装工事をしたとき、ロータリーのまわりに立派な大きなケヤキが七本か八本か、あるいは十本ぐらいも生えていた。一人の初老の女性が駅員をロータリーに呼び出して、このケヤキを伐らずに残しておくように、抗議だか懇願だかしていた。そのケヤキは保存樹木として残しておくようにという、あまり大がかりではなかったと記憶するが、とにかく住民による運動もあり、結果、すべてではなかったが、五本か六本、ケヤキは残されることになったが、あのときの女性はその運動とは別に、彼女個人の意志としてやむにやまれぬ訴えとして、ケヤキを伐らないでくれと言っていたように見えた。
 妻と二人で少し離れたところまで散歩したとき、車一台がかろうじて通れる程度の道の三分の一くらいを占めていた太い、これもケヤキではなかったかと思うが、太い太い幹があった。それは当然車の通行のじゃまだったが、道と車と木の順番で言えば道よりも車よりも木が最初からあったはずなわけで、車だって「ちっ、じゃまな木!」などと思わずに自分たちより先にあった木に敬意を表すべきだったわけだが、その太い太い幹は地面から五十センチぐらいの高さのところで伐られていた。
 私はその幹の年輪の多さに感心したり、そのように伐られても幹の脇からもうすでに新しい枝が葉をつけて伸び出ているのに感心したり、そういえばしかしこの木はすでにだいぶ老木で幹に大きな空洞もできていた。だから根を残して木を死なせないために伐ったのかな。などと言っていると、妻は、
「痛々しくて見るに堪えない。」と言って、怒って私を置いて行ってしまったのだった。私の知り合いには近所の大きな桜の木がばっさり伐られたという話をしながら、涙が流れはじめた人もいる。
 近所の桜といえば、三軒先に大きな立派な桜があり、その桜もまた車一台がかろうじて通れるほどの狭い道に出っぱっている。その桜の木の所有者の家が建て直しをすることになり、家の取り壊しがはじまったときから妻は桜が伐られるんじゃないか、家の工事をする人にじゃまだからきっと伐られちゃう、とそればかりを心配していて、
「私を伐らないでください。」って紙に書いて貼りに行こうか。なんて言っていた。そんな折り、ちょうどその家の六十歳だがとてもきれいで、若い頃会っていたらどんなに興奮しただろうと思わせる奥さんと、桜の木の下で会ったから、妻が、
「すいません。この桜、伐っちゃうんですか?
 伐らないでくださいって、お願いしに行こうなんて二人で話してたんですけど。」と言うと、奥さんは、
「伐りませんよ。これは私が生まれたときに父が植えてくれた桜なんです。伐りませんよ。」と答え、妻も私もホッとしたのだった。
 関西出身のお笑い芸人が長者番付の芸能人部門の一番上に名前が出るほどの金持ちになって、世田谷の奥沢とか深沢とかの住宅地に家を買って、近所の人たちが毎年楽しみにしていた桜をばっさり伐って、まわりから大ヒンシュクを買っているというワイドショーの中で彼は、
「俺が自分の土地の自分の木を伐って、どこが悪い。」と言っていたが、悪いに決まってる。
 これは友達の目撃談だが、マンション予定地の前で工事関係者だったか不動産業者だったかに、
「この木を伐らないでいただけないでしょうか。」と言った女性に、工事の側の人が、
「だったら、あんたが十億の金を払ってくれるのか。」と言っていたそうだが、十億あったって樹齢何十年の木は買えない。この世界には金で買えないもの、つまり金に換算してはいけないものがあり、人間が所有できないはずのものがある。十億なんて、国家経済が破綻してしまったら、アイスキャンディ一本も買えない価値になりかねない。
 この世界には絶対尺度でしか計れない存在と、貨幣のように相対尺度でしかないものがあり、それを知らない人たちが相対尺度の産物でしかない金で絶対尺度を食い荒らす。が、そんな批判に今は関心がない。そんなことをつい書いてしまう自分の、なんと×××なことか! って、しかしこの×××の中には何を入れればいいんだろうか。
 昭和天皇は敷地の草を抜かせず、
「雑草という名前の草はない。」と言ったというのは、本当は誰かの創作かもしれないが有名な話だ。昭和天皇もまた木を伐らないでと訴える側の人だった。これは間違いない。天皇皇后は各地の植樹祭をまわったりするが、植樹を記念するだけでなく開発で伐られそうな木を指して、
「伐らないでほしい。」とおっしゃったらおもしろい。それを権威の乱用と抗議できるほど度胸のある人はいない。いや、そんなことを書きたいわけじゃなかった。おもにペットロスの話だ。
 昨夏にペチャが死に、ペチャが死んでみて、私は動物というのは、一般に愛を与える対象と思われているが、愛の源泉であることがわかった。あるいはもしかしたら、愛というのは本質的にそういうものであり、対象であると思われている存在が同時にその人の愛の源泉でもあるということなのかもしれないが、いまはいちおう対象と源泉を区分しておくことにする。が、しかしいったんそう書いてしまうと、この区分はじつに馬鹿気ているとしか言いようがないという思いがふつふつと湧いてくる。しかしこんなこと、精神分析の本で読んだ憶えがないのだが。
 ペットは一般に自己像の投影だと言われたり、恋人など愛の対象の代替物と言われたりしているが、そんな軽いものではない。あるいは、精神分析のラカンの図式の、想像界・象徴界・現実界の三つの区分で言うところの想像界に位置するという説もあるが、想像界というのは私が理解している範囲で言えば、「私とは何か」とか「理想の私」というような意識の供給源みたいな働きをしているから、やっぱり自己像ということになるわけだが、自己像というほど軽いものではペットはない。もちろん世の中には、「自分がすべて」「自分が死んだら、この世界が残ろうが残るまいが関係ない」「世界は自分の意識に映る以上のものではない」「私が死んだら世界も滅びる」という風に、徹頭徹尾自分しかない人がいるが、そういう人はいまは関係ない。というか、
「私が死んだらポチも一緒にお墓に埋めてくれ。」なんて、秦の始皇帝か何かのようなことを考える人は、心の底からペットをかわいがっている人にいるはずがなく、その人たちは、
「私が死んだらポチをお願いします。」
「私の財産をポチに行くようにしたい。」と願っているわけで、その時点で、すでに「私が死んだら世界も滅びる」式の唯我論的世界観は打破されている。
 ペットは自己像でなく、自己をこえる、自己よりもっとずっと大きなものなのだ。それは便宜的にはペットは飼い主しか世話しないわけだけれど、それは日常次元の話であり、それを人間の大きな精神の出来事と一緒くたにしてはいけない。だいたい人が苦しむのは、人間存在の本質にかかわる話を日常次元や金銭次元の話で切り崩されるときだ。切り崩す側は人間存在の本質にかかわる思慮をすでにとっくに日常次元のことに明け渡しているから、自分が放棄したそれをいまだに大事に抱えている人のことが我慢できない。
 ペットは、ペットへの愛は、もともとは自己から出てきたものだったかもしれないが、ペットとの歳月を通じて、ペットによって自分の最も豊かな部分が世界と関わりを持てるようになっていると感じるようになる。これは幻想や錯覚の類かもしれないが、人間として必要な幻想・錯覚であり、幻想や錯覚などいっさい必要としないと言う人は自分の親の死体を生ゴミとして出せばいい。
 わかりやすく言うと、ペットは自分の子どもなのだ。子どもというのは自分よりあとまで生き、自分は子どもに世界を託す。「世界を託す」というのは自己の存在の根本に関わることで、子どもに「世界を託す」と思ってしまったら、その人の世界の中心に子どもがいる、ということはつまり、世界があること、世界を信頼すること、そういう肯定的な感情の源泉、その機能を子どもが持つ。
 私は子どもがいないが、子どものいる友人の話を聞いていると子どものイメージの中心は、子どもが高校生になろうが二十歳になろうが、その子が小さな子どもだった頃の姿であり、それは私自身、猫を見るときにそれが顕在化するときもあればしないときもあるが小さな子猫だったときをダブらせている。ということからもわかり、そういうことがわかってくると、どうやら今年八十四歳の父と八十歳の母は私にかかわるイメージの中心に、小さな子どもだった頃の私を据えていると感じるようになった。親にもよるだろうが、たいていの親は折にふれては子どもの昔話をする。
 これもまた自分がこうして五十歳をすぎて実感することだが、昔の記憶がどんどん鮮明になってくる。これはたぶん錯覚ではない。大人になると子どもの頃のように世界がいきいきしたものではなくなってくるので、世界に対する信頼を維持するために、人は無意識のうちに子どもだった自分をフィルターに使って世界を見るようになっているのだ。子どもやペットはその機能を担ってくれる。
 つまりもともと、子どももペットも自分がこの世界に存在することの実感とか手応えとかを失わないための経由点として自分の外に、自分の身勝手な都合で据え置いたものなのかもしれないが、そうだったとしてもいったんそれができてしまえばそれはなくてはならないものになっている。し、それにまた、それがもしなくて今まで来ていたとしたら、自分はもっと身勝手で「俺が死んだら世界も滅びる」的な世界観に傾いていたんじゃないか。と、はっきりとは思わない人でもやっぱりどこかでそういうことは感じている。人はある年齢に達したら、きっと生きることの意味を自分でない者のためにシフトさせてゆく必要があるのだ。
 が、ペットは子どもではないから自分より先に死ぬ。そんなことは承知しているつもりだが、それを受け入れるとはどういうことか。「この猫(犬)はいつか死ぬ」とわかっているとは言っても、その「いつか」は今ここでこうして生きている世界とはつながっていない。だから、ペットを飼う歳月というのは、ひじょうに極端で一面的な言い方をすれば、いま目の前にいる猫(や、犬や、鳥や、ウサギや、フェレットや、蛇や、すべてのかわいがっている動物)がいつか自分より先に死ぬ、ということを受け入れてゆく過程と言うこともできるかもしれない。だから、子どもが先に死んでしまった親、ましてその子が四歳とか五歳だった人は、もう、どうするんだ? どうにもしようがないんじゃないかと思う。
 本当にどうすればいいんだろう。私にはわからない。自分より先に死ぬかもしれない、なんて思って子どもを産む人はいないんだから。
 ペットの場合、どれだけ遠く、実感が全然ないこととは言え、「自分より先に死ぬ」という命題を頭の隅に置いていない人はいないから、たぶんそれがかろうじての救いになる。が、私の場合だって、三匹の猫のうち一番若くて一番元気で一番おっちょこちょいで、こいつがいるから世界、というのは私の世界でなく私を取り巻くまさにこの世界がいきいきしていると思っていたチャーちゃんが一カ月の闘病で死んだあとは、もう朝の光を見て晴々した気持ちになることは二度とないと、半年ぐらいは感じていたものだった。
 そのときの救いは二匹の猫がいたこと、その二匹がまだまだ若くて、いろいろおもしろいことをしてくれたことだった。そしてそのうちの一方のペチャが昨夏に死んだのだが、ペチャはやはりなんと言っても二十二歳四カ月だったから、死んで別れる覚悟なんてやっぱり本質的に不可能なんだなと思いつつも、しかしやっぱり覚悟ができていたということらしく、私は(たぶん)大きなダメージを受けることなく、ペットロスというのはどういう状態かということを考える余裕もあった。
 ペットロスというのは、自分のいる世界の中の大事なものが消えてなくなることでなく、自分のいる世界が根底からごっそり奪い去られてしまうことなのだ。愛の対象とは愛の源泉であり、愛とはそういうもので、観察する対象がありそれを取り巻く現象があり、それらを観察している主体があるというような、世界を個別に区切っていくような図式では愛は全然わからない。木を伐らないでと訴える人や木が伐られるのを見て涙を流す人の内面で起こっていることは、それにあんまり関心を示さない人たちが考えるような簡単なことでなく、もしかしたらかなり危機的なことなんじゃないか。駅員をわざわざ訪ねて、××××をしないでくれと訴えるなんて、そんなことよっぽどでなければできるわけがない。
 それに見方によっては、木や草や花の方が犬や猫たち動物よりも世界にちかく、そういう人たちにとって木や草や花はまさに世界、それがあるから自分もこうして存在することができていると感じられる世界の根拠か世界そのものなのかもしれない。