「カンバセイション・ピース」(初稿)その8・・363枚目〜405枚目 【球場でしか晴らせないと言いつつも球場のこの悔しさが家に帰っても尾を引いていないわけはないけれど、野球にまったく関心がない妻と由香里と浩介には私が抱えていた悔しさは伝わらなくて(何故だろう。野球の悔しさは一般的悔しさと別なのだろうか)、伝わらないと私の方の気持ちも家の中の物や人間や猫に紛れて、出迎えにきたクーとココに順番で鼻と鼻をつける】(【 】の部分は赤Xで消し) 私が球場に行くのが社会生活の代償行為でなく、自分の「夢を託す」ようなものでもないことは、かりに全然納得しない人間がいたとしても私自身にとってははっきりしていた。それより、球場というところで毎回出現しているひとつひとつの違うプレーと、すべてのプレーに名前のついているということの、具体と抽象、個別と総体のようなことが私には非常に大事な、もっとしっかりわかりたい何かのような手ごたえみたいな気分がしっかりあったのだけれど、どうしてもはっきりしてこなかった。人間の目や耳というのはこの世界で起こる具体的で個別の事象しか把えることができず、思考というのも目や耳から入力される事象にのっかって働くようにできているために、抽象や総体の一角しか把えることができない。ふつうに抽象とか総体と思っているものも、たぶんまだまだそれの一角でしかないはずなのだ。人間の前に抽象や総体が現われることは決してなく、それを知るきっかけがあるとしたら、きっと具体的で個別の事象に徹底して立ち会っているときなのだ。ひとつひとつのプレーは野球という総体の一角であり、野球というものもまたもっと大きな総体の一角であるはずなのだ。いつもなら漫然と放っておくところだけれど、興奮していたので東横線から井の頭線に乗り換え、小田急線に乗り換え、駅から歩く道でもまだ考えていたけれど、わからないものはわからないのだからわからないまま家に着き、玄関を開けると、まずクーが出迎えに来て、次にココが来て、最後に階上にいたらしいミケが走ってきた。 「一時間くらい前までミケが退屈して大騒ぎだったのよ」 と、妻の理恵が言った。 「あたしでも遊ぶんだけど、どうしても内田さんの方がいいみたいなの」 「あなたが育てるとみんなそうなるわよね」 「みんなって、二匹だけだけどな」 私はついさっきまで難しい顔をしていたはずだけれど、出迎えに来たクーを見た途端に緩んでいた。自然と緩むというんじゃなくて猫に対して意識的に顔を緩ませるわけだけれど、顔の筋肉が緩むのと一緒に、それまでずうっと考えていたことも中断して消えていた。 「浩介は?」 「さっきは階上でギター弾いてた」 「じゃあ風呂に入る前にひと遊びするか」と言って、鴨居に隠してある猫のオモチャの鳥の竿を取ると、 「男の人ってどういうんだろう」 と妻が言った。 「いきなり話を一般化するなよ」 「だって、あなたは野球ばっかり行って、浩介君はヒマさえあればギター引いてて。 それがなかったらいったい何して時間を潰すんだろうって、思うじゃない」 「じゃあ、理恵と由香里は今夜何してたんだよ」 「いろいろお話ししてたよねえ」 由香里が笑って頷いた。玄関の三和土に羽を振って落とすと、それをめがけてミケが飛び降りた。今夜は二人ともあんまり飲んでいないようだった。ということは、理恵が帰ってきたのが遅かったのだろう。 「ここの伯母さんだって、生きてたあいだ押し花で絵作って親戚とかご近所とかに配ったり、うちの母親だって七十すぎてから市民講座通って、古典読んだり、そのうちに家族の歴史書いてあなたに見てもらうって言い出したり、あたしはやめとけば言ってるんだけどね、ハハハ。ま、とにかく何かいろいろ生産的なもんだけど、父親っていったらゴルフか囲碁やってるばっかりでここの伯父さんなんかだって、もうホントに跡形もなくなっちゃった感じでしょ」 「そういう話してたのか」 「少しはね。 ねえ」 と、由香里に同意を求めた。由香里はまた笑って頷いたが、いつもほど雰囲気が軽くないみたいだった。私は鳥の羽を三和土、下駄箱の上、上がり口の畳と三箇所に飛ばし、ミケは律義にそのつど羽をめがけて飛び移った。しばらくはこうして遊んでいられる。妻の理恵は私が一人でばかり野球に行って、自分を連れていかないことを責めているのではなくて、もっと単純にそういうことにうつつをぬかす男の一般の性向がわからないと言っているのだ。もしかしたら私に向かって言っているのではなくて、由香里に向かって言っているのかもしれなかったけれど、私は言った。 「じゃあ、野球に行くたび必ずビデオでも撮るようにしようか。 そうすれば、おれが死んだあとに横浜ベイスターズのビデオが何百本と残ることになる」 「キャハハハ」と由香里が笑ったけれど、理恵は真面目な顔で、 「でも記録とは違うよね」 と言った。 「違うな」私も同意した。 「うちの母の『家族の歴史』だって、『家族の歴史』を書いているところを記録したいわけじゃないもんね」 「え?」 由香里がキョトンとしたので、理恵が、だから、『家族の歴史』はたしかに記録だけど、いま言ってる記録はそれを書く自分を記録することで、映画で言えばメイキングビデオみたいなものだと言った。由香里は一応納得した顔をしたけれど、「自分のことを書く」のと「書いている自分を書く」という、この枠の設定の違いをすっきりとは理解できていないらしくて、私は自分も十九才の頃はわかっていなかったかもしれないと思った。こういうことはある種の思考の習慣の産物で、誰もが身についているわけではないということだ。 「ということは」と私は言った。 「理恵によれば男女の差は、女は何かを作るから何かが残る。男は何も作らないから、何をしていたかの証拠はビデオみたいな記録でしか残らない。ということだな」 「ちょっと強引だった、かな?」と理恵は笑った。ミケは相変わらず三和土と下駄箱の上と上り口の畳の三箇所をとびまわっていた。 「もともと自分史の類いは男がやり出したことだしな」 「でもあたしのまわりの男の人はみんなそうだよね」 「だって内田さんなんか、やってる仕事がそのまま残るじゃない」 「ツッツッツッ」と、私は羽の竿を持っていない左手の人差指を顔の前に立てメトロノームのように振り、外人みたいに舌を鳴らした。 「小説っていうのは本質的に、読む時間の中でだけ存在するものだから、浩介のギターと同じなんだよ」 「『読む時間の中でだけ存在する』って、格好いいね」 「言葉としてはな」と私は言った。 しかし由香里はまだそういう感覚をまったく理解していない。理解していたとしたら、いまこんなことをしている自分のことをいつか笑って思い返すだろうか式の思考法にとらわれたりしないだろう。これは由香里一人ではなくて由香里と同世代の子たちにかなり共通している感覚なんじゃないかと思うけれど、この思考法(または感受性)には現在がない。浩介はいつか自分を思い返すためでなくて、ただ現在を埋めるためにギターを弾いている。そうしたら妻が言った。 「ドゴール大統領は心臓発作で死んだんだけど、そのとき部屋で一人でトランプ占いしてたのよね」 「じゃあ、『いま死ぬ』って出たのかなあ」 「バカね。そうじゃなくて、トランプの一人占いっていうのは一人遊びのことなのよ」 つまり、ドゴール大統領も一人になると浩介のギターのような無意味な時間潰しをしていたということだと私は由香里に言った。ここまで話して、由香里はようやくさっきから理恵がこだわっている時間潰しの不思議さを感じはじめたみたいだった。 「西洋人って、トランプの一人占いとか好きよね」 「『魔の山』にもそういうのが出てくるな」と私は言った。一人占いにはまると無意味とわかっているのに毎晩何時間もやってしまって抜けられなくなるというのだ。 「テレビゲームみたいね」 「でも、テレビゲームにはクリアする目標があるけど、一人占いは進歩するわけじゃないからな」 「いろんなキャラクターを紙か何かで作って、国と国とが戦かう話を毎晩一人で考えるとか、西洋の人って、一生子どもみたいなおかしな遊びしてるのよね」 「だから非生産的な時間潰しこそが成熟の証明なんだよ」 ミケは飛び跳ねまわり疲れて、口を開けて三和土のコンクリートにべったり横になって動けなくなっていた。猫も人間と同じで激しく動くと鼻だけでは足りなくなって、口を開けて呼吸する。そして体温を下げるためにひんやりしたところに全身の皮膚を広げるみたいにしてくっつける。 「成熟かどうかは知らないけどさ。 何かを作るんだったら、『今日はここまでやっちゃおう』って、区別りのいいところまでやると思うんだけど、ギターとかトランプ占いだと、そんな風には思わないよね」 妻のトーンはこの話題を持ち出したときとは明らかに変わっていた。私は「今日はここまでやっちゃう」なんていうのは遊びじゃなくて労働だと思ったけれど、妻がこだわっているのは遊びと労働の区別ではないはずだったので、「だいたい、なんでそんな話になったんだ」と訊いた。 「『なんで』って、ねえ」と妻は由香里を見た。 「おしゃべりなんて、あちこち行くから、そんなこと訊かれたってわからないわよねえ」 「おばさんが、最初にあたしに、あなた何にもしてないって言ったの」 「あ、そうそう」由香里に言われて妻の理恵も思いだしたのだけれど、この反応からすると私が帰ってきたときには、妻の心は由香里個人の問題を離れて、もっと別のことに向いていたということなんだろうと思った。 「この子、大学辞めたいなんて言い出すんだから」 「『辞めたい』じゃなくて、『辞めようかな』だもん」 「で、辞めるも何も、だいたいあなた何にもしてないじゃないって、おばさんが言ったわけだ」 私が言うと、「うん」と由香里は頷いた。 「その前に、あなた何て言ったんだっけ」 「え? あ、うん。こんなことしてると後になって後悔するような気がするって、言った」 「おばさんとしては、あなたとか浩介君みたいな人に囲まれてる環境がいけないのかなって、思うじゃない」 と話す妻の口調はさばさばしていて、由香里の「辞めようかな」発現がたいした問題ではなかったことをあらわしていたが、そのあとどうも二人の話が押し花絵を残した伯母と何も残さなかった伯父というような、時間の潰し方の話になって、そこからの方がむしろ解答が得られない問題に入り込んでしまったということらしかった。 「何もしてない時間ってヤよね」と妻が言った。 「ホントは、押し花で絵作ってるあいだも何か他のこと考えてるんだから、ここの伯母さんと伯父さんが考えていたことが、まわりの人からわからないのは同じなんでしょうけど、伯母さんの方は『押し花で絵作ってたのね』って、逃げ道があるけど、伯父さんの方にはそういう逃げ道がないんだものね」 「とりあえず埋めてくれるものがないよな」 「そうなのよ」 「じゃあ、おれは風呂入る」 と言って、たぶん妻と由香里は私が帰ってくる前の時点に逆戻りしてしまった。 伯母の押し花絵と伯父が何も残さなかったことの関係は、しかしもしかすると伯母が押し花絵を残したことで、妻にひっかかりを生んだとも言えなくもないと思った。伯母の方も何も残さなくて、二人して何も残さなかったらこっちも何も考えなかったかもしれない。「ある」と「ない」の関係は心理レベルではとても厄介で、全然まったくないものは「ない」とすら思わなくて、少しの手がかりが残っていることで「ない」が強調される。だから「ない」には「ある」が必ず見え隠れしていることになっていて、妻が感じた伯父が何もしていなかったというのも、「伯母みたいなことは何もしていなかった」という意味でしかない。 人間というのは普通に思っているのよりずっと抽象的なところで生きていて、伯母のように本なんかほとんど読まなかった専業主婦でも、夜のおかずのこととか子どもたちが無事にやっているかというような日常的なことばかりが頭の中を占めていたわけではなくて、何か音が聞こえたらその音に触発されて、子どもの頃のことや娘時代のことが、池に降る雨の波紋の広がりのように、次々と出てきては形にならずに次の記憶によって消され、またその次の記憶によって消されして、その小さな波紋の総体が全体としてその時々の気分を形成しているというようなそういうことで、夜のおかずも子どもたちの無事もやっぱり同程度の波紋だったのではないかと、私はここで何気なく出てきた「池に降る雨の波紋の広がり」というイメージがなかなかいいと思いながら、湯船に入ってさめていた湯の追い炊きをしていると、いつものようにまずミケが入ってきて湯船の上の窓に飛び上がって網戸ごしに虫の鳴くのを聞きはじめた。 そうしているとクーがシッポを下げてそろりそろりと入って来て、ミケがいなければ三枚の蓋の一枚だけ残している湯船の上に上がって、何をするでもなく湯船につかる私と向かい合わせにしばらくすわったりするところなのだけれど、やることがいちいち優柔不断なクーが次の行動を決めかねて床を歩いているうちにミケがクーめがけて上から飛びかかったので、クーがうるさがってふりほどきミケがなおも抱きつくから二匹でもつれるようにして出ていってしまい、そのあと今度はココがとってんとってんと入ってきて、ココはクーと違って躊躇なく蓋に上がり(ココはミケに抱きつかれても一喝で振り切ってしまう)、私に片手の手のひらの小さな窪みで風呂の湯をすくわせてそれを飲んだ。 ココは私の手のひらから五回六回と風呂の湯を飲み、追い炊きはとっくに止めてかなりぬるくしておいたが、それでも汗が出てきたので湯船から出て、洗面器で湯をすくうとそれがココにはねて、ミケとクーならはねを避けるために窓に飛ぶのだが、ココは重くてそれができないので、「クーッ」と一声咽で鳴いて、太った重いからだを気づかいながら慎重に蓋から降りて、出ていった。そこでまたミケかクーが戻ってくるのが普通なのだけれど、今夜は誰も戻ってこなくて、一人で頭を洗っていると不意に腕に鳥肌が立ち、鳥肌だと思うと腕から一気に鳥肌が広がって背中も太腿もびっしり鳥肌でおおわれるのがわかった。 鳥肌が立つまで奈緒子姉が見た風呂場の女のことなんか忘れていたのだけれど、鳥肌によって思いだし、私はちょうどシャンプーの泡だらけになって上半身を折りたたんでいたところで、女の人が立っていた庭に出られる戸は私の真後ろだった。目をとじて上半身を折りたたんでいる姿勢はあまりに無防備だけれど、しかし自分が頭を洗っている姿くらい自分の目で見たことのない姿はないのに私はその姿を自分の目で見たのと同じくらい知っている。子どもの頃に英樹兄や奈緒子姉が頭を洗う姿を見たし、その後も銭湯や温泉で人が洗っているところを見ているけれど、自分が頭を洗う姿は間違いなく自分の姿で、人が洗っているところなんかろくに浮かんでこない。頭を洗うたびに自分が洗っている姿がいつも見えている。その姿は後ろからだけでなく前からだったり天井からだったりするが、現実に見るのと同じで同時に二つのアングルが見えるということはない。しかしうしろから背中を見られているのが圧倒的に感じ悪い。私は全身に鳥肌が立ったままいつもより荒っぽくガシガシと泡を立てて、いつもより短い時間で頭に湯をかけてシャンプーを落とした。 頭を上げて目を開けると、すでに鳥肌も消えてなくなっていて、庭に通じている戸の方を振り返るまでもなく、奈緒子姉が見た女の人が立っているなどということはありえないという確信と安堵があったけれど、それでも私はありえないことをいちおう確認するみたいな気持ちで戸のところを見て、それからいつもどおりからだを洗いはじめて、からだを洗っている姿は頭を洗う姿のようには見えていないことを知った。 何十年も頭とからだを洗ってきているくせにいまさら「知った」もないものだけれど、「知る」というのはそういうことで、しかも同じことを何度でも知ったりする。ということは知ってはまた忘れる、つまり実感を失なうということなのだが、からだを洗っているとタオルでゴシゴシこすっている腕を見たり腹を見たり脚を見たりしているわけで、そういう風に視界の中にはっきりといろいろなものが見えているときには、頭の中の抽象的な動きは小さくなっていて、自分の姿が見えているはずの視線の働きもかすかになっていた。 この視線をただのフィクションとか気分の産物だと思っていたら私がこんなにこだわるわけがないけれど、普通の意味で見ている視線と同じだとはもちろん思っていない。まだ子猫だった頃でもミケは怖いとも何とも感じていない風にして、夜ひとりで二階の窓から外を眺めていた。冬の夜中に真っ暗い風呂場で湯船の蓋の上でのんびりと暖かそうに眠ることだってできる。子猫に平気でできることが人間の子どもにできないのは、自分が見える視線が猫になくて人間にあるからで、子どもはその視線を自分の中で息づいているのではなくて本当に外にあると感じてしまうために、そこに幽霊のような概念が生まれることになるということなのだろうが、自分が見える視線が人間に普遍的にあるということは、手があるとか言葉をしゃべれるというのと同じように、かぎりなく事実にちかいあり方で「ある」ということなのではないか。 横浜スタジアムの帰りの東横線からずうっと、今夜は込み入ったことばかり考えてしまうなと思った。中学くらいの数学の証明問題というのは、証明ずみの公式を順番に並べて組み合わせていけば、ほとんど自動的に「Aの三角形とBの正方形の面積は等しい」というような答えに辿りつくようにできているけれど、自分が見える視線のこととなるとそれに使える証明ずみの公式がない。視線のことと幽霊のことが、お互いにお互いを少しずつ認め合ったりしながら考えが進んでいくけれど、言葉で考えていると進んでいくことが同時にあやふやの度合いを増しているように感じられてくる。この土台に言葉にできない確信のようなものがあることがこの話の厄介さをさらに増していて、確信といってもあまりに漠然としているから言葉で補うしかないのだが言葉を使い出すと確信がさらに遠ざかってしまうように見える。 「しかしこういう感じは嫌いではない」と思いながら、風呂から出てTシャツと短パンに着替えて居間に戻ると、浩介がいて、 「二人とも寝たよ」 と言った。 浩介はやっぱりまだギターを抱えていたが眠そうに目の下の頬がはれぼったくなっていて、私は「ビール飲むか」と訊くだけ訊いてみて、返事がないので自分の分だけ冷蔵庫から取ってきたのだけれど、缶のフタを開けながらすわると突然、 「入眠幻覚って、あるんだねえ」と言い出した。 「おれ、さっきから階上で眠くてからだが重ったるくて、柱に寄りかかって、ずうっとうとうとしながら、あんたが帰ってきた音とか何となく聞こえてたんだけどさあ。 うとうとしながら、あんたと理恵さんと由香里がしゃべってるのに参加してるみたいな気分になってるんだよ。で、理恵さんが『あなたは野球ばっかり行って、浩介君はヒマさえあればギター弾いてて、そうじゃなかったらいったい何して時間潰しするのかしら』とか言うのが聞こえてんの」 「『聞こえてんの』って、おまえそれ何でわかるんだよ」 浩介の話を聞いた途端にまた腕に鳥肌が立って、問い詰めるような調子になってしまったが、浩介はゆっくりした調子で、 「理恵さんが上がってきて、おれに『内田の野球と浩介のギター』って笑ってったからやっぱりそうだったかと思った」 と言った。 「『やっぱりそうだったか』ってそれだけで、確信したってことか?」 「そう、だね。 理恵さんがここにいて、由香里がここにいて、あんたがそのあたりに立ってて——」 と浩介は指で示し、それはいちいちあたっていた。 「で、ここの伯母さんは押し花で絵を作ってみんなに配って、それを残したけど、伯父さんの方はもう何にも跡方ないって、理恵さんが言うと、あんたがじゃあ野球に行くたびビデオに撮るようにするか、とか言うんだよ」 「全部そのとおりだよ」 と私は言ったけれど、すでに鳥肌は消えていた。 「おれはその話をここにすわって聞いてんだよね」と、浩介はいますわっている場所を指差した。 「おれたちには見えなかったけどな」 私の軽口に浩介は口許で笑うだけで答えた。 つまり、浩介を含めた私たち四人のすわる場所がいつも決まっているということで、浩介が入眠幻覚で階上からここに来ていた証明というには薄弱だったが、話の中身はいちいちそのとおりだった。 「で何、おまえはそれを普通の夢とは感じなかったのか」 「感じなかったね。すげえリアルっていうか、ホント普通の光景だったもんな」 「でもおまえ、そういうこと信じてないじゃん」 「経験しちゃったら、信じるとか信じないじゃ、ないっしょ」 「もっと疑えよ」と私は言った。 「疑うって、何をどう疑うのさ」 「だから他の可能性だよ。 たとえば、眠る前に全部の感覚が休むけど耳だけが働いてて、異常に聴覚が敏感になって、普通だったら聞こえるはずのない階下の声が階上にいて聞こえてたとか」 私がそう言うと、浩介がなかばあきれなかば笑いをこらえて「だからそういうことだよ」と言った。 「あんた入眠幻覚と幽体離脱を一緒にしてただろ、今。いくら眠くても入眠幻覚を幽体離脱だとは思わないよ、おれは。 でも、幽体離脱的な気持ちのよさはあったね。幽体離脱が気持ちいいか知らないけど」 と言って、浩介は「ハハハ」と笑った。私は声を出さずに笑ってビールを飲んだ。そうしていると浩介が「しゃべってたら目が覚めてきちゃったな」と言って、自分で冷蔵庫まで行ってビールを取ってきた。 浩介の話を幽体離脱だと早とちりしていたあいだは合理的な説明をつけたくなったが、浩介に合理的な説明をされると幽体離脱の方にもう少しこだわりたくなった、と言いながら、 「でも、幽体離脱って、言葉にしちゃうと『違う』って思うよな」 と私は言った。 「そうなんだよね。オカルト系の人たちの話がつまらないのは、全部テクニカルタームみたくなってるからなんだよね」 【「浩介だって、いまの話、全部が『聴覚が鋭くなった』で説明がつくとは思ってないわけだろ?」 「思ってないとは思うけど、『思ってない』って言葉にしちゃったら、それがすでに『幽体離脱』ってテクニカルタームを使うのと同じ感じなんだよね」】(【 】の部分は赤の斜線で消し) 「でも、聴覚が鋭くなっただけだったら入眠幻覚じゃないよな」 「そんなことないさ。鋭くなった聴覚に脳全体がだまされて、自分も話に参加してるように感じてるんだから、これこそ入眠幻覚そのもんじゃん。入眠幻覚の定義、知らないで言ってんだけど」 「それはそうだ」と私は言った。 「死ぬ間際まで聴覚は働いてるって言うじゃん」 「そうなのか」 「そうなんだよ。だから耳元で呼びかけろって医者は言うんだけどさ。臨死体験で、魂がベッドから出て、病院の廊下で家族が話してるところを見てきたとかいう話も、さっきのおれの入眠幻覚でだいたい説明できると思ったね」 浩介はギターを脇に置いて立て膝になっていた。猫はミケが縁側の一番隅でからだをねじったおかしな格好で寝ているだけで、クーとココの姿は見えなかった。外からは虫の鳴く声が一瞬も途切れずに聞こえていて、空間に音をいっぱいにまきちらしたみたいだった。こんなに虫の音がしているところで二階にいて一階の話し声が拾えるのかと思ったが、周波数が違えば可能だということなのだろうか。今夜は頭がさえてしまったせいかビールを飲むペースが相変わらず落ちなくて、最後の一飲みをしてから私は、 「ということは、おまえの入眠幻覚みたいなことが誰にでも起こりうるわけだ」 と言った。 「そうかもね」 それで私は、まだここに住んでいた頃の腑に落ちなかった記憶を思い出して納得がいった。二階の廊下の西の端で一人で積み木で遊んでいたときのことで、私は例によって華々しく独り言をしゃべりつづけていたのだと思うが、遊んでいる途中で一度階下のこの部屋に降りてきて、当時伯父の不動産で働いていた飯塚さんという人が金を使い込んだのを伯父がいつもの大声を張り上げる陽性のストレートなおこり方と全然違う、怒りの爆発を押し殺したような感じで責めていて、伯母が飯塚さんに「謝りなさい」「謝りなさい」とそれだけを言いつづけているのを私がすぐそばで見ていたのだ。そんな深刻な場面に四つぐらいの子どもがいるのがどうしても変で、私はいままでずうっと、ちらっと垣間見ただけの光景にあとで母から聞いた話なんかをつなぎ合わせて、勝手に拡大させたのだと思っていたのだけれど、浩介の入眠幻覚の線の方がありそうな気がした。 しかしこの記憶を思い返すのと同時に、「あなたは暗示にかかりやすい」という妻の言葉も浮かんできて、こんなことをいまここでしゃべったら浩介からも「また都合のいいことを」とでも言われると思ったのでしゃべらなかった。そして、 「人間は音だけの記憶とか音だけで情景をつくったりとか、できないんだろうな」 と言った。 「どういうことよ」 「だから、音だけで情景を作れないから、映像を借りてきて、本当は音だけだったものが、視覚つきの記憶になるってことだよ」 と言うと、浩介が突然思い出し笑いをはじめた。 「なんだよ」 「森中のこと思い出しちゃった。 あいつバカだからさ、電話だけでやりとりしてる相手のイメージ、勝手に作っちゃうんだよ。で、前の会社にいたときなんだけど、その相手が受付に来たって呼ばれたからさ、おれと二人で出てったの。で、相手が会釈までしてるのに『来てませんねえ』って言って、関係ない方見てるんだよ。 おれが『あの人だろ?』って言っても、『や、違いますね。もっと太ってずんぐりした人ですよ』とか言ってんだよ。 『なんだおまえ会ったことあんのかよ』 『会ったことなんかあるわけないじゃないですか』 ってあの調子で言うから、こんなバカの言うこと聞いてらんないと思って、おれが『ナントカさんですか』って声かけたら、相手が『はいそうです』って言ってるのに、横から『だから浩介さんこの人じゃないですよ』って。 完全に思い込んでるんだよね」 油断して二缶目のビールを飲んでいたら「会ったことなんかあるわけないじゃないですか」のところで吹き出してしまったが、「それは一種の盲視だ」と私は言った。電話や手紙だけでしか知らない相手の姿かたちを勝手に作り上げる癖が人間には大なり小なりあって、失明してもそれを認めず「見えている」と思い込んでいる状態をそう呼ぶらしいと私が言うと、 「じゃあ、生まれつき見えない場合はどうなんの。さっきの入眠幻覚みたいなのはありえないわけ?」 と、浩介が私の感じはじめていた疑問と同じことを言い、「どうなんだろうな」と私も言った。 「視覚野を働かせる負担っていうのは脳全体にとってものすごく大きいから、その負担がなければ聴覚とか嗅覚とか、言葉の記憶とかがもっと緻密になるんだよ」 「それはもうあんたから百回は聞かされた」 「そんなに言ったか?」 「得意じゃん。 で、入眠幻覚はどうなんの?」 「声が聞こえてくる空間に自分もいると思い込んで、そこにしゃべってる人間を配置したってことで言えば、同じなんだよ、きっと。 こっちに理恵がいて、こっちに由香里がいて——って、方向をともなった話し声になってるんだよ」 私が顔の前にてのひらを立てて、「こっち」「こっち」と向きをかえて見せると、浩介が「それにしても何でも想像で物を言う人だね」と笑った。 「目の見えない知り合いがいないからしょうがない」 途中から見えなくなった場合はきっと空間的なこととかは視覚の機能が残っているだろうし、もともと見えない場合だと視覚なしでほぼ完結した世界を作り上げているから見える人間が納得するように説明することはできないんじゃないかと私は言った。 それぞれが生まれつき自明のものとして受け入れている世界を、それをまったく知らない人にきちんとわかるように説明するのは、不可能とは言わないけれどとてつもなく大変なことなのだ。だいたいが「自明」にしろ「説明」にしろ、「明」という字が入っているくらいで、見える人間は見えない人間を最初から除外していても支障を感じることがない。しかしボルヘスのように目を使わない思考に出会うと、センテンスに込められた情報の濃度にびっくりさせられることになる。もっともボルヘスは途中で見えなくなったケースだけれど。 と、そんなことをしゃべってるうちに浩介の頭がかっくんと下を向いたので、私は浩介に夏掛けだけ掛けてそこで寝かせてこれがまた入眠幻覚になったらどういう情景になるんだろうなんて思いながら残ったビールを飲み終えて階上に行った。 しかし横になっても目がさえていて、リンリンリンリンというのとジジジジ、ジジジジというのの主に二種類の鳴き声が混じった虫の声をずうっと聞きながら、外の街灯の明かりが入ってくる部屋の天井を見つめていた。横からは妻の理恵の寝息がしていて、理恵の足許ではココが寝ていて、クーは私が上がってきてからしばらくこの部屋の中や廊下をうろついたあとで、南側の窓の網戸から外を見ているような姿勢で窓のレールの上で丸くなっていた。 私は目をつぶり、死の間際まで、聴覚が働いているというのはどういうことなんだろうと思った。視覚や聴覚だけでなく目をとじていても感じる体の感覚などのすべての感覚と完全に独立して意識があるものなのかが私にはわからない。意識というのは体を通して入力される感覚によって誘発される記憶が基底音となっている音楽のようなものなのではないか、というのが私のいまのところの意識についてのイメージで、それならば聴覚が働いているかぎり意識も、切れ切れにしろ働きつづけているということになるわけだけれど、伯父や伯母や、祖母たちが死んでいくところを見ていたかぎりでは、意識があるとはとても思えなかったし、こんな状態でまだなおも意識が働いていたら本人にとってもたまらないだろうとも思いながら私は見ていた。 死ぬというのは消化器も循環器も呼吸器も神経系も、たぶん全身の機能が働かなくなるその結果なのだろうから、聴覚が働いているといっても視覚や全体の体感などをまとめる機能も働きにくくなっているということで、聴覚によって励起される意識も言ってみれば夢のようなものだろうけれど、死んでいくのと睡眠は違うのだから夢とまったく同じというはずもなくて、その夢に似て非なる状態を人は死ぬ間際のたった一度しか経験することができなくて、人に語り伝えられないどころか、自分自身でさえも言葉によって再構成することがない。夢だって目が覚めてから辿り直す段階では、夢の中にあった迫真力とか切迫感が消えているけれど、それにしても辿り直すという作業が入らないかぎり、見ただけではかぎりなくないものになってしまう。しかし、辿り直さなくても夢は確かに見たのだし、死ぬ間際の夢に似て非なる状態だってすべての人に確かにあるのだと思う。 死につつある何日間というのは見ている側からは長びいてほしくないと感じる苦痛であることは間違いないけれど、何十年かつづいた命の終わりだと思えば本人にしてみれば、その終わりを確認する意味で眠っているうちにあっさり死んでしまうよりもいいのかもしれないとも思う。しかしそれもある程度意識があることを前提とした話で、赤ん坊か猫程度の意識しかないつまり自分のおかれている状況を相対化することのできない状態でひたすら苦痛だけに支配される状態が何日もつづいてもそれこそ救いがないし、端から見ていて「早く楽になってほしい」と、死ぬことの方を願ってしまうのも、死の間際の人間に意識と呼べるものがあるとはどうしても見えないからだろう。 チャーちゃんが死んだときには、獣医から私と妻でタオルにくるんで抱いて帰るほんの数分の道の途中で、雨あがりの月と星が出ている空に向かって、「アーン、アーン」と悲しそうに二度長く鳴いて、それから一分ぐらいのうちに死んだ。思い出すだけで胸と咽が痛くなる。悲しそうと聞こえたあの「アーン、アーン」は苦しかっただけなのかもしれないけれど、午後の四時間獣医にあずけて点滴を打って、連れにいったその数分のうちに死んだというのは、よく言われる「待っていた」としか思えない。犬や猫が自分のことをかわいがってくれた人が帰ってくるまで待っていて、その直後に死んだという話を何度も聞いた。だから苦しいだけでないチャーちゃんの訴えかけがあったと思う。 そして家について横たわらせたとき、私は生まれ変わりを確信した。合理的に説明すれば、別れる悲しみが強すぎたためにそれに直面しないように「生まれ変わり」という逃げを打ったということになるだろうけれど、あのときに生まれ変わりを感じた強さにはもっとずっと実在する確信があった。自分の生きてきた年月や自分に見えないところでも人々が生活を送っているそういうことの実在を疑わないのと同じ強さで生まれ変わりがあると感じた。 もっともあのときみたいな強さで感じることは二度となくて、私も「生まれ変わりはある」なんて誰にでもしゃべったりしないけれど、ああいう瞬間に襲ってくる確信は、音楽に感動したときやサヨナラホームランが大きく弧を描いて飛んでくるのを見ているときのように強く、合理的な解釈をふっとばすというよりも、思考の元に合理をこえた熱意や力が働いていなければ合理も生まれないというような確信だった。 伯父や伯母や祖母たちの死でなく、私が経験した最もつらかった別れはチャーちゃんの死だったけれど、死に立ち合った人間がそういう強いものに襲われるのだから、死につつある本人も何にも襲われないということはないだろうと思う。私はしばらく閉じていた目を開けて外の明かりに薄くてらされた天井を見ていたことに気がついた。考えるというのは目を閉じたままではつづけられないもので、目からの刺激の助けを借りて整理するものなのだろうか。目を開けているときと閉じているときでは、考えの質が違っているらしく、閉じているのが飽和すると目を開き、開いているのが飽和するとまた閉じるのかもしれないが、考えることと目の閉じたり開いたりを同時にチェックすることはできない。 臨死体験の証言はいろいろあるけれど、それはあくまでも死ななかった人の証言だし、それを経験していない人たちに伝えるのに経験していない人にはどうしてもわからない部分があまりに少ないところが信憑性がない。あれは夢の延長のようなもので、しかも夢よりも伝わりやすい体験であることがおかしい。人間は抽象と具体をほどよく折り合いをつけて生きているというか、そういう状態で世界と接し、生きるという何とも説明しがたい事態を受け入れているつもりになっているわけだけれど、死ぬ間際の入力情報の衰えた意識には、抽象か具体かのどちらかがドドッと押し寄せてくるのではないか。それとも抽象と具体の両方が意識の許容量をはるかにこえて押し寄せてくるのではないかと考えているあいだに私はまた目を閉じていて、一瞬からだ全体のサイズが小さくなって、外からずうっと聞こえつづけている虫の声にからだが持ち上げられたみたいな気持ちになったのであせって目を開けた。 目を開けるとこの変な感覚はカンタンに消えるのだが、これははじめてではなくて、目を閉じたままにしていて、敷き布団の縁りを両手でつかむと今度は手が肥大して布団が紙みたいに薄くペラペラになって、しかしそれでもまだその状態を楽しむ気分が残っていたので意識して目を閉じたままにしていたのだけれど、布団のペラペラさを確認しているうちに、からだ全体が大きくなって天井や横の襖との距離がどんどんせばまって、胸で不安が膨らんできて、耳鳴りがするほど心臓の鼓動が大きくなってきたので、目を開けると湯船の水が掃けていくように世界と自分のからだのサイズが元に戻っていった。 自分のからだのサイズを感じる感覚が【狂ったのははじめてではなくてこれが四回目だった。はじめてのときはあせって、そのあとで感心しただけだったけれど、二回目からは】(【 】の部分は赤の二本線で消してあり、横に赤で【はじめて狂ったときには自分が陥っている事態が夢でないことが信じられなかった。】とあり)人間というものは世界とじつにあやうい均衡を保っている【と思うようになった。】(【 】の部分は赤の二本線で消してあり、横に【のだ。】とあり)私は度胸がないからからだが膨張したと感じるところで、目を開けたり、からだを動かしたりしてしまうけれど、あの状態にとどまりつづけたらどうなるんだろうと思う。 これが死の間際に経験するものと同じだとは思わないが、少しの意識の乱れでこれぐらいになってしまうのだから、死の間際となると、自分がそれまで信じてきた身体感覚とか時間の感覚とかと全然別の感覚に支配されたとしても不思議ではないと思う。浩介のさっきの入眠幻覚みたいに聴覚の情報だけで話をしている場に参加している光景を作り出してしまったり、自分の姿を見ているもう一つの自分の視線を感じてしまったり、普段表に出ないようにしている感覚はいっぱいあって、人間はそういう感覚の乱れを抑えつけることで物理的につじつまの合った世界を作り出している。しかしはじめて泊まったホテルで歯を磨いたりヒゲを剃ったりするときに、物の配置が違っていつものように手際よくそういうことができないのは、いつもの空間的な物の配置が頭の中にできているからで、物理的な次元での「ある」「ない」と別の記憶の次元での「ある」を使わないと人間は物理的な次元での「ある」「ない」も円滑に割り出すことができない。人間がただ物理的な次元でだけ生きているのだったら、どんな洗面台でだって同じような手際で歯を磨いてヒゲを剃ることができるだろう。 と、こんなことを行ったり来たり行ったり来たりを繰り返しながら、断片的に考えていて、考えにまるで一本筋が通っているように見えるのは、あとで言葉で再構成したからだが、とにかくこのあたりで眠ってしまい、眠るとヒゲを剃ろうとして剃れなくて苛々している夢を見た。洗面台は鎌倉の実家の洗面台らしいのだが、いつもの二枚刃のヒゲ剃りをすでに右手に持っているのに、剃るためには鏡の一番上についているダイヤル式の電話器のようなダイヤルで十二桁の数字を入力しなければいけない。しかしそのダイヤルには回した指を止める爪みたいなものがついていなくて、バイオリンの弦で音階を出すように、精密に止めないと、3のはずが3.1とか2.9になってしまう。八桁ぐらいまではなんとか合わせられるのだが、九桁目か十桁目ぐらいで小数点が出てしまって、最初からやり直しになってしまうというそういう作業を苛々しながら延々つづける夢で、そこで一端目が覚めたのか、それとも夢の中で思ったのか判然としないが、「眠る寸前にヒゲを剃ることなんか考えてしまったからヒゲを剃る夢を見てしまった。眠る寸前に死ぬ間際のこととか抽象と具体のこととかを考えていれば、もっとすごい夢が見れただろうに、なんてことだ」と、ものすごく残念に思って、またすぐに眠ってしまったのだけれど、それからあとは朝になって目が覚めるまで夢は一つも見なかった。 |