『カンバセイション・ピース(初稿)』(2001年2月〜2002年1月)その4 府中の多摩霊園までは、お盆休みで道が空いていたので一時間ぐらいで着いたが、そのあいだ大柄なきょうだい三人と私が乗ったゴルフは中がすごく狭くて、「姉ちゃんのこんな買い物用の車しかないのはどういうわけだ」と、運転している英樹兄が言い、直子姉は「そんなことわたしに言わないで、運転しない高志に言いなさいよ」と後ろから助手席にすわっている私に言ったかと思えば、「幸子、車の中なんだからそんなジャマな帽子とりなさいよ」と隣りにすわっている幸子姉に言うと、幸子姉は「形がくずれるからヤダ」と言い返し、言葉で辿ればその程度のことが声が大きく感情だけでしゃべる感じなのでこまかいことがいちいち大騒ぎになるみたいなにぎやかさで、伯父と伯母の墓につくと英樹兄が出掛けに携帯電話で連絡をとっていたお坊さんが、すでに車で乗りつけて待っていて、【お坊さんと英樹兄は高校の同級生で、小学校のころに顔を合わせただけの私でさえもお互いに忘れていないくらいよく泊まりに来ていたので当然直子姉や幸子姉とはすごく親しく、私も夏休みや冬休みに遊びに行っていたときに何度も会っているので伯母の葬式のときに二十年以上顔を合わせていなくてもお互いにすぐにわかるくらいだったので、「もう二年になりますか。早いもんですねえ」と、もっともらしいことを言っていたのはお経がおわるまでのことで、【【英樹兄ともう一人の友達と三人でキャバレー行ったのが見つかって停学になった話とか面白がってデモに行って一晩留置場に入れられた話とか】】炎天下でしばらく高校時代の停学をくった話やひやかしのつもりでデモに行ってそのまま一晩警察に泊められた話をして私はなんとなくそのまま英樹兄とお坊さんの二人はどこかに遊びにいくように思っていたのだけれど、お坊さんはさんざんしゃべると「ではこれで」と帰っていったというか次の仕事に回っていき、帰りの車の】(【 】部分の原稿は赤で消してあります。【【 】】は赤の斜線が密な部分です) 読経が終わるときょうだい三人はちょうどうまい具合に重なった来年の伯母の三回忌と伯父の十三回忌の相談をお坊さんとしていて、そのあいだ私は大人の話と無縁の子どものようにお墓のあいだをうろつき回っていたのだけれど、そのうちにふと、伯母が死んだときに直子姉が五十二歳、英樹兄が五十、幸子姉が四十九、清人兄が四十六で、伯父が死んだときには奈緒子姉が四十二、英樹兄が四十、幸子姉が三十九で清人兄が三十六だったという計算を頭でしているうちに(もっともみんなの年齢をきちんきちんと憶え込んでいるわけではないので、それぞれの年齢の計算は案外いったりきたりして手間どったのだけれど)、人生というのは親が生きている期間と親がいなくなった期間に大きくわけられるのだろうか、などということを考えてみたりもした。しかしそれはすぐにそんな区分よりも自分自身が学校に行っている期間と会社に勤めたりして働いている期間に分けるとか、独身時代と結婚してからとか、子どもに手がかかる時間と子どもが離れていった後——という風に分けた方が現実的というか”現世的”じゃないかとも思ったけれど、一見自分自身の現実と距離のある親が生きているかいなくなったかという抽象的なことが、やっぱり思いがけないところで人生に影響を与えていることもあるのかもしれないという気もした。 そう考えた呼び水となったのはやっぱりずうっと広がるお墓ばかりの風景だったのだろうけれど、”現世的”優位の解釈からもう一度、考えが親のいるいないに戻ってきた理由は、子どもが生まれた直後に夫の暴力がはじまったという妻の友達のことを思い出したからで、実例が身近にあるとテレビの視聴者参加式の番組を見ていてもよく似た例が多いことに気がつき、子どもが生まれた直後から浮気がはじまる例も含めてある種の人間の中で、親となった途端にそれ以前の心の連続が途切れるのと同じように、親が死んだあとに連続が途切れる人間がいてもおかしくはないのだろうという理屈が出てきたことが一つと、それからもう一つがやっぱり、親という存在が自分が生きていることにとって言葉では包括できにくい抽象的な次元なのではないかと感じたからだった。【もっとも私自身にはまだ両親がいて、奈緒子姉や幸子姉が伯父や伯母が死んだあとに普段多少は様子が変わったのかどうかも知らないし、英樹兄のことも世田谷の家を建て直ししたりせずに自分が定年になってから住むまで残しておくというこだわり方でしか知らないのだけれど、帰りの車で英樹兄が、いつになっても親は親で子は子だから、いつまでたっても親がいるとどこか自分が小学校にでも行ってる気持ちになってることがあって、世間の年寄りを見るようには自分の親を見ないもんだ、「だから親孝行はちゃんと生きるうちにしろよ」と言ったときに、】(【 】部分の原稿は赤で消してあります) たとえば回転するロクロの上で形が整っていた粘土が、ひょっとした隙にぐにゃぐにゃっと形が崩れてただの粘土に戻ってしまうように、人間というのは抽象による力で形を維持しているところがあるというのが私のイメージで、抽象による力の一つが親という可能性は現実にいなくなられてみないことには排除しきれないし、もしかしたらいなくなられた後でも自分では自覚できないのかもしれないと思いながら帰りの車に乗っていたけれど、親がいなくなった人生をすでに二年生きているきょうだい三人は、来るときと同じ調子でしゃべっていて、帰ると奈緒子姉と幸子姉の二人が夕食を作り、伯母が作っていたような田舎っぽい味ではなくて洗練されたというかまあ一般的な味の夕食を食べおわると太ったココを二人で一所懸命に遊ばせようとしたがココは横になったまま頑として動かずしまいにうるさくなって二階に行ってしまい、満一歳になった頃から人見知りが激しくなって知らない人のそばにはなかなか寄りつこうとしないミケも当然いつも私と遊んでいるようには遊ばず、「チロにそっくり」のクーだけが、おもに英樹兄のそばにいたのだけれど、クーもすでに十三歳なので奈緒子姉と幸子姉が遊ばせようとしても誘いに乗ってこなくて、「ここの家の猫はつまらないわね過保護で外に出さないようにしてるから人間のありがたみが薄いんじゃないの」と私は奈緒子姉から責められたのだけれど、遊ばせようとして遊ばないから「やれやれ」という感じで、ほおっておくと、ミケも二階からまた降りてきたココも、猫や犬のニオイがいっぱいついている奈緒子姉と幸子姉のからだのニオイをしつこく嗅ぎはじめたりした。 世間にはイヌ派かネコ派という区別にこだわって、「猫は好きだけど犬は嫌い」と言う人がかなりいるけれど、奈緒子姉も幸子姉も犬か猫かというようなところでの好き嫌いはなくて、この家でも犬と猫の両方をいつも飼っていたし、いまの自分の家でも犬と猫の両方を飼っていて、一番早起きをして遠くから来た英樹兄がかって伯父がいたのと同じ場所で横になってテレビを見たりうとうとしたりしている脇で奈緒子姉のところは柴犬の毛が長くなったような雑種とビーグルとアメリカン・ショートヘアの兄弟で、雑種の太郎はもう十八歳の老犬で散歩も行きたがらずこの前の冬に雪が降ったときに家の中にいれたら、オシッコとウンチのとき以外は家の中で寝てばっかりいるようになって、夏になってからはもう三回ももらしてしまったとか、アメショーの五歳の兄弟のうちの一匹が脂肪を分解する酵素を持っていないという体質で、少しでも脂肪を摂るとひどい下痢をしてしまうのだけれどそれでも二匹ともものすごく活発でいつも二匹でジャレ合っているとか、幸子姉のところはシェルティとボクサーのような顔をした大きい雑種と、黒トラと茶トラと黒のブチを飼っていて、二匹の犬はほとんど自由に庭とフローリングの居間を出入りしていて、茶トラと黒のブチは犬が中にいるあいだは外に出るか部屋の中の高いところにいるか別の部屋に逃げるかしてしまうのだけれど、黒トラの今年二十二歳になるメスのミイコだけは、二人の娘が生まれる前からいる幸子姉の家の中の最年長で、特権的な地位にいて、三人掛けのソファの真ん中で日がな一日からだを丸くして眠っているのだけれど、犬がそのソファに乗ろうものなら、「シャーッ!」とものすごい形相で威嚇して、シェルティも「親分」という名前がついているボクサーのようなごつい顔の犬もどっちも文字どおりシッポをまいてすごすごと部屋の隅に逃げていくその姿はみんなに見せたいくらいだ、というような話をしていて、奈緒子姉の犬二匹猫二匹と幸子姉の犬二匹猫三匹に子どもたちも混じる話をしていると、それだけで一晩が過ぎていったのだけれど、二人の話は全体として、そっけないというか、犬や猫というものが必ず死ぬもので、死んで二、三日悲しんだら次を飼えばいいという昔ながらの動物観が揺るがないようなところがあって(そうは言っても太郎もミイコもとても長生きしているけれど)、それと比べてチャーちゃんが思いがけない若さで死んだことをいまでもぐじぐじ考える自分のことを「病的」だとまでは思わないにしても、とにかく奈緒子姉と幸子姉の動物観をある意味でとても健康的だとは思った。 夜は奈緒子姉と幸子姉が私と妻がいつも寝る部屋で寝て、英樹兄と私が私の部屋で寝て、クーとココも私の寝ている部屋で寝たのだけれど、どういうわけか朝目が覚めると、ミケが幸子姉にくっついて眠っていた。ミケは夏でも冬でもいつも一人でどこかで眠ることになっていたのだけれど、それからというもの、まるでヒナが刷り込みで親鳥のあとをついて歩くように、幸子姉の足許というかまさに「足」から離れなくなって、幸子姉が歩くと足に絡まるように一緒に小走りし、立ち止まると鼻をくっつけたり得意の足の甲への噛みつきをしたり、とうとう突然マタニティドレスのようなゆるゆるのワンピースに爪をかけてよじ登ったりして、「ダメ、コラッ」とおこると気の強いミケは憤慨してか喜んでかもっと飛びかかり、 「高志、どういうしつけしてんの」 と言われても、もちろんしつけなんか何もしていなくて猫のなすがままなのだからどうしようもないというか、むしろ私は一歳になる前の人なつっこかったミケがいきなり戻ってきたことを喜んでいて、奈緒子姉も「いいじゃないよ。そんなの安物なんだから、ミケの気がすむまで登らせてやんなさいよ」と他人事だから涼しい顔をしていたのだけれど、もう一度飛びかかってきたミケを幸子姉がキャッチして胸に抱くと、途端にゴロゴロ咽を鳴らして静かになってずうっと抱かれはじめた。 「愛に飢えてたんじゃないの」 「まさか」と私は言った。 「まあ、どうでもいいや。 あたしはミケ抱いてなきゃなんないから、朝ごはんは姉ちゃん一人で作って」 「何言ってんのよ。わたしにも抱かせなさいよ」 と言って、奈緒子姉がなかば無理矢理取り上げるとミケは腕の中で暴れて飛び降りて、また幸子姉の足の甲に噛みつき、幸子姉が抱くと静かになった。 「ほらね」 そんなことを言っていると庭に出ていた英樹兄が縁側から入ってきた。 「何が『ほらね』だ。腹へったから早く何か作ってくれ」 急にうしろから声をかけられてはっとしたように振り返った幸子姉が、 「お父さんの声にそっくりだったねえ」 と言った。 「それはそうさ。 いまさら隣のおじさんの声に似てきたって言われても、俺も困る」 「いま歩いてきた姿なんかも、お父さんにそっくりだったわよ」私が感じたのと同じことを奈緒子姉が言うと、英樹兄は、 「じゃあ俺も七十二で死ぬか」と笑った。 「それじゃあ、あと二十年じゃない」 奈緒子姉が言うと、「あと二十年も生きればじゅうぶんだ」と英樹兄が言った。 「——パソコンだの携帯だの、便利になりすぎて今でもろくに使えないんだから、これ以上便利にされたら、何も電気製品が使えなくなる」 (この後、黒で消した部分の上に【浩介「パソコンは多キノウにしすぎで、トラブる」と言っていたコトバを思い出した。あいつは自分では使わないのにシステムはやけにくわしい】と書いた黄色のpost−itが貼ってあります) 笑ってしまった。「便利になりすぎて使えない」というのはそのとおりだった。鎌倉の実家の母なんかはいまでもすでにビデオの再生すらできなくて父にやってもらっている。先に父が死んだら、電気製品に囲まれて、テレビもつけられない、冷暖房もつけられないという生活になるか、昭和四十年くらいの器材だけで生活することになるかのどちらかになるんじゃないかと私が言うと、 「高志と理恵ちゃんが帰ってあげればいいじゃん」 と、奈緒子姉が関係ないことを言ったのだけれど、 「姉ちゃんはそれで生きてきたんだからいいよな」 と英樹兄が笑った。奈緒子姉は携帯電話はいちおう持っているけれど、メモリーは使わずいちいちアドレス帳を見るし、伝言が入っていても聞き方を知らなくて、つまりは公衆電話と同じ機能しか使っていない。ビデオの録画の仕方も知らないけれど、ビデオがなかった時代はテレビはただ見るものだったと言って、それで不自由と思わない。 「生き方がシンプルだよね」と私は言った。 「みんなが姉ちゃんみたいだったら、人間は一万年たっても進歩しなかったな」 「失礼ね。少しくらいは進歩したわよ」 「どういう」 「そんなことわたしに訊かないで、高志に訊きなさいよ」 無茶苦茶な話の振り方をしてきて私が仕方なく、人間は最初の一万年くらいはきっと進歩らしい進歩はしなかったんだろうけど、その後、いろいろ進歩する人間の基本的な能力を固めていたのだろうから、重要といえばこんな重要な時期もなかったと言うと、 「そんな面倒くさい言い方、よく考えつくわね」と言うと奈緒子姉の足許でミケを抱いてすわっていた幸子姉がけらけら笑い出した。 「じゃあ、姉ちゃんは人類最初の一万年タイプの人間なんだ」 「笑うことないじゃない。素敵じゃないの。 ロマンがあっていいじゃないのよ」 気がつくと二階にいたはずのクーが、いつの間にか英樹兄のそばに来てまた足やズボンの匂いを嗅いでいた。 「チロ、そんなところにいないで、あたしのところにおいで」 もうすっかり「チロ」にされてしまったクーを幸子姉も奈緒子姉も呼んだけれど、匂いを嗅いでいるクーを、幸子姉に抱かれたミケは少し首をねじって高みの見物でもするように見ていた。こういうときの猫は仲間であるはずのクーに対してある種の優越感を持ちつつも、自分がいま浸っている満足を外界に対する無関心という柔らかなバリアでくるんでいるように見えるのだけれど、(「優越感」と「満足」と「無関心」が同居するなんて言い方は矛盾しているのだが)、つまりは猫の感じていることを人間の感情に置きかえることが無理なんだとどうしても思うのだけれど、クーが階下に降りてきたために一人で階上に残されたココが淋しくなって、「アーン」「アーン」と甘えるように鳴いている声が、外の蝉の鳴き声よりもはっきりと聞こえてきて、その声が二階に一人で残されたココのいつもの訴えだということをわかっている私以外はみんなどこから聞こえてきているかもわからずにしゃべるのをやめて耳をすました。幸子姉が「あれ、おデブちゃんが鳴いてるの?」と言うから、 「ココが階上で一人になっちゃったから、淋しくなったんだ」 「あんたんとこの猫は三人とも個性的だねえ」 「どこだってそうだろ?」 「まあ、そうだけどね。 姉ちゃん行ってやりなよ。おデブはおデブ同士で」 「おデブなんて言うと傷つくわよ。でも行ってあげるか」 と「おデブ同士」という言葉が聞こえていなかったみたいにココのことだけ言っているとココが自分から降りてきて、お腹をゆらしながら、トッテントッテンと一歩ずつ歩いてきて、奈緒子姉の足許にすわった。 「まあ、まんまるでスイカみたいだこと」 「そこがかわいいんじゃん。 本当は心配だけど」 奈緒子姉が遅い朝食を作りに台所へ行くとココもあとをついて行ったけれど、それはココが奈緒子姉になついているからというよりも台所にいれば食べ物をもらえる可能性が高いことを知っているからだった。それにしても、浩介たちが来たときよりもずっと早くうちの三匹の猫たちがそれぞれの仕方で英樹兄たちになついたのは間違いなくて、やっぱりかつての住人の匂いがこの家に残っているということなんじゃないかと思った。 私はこの家に住むようになってから「家」のことをしょっちゅう考えているけれど、ところで、聖アウグスティヌスとかトマス・アクィナスとかスピノザとかが書いた神の存在証明の論証の仕方を読みかじっていると、どれも共通していることに彼らはまず「神は存在するのだ」という大前提から神を直接に見たり聴いたりする仕方で感じることはできないとして、ひじょうに抽象的な論議を尽くして、神が存在することを証明するという、とても奇妙な、科学的な論証とかけ離れた論証の仕方をしているのだけれど、それを読む私はなんだかものすごいリアリティを感じていて、なんといえばいいかつまり興奮している。引っ越した次の朝にこの家の匂いを嗅いで回っていた猫の行動や、はじめて英樹兄が来たときのクーの態度から、私はかつての住人がこの家に残した匂いの証拠を集めるというような実証的なことをしているけれど、聖アウグスティヌス風の論証方法を使えば、「昔から考えられているように、家にはかつてそこに住んだ人たちの気配がいつまでも残るものなのだ」という前提をいきなり立ててしまってかまわないのかもしれない。そうは思うのだけれど、近代人であるところの私にはどうしてもそういう思い切りはできなくて、いまのところうちの猫たちを人間が失なってしまった外界を感知する感覚を持っている存在として、「気配」というような曖昧な言葉の根拠を探していて、そういう曖昧な言葉の根拠が一度確かめられさえすれば、もういくらでも使うことができるなどと考えているのだけれど、遅い朝食のそうめんを食べていると突然、英樹兄が、 「思い出したぞ」 と言い出した。 「何よ、急に」 「チロって、このクーによく似てた猫だろ」 「だからきのうからずっとそう言ってるじゃないのよ。英樹もバカねえ。 この猫と同じ柄で、同じくらいのシッポの長さで——」クーはココと並んで居間と浩介たちのパソコンの並んでいる部屋の境い目あたりに寝っころがってた。【ミケはそうめんが出てくると幸子姉の腕からさっと離れて、自分のエサの皿に行き、それから居間のテレビの上にのってみんなを見ていた。】(【 】は赤で消してある部分です) 「しょっちゅうヘビやネズミを取ってきて、おふくろが『英樹、困る、困る』って、騒いでた猫だろ」 「モグラ取ってきたこともあったよね」 「あそこの辺に置いて、一週間半殺しにさせていたぶりつづけたじゃない」 と言って、奈緒子姉が縁側の方を指さした。 「あんな猫のどこが利口なんだよ」 「利口だったじゃないの。ねえ、幸子」 「まあ、兄ちゃんにはわからないよね」 そうめんを食べはじめるとミケは幸子姉の腕からさっといなくなっていた。 「——猫のアタマのよさは、可愛がってる人にしかわからないよね」 「わたしと幸子が学校から帰ってくる時間になるとちゃんと家の前に出て待ってたじゃないの」 「チロはメスだっただろ」 「そうよ」 「この猫はオスじゃないか」 「エッ!」 と、いま「そうよ」と答えたばかりの幸子姉が驚いて奈緒子姉を見た。 「——あたし、メスだとばっかり思ってた」 「何言ってるのよ。幸子もバカねえ。 チロはメスで、ここのクーはオスよ」 私はそうめんを吹き出してしまった。 「汚ねえな、高志」 そう言った英樹兄も幸子姉も笑いが止まらなくなっていた。 「何がおかしいのよ。 メスだって、生まれ変わればオスになってるかもしれないじゃないのよ。そんなこと誰も知らないんだから、どっちに生まれ変わったっていいじゃないの」 「バカ」 英樹兄の口調は伯父そのままだった。幸子姉はまだけらけら笑っていた。 「——姉ちゃんの話を少しでも真面目に聞いた俺がバカだったな」 「そんなことないわよねえ、高志。これだけそっくりだったら、もうオスもメスも関係ないわよねえ」 「何て答えたらいいんだよ」と、私は英樹兄と幸子姉を見た。 「何とでも答えておけ」 「わたしの友達で、霊感師に見てもらったら法隆寺を作った宮大工の生まれ変わりだって言われた人もいたもの。その人女なのよ」 「姉ちゃん、いつからそんな話信じるようになったんだ」 「信じてなんかないわよ。法隆寺を建てた宮大工なんてわたしにはどうでもいいもの。 聖徳太子の生まれ変わりとか、紫式部の生まれ変わりっていうなら、ちょっとすごいと思うけど、宮大工じゃあねえ」 奈緒子姉の言い方はまるで信じているみたいに聞こえるかもしれないけれど、霊感などという能力を奈緒子姉はもちろん信じていない。信じるようなタマじゃない。しかし「霊感」とか「生まれ変わり」とか「亡霊」というような言葉がこの世界から消えてなくなっていなくて、そういう概念をいちいち説明しなくてもみんなが知っているという、最も素朴な意味において、奈緒子姉の中に生きている。同じように英樹兄の中にも幸子姉の中にも私の中にも生きている。それで幸子姉は「で、姉ちゃんは何の生まれ変わりだって?」と訊いたのだけれど、 「バカね。わたしが見てもらうわけないじゃない」 と、奈緒子姉は一蹴した。そして遅い朝食を食べ終わると、私たちはみんなで銀座に買い物に出た。私はちょっと面倒くさい気がしないでもなかったけれど、帰りに夕食を食べてくるとも言うことだし、横浜ベイスターズは遠征に出ていることだし、それより何より奈緒子姉や英樹兄から「行くぞ」と言われると、子どもの頃に買い物についていってついでに何かを買ってもらったときの習い性で、つい「行く」と答えてしまうのだった。 アジアのどこからやって来たかもわからないような外見の私たち四人は、銀座のシャネルやミッソーニやルイ・ヴィトンやカルヴァン・クラインの店に、集団で放つ異彩を武器にするようにズンズン入って、奈緒子姉と幸子姉はバンバン試着して、気に入ると夏物のバーゲンの値段からさらに値切りにかかり、かろうじて交渉が成立した一着ずつをそれぞれ買い、「おまえらとはつき合いきれない」と言う英樹兄もスーツを一着買って、それぞれ所沢と名古屋と広島行きの配送伝票を書いて、「おまえも何か買え」と言われて、無理矢理みたいにジャケットを買い与えられて、まあとにかくとても満足した私たちは、英樹兄の運転で恵比寿と代官山の中間あたりにある中華料理の店に入り、入ると英樹兄は最初の料理が出てくるまで席を立ってカウンターごしの厨房にいるマスターらしき人と旧知の仲のように談笑し、お任せで出てくるあんまり聞いたことのない変わった歯ごたえと味の料理を次々食べながら紹興酒を飲み、一人酒の飲めない幸子姉はウーロン茶を飲み、料理が終わった頃にはじめに英樹兄と談笑していたなまずヒゲのマスターが挨拶に来て、壁にかかっている書や絵を指して、「これは筆ではなくて小指で書きました。中国に一人しかいません」「これは素粒子物理学の博士号を持ってる人が描いた山水画です。とても珍しい風景です。宇宙の極大と極小を感じます」などと怪しげな説明がえんえんつづき、 「お国は中国のどちらですか」 と奈緒子姉が訊くと、 「わたし? わたし日本人です。年は三十八です」 と言われて、みんなでひっくり返り、マスターが去ったあとで奈緒子姉が「英樹、この店いつから知ってたのよ」と訊くと、 「今日はじめて来た。インターネットで調べた」 と言われて、またあきれたがとにかく味はとても良くて、満足して幸子姉の運転で帰り、せっかちなきょうだい三人は翌朝九時に全員揃ってそれぞれの家に帰っていった。 三人が帰ってからその次の日の夕方に妻の理恵が帰ってくるまでの丸一日半くらいは久しぶりにこの家の中で私一人だった。一年前の春にここに引っ越してきて以来、一人でここで過ごすのはわずかに三度目だった。 出掛ける仕度をしながら奈緒子姉が、「理恵ちゃん今夜帰ってくるの?」と言うから「明日だよ」と私が答えると、「じゃあ今夜高志一人じゃないの」 と、奈緒子姉はちょっとびっくりして、 「わたしこんな古い家に一人で寝るのなんか嫌だよ」と言うと、横から幸子姉が「あたしも一人で泊まったことなんかない」と言うから、 「それはそうだろ」と私は言った。伯父と伯母と子ども四人の六人家族で、家族そろってどこかに旅行するようなことがなければ(たぶん)いつでも二、三人は家にいるものだ。「一人で寝るなんて、わたしは怖くてできない」と奈緒子姉が言うのを幸子姉が笑って同意していると、英樹兄が「子どもみたいなこと言ってんじゃないよ」と言ったけれど、その英樹兄もやっぱり一人でここに寝泊りしたことがなかった。 「しょうがないじゃないか。出歩くのが嫌いなおふくろが、どっかり家にいたんだから」 その伯母が英樹兄が転勤になって、一年後に家族全員が引っ越していった後、入院するまでの二年間一人でこの家に住んでいたことになる。 奈緒子姉が五十四歳、幸子姉が五十一歳で、いい歳をした大人が古い家に一人で寝るのが怖いから嫌だというのもちょっと聞くとおかしな話だけれど、子どものときに感じていた夜の怖さが大人になってなくなることがあたり前だと考えることの方がおかしな話かもしれない。簡単に「成長」ということで片づけてしまうけれど、子どものときに感じていた夜の怖さを大人になって克服する理由を誰かが証明しているのを私は読んだり聞いたりしたことがない。 しかしそれが老人が一人で古い家に住んでいるとなると、誰も「一人で夜トイレに行くときに怖くないんだろうか」なんて想像をしなくなっているのがまたおかしい。伯母が独居老人となってしまうことを清人兄も含めた子ども四人がどれだけ心配したり相談したりしたのかは、その頃ここに住んでいなかった私には詳しくはわからないことだけれど、伯母が入院するまでの二年間、一人でこの家で寝ていたことには、奈緒子姉も幸子姉も驚かないくせに、私が一晩一人でこの家に寝ると聞くと我が身に置き直す回路が働いて驚く。奈緒子姉や幸子姉がこの家に一人で寝るのを怖いと言うのを私は少しも「おかしい」と感じないのだけれど、それはそういうことを恥ずかし気もなく口にするのが二人のキャラクターだということもあるし、薄暗いこの家で子ども時代を過ごした共通の記憶を持っていて今でもそれをひきずっているからよくわかるということもあるし、本当は怖くないはずなのに子どものときに怖いと思った感情の記憶のようなものが書き換えられずにいまでもそのまま出てくるのかもしれないということもあるし、ほかにもいろいろ理由が考えられるけれど、奈緒子姉が昔、風呂場の床のタイルにうつった女の人を見たという具体的なものは含まれていなくて、怖いというのはあくまでも心理的なような抽象的なような次元でのことだ。 だから私にはむしろ老人一般が夜の家を怖いと思わないことの方が不思議で、もしかしたら伯母も怖いと思うことがあったのかもしれないという想像が全然浮かばないわけではないけれど、その想像は「やっぱりなかっただろうな」という気持ちにすぐに打ち消されていて、ではどうしてそういう風に思ってしまうのかというと、老人が住み馴れた家を怖がるはずがないという根拠のない思い込みがやはりどうしても圧倒的に強いのだけれど、それを基盤にしつつも、【伯母がこの家と同化していたということなのだけれど、「同化していた」という表現も荒っぽいし感覚的で、人によっては空想的とか妄想的と言うかもしれない。 同化していたというのはつまり、】(【 】の部分は赤の斜線で消してあります)伯母がこの家を隅々まで把握していて、この家には伯母にとって物陰とか死角のようなところがなかったのではないかということだ。 もっともこういう言い方も感覚的な言い方で根拠らしい根拠はないのだけれど、たとえば一階の居間からトイレまで行く場合、自分のすわっていた場所から立ち上がって三歩で居間の敷居をまたいで〜いちおう「北側の方の廊下」とみんなが呼んでいた納戸と廊下の機能を合わせ持ったような畳敷きのスペースに出て〜右に九十度向きをかえて〜畳の敷いてある部分を八歩か九歩で抜けて〜二階へ上がる階段が右にある板張りの廊下に出て〜板張りに出てからそのまま真っ直ぐまた五歩か六歩歩くと右に風呂場があり〜風呂場を通り越すとトイレに着く。言葉にするとこいういうことになるのだけれど、実際には居間で立ち上がってトイレに着くまでの距離とか向きとかは体が憶えていて、居間から出ると自然に体が右を向いて、畳敷きであることを足の裏が(頭ではなくて「足の裏」が)確認しながら八歩か九歩歩いて、階段の下の板張りに出ると足の裏が板張りに変わったことをいったん確認して、トイレまでのあと七歩くらいを進んでいく。 そのとき目は、スイカ割りみたいにとんでもない方向に行かないような大まかなチェックはしているだろうけれど、あとは補助的な役しか果たしていなくて、もし停電で居間からトイレまでが真っ暗になっていたとしても、手で壁や襖沿いに置いてある和ダンスと洋ダンスと本棚を確かめれば無事にすすんでいくことができる。 一年四カ月くらいしか住んでいない私でもこれぐらいのことは体がちゃんと憶えているのだから伯母だったら、タンスの置き場所を換えるとかいうような変化でもないかぎり、躓きたくても躓けないくらい家の中での動きが体に染みついていただろう。クモは自分が張った巣にどんな小さなものがひっかかっても感じることができて、クモにとってクモの巣というのは体の一部というか「体の延長」だという話を聞いたことがあるけれど、伯母にとってはこの家が自分の体の延長のようになっていたのではないかということだ。 それで最初の怖い怖くないの話に戻って、私自身はどうなのかというと、奈緒子姉や幸子姉と同じように怖がってもよさそうなものなのだけれど、不思議に怖くなくて、それはたぶん三匹の猫たちがこの家の中を歩き回っていることが私の体の延長のような役目を果たしてくれているかららしい。猫が見たり聞いたり嗅いだりしているものを私が自分の感覚のように把握しているというようなことではもちろん全然ない。一軒の家の中に二人の人が暮らしていたとしたら自分以外にもう一人いると思うだけで怖くなかったり淋しくなかったりするのと同じ程度の意味で、私が小さかったときに私が夜中にトイレに入っているのを風呂場の脱衣場の鏡をのぞいて髪の毛をいじりながら奈緒子姉が鼻歌を歌っていられた理由も(もし一人だけだったら何が映るかもわからない鏡を覗くことだって怖くてできなかったはずだ)、あのときの奈緒子姉にとって私が私にとっての猫のような役目を果たしていたということなのかもしれなくて、夜一人で一階の居間にいるときに、階上で猫が窓から外を眺めているとかのんびり寝ているとか北側の廊下や南側の縁側をくってれくってれ歩いているとかというイメージが浮かぶだけで、この古びて暗い家の夜が子どもの頃に感じたものと違って物陰に何かが潜んでいるようなものではないように思えるのだった。 従姉兄がいなくなると私は小学生だった頃この家から鎌倉に帰ったときと同じ虚ろで少し悲しい気分になっていて、それで昼間はなんだか台風が去った後のような感じで、猫三匹が二階のそれぞれの定位置で眠っているのを見ていたら私も眠くなって一時間ぐらい昼寝をして、目が覚めると汗だくになっていたのだけれど、起きて昼寝のあと特有の芯に鉛が詰まったような、全体が霧がかかったような頭で奈緒子姉たちのことを思い返していると、急にビートルズが聴きたくなった。 理由は簡単で奈緒子姉以下きょうだい四人が揃ってビートルズの大ファンだったからで、一時期は一階の玄関からつながっている二部屋をのぞいて、この家の全部の部屋の壁や襖や天井にビートルズのポスターが貼ってあったことも思い出した。全部の部屋に貼ってあったというのは、きょうだい四人が半年かせいぜい一年刻みで勉強部屋や寝る部屋を移動しながら階下の二部屋以外を好き勝手に使っていたことの証拠で、部屋を移ったからといってポスターも一緒に移動させなかったところがいかにもあのきょうだいらしいところで、何事もやりっぱなしで、熱が冷めたら急速にどうでもよくなるのもきょうだい共通の特徴なのだけれど、それでもビートルズの熱は途中でGSをはさんだりモンキーズをはさんだりしながらも解散の噂がひっきりなしにたって『レット・イット・ビー』が発売される頃までつづいていた。 ビートルズに熱狂しながら、グループサウンズやモンキーズにも熱をあげるというのは信じられないことかもしれないけれど、あっちもこっちも手を出すのがきょうだいの性格で、グループサウンズもモンキーズもビートルズの派生物だったわけだし、もっとさかのぼればビートルズ以前のロカビリーなんかも奈緒子姉は好きで、つまり奈緒子姉にリードされたきょうだい四人の好みは早い話がポップス全般にわたっていて、その中でとりわけビートルズに熱中したということで、「ビートルズかその他の誰か」というような排他的なことではなかったのは、「猫も犬も好き」というのと同じことで、いろいろ手を出しながらもとにかく解散までつづいたということが何よりきょうだいにとってのビートルズの偉大さをあらわしていて、今回ここにいるあいだ三人の口からビートルズの「ビ」の字も出なかったのはきょうだいの忘れっぽさ(?)をあらわしていて、そこは一日中暇さえあればブルースを弾いている浩介と何より違っているところだ。だから八十年の十二月にジョン・レノンが殺されたときもきょうだいは誰も涙一つ流さなかったのではないかと思うのだけれど、それはやっぱり誇張と言うべきかもしれない。 ところで私自身はビートルズに特別な思い入れはない。というか、従姉兄四人が「ビートルズ」「ビートルズ」と言うのを小学校一年の頃からずうっと聞いていたために、ビートルズは大人が聴くもので、子どもが聴くものではないと思っていた。もちろん私だって従姉兄たちとの年齢差の分だけ遅れて従姉兄たちと同じ年齢になっていくのだから、年齢差の分だけ遅れて同じことをしていってもいいのだけれど、年齢差はいつまでたっても埋まらないというか従姉兄はずうっと「姉ちゃん」「兄ちゃん」であり、私はずうっと年下の「高志」なのだ。現実には小学校で好きな女の子がいて、友達同士で誰が一番かわいいかなんてことをしょっちゅうしゃべっていても、従姉兄の前に出ると恥ずかしくて女の子のことなんか関係ないような顔をしていたのと同じような気持ちがずうっと変えられないのと同じようなことだ。それでビートルズを避けてローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンを聴くようになって、「高志も大人になったもんだ」とかえって冷やかされることになるのだけれど(もっともビートルズを聴くようになっていても冷やかされただろうけれど)、そんなわけで急にビートルズを聴きたくなっても私の手元には赤いパッケージの『BEATLES/1962−1966』という二枚組のCDしかなかった。 タイトルからわかるとおりこれは、六二年から六六年までのヒット曲を集めたベスト盤で、もう一つの『1967−1970』という後半のベスト盤とセットになって、ビートルズの全体をカバーするようになっている。「ラブ・ミー・ドゥ」からはじまって「プリーズ・プリーズ・ミー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」「シー・ラブズ・ユー」「アイ・ウァナ・ホールド・ユア・ハンド」と初期の曲が発売順にかかるようにならべられていて、私は一階の浩介たちの部屋のCDプレーヤーで聴いた。私はこのCDにある曲をかつて全部この家ではじめて聴いた。 中学二年のときにビートルズの初期の『ミート・ザ・ビートルズ』というLPを友達から借りて聴いたときに、「全部知ってる」「全部、奈緒子姉ちゃんや英樹兄ちゃんが聴いてた」と思い、従姉兄がビートルズを好きなことはよく知っていたけれど、こんなに全部が全部ビートルズだったとは思わなかったと思ったのだった。私はビートルズの歌を知りすぎるほど知っているということを知ったために、レコードをわざわざ買う必要はないとあのときに考えたのかもしれないし、ビートルズを見つけたのは奈緒子姉たちなのだから、私は私で他の誰かを見つけなければいけないと思ったのかもしれない。それとも、音楽による強い喚起力によって大好きな従姉兄たちといるときの気分を思い出し、一緒にいないときにまで一緒にいる気持ちになってしまうことを退嬰的といえばいいのか何といえばいいのか、とにかくネガティブな気持ちでそういうことはやめた方がいいと考えたのかもしれない。何しろ中学高校の頃は自分に必要なのは過去ではなくて現在と未来だけだと思っていた。 ビートルズが日本でヒットするようになった六四年というのは、私は小学校二年生で、私の家族がここから鎌倉に引っ越して一年とちょっとしかたっていなかったということになる。そのとき奈緒子姉が高三、英樹兄が高一、幸子姉が中三で奥の部屋で小さなプレーヤーで一日中EP盤をかけていた。清人兄は小学六年生で仲間に入りたがると「おまえは高志と遊んでいろ」と言われていた。そのビートルズを私ははじめてこの家の住人となって聴いたわけだった。まだ六時前だったが、南に廊下があって軒が深いために採光の悪い一階は薄暗くなっていた。 CDの歌詞カードには初期のマッシュルームカットだったときのビートルズの写真がジャケットと同じのを含めて八枚写っていて、最後のページにはもう一つのCDのジャケットに使われている解散間近の頃の写真が写っていた。デビューから四、五年間のビートルズは歌っていた歌と同じように、陰りなんか何もなくて、世界の貧困とも悲惨とも戦争とも無縁の顔で笑っている。それが年齢が進むにつれて、それぞれに個性を発揮するようになって解散が近い頃の四人は、大人らしく憂いを知った顔になっている。歌詞カードにはもう一枚、一九六八年七月という日付で、セント・パンクラス・チャーチャードというところで人だかりに混じって四人が鉄製の塀ごしに何かを見つめている写真が中央に見開で写っていた。人だかりを作っている大人の中には微笑んでいる顔もあるからそれは凄惨な何ごとかが起きた現場ではないのだろうが、子どもたちの表情は一様に暗かったり生気がなかったりしているし、ビートルズの四人も同じ何かから目をそらすことができないでいる。 ビートルズに詳しい人なら、この写真がどういうときのものなのかよく知っているのだろうけれど、私はただ後期のビートルズが持つようになった内面性を自然にあらわしている写真として納得するだけだったけれど、それでじゅうぶんだった。私にはこの写真が意味するところには興味がなくて、それよりもチャラチャラした明るいだけのアイドルだった四人の姿が、もうそこから完全に消えてなくなってしまっていることの方によっぽど気持ちが動いていった。 【ヒットの程度の差はあってもアイドルとして世に出たグループはいっぱいいたわけだけれど、ビートルズだけはその中で歌を作って歌うことを通してどんどん内面的に成長していき、それはきっとビートルズを聴いていた同世代の人たちと同じ速さの成長で、】【私はビートルズの歌が全部出揃った頃に自分でレコードを買って聴くようになったので、ビートルズが彼ら以前の歌しか知らなかった人たちに与えたショックも知らないし、後期になって新しい歌やLPを出すたびに見せた進化にも驚かないけれど、従姉兄という媒介が私にはあって、】【解散した後もやっぱり成長をつづけることができたから、今になっても支持されつづけていて、初期の明るい歌も他のウォーカー・ブラザースやクリフ・リチャードやモンキーズの歌のようには忘れられてしまうことがないのだろうけれど、】 (【 】の三部分全体に赤字で「カット」と書いてあります。最初の【 】は大きく赤バッテン、「202で書く」とあり、二つ目の【 】は濃い赤斜線、最後の部分は赤バッテン、となっています) 私は、成長したことによって消えてしまった初期の彼らの明かるいだけの写真の方をいつまでも見てしまい、二枚組のCDのそのまた前半の歌が並んでいる一枚目の方ばかりを夕方から夜にかけて何回も繰り返して聴いていた。 八月十四日は月曜日でプロ野球もなく、私のほかには誰もいないので一階のエアコンもつけずに窓というか下までのサッシの引き戸を開けて網戸にして、南に廊下があって軒が深いためにいまどきの建て方より採光の悪い座敷に明かりもつけずに畳に寝そべっていると、夏の夕方は大げさに言えば既視感に満ちていた。私が既視感を感じているというよりもこの家が既視感を感じていると言った方がいいのかもしれない。昭和二十六年つまり一九五一年の春に建てられたこの家にとって(私はそう聞いている)今年の夏は五十回目の夏ということになる。この家が建ったとき伯父夫妻にはすでに三人子どもがいて、この家に住むようになった頃には三十年後か四十年後には孫を含めた三世代が一緒に住んでいて、それから数年して自分が妹の家族を同居させたように、長女か次女の家族も一緒に住んでいるかもしれないと思っていたかもしれない。 十回目の夏にはこの家には、伯父、伯母、奈緒子姉、英樹兄、幸子姉、清人兄、母、私、とそれに五月に生まれたばかりの弟の合計九人がいた。その夏のことはまだ四歳になっていない私は憶えていないけれど、まるっきり記憶がないわけでもなくて、たとえば (201頁はここで終わっています) 解散するまで従姉兄たちがビートルズのレコードを買いつづけていて、映画の『レット・イット・ビー』のポスターを貼っていたことも間違いないけれど、ただの記憶というのではなくて体全体が反応するような深さで私が憶えているのは、複雑な音楽をはじめる前のビートルズをかけていた従姉兄たちだった。 ビートルズは歌を作って歌うことを通してどんどん内面的に成長して世界の出来事とも関わるようになっていき、それはビートルズを聴いていた同世代の人たちと同じ速さの成長だったということなのだろうけれど、きょうだい四人が六十年代後半の政治や社会に対してビートルズのファンにふさわしい関心を持っていたとは私には思えない。たしかに父親である伯父が役人をしていたという事情もあったかもしれないけれど、目の前にいる親に対する反揆として学生運動に入ったという例は少なくないわけだからそれはたぶん理由にならなくて、きょうだいに共通のノンポリ性というか、自分の親の葬式の席でまわりの人たちに聞こえるような声でわざとバカバカしい話をして笑わなければ気がすまないような、まわりが真面目な態度をとればとるほどその真面目さを茶化したり無視したりしたいという性格が、レコードを出すごとに内面化の度合いを増すビートルズの変化を「疑わしい」という風に、感覚的に感じていたのではなかったのかと思う。あるいはきょうだい四人が好きだったのが基本的に『アメリカン・グラフィティ』に使われるようなポップスとちょっとR&Bの匂いを感じさせる泥くさいものだったために、ビートルズの洗練に強い興味がわかず、フォークソングが中心の政治にも興味がわかなかったということかもしれない。 それによって奈緒子姉たちが何かを守ろうとしていたなんて思わないけれど、結果として私にとってはビートルズといったら初期のビートルズのことで初期のビートルズのチャラチャラした歌がこの家でみんなが揃ってにぎやかにしていた頃を守っているというか、少なくともあの頃を思い出す媒介となっていることを知った。 エアコンをつけずにそこらじゅうの窓やサッシの引き戸を網戸にして風が通るようにして畳に寝そべっていると、南に廊下があってひさし廂が深いためにいまどきの建て方より採光の悪い座敷は、五時をすぎたくらいの早い時間から夕暮れの薄暗さになり、【夏のそんな弱い光だけのこの家の中は、何といえばいいのか、既視感に満ちていて、】(【 】の部分は赤二本線で消して、赤で「イキ」とありまして、)寝そべったまま、家の中の薄暗さと比べて空が明るいことに軽い驚きを感じるためみたいに頭を少しそらせて上目づかいに廂をくぐるようにして低い空を見る動作が伯父がしたのと同じ動作であり、天井や柱を眺めてこの家の古さを感じていることに飽きて、首を横に向けてまるで誰かが訊ねてくるのを待っているみたいにしてがらんとした玄関に目をやる動作が、英樹兄がしたのと同じ動作のように感じられてき【て、夏の弱い光だけのこの家の中は、既視感に満ちていた。】(この【 】部分は赤の斜線で消してあり、青で「イキ」とあります) ミケは気がつくと階下に降りてきていて、奈緒子姉たちが半日前までここにいたことを確かめるみたいに居間の匂いを嗅いでまわってから、一度私に寄りかかって眠りかけたけれど、暑かったのか畳敷きの北の廊下の網戸のすぐ手前に場所を移してまた眠りはじめていた。チロにそっくりのクーとココは二階の廊下か真ん中の妻の部屋で寝ているだろう。かつてこの家で飼われた猫たちはどれも自由に外に出入りしていたけれど、家にいるあいだは夏の夕方に二階の廊下で寝たり、暑さ涼しさに敏感な猫はミケのように涼しいところを見つけてはそこで寝ただろう。 猫の動作は人間から見てとてもかぎられているので、自分が飼っている猫のやることを見ていても「猫一般」を想像することが多いけれど、人間の動作だって本当のところあんまり多いわけではないと、寝っ転がりながら感じた。この家はこうして寝っ転がっている私を、伯父や英樹兄と区別しないかもしれない。こうしてCDから鳴っているビートルズの歌はどうなんだろうと思った。この家の中で一番たくさん鳴っていたビートルズの歌は、持ち運びのできる小さなプレーヤーでかけていた十七センチのEP盤だった。私はアンプの音質調整のつまみをいじって、シャカシャカした一番安っぽい音に変えてみたけれど、CDの音はクリアすぎたし、レコードの針を置いてから演奏がはじまるまで針がただ溝を走っていくときの雑音がないので、「さあ、はじまる」という期待感を欠いた、安っぽくて薄っぺらいだけの音にしか聞こえなかったので、低音を逆に一番強くしてこもった音にしてみたら、その方がいくらか気分が出た。由香里が使っている奥の部屋で奈緒子姉たちがかけている音を廊下から聞いている気分にちょっとだけだけれどなった。座敷ではビートルズが鳴っていたが、私はその音の隙間をぬって台所やトイレに通じる北の廊下から音が聞こえてくるのを待っているような気分になっていた。そうしていると歌や演奏が静かになったときに包丁で野菜を刻むリズミカルな音が聞こえてきたけれど、それは北の渡辺さんからしているらしかった。廊下をどしんどしんと歩く低い振動が伝わってきたけれど、それもやっぱり渡辺さんだろうと思った。どしんどしんと響かせて歩くのは英樹兄と清人兄で、「そんなに力を入れて歩くと床が抜ける」と伯父はよくおこっていた。英樹兄と清人兄が伯父に口応えをしているところは記憶にないけれどどしんどしんと歩くのだけは、いくらおこられても直そうとしなくて、それが自分たちの肉体や性格の一部であると主張するみたいだった。奈緒子姉と幸子姉が足音をたてるのは走るときだけだったけれど、奈緒子姉は奥の部屋からこっちに来るときにも階上から階段を降りるときにもしょっちゅう走っていた。しかし伯父が奈緒子姉をおこっているところは憶えていない。英樹兄も「ほら、姉ちゃんはおこられない」と、幸子姉や清人兄に言っていた。 庭でバケツが転がった音がした。夕方になって風が吹いたのだろうが外の猫がひっくり返したのかもしれない。一人で畳にじかに頭をつけて寝ているとこういう振動音はCDがかかっていてもすぐ近くから聞こえるようだった。伯母や奈緒子姉がバケツに足をひっかけていたのを思い出した。猫もよくバケツを倒していた。風呂場から庭に出るようになっている二段の足場が狭くて、バケツをいつもそこに置いていたから、この家ではバケツはしょっちゅうひっくり返っていた。だから私は風呂場の中に置くようにしているのだけれど、妻か由香里が伯母と同じところに出しっぱなしにしておいたのだろう。伯母がこの家の中やまわりの物音に無頓着だったことを思い出した。廊下や二階で何かが落ちる音がしても、「猫だよ」「風だよ」で済ませていて、確かめに行こうともしなかった。しかも伯母は棚やタンスの上に箱を乱雑に積み上げていたので、伯父は「猫なんか乗らなくても落ちる」と、おこるのではなくて呆れたように言っていた。 バケツが転がった音のあとは外からはまた蝉の啼き声しか聞こえてこなかったけれど、私は庭の木に水を撒くのを忘れていたことを思い出した。門から玄関までの、奈緒子姉が車を止めていたところの両脇は妻が並べている鉢植えで、それだけだったらジョウロでやる方が早いけれど、二日に一度はホースで庭全体に水を撒く。この家はうなぎの寝所のような細長い敷地に細長く建っていて、庭も同じように細長く奥に伸びていて、さかいの低いブロック塀に沿って、夏のいまは木が厚く、うっそうという感じで葉を茂らせている。手前に生えているのが南天、アジサイ、カエデ、ツゲ、カラタチというような、人の背かやや低いくらいの高さの木で、その奥の塀に沿った側に、赤松、梅、モチノキ、サワラ、柿、シュロ、ビワ……ほかにも、名前がわからない落葉の広葉樹が三本生えていて、夏はこの庭の茂みで涼んでいる猫がいるので入り口の側から順番に水をかけていった。 私は清人兄に教わりながら、ここにある木にはだいたい登った。サワラというのはヒノキに似た針葉樹で、まっすぐな幹から水平に太い枝が伸びているので登りやすくて、一番上にいても安定していた。松だと幹の表面が荒すぎて掴みにくいし、松ヤニがつく。梅は枝の形があまりに不規則で上にいっても安定したところがなくて、五月くらいから毛虫がいた。柿は「枝が弱い」と伯母も母も言うので、登っていて折れるのが心配なところがおもしろくなかった。モチノキというのは幹が灰色っぽくてやや厚めの丸い葉が出る木で、これは幹が太くて表面も滑らかで枝の出具合もよかったのでサワラと同じくらいよく登った。ほかの広葉樹の三本もよく登ったけれど名前はとうとういまになっても憶えていない。サワラを見ても、モチノキを見ても、その隣りの広葉樹を見ても、あの頃どの枝に手をかけてどこで休んだかをちゃんと思い出すことができるので、木の形というのは三十年か四十年くらいでは変わらないのだろうかと思った。しかし私はこうして距離をおいて眺める角度で木の形を憶えているわけではなくて、登るときのからだの動きとして憶えているらしかったので、視覚による記憶はあてにならなそうだった。 なにしろ柿の隣りのビワは私が種を埋めたものなのだ。私はビワが本当に好きで家族でここに住んでいた幼稚園のときに、種を一つ埋めてみたら十年くらいで食べられる実がなるようになって、いまでは隣りの柿の木と同じくらいの大きさになっているのだから、サワラやモチノキがあの頃と同じ形をしているということはないだろうと思った。 そういうことを考えながら私は水を撒いていた。夏に庭木に水を撒くのはここに遊びに来ているあいだは私の役目みたいになっていて、大学生になってここに泊まった翌日も水を撒いていた。この家では私はずうっと末っ子のオミソのような扱いだったのでまともな仕事を与えられたことはとうとう一度もなくて、水を撒くことだけがただ一つの私の仕事だった。木には中学生くらいまで登っていた憶えがあるのだけれど、木登りと水撒きが全然結びつかないということは、半袖の時期はあまり木に登らなかったということなのだろうと思った。いまふだんは庭の水やりは綾子がしてくれることになっているために、かつてはあんなに毎日登っていた木にいまの自分はずいぶん疎遠になってしまったと思ったり、自分からすすんで水をやってくれている綾子が水を撒きながら何を考えているのだろうと思ったり、うちの三匹の猫たちをここで遊ばせたら喜ぶだろうと思ったりしたけれど、ここにはいつでも三匹か四匹の猫が来ているので、猫を過保護に育てている私にはやっぱり庭に出す度胸はないと思った。 水を撒いているあいだ、庭はずうっと蝉の声でいっぱいだった。家の中に戻るとビートルズのCDは終わっていて、私は外と比べてすっかり暗くなっている居間で、しばらく明かりもつけずにすわっていた。夕方に主婦が「さあ次に何をするんだっけ」という感じで一休みしているという様子だと自分でも思ったけれど、実際には次にすることなんか考えていなかった。蝉の声にまじって、「チュチュッ、チュチュチュッ」とスズメが強く啼く声が聞こえて、次にカラスが「カアッ、カアッ」と啼きながら飛び去っていき、前の道をオートバイが走り去っていった。 (次は209−E頁ですが最初の【 】の部分は赤の斜線で消してあり、その後の部分に「Dからつづき」とあります) 【言っていた。 バケツの音で耳の注意が外に向くと、バケツが転がった音のあとは蝉の声しか聞こえてこなかったけれど、それだけでもじゅうぶんすぎるほど蝉は鳴いていた。しかしすぐにスズメが「チュッ、チュッ」というように強く啼く声が聞こえて、次にカラスが「カアッ、カアッ」と啼きながら飛び去っていった。ビートルズのCDは『イエスタデイ』が最後で終わった。それでつづけて三回かけたことになったけれどCDが終わってみると、蝉の声にまじってスズメの啼き声も間歇的にずうっと聞こえていた。キジバトが遠くで「クック、クゥ、クゥクゥ——」と啼くのも聞こえてきた。前の道をオートバイが走り去っていった。】 伯母が一人でこの家にいたときにも、伯母が入院してこの家に誰もいなくなったときにも、私がいるこの場所で同じ音が聞こえていたのだろうと思った。この家の前の道は四十年前もいまとほとんど変わらずたまに車やオートバイが通るだけで、一台が走り去っていく音が遠くに消えるまで聞こえていた。特にそれを感じたのは夜布団に入ってからで、眠りに入る前に聞こえてくる車やオートバイが走り去る音は、この家に来ていることを私に実感させてくれた。鎌倉の家はもっと奥まっているので車の音が近くで聞こえることはない。 音というのは聞く人がいてもいなくてもそこで聞こえているものなんだと思った。この世界で起こることを人間が介在して感知したり記憶したりするとつい思っているのだけれど、人間を介在させなくてもやっぱり起きている。それを考えはじめると私は途端にわからなくなってしまう。というか、「この世界とはそういうものなんだ」という世界の姿がちらっと見えると理解の許容量を一挙にこえた情報が流れ込んでくるような気分になる。「わからない」というのは言葉で取りつく島がなくなるということで、いわゆる「わからない」のとは違う。畳に頭をつけてじかに寝ころんでいる私に聞こえていたいろいろな音は、私がいなくてもしていて、私だからその音が聞こえていたわけではなくて、この家の居間のこの場所だから聞こえていて、これからもここにこの家があるかぎりほぼ同じ音が聞こえつづけるということだった。 同じように天井の板の波のような年輪の模様とかところどころにある節目だとかも、私がいるから見えるのではなくて、私がいなくてもありつづけているもので、伯父も伯母も古さの程度の違いこそあっても、同じ模様が見えていたということだった。動物というのは危険や餌や温度やすべて外界の情報に対応して行動するようにできていて、人間もその基本構造は同じことで、天井の板の模様も聞こえてくる音も私の想像力によって作り出すことはできず、そこにあるから見たり聞いたりする。 夕食は外に出て一人で冷し中華でも食べてくるつもりだったけれど、冷蔵庫に何か残っていたら腐らせてしまう前にそれも食べなければいけないと思って、台所まで行って中をのぞくと、「晩ごはんのおかず」というメモをかいてラップをかけた皿と小鉢が四つ置いてあった。体格に似ず小さい字でこちょこちょっと書くのは奈緒子姉で、いつの間にこんなものを作っていたのだろうと思った。中をたしかめてみると小鉢に入っているキュウリのおひたしとカボチャの煮物は朝のごはんの残りでもう一つの冷奴はミソ汁のついでの豆腐だったが、大きめの皿に入っていたのはニンニクの芽と牛肉の炒め物でまったく憶えはなかったからわざわざ作ったのだろう。 せっかく晩ごはんのおかずを作っても、出掛ける前に一言教えてくれていなかったら気がつかずに外に食べに出てしまうかもしれない。奈緒子姉のことだから何年も自分のペースで他人も行動すると思っていて、私が夕方までに冷蔵庫の中を見ないはずがないと考えたのだろうかといったんは思ったけれど、英樹兄が夜遅く帰ってくるときに二、三品のおかずを残しておいて、英樹兄が気がついたらそれを食べ、気がつかずにインスタントラーメンか何かを自分で作って食べてわざわざ残しておいたおかずが翌朝までそのままになってしまったらそれはそれでかまわないというのは伯母と同じ考え方だということに気がついた。そうでなくてももともと間食が生活の一部に組み込まれているような家で、きょうだいがとっかえひっかえ台所に入って何かつまむので、晩ごはんでおかずが残っても翌朝までにはまあだいたい全部なくなっている。そういうこの家の流儀というか伯母の流儀を、主婦になってから奈緒子姉が自分でもつづけているということで(たぶん)、朝昼兼用のような朝食を食べてみんなが出掛けたあと夕方のこの時間まで私が冷蔵庫の中を見ないという想像は、奈緒子姉個人の強引な性格ということをこえて、この家で育った人間としてまあ考えにくいことで、奈緒子姉が冷蔵庫に残していった「晩ごはんのおかず」はこの家のおおらかさみたいなものをあらわしていて、私は奈緒子姉が作りおいていった晩ごはんを伯母が残しておいた晩ごはんを英樹兄が食べているような気分で食べた。 しかし居間の座卓で食べているうちに、こうして一人で食べている姿は英樹兄ではなくて、ここで一人で暮らしていた伯母の姿だと思い、私は自分の後ろにある鴨居あたりから一人ですわって食べている伯母の姿を眺めているような気分になっていた。自己像というのはおかしなもので、自分でイメージする自分の姿は鏡に写った姿でも写真やビデオに写された姿でもなくて、その証拠に机に向かって仕事をしていたり本を読んだりしているときに漠然と背後から見た自分の姿が思い浮かんでくる。顔だけは鏡に写った像によって認識するのは間違いないところだろうけれど、姿の全体となると自分のまわりにいる他の誰かの姿を見ることと、自分の姿を見る他の誰かの視線を先取りしたり仮想したりすることを混ぜ合わせたものを動物が共通に持っている身体感覚に接ぎ木するようにして繰り上げているのではないだろうか。学校にいたり会社に勤めたりしていた頃よりも毎日一人で仕事するようになってから、私は自分の姿に対して他人を介在させるこういうメカニズムを感じる度合いが強くなっていて、奈緒子姉たちの余韻がまだ感じられる居間にいることも影響してか、私には漠然と背後から見た自分の姿を伯母のように感じ、また少し時間が経つと今度はそれが伯父の姿になっていた。 自己像とか自分の身体イメージというのは脳の頭頂葉のやや後方で作られているといわれていて、自分の後ろの鴨居あたりの角度から自分の姿が見えていると感じることが納得できるような気もするけれど、晩ごはんを食べていたこのときにもし目の前に鏡を置いたらそこに伯母か伯父の顔が写っても不思議ではないようにも感じたというのはどういうことなのかと思った。たとえば映画だったら、私が鴨居を見上げた動作のカットの次に、鴨居の位置に置いたカメラからそこを見ている私の顔が写されても唐突とは感じないことになっていて、そのように視点が飛ぶことが混乱を引き起こさずに理解されるということは、人間にはもともと自分の目の位置から離れていろいろなところからいろいろな角度で物を見ることが内蔵されているということなのかもしれない。 この居間にある物は私が晩ごはんを食べていた六人用の長方形の座卓と、北の廊下と浩介たちの座敷の角に置かれたテレビとそれを載せているラックとその中に入ったビデオデッキ二台と、台所側の角に置かれた食器戸棚と、南の廊下と座敷の角に置かれた電話器で、それぞれの物は代替わりこそしたけれど私の家族が住んだ四十年前と配置は少しも変わっていなかった。座卓の真上には蛍光灯があり、玄関から上がってすぐの南の廊下側の鴨居には五つのフックが取り付けてあって、コートを掛けたり、昔は帽子が掛かったりしていたけれどいまは持ち帰ったクリーニングを一時的に掛けておくぐらいで普段は何も掛かっていなくて私の横浜ベイスターズの帽子は下駄箱の上に置いてある。座敷との仕切りは紙ではなくて板の襖で、南の廊下との仕切りは中央にガラスがはまった縦長の桟の障子戸。玄関との仕切りと北の廊下との仕切りは昔は障子だったような気がするが今ではガラス戸で、玄関側はカットグラスのような模様の入ったすりガラスで、北の廊下側は波ガラス。玄関のガラス戸は一間で残りの一間が台所との出入り口で、そこも北側と同じ波ガラス。古い家というとたいてい鴨居の上に額に入った表彰状みたいなものが飾ってあるものだけれど、この家では座敷の南側の鴨居に「天長地久」という文字の書かれた幅一メートルぐらいの額に入った書がたぶんこの家が建った直後から惰性のように掛かっているだけで、表彰状のたぐいは一度も見たことがない。そのかわりに一時期は伯母が近所の教室で習っていた押し花絵の額が五つも六つも飾ってあったが英樹兄から不評でいまは一つだけ、座敷の奥の床の間の隣りの押し入れの上の鴨居に掛かっている。お稽古ごとの教室で作るものは野暮ったいものが多いけれど、押し花絵はそれなりに洗練されていて、紫のすみれらしき花を中心にして、そのまわりに白と黄色の花が広がり、小さな赤い花が三つ四つ散りばめられている。いくつもあった伯母の押し花絵がなくなったあとは、誰が掛けたのかわからないが座敷とのさかいの鴨居に一つと北の廊下の鴨居に一つずつ額がかかっている。座敷とのさかいにあるのは桜が満開の道の写真で舗装されていない土の道が左手前から右奥にやや曲がりながら伸びていて、妻に言わせれば「ソメイヨシノより素朴で荒々しい感じ」の桜が、その道を低く被っている。言葉にするといかにも注意をひくようだけれど、そんな感想も一度か二度出ただけで普段はじっくりと見ることもない。英樹兄の知り合いの写真マニアか誰かがくれたものだろう。一応ちゃんとしているスチール製の額なので、まさか雑誌のグラビアの切り抜きということはないだろう。 北の鴨居にかかっているのは木製の幅広の額に入った抽象画で、これは私が小さかった頃には座敷の、いま伯母の押し花絵がかかっていたところにあった記憶がある。青と水色と紫の不揃いな四角が淡く溶けあうパウル・クレーのような地模様になっていて、そこに細い線で抽象化された人間が描かれている。顔はカクテルグラスのように逆三角形で胴が横長の長方形。その下の台形には紫がかったピンクがまばらに塗られていてスカートらしい。全体として柔らかくて品があって、みんなに評判がよくてもしかしたら本物のクレーかもしれないと思うときがあるけれど、この絵ももう普段じっくり見られることはない。 座敷は浩介の事務所になって以来二組の机と椅子と一台のデスクトップ・パソコンと一台のノート型パソコンと二台のスチール製の本棚と床の間に置かれたビデオラックとその上のミニコンポのステレオがあって、伯父や伯母が生きていた頃とは様変わりしてしまった。もともと座敷は伯父と伯母の寝所だったので、北の廊下に移動した洋ダンスとその上に作りつけられている棚の他には何もなかった。もっとも南の廊下との仕切りの居間と同じ障子戸や北の廊下に出ていく襖は昔のままで、二組の机と椅子と二台のスチール本棚が置いてあっても座敷らしい空間の雰囲気は残っていて、夕方私が座敷に寝そべっても机の圧迫感を感じるということは全然なかった。机は一台が南の廊下と居間との角にあって、もう一台は北の廊下と居間との角に置いてあるので、北の廊下に出る襖は閉め切りになっている。 北の廊下に出ると台所に接している一番隅に以前は古い茶ダンスが二つ置いてあったけれど、薬を入れたりこまごましたものを入れるだけであまりに効率が悪かったのでずいぶん前に一つは捨てられていまではかわりに食器戸棚が置いてあり、食器戸棚と茶ダンスの中に入っているのはこの家に昔からある和食器だから開けられることはほとんどなくて、いつも使う食器は居間の食器棚と台所にもう一つ置いてある私たちが持ってきた食器戸棚に入っている。その食器戸棚の隣りには観音開きの棚に仏壇が乗せられていて、伯父と伯母の位牌と両方の祖父祖母をはじめとして親戚の人たちの写真が飾ってあって、見るともうずいぶんたくさんの伯父さん伯母さんが亡くなったものだと思う。「北の廊下」と言ってもここだけで畳三枚と板の幅半分程度の板の間があって、食器戸棚と仏壇は板の部分にはめこまれている。その三畳強のスペースを囲むように上にぐるりと棚が取り付けられていて、いまではそこに私の本が積んである。 この部分が居間とちょうど対応していて、ここを通り抜けると今度は座敷と対応している「北の廊下」の部分になり、ここも板ではなくて畳敷きで座敷との仕切りも壁ではなくて襖なので、戦後まもなくこの家を考えたときの伯父のイメージはたぶん田舎の古い家の建りそのままで、何かで人が集まるようなときには座敷との仕切りの襖を取り外せば広い一間として使えるという考えがあったのではないかと思うが、いまではというか私が憶えているかぎりではほぼ最初から襖の前には洋タンスが置いてあった。その洋ダンスがいまは廊下の方に和ダンスと一緒に並べられていて、その向かいにはやっぱりスチール製の本棚が三つ並んでいるけれどここの幅が仏壇のあるところと同じように畳一枚と板の間になっているので、歩くときに狭いと感じることはない。ガラス戸があるのは仏壇とのさかいのところで、もともとは一間だけれど、半分は本棚で塞がれている。 仏壇の並びの茶ダンスと、座敷側の和ダンスと洋ダンスはほとんどこの家と同じくらいに古く、文字どおりにここに生活した人間の手垢や汗が染みついている。居間から出て手前が洋ダンスで階段のすぐ脇が和ダンスでビートルズのポスターは和ダンスの側面も貼られていた。中でも階段のすぐ脇になる和ダンスの角と仏壇の下の観音開きの棚の角は何か匂いが染みついているらしくて、引っ越してきた直後は三匹の猫たちが一日に何度もそこの匂いを嗅ぎ、いまでもたまに思い出したように匂いを嗅いでいる。しかしそういう物証のようなものは、家とそこに住んだ人間が長い時間をかけて練り上げたことのほんのわずかの顕われにすぎなくて、 【たとえは唐突だけれど交通事故で人が死んだ現場で幽霊を見たという話と似ていて、幽霊が見えたか見えなかったかにかかわらずその場所に事故は記憶されているのではないか、というようなことだ。】【【「幽霊」という例を出してしまうとあまりに単純というか素朴で、浩介どころか森中にだってせせら笑われてしまうだろうが、幽霊とか心霊写真とか超常現象の類いはいつまでたってもなくならなくて】】(【 】の部分には赤のバッテンがあり【【 】】の部分は赤の斜線で消してあります) たとえば人間というのは、爪を噛む癖とかひんぱんに髪の毛をかき上げる癖というように個別の癖を見ることはできるけれど、癖一般を見ることはできない。同じように、奈緒子姉のようなせっかちな性格とか英樹兄のように悪ガキをそのままひきずっているけれど内実はけっこうウェットな性格というように個別の性格に接することはできるけれど、性格一般に接することはできないわけで、つまり、各論と総論とか具体と抽象という風に分けたときに、各論や具体は見たり聞いたりという感覚によって接することができるけれど、総論や抽象となると直接接するものに一つか二つ手続きを介在させる必要がでてくる。 奈緒子姉が作りおいていった晩ごはんを食べながら、私は頭に漠然と浮かんでいた自分の姿が伯母のように見えたり伯父のように見えたりする気分になったけれど、そういう具体的に感じたことを越えて、この家に伯父や伯母や奈緒子姉たちきょうだいの動作一般や会話一般が濃厚にたちこめているような気持ちになっていた。 |