『カンバセイション・ピース(初稿)』(2001年2月〜2002年1月)その3


 八月に入ると蝉が鳴くようになった。小学校が夏休みになったときにはすでに蝉が木を揺わせるように鳴いていた記憶があったり、映画の場面でもそのように作られることになっているけれど、世田谷あたりでは七月のあいだは蝉が鳴かない。木が少ないからか、蝉の数が少なくなったからか理由はわからないけれどとにかくそうなっていて、二階の私の部屋に例によってみんな集まって蝉の声を聞きながら、「暑い、暑い」と言いながら、由香里が前の晩に作って冷やしておいた麦茶を飲んでいた。
 浩介は床の間の柱に寄りかかってギターを弾き、綾子はミケの指定席のようになっている北側の窓のすぐ脇で壁に寄りかかって脚を前に投げ出して、たまにミケをさわるとミケが窓の敷居でゴロンと必ずからだをひとひねりして、森中は「暑い、暑い」と一番たくさん言っているくせに陽の当たる南側の窓の敷居に腰かけ、由香里は部屋の真ん中にぽつんと置いてある折りたたみ式の小さなテーブルのところに、水平ずわりとか言われている尻を畳につけてその両脇にたたんだ足がくるすわり方をしていて、まあだいたいいつでもしゃべっている森中が蝉の話をはじめた。
「蝉って、七年とか土の中にいて、外に出てるのはたったの二週間だって言うじゃないですか。
 変だと思いませんか? 虫のことなんてみんなほとんど知らないくせに、蝉の寿命のことだけは誰でも知ってるって、おかしくないっすか。浅川さん、知ってますよねえ。
 社長も知ってますよねえ。
 沢井さんも知ってますよねえ。
 由香里ちゃんも知ってるよねえ」
「しつこいんだよ」と、「社長」と呼ばれた浩介が言っても、森中は無視してしゃべりつづけた。
「だって変じゃないですか。
 蝉が二週間しか地上で生きられなくてかわいそうだとか言ったって、チョウチョやトンボが成虫になって三年とか五年とかへらへら飛び回れるわけじゃないんですから。
 チョウチョとかトンボとかって、一年以内に生まれて死んじゃうわけじゃないですか。よくわかんないけど。
 そうですよね」
 と言って浩介を見たが浩介は「知らない」と答え、次に私を見るので私も「知らない」と答え、次に綾子を見ると綾子は上体をひねってミケを指先で軽くじゃらしながら北側の窓から空か雲でも見ていて、返事をしなかった。
「だからそうに決まってるんですよ。だからね、蝉は地上に出てきたら二週間しか生きられないけど、七年も土の中にいれるんだから虫の中で一番長生きぐらいなんですよ。そうじゃないですか」
「おれに言うなよ」と浩介。
「言ってませんよ。
 言ってますけどね。だから本当は蝉は土の中でぬくぬくと生きてる方が、絶対幸せだって思ってるんですよ。そう思うよね」
 と、森中が今度は由香里を見ると、由香里はとぼけて後ろを振り返った。森中と由香里を結ぶ視線の先は、ミケのいる北側の窓のガラスの閉まっているあたりだった。「だから何が言いたいんだよ」と浩介が言うと、森中は合いの手が入ったことに喜んで、「ですからね」と力を入れた。
「——蝉が土から出てきて二週間しか生きられないとかかわいそうだとかいうのって、何かの作戦なんですよ。洗脳って言った方がいいかもしれないんですけどね」
 浩介は「バカ」と言う顔をしていて、綾子は伸ばした脚の爪先をちょこちょこ動かしてペディキュアの剥げ加減か何かを見ているだけだったけれど、由香里はついつられて面白そうな顔になってしまった。
「だからね。引き籠りってあるじゃないですか。蝉の話は引き籠りはいけないっていう教訓なんですよ」
「引き籠りより蝉の方がずっと先なんだよ」と浩介が言うと、森中は、
「でもわかんないじゃないですか」と言った。「——だからとにかく、蝉は土の中にいるのはかわいそうで、外に出たあいだだけが幸せだって思われてるわけじゃないですか。そんなの、きっと全然ウソに決まってますよ。早く大人になって社会のために働いたり一所懸命子ども作ったりするのがいいことだって、教訓が絶対裏にあるんですよ」
「それを言うならイデオロギー」と浩介が言うと、
「え? 何がですか?」と、森中が訊き直した。
「だから、教訓じゃなくて、そういうのはイデオロギーって言うんだよ」
「難しいこと言わないでくださいよ。教訓で通じたんだからいいじゃないですか」
 森中がぶつぶつぶうぶう言い返していると、由香里が綾子の方にからだを向けて、
「でもホントに、蝉は土の中にいる方が幸せかもしれないよね」
 と言った。どうして由香里がわざわざ振り返って綾子に言ったのかわからなかったけれど、由香里の動きで綾子は顔を上げて、
「土の中にいれば子どもに捕られないからね」
 と言った。綾子は聞いていると思っていると聞いていないけれど、聞いていないと思っていると聞いている。もっとも聞いていないと思っているとちゃんと聞いていないときも当然ある。
「子どもって、蝉ばっかり捕るよね」
 由香里が言うと、浩介が「だから子どもに対する忠告なんだよね」と言った。
「じゃあ、おれが言ったのとおんなじじゃないですか」
「そうじゃなくて、『捕りすぎるなよ』っていうってことだよ」
「たったそれだけですかねえ」と森中は不満そうな顔をした。もっとも森中はいつもそういう顔をしている。
「——なんかねえ、きっとねえ、日本人は蝉に負い目かなんかがあるんですよ。
 逆に怖いとかね。いまでこれだけ鳴くんだから、明治とか江戸時代なんかすごかったですよね。もう耳の中がジンジンしびれてましたよね。平安時代とか縄文時代とかだったらもうホント悪夢ですよね」
「江戸時代の次が平安時代になって、その次がいきなり縄文時代か」
「いいじゃないですかあ、そんなことどうでも。『なくよ七九四うぐいす平安京』ですよ。鎌倉時代だって知ってますよ。『いいくに一一九二作ろう鎌倉幕府』ですよ。
 そんなこと言ってないで、なんか弾いてくださいよ。ブルースでも『禁じられた遊び』でも何でも我慢して聞きますから、なんか弾いてくださいよ」
 森中がそう言うと浩介は本当に『禁じられた遊び』を弾き出した。森中の言われたとおりにしてしまうのもバカみたいだけれど、それにさからったり無視したりするのはもっとバカみたいだと思ったのだろう。『禁じられた遊び』は装飾音がいっぱい入って、豪華というかきらびやかというか、フュージョンのような派手で一種機械的な演奏で、森中が「すごいじゃないですか。けっこう陰で練習してたんじゃないですか」と言ったけれど、浩介は森中の言葉を蹴散らすように弾きまくって見せた。
 浩介の演奏は十分たっても終わらず、曲は『禁じられた遊び』ではない全然別のものになっているかと思っているとまた突然元のメロディが入ってきて、はじめて目にする浩介の本気の演奏に由香里は驚いて目を丸くしていたけれど、それを見て綾子が「ビョーキだよね」と言った。
「——ギター依存症」
「でもホントにすごかったんだぁ」と由香里が演奏に遠慮して声を抑えて言うと、綾子は普通の声で、
「ほおっておくと一日中弾いてるよ」と言った。
「なんでホントにプロにならなかったの?」
「これぐらい弾ける人はザラにいるんだってさ」
「じゃあ浩介さんにも挫折があったんだぁ」
「この人に挫折なんてあるわけないじゃない。だいたい最初っからプロになろうなんて思ってないんだもん」
 弾きまくる浩介のすぐ前で綾子につられて由香里ももうふつうにしゃべっていたけれど、森中は急に黙ってしまった。突然本気の姿を見せられて、ついつい調子にのってしゃべっていた自分の緩みに気がついたのかと思って見ていると、どうもそうではなくて森中は浩介のギターに退屈しているらしかった。浩介はブルースっぽく弾こうとしているのに『禁じられた遊び』という素材が悪くてフュージョンのようにしかならないみたいだった。さっきから綾子の方にからだを向けている由香里が、
「でもホントに蝉は土の中にいるのが一番安全だよね」
 と言った。こっちからは後ろ姿になるけれど、頭の傾き具合から梁か天井の隅あたりに目をやっているらしかった。古い家というのは壁でも天井でもいったんどこかに目がいくとしばらくあちこちと見てしまう。天井の板は昔のものだから当然合板ではないので、本物の節目や年輪の模様が入っている。合板の模様は一種類だからパターンがわかってしまったらそれでおしまいだけれど、天然の板の模様はどれも違うのでそれを見ていると、際限がなくなる。考えて見ているわけではなくて目が勝手に模様をたどってしまう。聴くつもりがなくても耳が自動的に音をとらえてしまうのと似ている、というか同じことなのだろう。目は耳や鼻と違って見る見ないを意志で決めているように思っているけれど、やっぱり本来はこういう風に勝手に模様をたどったり対象を追ったりしているものなのだろう。
 由香里の言葉に誰も応えないのかと思っていたら綾子が、
「全然別の生き物ってことだよね」
 と言った。
「そうだよね」
 と、由香里がこっちを見たので私も「そうだよな」と言っていると、しばらく黙っていた森中が、
「人間だって胎児のあいだに三十億年分の進化をたどるって言うじゃないですか」
 と言い、そうしたら浩介がギターをやめて、
「でも昆虫になるって話は聞いたことないよね」
 と言った。
「え? 昆虫にはならないんですか? 下等なものから全部たどるんじゃないんですか?」
「魚類からだろ?」と浩介が言うので、
「昆虫は全然別の系統なのかもな」
 と私は言った。
 カエルは途中でガラリと姿をかえる。昆虫以外でほかにカエルのようにガラリと姿をかえる動物は誰も思いつかなかった。じゃあ昆虫は全部途中で姿をかえるのかと考えてみると、蝶とトンボには幼虫はあるけれど、カマキリはたしか卵から出てくるといきなりカマキリの形をしていた。バッタもたぶんそうで、バッタの幼虫なんて聞いたことがなかった。もっともここにいる誰一人、虫にくわしいわけではないので断定はできなかったけれど、カマキリがいきなりカマキリの姿をしているのにはカマキリの卵すら見たことがないと言う由香里を除く四人に異論はなかった。
 それで話をもどすと、胎児は魚類は経ても昆虫は経ない気がして、五人ともそういう知識で、「昆虫とは血のつながりはなかったんだ」なんて言っていると、
「いい加減なことばっかり言ってますよね」と森中が言った。「人間は胎児のあいだに地球上の進化をくりかえすなんて言うけど、虫を通らなかったら意味ないじゃないですか」
「おまえ、虫が好きだったのか」
「え? なんでですか?」
「さっきから虫の話ばっかりしてるじゃないか」
「蝉みたいにしゃべりっぱなしだしね」
「あんなやつらと一緒にしないでくださいよ。あんなもん好きじゃないですよ」と、森中はまた不満たらたらといった感じに言い返してから、
「でもやっぱり虫は人間とは全然別なんだよな。
 おかしいと思ってたんだよ」
 と言った。
「あたし、虫のこと考えてると、なんかボーッてしてきちゃう」
「なんで?」私は言った。
「だって、アマゾンとかだとワーッてまとまっているし、生きてるあいだにやることがすごく決まってるでしょ?
 なんか——」
 と、そこで森中が割って入って「全然人間的じゃないんだよ」と言うと、浩介が、
「だから虫なんだよ」
 と言ったのだけれど、「でもボーッとなる気持ちはわかる」と綾子は言った。
「だから虫と人間は血のつながりがないんだよ」と私は言った。「虫は環境の一部なんだよ、きっと。植物とセットでさあ。場合によっては、土とか岩にいるバクテリアとセットなんだよな」
 森中が笑い出して、「すごいこと言いますね」と言った。
「でもそうなんだよきっと。植物が動けないかわりに虫が動くんだよ」
「そんなこと言われると、もっとボーッとしてきちゃう」
「その『ボーッとしてくる』って、どういうことなんですかねえ」と森中が訊くと、綾子が「『ボーッと』は『ボーッと』よ」と言った。
「沢井さんの『ボーッと』は、気合いが入った『ボーッと』だからわかりますよ」
 こういうことを言われるとふつうは何か言い返すものだけれど綾子は何も言わずにただ窓から外を見ている。返答に困った風な内向的な感じは全然なくて、ただ何も聞こえなかったようにしていて、無視するときのようなある種の攻撃的な感じもまったくない。だから本当は森中が言うように「わかる」わけではないのだけれど、由香里が、
「だって、虫がどうしてああいうことするかなんて全然わからないんだもん」
 と言った。
「『どうして』っていう動機で虫のことを考えちゃいけないんだよ」と私は言った。「虫はしたいと思ってやってるわけでもないし、やらなければいけないと思ってやってるわけでもない。決められたことをやるようなからだに進化したのが虫なんだよ」
 私が言い終わると由香里が「だから全然わかんない」と言ったのだけれど、浩介が、
「それがおかしいんだよね」
 と言った。
「——それだと、ただの機械と同じになっちゃうんだよね。
 たしかに虫に心はないんだろうけどさあ、なんにもないって言うのもおかしいと思うんだよね。じゃあ本能って言えばいいかっていうと、本能って機械のプログラムと同じじゃん。
 心のかわりになるものを完全にゼロにして考えるのはおかしいじゃん。虫は虫なりに獲物を狙ったり、敵から逃げたり、けっこういろんなことしてるんだからさあ、『今後の検討材料』ってことで、空欄にしておくべきなんじゃないの」
 浩介が言うと、「つまり、由香里みたく『ボーッと』しておくってことだ」と綾子が言い、綾子は話をちゃんと聞いていた。私は球場にいる自分たちのことを思い出した。球場にいると何千人という人間が群れをなして、同じテンポでメガホンを叩き、同じときに立ち上がって歓声をあげる。私がそれを言うと、浩介が「虫じゃん」と言い、私は、
「そこに自由が訪れるんだよな」
 と言った。
「自由? あんた、自由っていう言葉の定義を間違ってないか?」
「自由なんだよ」
「じゃあ、虫も自由ってことになっちゃうんじゃないの?」
 それはわからないと私は言った。なぜならもしかしたら「自由」というのは人間にしか使わない概念かもしれないからだ。
「それって人間至上主義じゃん」
 いやむしろ、自由にこだわる人間だけが不幸なのかもしれないが、人間を他の生き物と別にしているということでは「人間至上主義」とかわらないかもしれない。しかし人間には一つだけ他の動物と違うところがあって、それは自分のイメージを持つということだ。だから人間が他の生き物より優れているとかそういうことではなくて、自分をイメージするメカニズムがあることによって、生きるということが他の生き物と別の様相になるんだと私が言うと、浩介が、
「詭弁くせー」
 と言ったけれど、虫と人間を比較するなんて私もそれまで一度も考えてみたことがなかったので、こんなことしか考えつかなかった。それで、
「うん、詭弁かもしれない」
 と私は言った。つまりわからないのだ。しかしそうしたら南の窓に腰かけている森中が、
「それって一番キタナイですよね」と言った。
「『詭弁だ』って言われて、『詭弁かもしれない』って言われちゃったら、『本当かもしれない』って思うじゃないですか」
「どうして」と由香里が言った。
 私は「私はウソしか言わない」という話をした。「ウソしか言わない」と言っている人間が、「ウソしか言わない」と言ったら、ウソがウソだということで本当になってしまう。しかしその人間はウソしか言わないのだから本当であるはずがなくて、そこに大矛盾が生じる。森中はそういうことを言いたいんだと言うと、綾子が、
「つまらない」
 と言った。私も賛成で「つまらないんだよ」と言うと、森中が不満そうに、
「なんでつまらないんですか。おもしろいじゃないですか。よくわかんないけど。
 論理学の大問題だって、誰かが言ってたじゃないですか」
 と言った。
「じゃあ、その『誰か』に言わせとけよ」
 浩介に言われて、森中は「なんでそんなにおれが攻撃されなきゃなんないんですか。『私はウソしか言わない』なんて言い出したの、浅川さんじゃないですか。おれを攻撃しないで浅川さんを攻撃してくださいよ」と言っていたのだけれど、そこでまた由香里が「どうしてそんなにつまらないの?」と訊いてくるから、「ほら」と森中はうれしそうな顔に一変したのだけれど、
「ただの言葉遊びじゃない」
 と綾子が、抑え込むような調子で言った。綾子としてはそんな強い意図はなくて、ただ「聞きたくない」という程度のつもりだったのだろうが、そのまま口にするからいつも響きが増幅されるのだけれど、綾子がそう言うと森中が、
「わかった。佐藤さんだ」
 と言った。
「——あいつ、そう言えばそんなことばっかし言ってましたよねえ。簡単な話をごちゃごちゃ屁理屈言って難しくして、おれたちのこと見下してましたよねえ。ヤなヤツでしたよねえ」
「じゃあ、おまえちゃんと会ったことあるんじゃないか」
 と、浩介が言うのを聞いて笑ってしまった。さっき森中が「論理学の大問題だって、誰かが言ってた」と言ったとき、私は当然ヴィトゲンシュタインとか日本の誰か哲学者とかそういう人を指しているんだと思っていた。しかし森中はとんでもなく身近な具体的な知り合いを指していたのだ。
 浩介はそれがわかっていて「その『誰か』に言わせておけ」と言ったのだろう。そして綾子が意外にも鈍く素早く反応したのも彼らの同じ会社にいた「佐藤さん」というヤなヤツが原因だったのかもしれない。しかし浩介は、
「佐藤なんかじゃないよ」
 と言った。綾子も「あんな人のこと思い出させんなよ」と言った。森中は、
「佐藤さんのせいにしといてくださいよ。いいじゃないですか。ここにいないんだから、いくら悪口言ったってかまわないじゃないですかあ。そうじゃないとおれのせいになっちゃうじゃないですか」
 と、まだ言い返していたけれど、浩介が、
「佐藤の悪口なんか聞こえないところで言ってももったいない」
 と言った。
「いつもケンカしてたじゃない」
「じゃあ、本人を前にして悪口言ってたの?」
 と由香里が訊くと、綾子が「言いまくりだったよ」と言った。
「意外でも何でもないだろ?」と私は由香里に言った。その「佐藤さん」というのが浩介の先輩なのか後輩なのか上司なのか知らないけれど、浩介は誰に向かってもズケズケ言いたいことしかない。
 それはともかく、「私はウソしか言わない」みたいなことは論理に厚みがなくて、同じ平面でウソと本当を循環させているだけの、一種のトリックなんだと私は由香里に言った。「私はウソしか言わない」も「私は本当のことしか言わない」も、現実の場面にあてはめて考えてみれば、何かの言い逃がれとか答弁のような特殊なシチュエーションしかありえない。状況全体を覆うようなときにこんな命題を使うことはありえなくて、こういう思考が意味を持つとしたら、数学とかコンピュータの言語くらいのものだろう、というような私の説明を由香里は三分の一くらいはわからないような顔で聞いていたけれど、
「でも人間も変わるよね。
 虫みたいかどうかわかんないけど」
 と、綾子が急にさっきの蝉なんかのときの話に戻した。こういう話を少しでもしみじみした調子でしゃべると、「人間も変わる」というのがいまの「佐藤さん」の人格に関わるようなことを連想させるだろうけれど、綾子の口調にはそういうところは全然なかった。しかし由香里の年齢ぐらいではやっぱり人格に関わる問題に聞こえたはずで、由香里は森中の方に向けていたからだをまた綾子の方にひねって、
「そうですよね」
 と言った。
「そうかなァ。
 おれは変わらないと思うけどね」
 と浩介が言った。私は「変わると言えば変わるし、変わらないと言えば変わらない」と言いながら、自分でも笑ってしまった。
「——蝉だって土の中と外で、全部がそっくり入れ替わるわけじゃないじゃん」
「え?」
「だって、そうじゃん。
 形も中の体液循環の仕組みとかも変わるかもしれないけど、生まれてから死ぬまで個体としては同じじゃん」
「え? わからない」由香里はしつこく喰いさがった。
「だから、途中で他の個体と入れ替わるわけじゃないじゃん。
 もし蝉に心があったとして、いろいろ考えたり感じたりしてるとしてさあ。土の中は土の中で居心地がいいとか、ちょっと場所を移ろうとか考えてるとしてさあ。
 外に出ちゃったら、土の中のことなんか全然忘れちゃうと思うんだよね。木から木に飛び移って、木の汁吸って、『自分はそういうもんだ』って、昔のことなんかすっかり忘れて外の世界を生きてると思うんだけど、でも、ほかと入れ替わったわけじゃないじゃん。
 生まれてから死ぬまで、ずうっと一匹のその蝉じゃん」
 浩介は「その蝉」のところに力を入れたが、やっぱり由香里は「?」という顔だった。浩介の話は堂々巡りでもうこれ以上は伝えられそうもなかった。それで私の方を見て、もっとわかりやすい説明を聞きたい顔をしたが、私が浩介の言いたいことを理解していたとしても、私にも浩介以上の説明の仕方が見つけられなかった。せいぜい言えるとしたら、遺伝子は生まれてから死ぬまで変わっていないとか、土の中でも外に出ても持っている遺伝情報は同じということぐらいだったが、それでは浩介が言いたいことを歪めるような気がしたので、「浩介以上に言えないなあ」としか言えなかった。森中は「メチャ混乱しますよね」と言い、綾子は「二、三日したら社長も別の言い方思いつくんじゃないの」と言うだけで、由香里は「???」のままで、浩介は何故伝わらないのか歯がゆがった。話題の中心の蝉は外でずうっと鳴いていた。

 蝉の鳴いている中で浩介の会社は開店休業状態がつづいていて、一週間か十日早く夏休みにしてもかまわないような感じだったけれど、浩介は旅行に関心がなく、森中は旅行をしたくても金がなく、綾子はダンナの夏休みに合わせることになっていたので、結局三人ともこの家に毎日「出勤」してきていた。由香里は秦野にいる理恵の姉さんつまりお母さんから早く帰ってくるように言われていたけれど、帰りたがらず二日に一度くらいの割りで大学や高校の友達と会っていて、理恵の夏休みに「叔母さんと一緒に帰る」と言い出した。理恵の実家は小田急で秦野からそのまま行った先の箱根湯本だからついでに私も行って温泉にでもつかって、三匹の猫の世話をアルバイトで森中にでも任せて(ちょっと心配ではあるけど)などと考えていたら、お盆の休みに墓参りをしに英樹兄が泊まりにくることになった。
 英樹兄の家族は奥さんの真弓さんと息子の亮太と直也の四人で、去年のお盆休みには全員で実家であるこの家に戻ってきて、私と妻で引き継ぎのようなことをして、猫のことも英樹兄の家族に任せて私と妻は鎌倉の私の実家から箱根湯本の妻の実家に一晩ずつ泊まったのだけれど、今年は亮太と直也が高校三年と中学三年で夏期講習があるので英樹兄が一人で来ることになって、そのかわりというわけでもないけれど、直子姉と幸子姉が二晩泊まりに来ることになった。清人兄だけは家族で旅行に行くというので来られなかった。
 最初に来たのはせっかちな直子姉で、直子姉は「お昼すぎくらいに行くね」と言っていたのに、十一時に私が猫のトイレの砂を買いに出ているあいだに着いてしまって、そのときこの家には浩介がいた。浩介はどうしても片づけなければならない仕事が急にできて出ていたのだけれど、私が入り口に止めてある赤のゴルフの脇に自転車を止めて玄関に入っていくと、「あ、今度は本物の高志だ」
 と言って、直子姉がゲラゲラ笑い出した。直子姉は玄関に立っている私を見ながらケイレンするほど顔を歪めて手をぶらぶらさせて大柄な体を折って笑って、まだ笑いがおさまらないうちにしゃべり出した。
「あたしが来たら、そこに浩介君がいて、『どうもいらっしゃい』って言うのよ。
 あたし、てっきり高志だと思ってるから、『何を他人行儀なこと言ってんの』って言って、そっちまで行って、『いい柄じゃん』って、浩介君のアロハの袖口つまんで、『茶髪なんかにしちゃって』って言って髪の毛つまんで、眼鏡もかけてるから『老眼はまだ早いよ』って言ったら——、
 何てったっけ? 名字」
「川上だよ」
「そうそう、『浅川さんじゃなくて、川上です』って言うから、びっくりしてよく顔を見たら、高志じゃないじゃないよ」
「全然似てねえじゃん」と私は言った。
「似てないわよ、全然。でもしょうがないじゃない。高志だと思い込んでるんだから」
 いくら思い込んでいても浩介と私は全然似ていないんだから間違えようがないのだけれど、それを堂々と間違えられるのが直子姉で、直子姉は伯母の通夜のときも、「それではご親戚の方からお焼香を」と言われた途端に、「ハイッ!」と言って立ち上がって、直子姉の性格がわかっているみんなは恥ずかしいからではなくて笑いを我慢したために顔が真っ赤になった。中華料理店に入って、「ラーメン」と言ったつもりでチャーハンを注文して、「はい、チャーハン」と置かれて、「アッ!」と声を上げるのだが、言い間違いに気づいたからではなくて、「すごいラーメンだと思ってびっくりした」なんて言っている。
 道を歩いていたら一万円札が落ちていて、拾ってみたら印刷ミスで表が刷ってなくて、裏返したら裏も全然刷ってなくて、つまりただの紙切れだったというバカバカしい話があるけれど、そういう間違いをする人間が実際にいて、それが直子姉なのだ。
 しかし「川上です」としか名乗っていないはずの浩介のことをどうして「浩介君」なんて知っているのかと思ったからそれを言うと、浩介が「そうだよね」と相槌を打つのと同時に、
「え? 浩介君じゃないの?」
 と直子姉が大きな声をあげた。
「知らないのになんで知ってんのさあ」
「じゃあいいんじゃない。浩介君なんでしょ」
「だから直子姉ちゃん、なんで知ってんのさあ」
「高志、前に電話で言ってたじゃないの。あたしが『あんな家に夫婦二人じゃ淋しいねえ。よく怖くないもんだねえ。あたしだったらダンナと二人でなんか絶対住まないよ』って言ったら、『友達の浩介ってやつの会社が引っ越してきたから、にぎやかなもんだ』って言ってたじゃない」
「ああ、そうか」と私は安心した。せっかちな直子姉が、私が「浩介」と発語する近い未来の時間を先取りしてきたのではないかなんて馬鹿気た想像が私の頭をかすめた。いくら直子姉がせっかちでも、未来の時間に行ったり来たりしていたら困る。冗談にならない。直子姉は浩介を見て、
「さんずいに『告げる』に、屋根書いてタテ棒二本の『介』でしょ」
 と言い、私を見て、
「ね、ちゃんと全部憶えてるでしょ」
 と言った。
「『屋根書いてタテ棒二本』なんて言い方、あったんですか」
「いま考えたの。わかりやすいでしょ。
 でもよかったわ、あなたが浩介君で。浩介君じゃなかったら、二重の人違いだもんね。
 あ、そうそう。途中でお寿司買ってきたから食べましょうよ。五人前買ってきたから足りるでしょ。え? 『なんで』って、お寿司の一人前なんて全然足りないじゃない。高志、あんたなんか、お雑煮のお餅、毎朝十枚ずつ食べてたじゃない」
「それは中学のときだよ」
「ホントかよ」
「ねえ。中学だって十枚も食べないわよ、普通。
 麦茶かなんか冷えてるの? 熱いお茶沸かそうか? あ、冷えてるの。あ、その前にクーとココとミケ見なくちゃ。この家は外出してないのよねえ。うえ階上?」
 私が返事をするより前に直子姉は北側の廊下のようなスペースを通って二階に上がっていってしまい、私が遅れて行こうとすると、
「強烈なキャラクターだなあ」
 浩介が笑ったので、この兄弟は四人ともみんなそうだと私は言った。お通夜で「ハイッ!」と言って立ち上がってしまうのはさすがに直子姉ぐらいのものだけれど、特別に仲のいい英樹兄と幸子姉はその横で、伯父が浮気したときの話をまわりの親戚どころか読経しているお坊さんにまで聞こえそうな声で話して笑っていた。うちの親戚にはそれを注意するような人もいないのだが、それはともかく、伯父が浮気したとき伯母は怒って伯父の前で110番に電話して、「うちの亭主を逮捕してください」と警察に言ったのだ。警察が相手をしないでいると伯母は今度は電話に出た警官に向かって、「あなたねえ、バカにしてますけどねえ、私が怒って浮気相手を刺しでもしたらどうするんですか。犯罪を未然に防ぐのが警察の本当の仕事でしょ」と文句を言い出して、伯父が困って受話器を伯母から取り上げたのだけれど、恥ずかしいやら恐縮しているやらで、伯父は「私がその浮気した堀内祥造と申しますが」と、名前を名乗ってしまったというのだ。
「もうラテン系だな」と浩介が言った。
 伯父も伯母も山梨で生まれ育った。親戚中どこを探してもブラジル移民だって一人もいないけれど、たしかにラテン系のように外向的なのだ。思ったことをしまっておくことができなくて何でもその場でしゃべってしまう。
 と、そこまで話して直子姉のところに行こうとしたらもう降りてきて、
「いたいた」
 と言った。
「—— 一番太いカラス猫がココで、くっついて寝てたキジトラがクーよね」
 ミケは三毛猫だからわざわざ言うまでもない。直子姉はうちの猫をいまはじめて見たのだけれど、私の話からだけで全部憶えていた。人や猫の名前を憶えるのが妙に得意で、それがあたり前だと思っているから、直子姉は「あなた」とか「あの人」とか言わずに必ず固有名詞で呼び、そそっかしいから呼び間違えるためになおさらそそっかしく見えてしまうのだ。
「——やっぱり、片目って痛々しいわね。ミケ自身は気にしてないんだろうけど。昔いたミーコは子どもにパチンコでやられて片目つぶされちゃったけど、すぐ気にしなくなったもんね」
「そんなことあったの?」
「高志がまだこの家来る前だもん。あたしが小学校三年とかそんなものよ。人間のお医者さんに連れてったけど、塗り薬くれただけでね。でも十年以上生きたよ。あの頃、十年生きたら立派なものよね。
 そんなことより、クーは太郎にそっくりだわね」
「そんなの、いたんだ。憶えてないな」
「そうよ」直子姉は急に力を入れた。
「——高志、小さい頃は猫と一緒になってあたしを取り合うから、猫とは敵同士だったんだもん。
 遊ぶとしつこく遊ぶからすぐ引っかかれて泣いて」
 そこで浩介の方を見て笑った。
「——でも太郎は頭も性格もいい猫だったよ。クーを見てると本当に太郎がいるような気持ちになってくるわよ。連れて帰りたくなっちゃう」
「ダメだよ、連れてっちゃ」
「高志、鎌倉帰ればいいじゃない。
 お盆だし、叔母ちゃん待ってるよ」
「山梨行くって言ってたから待ってないよ」
「あ、そう」
 直子姉は台所に行って、寿司の取り皿と麦茶を持ってきた。直子姉が買ってきたのはシュークリームでも生の魚でもなく、無事、寿司で、それを三人で食べ終わって少ししたところに、英樹兄と幸子姉が、広島から来る英樹兄の新幹線に名古屋から幸子姉が待ち合わせて乗って二人で揃ってやって来て、玄関に立った二人を見るなり、もうすっかり打ちとけていた浩介が、
「アヤシー」
 と笑い出した。
 幸子姉は縁がすごく広い帽子をはす斜に被り、真っ直ぐで長い髪をユダヤ人かギリシャ人のように漆黒に染めてサングラスをかけ、英樹兄は赤い地に大きな花がプリントされたアロハに白のパンツをはき、鼻の下に髭を生やして銀のネックレスをしてカンカン帽をかぶっていた。幸子姉は胸で止めてそこから上が剥き出しの○○○と揺れるようなスカートにサンダルで、二人ともどこかのリゾートにいるような格好と言えば、まあそういうことなのだけれど、浩介が「アヤシー」と言うように、「この二人は何者か」と思ってしまうと、自分ではサーフィンをしないサーフショップの経営者か派手な格好をしたがるプロゴルファーとその情婦というような感じで、いまでは三人の中で一番東京にちかい所沢に住んでいる直子姉は広島と名古屋から来た二人を「田舎者ォ」と言って笑っていた。
 笑っている直子姉の方も髪に赤のメッシュを入れて襞がたくさん入った巻きスカートをはいているのだからとにかく、場所や時代を超越して派手な格好をしたがる兄弟なのだけれど、幸子姉はサングラスを外して近視の目を細めて、玄関から居間に向かって身を乗り出すようにして浩介を見て、
「え? 誰?」
 と、硬張った顔で直子姉と英樹兄を交互に見た。
「浩介だよ。
 ここで会社やってるって言ったじゃん」
 と私が言うと、
「あー、そうか」
 と一気に表情が緩んだ。
「あー、びっくりした。あたしはまたお父さんの隠し子でも出てきたのかと思っちゃった」
「いたって、いまさらのこのこ出てくるわけないじゃないか」
 何でも勝手に解釈する人たちというのは、そういう瞬間だけ頭の回りが速くなるというおかしな特性を持っているものだけれど、上がってくると今度は私に、
「あんたが幼稚園のときにあたしが、高志の本当のお父さんは『武志お父ちゃん』じゃなくて『祥造お父ちゃん』だよって言ったら、びっくりするかと思ったら喜んじゃってね」
 と言った。父がふだんいなかったので、私は父と伯父の両方を『お父ちゃん』と呼んで、名前で呼び分けていたのだ。
「あった、あった。——こっちがあわてて『ウソだよ。祥造お父ちゃんに言っちゃダメだよ』って言っても聞かなくてね。
 それで高志、お父さんが帰ってくるのを外で待ってて、『祥造お父ちゃんがお父ちゃんだったの?』って言って、あたしたち三人が怒られたことッ」
「『子どもになんてこと言うんだ』ってな、俺たち三人を晩めし抜きで廊下に二時間正座させて——」
「そしたら、見なれないことやってるから高志がまたうれしがって、横に一緒に正座したがって。
『バカ。姉ちゃんたちはいま怒られてるんだぞ』って言われたら、
『おれにもさせてくれ』って、泣き出して——」
「お調子もんだったよな。こいつは」
 清人兄だけは小さいので免除されたのだ。もう何度も聞かされたこんな話を兄弟三人でなんで逐一するのかと言えば、浩介という聴衆がいるからだ。まあ、新しい聴衆なんかいなくても誰か一人が昔話をはじめると、二人のどっちかがそれを受けてつづきしゃべるのが清人兄も含めたこの兄弟の特徴というか性癖だけれど、聴衆がいればなおさら喜々としてしゃべる。親戚がみんな集まっていれば、ほかのいとこ従兄姉たちも負けずにしゃべる。伯父や伯母たちも三十年前は同じようにしゃべくり合っていたけれど、いまでは自分の子どもたちに役割を譲って、「バカ話ばっかり」という顔で笑って聞いている。だから英樹兄はしゃべりつづけた。
「お調子もんのくせに泣き虫でな。
 幼稚園に入ったばっかりのときに誰かにたきつけられて一つ上のケンちゃんっていうガキ大将みたいなのにケンカふっかけて頬っぺたはたかれて泣いて帰ってきたんだよ。そしたら何かで俺がちょうど学校休んでてさあ、俺の胸にしがみついてきてエンエン泣くから、『誰に泣かされたんだ』って言ったら、誰とも言わずに俺の手ぐいぐい引っぱってってケンちゃんが遊んでるところ連れてって——」
「あ、ケンちゃんって、警官になった梶山の弟の——」と、幸子姉が思い出し、浩介が「ローカルな話だなあ」と私に言った。
「そうだよ。あいつの弟だよ。ちょうど兄貴の方を俺が生意気だからって思いっき頭叩いた次の日だよ」
「じゃあどうせ、英樹ズル休みしてたんだよ。学校行ったら先生に怒られると思って」と、今度は直子姉が割って入った。
「それはそうだよ。いまでこそいっちょ前に胃がもたれるだの体がダルイだの言ってるけど子どもの頃、病気なんかしたことないもん。俺なんか小学校四年くらいからズル休みだらけだからね」
 幼稚園の年少組だったということは英樹兄もまだ小学五年生だったと、私は浩介に言った。
「英樹がズル休みしてたら、先生が見に来てね。
 バカだから、布団敷いて寝てたふりすればいいのに、屋根の上、逃げて」
 直子姉が笑い出したら、幸子姉も思い出して「ああッ」と言って一回手を打った。
「『おこらないって約束するまで降りない』って、兄ちゃんが上でいきまいてたら、近所中から人が集まってきた」
「それで結局オヤジが帰ってきて、思いっきりビンタされて、顔がはれて、みっともないからまた次の日休んだ」
「それでケンちゃんの方はどうなったんですか」と浩介が言うと、「ああ、そうか。そっちの話か」と英樹兄は本筋を思い出した。
「ケンカなんかは、俺がケンちゃんに向かって、『今度こいつを泣かしたら俺がただじゃおかないぞ』って、おどして一発だったけど、問題はそのあとだよ。
 次の日に俺が念のため送ってってやるって言って、自転車で幼稚園まで乗せてってやったら、こいつ味をしめて、『今日も』『今日も』って言って、聞かなくなって——」
 結局一カ月ぐらい英樹兄は幼稚園に私を置いてから小学校に行くはめになった。
 と、そんな話をしているといつの間にか一番上のクーが二階から降りてきていて、玄関で英樹兄の革靴の匂いを嗅いで、そのうちに体をこすりつけはじめていて、英樹兄はそれを見つけると、
「ダメだよ。高い靴なんだから」
 と言った。「これは何て名前?」幸子姉が訊くと、私より先に直子姉が「クー」と言った。
「チロにそっくりでしょ」
「そんなの忘れたな」
「英樹に言ってない。そっくりでしょ、幸子」
「そうか。見るなり、なつかしいなあって感じがしてると思ったら、チロか。ホント、そっくりだね」
「チロに兄ちゃんのばっかりやられてると思うと、悔しくなるよね」
「おまえのサンダルなんか革じゃないんだから、やるわけないじゃんか」
「クー、あたしの足の方がいい匂いだよ」
「こいつは最初っから俺を気に入ってるんだよ。ほら、クー、こっち来い」
「犬じゃあるまいし」
「あ、来た」
「な。誰が一番優しいか、ちゃんとわかってるんだ」
 と言って、英樹兄はクーの顎の下を指先でひっかくように撫でた。
「英樹兄ちゃんの匂いがこの家に残ってるんじゃないかと思うんだよ」
 私が言うと、「でも他の二匹は寄ってかないんだよね」と浩介が言ったけれど、直子姉が、
「でも、クーはチロにそっくりだからね」
 と言った。
「チロはアタマよかったねえ」
 同意する幸子姉に「猫はしょせん猫だ」と英樹兄は言ったけれど、直子姉と幸子姉の二人はなんだかじんときて、すでにちょっとうるうるしているみたいだった。感情の起伏が激しくて唐突なのもこのきょうだいの特徴なのだけれど、
「ねえ、チロとそっくりでアタマがいいから匂いがわかるってこと?
 それとも、クーがチロの生まれ変わりだから、英樹兄ちゃんの匂いがわかるってこと?」
 と、私が言うと、直子姉は一瞬きょとんとした顔になってから、
「おんなじことじゃない」
 と言ったのだけれど、私の「生まれ変わり」という言葉に「バカ」と言っている英樹兄の横にいる幸子姉が、
「生まれ変わりだったら、兄ちゃんの匂いなんか嗅ぐわけないじゃない」
 と言った。
「——兄ちゃんなんか猫可愛がったことなんか、一度もないんだから。チロの生まれ変わりだったら、真っ先にあたしのところに来るに決まってるじゃない」
「幸子より私だよね、チロ」
 とクーに呼びかけた直子姉はやっぱりクーとチロを混同していたが、チロと呼ばれたクーは英樹兄の足の指に熱心に体をこすりつけていた。
「生まれ変わってみたら、姉ちゃんや幸子より俺が一番優しい人だと、わかったってことだ」
「じゃあやっぱり、クーはチロの生まれ変わりなんですか」
「浩介、キミも社長のくせにバカだねえ。生まれ変わりなんかいまの時代にあるわけないじゃないか。え? 社長がそんなこと言ってると、社員が路頭に迷うよ」
「そんな会社じゃないから心配いらないよ」と私が言っていると、「でも一度だけ私見たって言ったじゃない」と直子姉が言い出した。
「何を」
「私が短大行ってた頃、お風呂に入ろうと思ったら、風呂場のタイルに人が映ったのよ。それで『キャーッ!』って近所中に聞こえるくらいの声で叫んで、裸でここまで駆けてきたことあったじゃない。
「ああ、あった」
「俺はいなかったな、きっと」
「いたわよ。『姉ちゃん、乳首が黒いな』って言ったじゃない」
 直子姉は自分で話をずらして自分でバカ笑いした。
「『姉ちゃんの乳首が黒い』なんて、いつも言ってたからな。俺は忘れました」
「あたしはこの歳になっても、きれいなものだよ」
「そのかわり幸子のオッパイなんかろくに膨らんでないじゃない」
「そんなこと聞いてないよ」と私は言った。
「いいじゃない。もう、こんなこと言うチャンスないんだから。
 ねえ」と幸子姉が直子姉に同意を求めていると、
「だから、どういう風に映ったんですか」と浩介がまた話を戻し、「そうよ」と直子姉は言った。
「お風呂の洗い場のタイルにね」
「タイルって床のことか」
「え? そう。壁じゃなくて床。床にね、映画のスクリーンに映るみたいに、大きく女の人の後ろ姿が映って、それが、こう、ゆーっくり、すーっと私の方に振り返って——」
「それじゃあ、こんな大きい顔か」と英樹兄は顔の両脇に持っていった両手を一メートルくらいの幅に広げた。
「そうなのよ。
 それくらいの顔が、すーっと私に振り返ったのよ」
 私は初耳だった。
「全然怖くなさそうなところがリアルですね」
「怖かったわよ。だから『ギャーッ!』って、叫んだって、言ったじゃない」
「それでみんなに乳首見せちゃったんだ」
「高志、あんたなんかチンチンに毛が生えるまで、わたしや幸子と一緒に風呂入ってたじゃない」
「黒いかどうかまでは憶えてないけどね」
「浅川さん、そんなに入ってたんだ」
「でも、直子姉ちゃんのオッパイは大きいのに幸子姉ちゃんの小さいってことは憶えてるな」
「あんたが一番言ってるよ」と幸子姉が言った。
「はい。もう言いません」
「それで他には、誰も一度も見たことないんですか」
 と、浩介は金田一耕助のように一人まじめだったけれど、「見るわけないじゃないか」と英樹兄が言った。
「じゃあ英樹。わたしの見たアレは何なのよ」
「俺に訊いたって、知るか、そんなもの」
「探究心がないわねえ」
「でも、あれからしばらく、あたしは姉ちゃんと一緒に入ってたよね」
「そうよ。清人はお母さんとしか入らなくなるし。英樹は入ったと思ったらすぐに出てきてたじゃない」
「で、浅川さんは美人姉妹に囲まれて入ったわけ?」
「おれはもう鎌倉だよ」
 ここに住んでいたのは幼稚園までだったから、私が引っ越したとき直子姉は十六で高一。英樹兄が十四で中二、幸子姉が十三で中一、末の清人兄は十歳で小四だったと言うと、
「そんなもんだった?」
 と、幸子姉が直子姉を見て、訊かれた直子姉が、
「じゃあ、そうなんじゃないの?」
 と言うと、浩介が私を見て苦笑した。そして、
「そんなもんなのかなあ」
 と言った。
「何がよ」直子姉が訊いた。
「たまにしょっちゅう霊を見るって言う子がいるでしょ。そういう子はたいてい、平然と『見た』って言うから、霊とかそういうのって、実際に見ちゃったら、けっこう怖くもなんともないのかなと思ってたんですけどね」
「怖いに決まってるじゃないよ」
「ということは、姉ちゃんが見たのは霊じゃないってことだ」
「何言ってるのよ。しょっちゅう見るっていう子の見てるのが、霊じゃないってことじゃないのよ」
「でもさっきも、おれと浩介を間違うくらいだからなあ」
 英樹兄と幸子姉にさっきのことを言うと、二人は笑って聞きはしたけれど、まあ毎度のことだから少しも驚きはしなかった。そして幸子姉が、
「でも、いくら姉ちゃんでも、タイルを人間と見間違ったことはないよね」
 と言った。
「あたり前じゃないのよ。犬とだって間違ったことなんかないわよ」
「大かた外のネオンサインがタイルに映ったぐらいのことだよ」
「ネオンサインなんかどこにあるって言うのよ。
 英樹、あんたって、ホントになんにも考えないわねえ」
「思い出した」と幸子姉が言った。
「——ほら、夏休みの宿題で朝顔の観察日記が出たことあったじゃない。
 そしたら、自分じゃ何もつけずに『俺は大丈夫』って言ってて、子ども心に『何が大丈夫だ』と思ってたら、姉ちゃんの二年前のノートを表紙だけ貼り替えて学校持ってって、ページが黄ばんでるからすぐにバレて——」
「あった、あった。二年生のときでしょ」
「忘れたな」
「都合の悪いことは何でも忘れるんだから」
「だいたい何でそんな話がいま出てくるんだ」
「兄ちゃんがなんにも考えないっていう話じゃないの」
「でもあんなの序の口だったわよね」
「まいんち廊下に立たされてたんだからね。『堀内の兄ちゃん、また立たされてる』ってそのたびにあたしはからかわれて——」
「わたしだってそうよ。『おまえの弟はいつも立たされてる』って。たまに立たされてなかったと思うと、ズル休み」
「それで次の日は学校行くとさあ、『堀内、またズル休みだろッ』って決めつけて立たすんだからな」
「だって本当のことじゃないのよ。ねえ」
「まあ、勉強なんかしたくてもできる環境じゃなかったな。
 昔はそういうことがまかり通ってたってことだ。な、高志。ちゃんと聞いとけよ」
「そんなこと聞いて、どうすんだよ」
「教科書が書かない日本史だ。
 じゃあ、親不孝の息子と娘で、お墓参りに行くぞ」
「まったく気が早いんだから」
 と言った直子姉はすでにバッグを手に持って立ち上がっていて、それを見て笑った幸子姉も縁の広い帽子を持って立ち上がっていた。
「早く行かないと蚊にくわれるぞ」
「高志も行くんでしょ」
「行くよ」
「あたり前じゃないか。こいつなんか、祥造お父ちゃんと伯母ちゃんが残してくれた家に住ませてもらってるんだから」
「じゃあ浩介君も一緒に来なさい」
「え? ぼくはちょっと」
「ハイキングみたいで気持ちいいわよ」
「今日中にやらないとならないんで」
「仕事の虫なんだってさ」
「でも仕事なんかしてなかったじゃない」
 と言いたいことを言うと、三人揃ってせっかちなきょうだいはいっせいに玄関に降りて、瞬間的に妙に混雑した玄関で「おまえの足がじゃまだ」「兄ちゃんこそ手がじゃまよ」などとわいわい靴をはきはじめた。


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