◆◇◆『カンバセイション・ピース』(初稿)A パターン(その4)◆◇◆


 それで綾子が言い出した庭の猫が子猫を産むかもしれないという話なのだが、ただ綾子の頭をちらっとかすめただけの可能性 だったものが、森中の心にどういうわけかリアリティを生みつけたらしく、森中は一週間たってもそのことを、いつものぐちぐち、ぶうぶうという調子でしゃ べっていた。しつこいとか執念深いというのとは少し違って、なんだか子どもが一つのことをいつまでも気にするような感じで、おもにゆかりに向かって、
「でもさあ、もし本当に子猫が産まれたら、やっぱりその子猫が死なないように面倒みてあげるもんでしょ?
 なんでそれが無責任なの?」
 と言っていて、ゆかりもそのつど、
「だからあ、そういうことじゃなくて、子猫のうちだけ『かわいい、かわいい』って言って、大人になったら『知りません』だったら、かわいそうな野良猫が増 えるばっかりなんだってば」
 と言うのだけれど、それに対して森中は、
「じゃあ、子猫を見殺しにしてもいいわけ?」
 と言ってみたり、
「野良猫は本当にかわいそうなの?
 そんなこと言ったら、アフリカの野生の動物はどうなるの?あれもかわいそうなの?」
 と言ってみたりして、ゆかりの言いたいことが全然わかっていなかった。
 いまどきの基準ではゆかりが正論で、森中の方は特殊な考え方なのは間違いないが、個人の考えである分だけ森中には強いものがあって、正論のゆかりはだん だん自信がなくなってきたらしく、綾子に言っても、あんなやつの言うことほっときなよと言われるだけで、二階にあがってきて、私と浩介に向かって、
「森中さん、あたしにばかり言うの、やめてほしい」
 と言った。
「森中のしゃべるのは独り言だと思って、聞き流してればいいんだよね」浩介が言った。
「だって、全部聞こえちゃうもん」
「でも綾子は返事しないだろ」
「だって、綾子さんもそういうところは変わってるし」
「だから、ゆかりがした階下の部屋で勉強しなきゃいいんだよ」私は言った。
「だって、みんな誰かと一緒なんだもん。内田さんはいつも浩介さんと一緒だし、綾子さんと森中さんも一緒だし」
「【おじさんたちは二人で、人生の陰翳を噛みしめてんのさ。】(【 】の部分は赤二本線で消してある)じゃあ、ここで勉強してもいいよ」
「階下がいい」
 と、ゆかりはこのあいだの理恵とそっくりな笑い顔を作って見せた。
「ま、とにかく、ゆかりは森中を納得させられないわけだ」私は言った。
「だって、すごい頑固なんだもん」
「あいつの考え方を変えるのは不可能にちかい」浩介が言った。「あいつは自分で感じたことしかしゃべらないから、変えられないんだよね」
「じゃあ、森中さんの感じ方を変えるしかないってことじゃないですか」
 と言っていたら、北の畳の間を歩く森中の足音が聞こえて、足音はそのまま階段を上がってきた。ミケが一瞬ピクッと耳を動かして頭をあげた。ミケは北の窓 のつき出た手摺りではなくて、窓の下の壁と畳の直角になったところに寝ていて、寝場所の移動はこのあいだまでより少し涼しくなったことを表わしているが、 森中はまだ相変わらずアロハシャツで「暑いっすねえ」と言って、定位置になっている南の縁側の窓の敷居に腰かけた。
「なんだよ」浩介が言った。
「なんだよって、仕事ですよ。おれがここにあがってくるのなんか仕事に決まってるじゃないですか。内田さん、笑わないでくださいよ。
 ゆかりがこっち来て、おれが来たから、沢井さんの言ってた子猫の話をおれがしに来たと思ってるんでしょ。しませんよ、そんな話。
 ゆかりの言うのって、クラス委員みたいだから、やっぱりおれの考えは伝わらないんだってことがよくわかりましたよ」
「クラス委員」と言われてゆかりの顔が一瞬曇ったが、森中はしゃべりつづけた。曇ったというのはいかにも曖昧な形容だが、ゆかりの顔は本当に曇った。曇っ たとしか言いようがなくて、「弾んだ声」とか「沈んだ声」と同じように、顔が曇るのも物理的に確認できる反応なんだと思った。しかし森中にはまったく気に していなかった。
「おれ思うんですけど、ゴキブリが出てくるじゃないですか。そうするとスリッパとか丸めた新聞とかで叩いて殺されるじゃないですか。そういうときいつも、 人間の前に出てきたやつだけが殺されて、出てこないやつは殺されないんだから、出てきたやつは運が悪いなあって思うんですよ」
「何が言いたいんだよ」浩介が笑いながら言った。
「もう秋じゃないですか」
「いま『暑いっすね』って言ったばかりじゃん」また浩介が言った。
「暑くたって秋は秋じゃないですか。おれだっていまここにすわっててこんなに暑いけど、そのわけは秋になって太陽が低くなったからだってことぐらいわかっ てますよ。小学校の理科じゃないですか? そんなこと。八月はこの場所は日陰だったんですよ。秋になって太陽が低くなったから、この場所が陽があたるよう になったんですよ。だからもう秋なんですよ。もうじき秋分の日ですよ。
 秋になるとおれだっていろんなこと考えるんですよ。弱いやつらのこととか考えて、かわいそうだなって思うんですよ。いいじゃないですか」
 何の話かわからなくなったが、三人とも黙って森中にしゃべらせていた。ゆかりももうクラス委員と言われたことは忘れて、半分あきれて半分楽しんでいるよ うな笑いを浮かべていた。
「ゴキブリもそうだけど、この家にだってネズミだっているかもしれないじゃないですか。ミケとかクーとかネズミ捕りそうもないし。
 でもネズミがいるかいないかなんて、人間の前に出てこなかったらわからないじゃないですか。人間の前に出てきたらいることになって、出てこなかったらい ないことになってて、天井裏で電線かじって漏電とかになったら別だけど、悪いことしなかったら、ネズミがいたとしてもいないことにしておいて、全然かまわ ないわけじゃないですか。
 だからネズミが本当にいるかいないかっていうことと、人間がネズミがいるって言ったりいないって言ったりするのは、全然違うことじゃないですか」
 浩介が大げさに「うん、うん」と頷き、つられてゆかりと私も「うん、うん」と首を大きくタテに動かした。
「おれいま一人で住んでるじゃないですか。で、おふくろとか親父とか生きてるって思ってるけど、何分か前に死んでたとしても連絡が入るまでおれはおふくろ とか親父のことを生きてるってずっと思ってるわけじゃないですか。
 おれが高校のときにつきあったレイカって女だって――」
「レイカ? どう書くんだよ」浩介が言った。
「『カレイ』の『レイ』に『カレイ』の『カ』ですよ」
 ゆかりが吹き出した。
「かわいかったんだから、笑うことないじゃないすか」
「そうじゃなくて、『華麗の麗に、華麗の華』がおかしかったの」
「え? 何が? 変ですか?」と、森中は浩介と私を見たが、私は「つづけろよ」と言った。
「レイカってやつとつきあったんだけど、おれもレイカもきっと、たまに思い出すときに、十年前の高校生だったときのレイカとおれのことしか思い出さない じゃないですか。本当は二人とも十才ずつ歳とってるし、もしかしたらすげえ太ったりしてるかもしれないじゃないですか。
 おれなんか高校の頃、もっとずっとやせてましたよ。レイカだってどうなってるかわからないじゃないですか。でも、思い出すときは高校生のときの姿じゃな いですか。
 二人がそれぞれのイメージの中で、高校生の姿のままっていうのもすごいなあと思うんだけど、もし二人が新宿とか渋谷とかで偶然ばったり出会ったら、なん かこう、別々だった世界が(と言って、森中は両手で風船を持つようにして左右に二つの円を作って見せた)、こう重なり合うわけじゃないですか。ていうか、 すごく重なるわけじゃなくて、少し重なるわけじゃないですか。会わなかったら全然別々じゃないですか――」
「おまえレイカちゃんと会ったのか?」浩介が言った。
「会ってないですよ。全然会ってなんかないですよ。(「仮定をしゃべるとは思わなかった」と浩介が私に言ったが、森中には聞こえていなかった)
 そういうことじゃなくて、おれの世界とレイカの世界が重なるみたいに、人間の世界とネズミの世界が重なったり、沢井さんの言った子猫の世界とおれたちの 世界が重なったりする瞬間が、あるとき突然くるわけじゃないですか。でも全然そういう瞬間が来ないかもしれないじゃないですか――」
 と、そこで森中はしゃべるのを休んだ。三人は黙ってつづきを待っていたが、森中はしゃべらなくて、森中の話がそこで終わっていたことが、三十秒くらい 経ってわかった。
「しかし、森中の話は混乱してるなあ」
 私が言うと、ゆかりが「キャハッ」と笑ったが森中は「しょうがないじゃないですか、難しいことなんだから」と言った。「難しいことだよ」私は言った。 「困ったことに難しいことは難しくしか言えないんだよな。すっきり言おうとすると、一見うまく伝わるように見えるんだけど、心の中にあるのと別のものに なって、本当に言いたかったことと違うものが伝わっちゃうんだよな」
「いいこと言ってくれますねえ。やっぱりおれのことわかってくれるのは内田さんしかいませんよ」
 と言って、森中は立ち上がって私の手を握った。
「バカか」と浩介は話からすでに降りていて、
「それで、森中さんは何が言いたかったの」
 と、ゆかりが私に言った。
「つまりねえ――、
 と、ここでおれが森中の話の要点をしゃべったら、森中に対する裏切りになるだろ?」
「だってねえ」と、ゆかりは浩介を見たけれど、浩介はギターを抱えて下を向いて弦をチューニングしていた。私は言った。
「野良猫を不妊手術して、極力子どもを産ませないようにしようっていうのは今の主流の考え方だけど、そこに行き着くまでに人は野良猫といろいろな関わり方 をしてきたわけだよ。
 その過程で森中みたいなことを考えてたやつもいて、もし野良猫には不妊手術をしようという考え方が、正しいっていうか最大公約数っていうか最小公倍数っ ていうか、とにかくある程度みんなが納得できる考え方なのだとしたら、森中の考え方もいまどきの公式見解の中で反響しつづけてるんじゃないかと思うんだ よ」
「いいこと言ってくれますねえ」と言って、森中はまた私の手を握りにきたが、ゆかりはよくわかっていない顔をしていた。
「だからね」と私はつづけた。「現時点の公式見解だって、あくまでも現時点の公式見解なだけで最終形ではないわけだよ。
 最大公約数的な考え方に当面括られてはいるけれど、それと完全にイコールではない考え方がその中で響きつづけることで、見解が更新されるわけだろ?」
 ゆかりはしゃべっている人間を真っ直ぐに見るのが特徴で、私の話がひと区切りつくまで私の顔を真っ直ぐに見ていて、それから「ねえ?」と森中を見た。
「森中さん、いまそういう話してたの?」
「えっ?」
 と、森中は口を開けてとんでもなく間抜けな顔になって、人差指で自分の顔を指して、私を見て、浩介を見て、ゆかりを見た。
「どうしちゃったんですか」
「いまおれがしゃべったの?
 いましゃべったの、内田さんだったんじゃないの?」
 このバカバカしいリアクションが冗談か本気か理解しかねた。ゆかりは変なものでも見てしまったような顔で私を見た。浩介はブルースを小さな音で弾いてい て、森中の発言で一瞬手が止まったが、あえて無視するような顔でつづきを弾きはじめていた。そのうちに、「おれ思うんですけどね」と森中がしゃべりはじめ た。
「人間って、いっつもいろんなことしゃべってるじゃないですか、おれだけじゃなくて。すごくどうでもいいこととか、けっこうちゃんとしたこととか、なんで もかんでも一緒にしてしゃべってるじゃないですか。
 でも本当は誰に向かってしゃべってんだろうって思うんですよね。さっきおれ、ゴキブリとかネズミの話したじゃないですか。ああいう話してるときって、 どっかの会社行ってホームページのコンテンツの話したり、ランのつなげ方の話してるときよりずっと充実してくるじゃないですか。なんかこう気持ちが盛り上 がって、『本当の話してるんだ』って思うじゃないですか。でも、ああいうとき本当はおれは、ここにいる内田さんとか社長とかにしゃべってるんじゃなくて、 ゴキブリとかネズミに聞こえるようにしゃべってんじゃないかって思うんですよ」また三人とも黙ってしまった。
「変ですか?」
 と言って、森中はまた人差指で自分の顔を指して、私、浩介、ゆかりと順番に見た。反応がないのでもう一回、私、浩介、ゆかりの順に見た。
 私はさっきと別の意味で返答に困った。私だけでなく三人とも顔には薄笑いが浮かんでいたが、少なくとも私はある種の真理を突かれた気分だった。それで言 葉を探していると、一人で長い時間いられない綾子があがってきて、
「あっ、沢井さん」
 と、森中は自分の顔に向けてまだ力を緩めていなかった指を綾子に向けて指した。
「また、そこにすわってる」綾子が言った。
「きのう見てたら、そこのニオイをクーが一所懸命嗅いでたのよ。きっと森中の汗が染み込んじゃってるんだよ」
「いいじゃないですか。そんなもの猫にしかわかりっこないんだから」
「いつか人間にもわかるよね」
 と言いながら、綾子は綾子の定位置になっている北の窓のすぐ脇に脚を伸ばしてすわった。
「すごいですね」
 と、ゆかりが何かを発見したときみたいな、パッと明かりがともったような顔になった。
「森中さんがいつもそこで、浩介さんがそこで、綾子さんもいつもそこで、あたしもだいたいいつもここでしょ。(ゆかりは部屋のほぼ真ん中に置いている折り 畳み式テーブルの綾子の側にすわる。)
 みんなのニオイが染みちゃうってことですよね。
 サーモグラフィって言いましたっけ? 人の姿が温度の色つきでボオッと出るやつ。ニオイのああいう機械があって、みんなの姿が出てきちゃったりしたら、 スゴイですよね。
 浩介さんは一番長くいるから色が濃くて、森中さんと綾子さんが同じくらいで、あたしが一番薄いの。
 ねえ、じゃあ、内田さんはどうなるんですか?」
「どうなるんですかって」私は言った。
「だって内田さんだけ椅子だから、足の裏しかついてないんだもん」
「臭いだけですよ」森中が笑い出した。
「バカだな。足の裏にはからだ全体のツボがあるんだから、同じなんだよ」
「ホントですか? それ」
 黙って聞いていた浩介が笑い出したが、綾子はちょっと険しい顔で横で寝ているミケの前足の肉球をいじっていた。
「そう言えば前に浩介さんが言ってましたよね」ゆかりが言った。「誰かが席を立った直後にそこを写真に撮ると、その人の残像がうっすらと写ることがあるっ て」「ホントですか? それ」
「いかれた写真家が言ってた話だよ。
 物理現象は奥が深いから、いろんなことが入り込むんだよね」と、浩介が言った。
「ニオイの話なんかより全然すごいじゃないですか」
 森中は興奮していた。ゆかりが私を見て「ニオイの話ホントにしちゃってる」と言ったが、興奮している森中には聞こえていなかった。
「もう何でもありじゃないですか。超々高速度撮影とかしたら、現在とちょっとだけ過去の二つが写って人間の動きがダブッて見えるってことですよね」
「ちょっとだけ未来も写ったりしてね」
「それもすごいじゃないですか。『こうしよう』っていう意志がなかったら、動作っていうのはないんだから、ちょっとだけ未来だってありえますよね」
「その写真家は物理現象を言ったんだよ。それは心理現象じゃないか」
「心理現象だって突きつめれば脳の中の物理現象だから同じじゃないですか」
 綾子ははじめのうち険しかった顔がだんだん情けなさそうに変わっていて、私はどうして綾子がいるときにかぎってこういう話になってしまうんだと思った。
 この程度の話にいちいち動揺する綾子も極端は極端だけれど、それはたぶん一人一人の言葉とそれが喚起するイメージの相関によるもので、綾子の場合には言 葉とイメージにあまり距離がなくて、リアルにドドっと流れ込むのではないかと思うが、それはともかく、浩介も綾子の反応はちらちらうかがっていて、ゆかり と森中でオカルト寄りになりそうな話の展開を、物理現象に限定しようとしていたが結果は話を煽るだけだった。しかし考えてみれば話の発端は綾子が汗のニオ イが染み込むと言ったからだった。汗のニオイが床や畳に染み込むという発想が、ゆかりの中でサーモグラフィのような残像のようなリアリティを作り出したわ けで、原因はやっぱり綾子の、言葉とイメージと身体または感覚との関係と言えなくもなかった。
【ニオイで思い出すのは、】(【 】の部分は赤二本線で消してある)ココがまだ子猫でクーもまだ若くていたずらばっかりしていた頃のことだけれど、クーが 荷造りの紐で遊んでいたらそれがからだに絡みついてしまったことがあった。暴れれば暴れるほど紐が絡みついて身動きがとれなくなって、全身で転がり回りは じめて、音と変な唸り声で私と妻は気がついたのだが、クーはすでに人間が手を出せないくらいのパニックになっていた。それでも手を傷だらけにして何とか紐 をほどいてクーを自由にしたのだけれど、暴れていた台所の床からオシッコとは別な変なニオイがして、子猫のココがそのニオイのするところに行って、背中の 毛を逆立てて、床でなくてニオイが漂っている空間に向かって「シャーッ」と威嚇しはじめた。そのままほおっておくとココまでパニックになりそうだから、台 所のドアを閉めて洗剤で床を念入りに拭いたけれど、それでも二、三日はココはその場所に行っては背中の毛を逆立てていた。
 綾子の言葉とイメージと身体の関係を見ていると、あのときに背中の毛を立てて空間に向かって「シャーッ」と威嚇していたココを思い出すけれど、うしろに いる綾子が見えていないゆかりは「心霊写真もそういうことだったんですか」と言った。
「心霊写真なんか信じてちゃまずいでしょ」
「信じてるわけじゃないけど」
「でも一枚だけ絶対ヤバイの、見たことあるんですよ、おれ。友達の姉さんがカレシと旅行行ってホテルでエッチした翌朝の写真なんですけど、窓ガラスにはっ きり子どもの顔が写ってるんですよ。小学校一年とか二年ぐらいの子どもの顔なんですけど――」
「森中、おまえ仕事の話しにきたんじゃなかったの?」
 浩介が割って入ると、森中は「あ、そうそう」とあっさり話を中断した。
「ブロック別のあれですけど――」
 と言って、森中は左手に持っていた紙を浩介に渡した。森中がいままでずうっとこの紙を左手に持っていたことに気がつかなかった。しかし確かにずうっと左 手の先でヒラヒラしていたような気がする。
「これとこれがダメってことか?」
「ダメなんですけどね。あれってギャラがいいじゃないですか。ですからね――。
 あ、沢井さんがいるんだから、あとは沢井さんお願いします」
「自分で言いなよ」
 一瞬、綾子が上司か先輩社員の顔に見えた。それともさっき険しいのから情ないのに変わった顔が、元に戻る中途の険しさだったのだろうか。しかし森中が仕 込まれた犬のように「はい……」と答えたので、やっぱり仕事の顔なんだろうと思った。森中は窓に戻っていて、そこから、上体を伸び上がらせて、浩介が手に 持っている紙を見えるわけがないのに覗き見るようにしながら、
「松山会場の中村先生は単純にスケジュールが埋まってるからダメで終わりなんですけど、福島会場の本田さんは、自分はダメなんだけど、いま東北大の助教授 をしている渡辺ゆうじさんっていう人がいて、英雄の雄に政治の治って書くんですけど、その人が適任だからその人を紹介するって言うんですよ」
 と言った。
「そんなの、綾子の仕事じゃないか」
 今度は浩介が上司の顔になった。森中は綾子が言い出さないのを確かめてから、「おれが電話とっちゃったんですよ」と言った。
「あたしが今朝庭の水撒きしているあいだに向こうから電話かかってきちゃったのよ」
 浩介は面倒くさそうな顔で私を見て、「後輩とか教え子を紹介したがるやつって、厄介なんだよね」と言った。
「右寄りの人って、身内に手厚いんだよな。外に向かって厳しいこと言うんだけど、子どもとか親戚には甘いんだよ」と、私は言った。
「教え子は、身内に入んの?」
「さあ、難しいところだな」
 私が言うと、浩介は「なんだろうね」と言いながら面倒くさそうに立ち上がって、階下に降りていった。
「綾子は行かなくていいの?」
「浩介さんが行ったから」
「おれたち、もうほとんどワークシェアリング状態ですよ」
「でも給料もらってるんだろ?」
「もらってるんですよね、これが」
 そういえば給料の計算をしたりしているのも綾子だった。


(以上、455頁10行目から477頁11行目まで)


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