◆◇◆風景に出会うこと◆◇◆ 
「GRAPHICATION」No.183 2012年11月発行 特集「哲学からの問い」

 私は昔から友人たちから、「いつもぐだぐだ何か考えてる」と言われてきた。「いつも何か考えてるくせに何も答えにたどりつかない」とも言われてきた。それはもうまったくそのとおりなのだが、テレビドラマなどでよく出てくる、一日中ものを考えている学者が言う、
「ドーナツの穴は何のためにあるのだろうか?」とか、
「ドーナツの外の部分を食べたら、残った穴はそれでもまだドーナツの穴≠ニ言えるのだろうか?」
 みたいなことは考えたことはない。それから、「すべてのクレタ島人はウソつきであるとクレタ島人が言った」という命題は本当かウソか? みたいなこともおもしろいと思わない。
 これと少し似たことに見えるかもしれないが、フィクション(虚構、作りごと)をフィクションとして成り立たせている前提が激しく揺さぶられる瞬間にはものすごく気持ちを掻き立てられる。だからたとえば、精神病院に入院している患者が、
「先生、私のベッドの下にワニがいるんです。私は怖くて一睡もできません」
 と、さかんに訴えていたが医者は睡眠薬を出すぐらいで相手にせず、何日後かに医者がその病室に行くと件の患者はもういない。医者が看護士に、
「ここにいた患者はどうしたの?」
 と訊いたら、
「あの人はワニに食べられました」
 という話は好きだ。
 こういう劇的な話はあいにく日常では出会わないが――と言いつつ、年に一度か二度起こる信じがたい事件や事故に人はこの話と同じ感じを抱いているのかもしれないが――、デイヴィッド・リンチの映画には、私はこの話とよく似た、あるいはもっと激しく、私自身の基盤を揺るがされる何かを感じる。リンチについては他のところでいっぱい書いたし、丁寧に書いたらものすごく長くなるので繰り返さないが、リンチの映画は喩えて言うと、小津安二郎の『東京物語』のラストシーン間近の笠智衆が見ている尾道の朝の空に突然UFOが飛んでくるようなものだ。『東京物語』に突然UFOが舞い降りたら、観ている人はどう考えたらいいのかわからない。
 UFOが飛んでくる映画はいくらでもあるのに、『東京物語』で飛んでくるはずがないとみんなが思っている理由は何か? 「ものすごくリアルな映画」とか「衝撃的な映画」とか言うけれど、『東京物語』にUFOが出現したら「衝撃的」という言葉すら観客は忘れるだろう。そして「リアリティーがない」と言うかもしれないが、もしいつか本当にUFOが地球に来るとしたら、それは『東京物語』に出現するようなものだろう。
「リアル」と本当に人が衝撃的に感じる出来事というのは、いわゆるリアリティーを破壊する瞬間であり、フィクションに対して「衝撃的」とか「リアル」とか言うとき、人はある安定を前提としている。安定というのは、フィクションを受容する=フィクションを成立させている演算式があって、その演算式それ自体が揺さぶられたり破壊されたりすることはない。
 認知症になった俳優が台詞がどうしても憶えられなくなって困惑するという芝居があったとして、俳優がそういう認知症の演技をするのなら観客は安心して観ていられるが、本当に少し認知症がはじまっていてところどころで台詞が出てこなくて実際に舞台の上で困惑していたら観客は困る。「こんなの、芝居じゃない」と、あたり前のことを口走るだろう。しかし、そういう観客は、芝居の何を指してリアリティーと呼んできたのか。
 小説というフィクション作成者である私の関心はここにしかない。と言うとさすがに大げさだが、関心の中心はここだ。
 誤解しないでほしいのは、私は悲惨な話を書きたいと言っているわけではない。昔の私小説のように自分の貧乏や罪をいくら赤裸々に綴っても、それを綴っている作者の位置はフィクション作成者としては揺らがない。
 フィクション作成者としてフィクションを作ることでフィクションを作る基盤のようなものが揺らいだり、そこに亀裂が入ったりするというのはどうすることか。フィクションの受け手がそれを受容したことによってそれまで自分が受け手として享受してきたフィクションは「なんと安定したものだったことか!」と、現実に向かって思い、それ以来自分とフィクションとの関係が激変するフィクションとはフィクションがどうであることか。

 フィクションへのこの問いが哲学とどうつながるのか? または響き合うのか? 私自身にとってはいまやこの問いを考えることそれ自体が最上位の哲学、というか思考の最優先課題なのだが、それを急に言っても共有できる人は少ないだろうから、回り道をしよう。
 人にとって哲学とは何なのか?
 たぶんその答えは二つなんだと思う。一つは思考の権威を得ること。もう一つは真理に出会うこと。一つ目の思考の権威を得ることはいかにもくだらないが、半分くらいの人が哲学を(哲学について)語るときには、自分がこれから言うことがどれだけ哲学的な正統性の裏付けを持っているか、ということばかり考えているように見える。「カントはこう言った」「ヘーゲルがこう言った」「それはデモクリトスの時代から言われている」。その人自身は、この世界があることの驚きを経験したことがあるのか、私は全然わからない。もっとも、それら先人たちの思考を演算式を操るようにして操ることで、ついにはある真理に出会うことが可能であると言うなら、それもありかなと思うけれど――人が言語によって思考する存在であるかぎり、どれだけ書物を嫌って自分自身の体験だけを信用していると言っても、先人が遺した言葉(フレーズ)を一つも使わずに考えることも体験することもできないのだろうから――、そういうことから私の関心はどんどん離れている。
 二つ目の、真理に出会うことにしか私は関心がない。一つ目の人は「それは哲学でなく悟りだ」と言うかもしれないが、そんなことはかまわない。
 それでその真理なのだが、真理とはどういうものなのか? 秋の晴れた日の午後、友人と二人で井の頭公園の池の端のベンチに腰掛けて、ビールを飲みながら話をしていた。平日だったが人は案外多く、池にはあちこちにボートが浮かんでいた。四時を過ぎて陽が傾きはじめた頃、池の上をサーッと風が吹くと小さな波が風に沿って流れ、波がキラキラ、黄金色に輝く光を一面に反射させた。
 このような光景を前にすると、「これ以上何もいらないじゃないか」と思う。「毎日こういう光景を見ていられたらどんなに素晴しいだろう」でもいい。これが真理だとは言わないが、これは真理の入り口であると思う。
 ニーチェに永劫回帰の思想が到来したのは標高六〇〇〇フィートの山にいたときだ。「それはつまり、山の上からの光景が真理だったわけでなく、光景が思想へと至る触媒になったということだ」と言われるかもしれないが、私は、標高六〇〇〇フィートで真理に出会い、それを永劫回帰と翻訳したのではないかと思う。つまり、標高六〇〇〇フィートこそが真理だった。
『秘境西域八年の潜行』という本を書いた、第二次世界大戦(日中戦争)に諜報員として蒙古人になりすましてチベットに辿り着いた西川一三(かずみ)は、その本の中でヒマラヤ越えの途中ヒマラヤの峰々を見て「宇宙の真実を表わしている荘厳さと威厳」を感じたと書いている。重心は思想でなく風景にあるに違いない。風景に出会うことが一番大事で、人はそのとき「真理」や「真実」や「世界」を直観するのではないか。
 想像するに、「悟り」の瞬間というのは、世界にある森羅万象の営みを目撃ないし体感することではないか。自分がかつて目にしたものすべて、雨の直前にあらわれて一晩も生きずに消えてゆく羽虫から山の岩肌まで、それらがこれまでに経てきた時間とこれから経る時間の中における変化のすべてを体感する。それならば、虫たちの営みを来る日も来る日も見て飽きることを知らなかったファーブルは、その日々の総体が悟りなのではないか。経験していない、ファーブルでない人にわからせる言葉を探すことは意味がない。風景との出会いも森羅万象の営みを体感することも、当事者だけに与えられる出来事であり、非ー当事者にわからせることによって何か価値が増すわけではない。
 この原稿を書いていた最中に、私はまた外の猫が死んだ。二〇〇三年の十月には十一匹いた外の猫たちが、家の中で世話することにした一匹を除いて、これで二匹しかいなくなった。二〇〇三年の十月から私は毎晩エサを出すようになり、途中から昼にもたいてい出し、二〇〇九年くらいからは抗生物質をホタテの貝柱に入れたり、食欲がない猫にはマグロの切り落としやカツオの叩きを与えたりして、どんどん外の猫にかかる時間が増えて、自分の生活の重心が書くことでなく猫の世話をすることだと感じるようになった。猫は何も残さず死んでゆく、というそれは本当か。残すとか残さないとか、どういうことか。
 それが原因となっていないはずがないが、私は試行錯誤≠ニいうことを考えるようになった。
「パブロ・カザルスやジミ・ヘンドリックスのような奏者は、その人に先行するすべての名もなき人たちの音を鳴らす」
 というのが、私がまず考えついた命題で、次に書いて捨てられた反故(ほご)のことや書けずにぼんやりしている時間のことを考えるようになった。反故や書けずにいた時間が小説の厚みとなる。
 私たちはいまはまだあるいはいまはもう、作品や演奏という形あるものからしか、形にならなかった試みを感じることができないが、形として残らない試みが森羅万象の営みと同じく、この世界の中でいままさになされていることを体感することができたら、世界はどんなにスリリングでリアルなことになるのか。
 もしかしたらダンスはその先触れなんじゃないか。ダンスはいま世界で一番活気があり、ダンスは記録と再生の方法がどれだけ進歩しても、いま目の前で踊っているダンスのおもしろさを完璧に再現することはできない。まして自分で踊るおもしろさに再生など及びもしない。
 前半の、フィクション(の前提)の揺らぎうんぬんの話と後半の話がどうつながっているかどうともつながっていないかわからないが、いま私が考えていることはこういうことだ。二つはしかしきっと密接につながっている。