講演が始まってからおよそ30分ほどたった頃だろうか、
言語の自動化機能という話に至り、
保坂和志は「さんまのカラクリテレビ」の、
「ご長寿クイズ」の話を持ち出し、
【プロ野球チームで、『横浜・・・・』とくれば?】
「もちろん正解はベイスターズなんですけど、最初のおじいさんが
『中華街!』と答えちゃうんですよね。
で次のおじいさんが、『南京街!』って・・・・」
ここで、最前列に陣取っていた我がHP編集長「景都」が、
「笑い声の戦慄の鳴りわたる」みたいにしてバカ笑い。
すると、最前列の中央にいた山高帽のオジサンが、
すっくと立ち上がった。
それを見た保坂和志は、すかさず、壇上から、
「ほら、もう一人帰っちゃうんですよねぇ」
それを耳にしたオジサン、
「つまらん! 帰る!」と捨てぜりふを残し、
キャリーに載せた荷物ををガラガラと引きずりながら、
わざわざ中央通路を通って帰って行ったのでした。
果たして、景都のバカ笑いが気に入らなかったのか、
それとも、ご長寿クイズの話題がお気に召さなかったのか。
それにしてもあのプンプンオジサン、
講演のテーマ「ことばとことばの向こう〜」を、
知ってか知らずか・・・・。
わざわざ口に出して言わなくてもよいものを、
自らの行動予告として、
「帰る!」などという言葉を吐いたりして、
まさに、「ことばのこっち側」の人間なのであった。
この講演録を収録した『早大文学』21号(2001年春発行予定)の
予約を受け付けています。詳しくは早稲田大学現代文学会HP
http://www.geocities.com/Tokyo/7830/
をご覧下さい。
司会者:みなさま、本日は早稲田大学現代文学会企画講演会「小説家の閾──ことばと、ことばの向こう」にご来場いただきまして、誠にありがとうございます。現代文学会では毎年講演会を企画しておりますが、今年度は小説家の保坂和志さんをお招きしました。保坂さんの細かな経歴は、お手元のパンフレットをご覧いただくとしまして、ここでは少々時間をいただき、私たちが今回の講演会に込めた企図を説明させていただきたいと思います。
今日お招きした保坂和志さんは、様々な領域に対して言及されています。保坂さんの著作では小説や文学以外にも、例えば科学、宇宙論など、扱われる事象は多岐にわたります。そして、そこで保坂さんが描こうとするのが「言語化の領域」の問題、「ことばの向こう」の問題なのではないかと思うのです。 言語があるからこそ、人間は世界を<世界>として認識することができるのだ、というのが現代哲学における言語観の、一つの大きな潮流です。しかし一方で、言語よりも先に世界があるということも、私たちはリアリティを持って感じることができます。 世界が言語よりも先にあると言うとき、言語ではそれ以前からある世界を、完全に記述することは不可能になります。しかし、人間はその不自由な言語にやはり大きな部分を頼っているというのも事実で、不自由な言語によって思考していきます。その言語で、人間は何を考え、何を伝えることができるのでしょうか。 保坂さんは言葉で言い表せないものを言語化しようとします。保坂さんはこう言います。「小説とは別種のディスクールを用意することだ」と。ここで保坂さんが言われる「別種のディスクール」とは、いったいどのようなもなのでしょうか?それによって何が語れるのでしょうか?そして保坂さんが最近しばしば言及される「肉体」は、そこにどのように関わっていくのでしょうか? それでは私の話はここまでといたしまして、保坂さんにご登場願いたいと思います。保坂さん、よろしくお願いいたします。 保坂:えーと、この会場は暖房が入ってないらしいのでこれ着たままやったほうがいいですよ、と言われたのでこれ着たままやります。すみません。
で、ここからが本題です。
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三段階の同心円みたいなものを考えてください。一番狭いのが文学の言葉。それよりも広い同心円が普通の言葉です。文学に限らず、すべてのところで使われている言葉。で、その外にあるのが世界だというのを、非常に大雑把な図式でまず考えてみてください。
言葉というのはすごく閉じる傾向にあって、また自動的に運動してしまうような傾向を持っているんです。「さんまのからくりテレビ」という番組で、「ご長寿早押しクイズ」というのがある。あの中で年寄りがみんなとんでもない回答をするんですけど、たとえば「大魔神・佐々木のいるセ・リーグの球団は横浜・・・」という問題で、「ベイスターズ」と答えて欲しいのに、まず最初のおじいちゃんが「横浜中華街!」と言うと、次の人が「南京街!」って言うんですね(笑)。他の問題のときには「手塚治虫の有名なマンガのヒーローは鉄腕・・・」「太郎!」と一人の人が言うと、次の人が「二郎!」と言っちゃうんです(笑)。それからもう一つは、「夏目漱石の小説『我輩は猫である』の導入部、「我輩は猫である。名前は・・・」」というのでは、おじいちゃんが「タマ!」と言って、次の人が「ポチ!」と言っちゃうんですね。「ご長寿早押し」は十問のうち六問くらいの風景が映るんですが、これには全部法則があるんです。 あ、もう、一人帰っちゃいますね。 老人:つまらん! 保坂:すいません(笑) 老人:帰る! 保坂:期待してた話とは違ったみたいですね(笑)。で、その間違いの法則というのは言葉の自動的な運動なんです。「横浜」と聞いて「中華街」と言う。「中華街」と聞いた瞬間に「南京街」と言ってしまうのは、言葉自体が頭の中で勝手に動いてしまうんです。他に詩なんかでも韻を踏んだりしますよね。それも言葉の持っている面白さなんですが、普段でも韻を踏んだ言葉を聞くと面白かったりする。そういうのを洗練させていくのが文学だったんです。
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まず、ぼくの考えている人間像ってのは、基本的にはバラバラなものなんです。で、そのバラバラなものが何となく「私」のようなつもりでいるっていうところがミソなんですが。例えば記憶だと、記憶は脳の中にあるって考えがちなんですけど、確かに脳は脳なんですけど、ネクタイの結び方っていうのは、手を使わないと脳の中では再現できないんですよ。僕なんかはネクタイ無しで手だけでは、もう既に結び方を再現できないんですけど。今記憶の分類で「技の記憶」って言いますよね。で、その技の記憶っていうのは物との行為の最中にしか存在しないような記憶なんです。自分の頭の中だけにあっても、あんまり意味のない記憶とも言えるんですけど、それが一つ。記憶ってのは完全に脳の中にあるって言い切れるのかっていう疑問をいくつかこう、これから挙げてくわけですけど。
犬とか猫ってのは、経験したことを日だまりで昼寝しているときには全部は記憶してないし、思い出すこともないだろう、と思うんですね。ただ、危険な音を聞いたら記憶を思い出す。でも、危険な音なしに犬や猫が危険なことを思い出すことはまずないだろうと思うんです。それとか、危険な場所があって危険な場所に近寄らないっていう知恵も、知恵っていうか記憶も、犬や猫は持ってるけれども、その場所にいないときにそれを思い出すっていうことは犬や猫は多分してない。多分、絶対してないはずなんです。「絶対してないはず」って言い方はおかしいんですけど(笑)。それで人間ってのは動物の延長にありますから、人間にもそれが残ってるんですよね。で、どういう風に残ってるかというと、あの、慰霊碑ってのを立てるでしょ? 戦没者の慰霊碑とかって言って。それはあの、例えば沖縄のひめゆりの塔とかを、ひめゆり部隊のためのひめゆりの塔って言って。あと、交通事故の現場とかに、ガードレールに花を供えてあったりしますけども、それももし全ての記憶が脳の中にあるって完璧に言い切れるんだったら、現場に花を供える必要はないんですよね。全然。それは、どこか場所との何か独特の記憶の回路ってのがあるっていうことなんじゃないかと。 物だと、お父さんの形見の品、形見の万年筆とか形見の時計とかって言って、これだって、時計は時計なんで何でもないんです。お父さんが良く使ってたって言っても、何でもないっていうつもりになれば、ただの時計だって言えるんですよ。でも、それを「お父さんの時計だからこれは捨てられない」「お母さんの着物だからこれは捨てられないって」いうのは、何か物との関係の中に記憶があるんですよね。あと時間なんかでも、終戦記念日の12時に、高校野球をやめてみんな黙祷しするし、あと原爆が落とされた日に、8時何分とかにみんな黙祷するのも、それはやっぱり時間に対する、時間との関係での記憶っていうのが人間以前の過去にあったんだろうと思うんですね。動物的にあったからそれをいまだに引きずって、そういう風に考えそういう行事を続けるんじゃないかと思うんですね。 関係ないけど僕、今、「敗戦記念日」って言わずに「終戦記念日」って言ったんですが、僕が別に国粋主義者だから終戦って言ったわけじゃなくて、日本列島に住んでる人たちで、敗戦と思ってない人もいるでしょ? 在日の人とか、それから、もしかしたら沖縄の人とか、アイヌの人たちも、敗戦とは思わないで「ああ、やっとこれで戦争が終わってくれた」と思ったかもしれないわけで、その人たちもみんな日本列島に住んでる人たちだから、ぼくは敗戦って言う方がむしろ単一民族的な発想でよくないんじゃないかって最近思ってて、だから終戦って言うようにしてるんですけど、全然関係ない話ですが。 それで、記憶ってのは脳の中にホントにあるって考えていいのか? そういう風に考えるとどこかで何か計算の破綻が起きちゃうんじゃないかっていう感じがするんですね。僕は別に計算式とかは作らないけど。だから外との関係でやった方が、場所とか物とか時間とかに記憶をこう、預けるような感じに考えた方が記憶ってものの像がむしろちゃんとしてくるような気がするんですね。 あと、もう一個。僕が子供の頃に庭で遊んでいて、家の中に母がいるんですけど、庭で遊んでいる僕にとっては家の中にいる母っていうのは見えてないんですが、記憶の中では庭で遊んでいる自分のことも、家の中にいる母のことも、両方とも見えちゃってるんです。それを便宜上、記憶の「全知感」、全知全能の全知感というように、僕は自分で呼ぶようにしてるんですけど、記憶には自分が実際には見えてなかったはずのものも見えるように作ってることが多いわけで、これはだから科学的に考えるとすごくおかしくなってくるんですが、見えてないものも見えるように、記憶っていうのはつい作られるんです。それは意識して作ってるわけじゃないですから、思い起こそうとすると自然に見えてないものまで、例えば自分の後ろにあったものとか、あるいは自分のことを上から見ているように見えたりするっていうのは、それは記憶にとって何か必要があってきっとそうしてるんだと思うんです。あんまりこういう言い方をしてると宗教者みたいな誤解をされそうでちょっと心配なんですが、全然そういうつもりはなくて、むしろ僕は自分のほうがより科学的だって思ってしゃべってるんですけど、記憶の中を思い出すとき、何か必要があってきっとそうしてるんですよね。自分が見えてないものも記憶の中で思い出すときに見えてるっていうのを考えると、記憶を守る機能もきっとその中にはあるんだろうし、あと自分という人格を守るためにもそれは働いているんではないかと思うんですよね。 記憶についてはだいたいそういうことなんですけど。この記憶のイメージってのが、「記憶ってのは脳の中にだけある」っていうと、すごく自我をこだわってるように僕は感じるんですね。記憶は「物にあるんじゃないか」と言ってみたり。「自分を上から見下ろすようにもなっている」っていう風にして考えるほうが、現在の「「私」を保証するのは記憶だけだ」って考え方とかなり変わってきて。だから「私が死んでも世界はある」っていうことは、自我に対する強いこだわりをどうやって薄めるかっていうことでもあるんですよね、僕にとっては。自分の自我というよりも世間一般の自我ってことですけど。 それから意識の問題なんですが、意識ってのはこれを見て「コップ」っていうのは考えるより前に、もう思っちゃってるんですよね。意識してコップと思ったわけではないんです。意識する前からもう「これはコップ」って思ってるんですよね。これはもうほとんど視覚だけの話っていうか、さっき言ったボトムアップの考え方だと、丸くて上が開いてて下が閉じててっていうような、このコップっていう形状を部分で分解して考えてくんですけども、ある程度のところで視覚のストックから引っ張ってきて、こうファイルから出すみたいな感じで、「こういうものはコップ」ってひと目で思うようになってるんですね。これってボトムアップとトップダウンの関係なんですけど、その両方の機能を視覚がやってて「このコップみたいな形、こういう形って何だっけ」ってファイルを瞬時にして探して「あ、コップだ」って思うっていう、意識する前にそういうことはもうやってくれてるんですね。そこには意識は介在してないんですよ。そういうことは猫でも犬でもできるんですよね。 あと、映画を観てて、車が走っていく映像があってそこに「ギギギギギ」って音がすると「あ、タイヤの軋みだ」とかって思うんですけど、今は同録が多いけど基本的には映画ってのは、映像は映像、音は音で別々に録ってますから、それをくっつけるのがモンタージュで、車が走ってって「キキキキキ」って音がしたらタイヤの軋みだって思うのも経験的にそれが一番多いからそう思うんですね。車が走ってて「キキキキキ」って音がしたときに「あ、アスファルトが割れてき」たって思う人はいないわけなんですよ。アスファルトが割れるときに「キキキキキ」って音もしないわけだし、その判断というのも判断以前のものですけど、それも意識しないでやってるんですよね。意識しないで車が走ってく映像が映って「キキキ」って音がしたら「あ、タイヤから音がした」って思ってて、ついでに言っておくと、映画で車がこうやって走っていって「キキキ」って音がすると、音はほんとは両側から出てるんですけど、前から出ているような気持ちもしてて、それも全部意識以前のことがやってるんですけど。あとほかに、こうやって近づくと目を閉じちゃうとかっていう反射の機能とか、あと条件反射とか、そういうのも意識以前に全部起こってることで。 で、そうすると、意識ってのはいったい何なのかって思うんですよね。言葉も、だいたいユニットで入っちゃってるわけだから「人を見たら」と言われたら「泥棒と思え」とか、それが変な風にランナウェイすると「横浜」って聞いて「中華街」って言うような年寄りになってっちゃったりするんですけど。でもそれは基本的にはおんなじ機能で。言葉もユニットで入っていて、意識以前にだいぶ、ほとんどのことが自動的に起きてるんですよね。 それは、人間ってこの生体の反応の中で、これをコップと思ったり、画面と音をモンタージュしたりするってのは、全部独立に機能してるんですよね。それを例えると、オーケストラでそれぞれがこう、ヴァイオリンが音を出したり、チェロが音を出したり、トランペットが音を出したりっていう、それぞれのことがやっている。ものを考えるときにモデルってのが必ずあって、オーケストラっていう比喩をここで出してくると、やっぱり指揮者が必要なんですよ。つまり、「意識ってのは指揮者のことなのか」って、やっぱりつい思うんですが。世界中の音楽のことをよく知ってるわけじゃないんですけど、全部人から聞きかじった知識ですが、指揮者を使って演奏をするっていうのが、ヨーロッパに起源を持つすごく特殊な演奏形態なんですよね。 オーケストラってイメージをたとえば出してくると、どうしてもそれを束ねる指揮者みたいなものが必要になってくるんだけど、実はそうじゃない演奏形態ってのは色々あって。ジャズなんかのアドリブだと、目と目を合わせるだけで「じゃ、終わりにしようか」とか、もう一人が「もうちょっとやろうよ」みたいなことでやってたり、音の流れで「あ、そろそろ終わってもいいころかな」とかって誰かが思って目で合図するとかっていうのは、指揮者のやり方とはぜんぜん違うもので、インドネシアのガムランなんかでも、こういう立てたバイオリンみたいな弦楽器を真中へんで弾いてる人がいるんですが、一応それがリードしてるっていうことになってるけど、それはオーケストラの指揮者のリードのようなものでは全然ないっていう風な話を聞いたんですが。 意識っていうのは、ただそれぞれの生体に強く組み込まれた機能が独自に働いているときの、その状態のことじゃないかと思うんですよね。そういう機能を意識が束ねてるわけじゃなくて、世界を感知する、状況判断する力は意識しないで先に起きてることだから、僕が『世界のはじまりの存在論』のなかで意識のことを書いたときには、無事に音が鳴っているときに指揮者がただぽつんと立っているような状態、とにかく無事に音が鳴っている状態が意識で、特定の部位の問題ではなくて、ただそういう反応が色々続いてるときの状態でしかないんではないか。「でしかない」っていう言い方もちょっと変なんですけど。 そういうものなんじゃないかっていう、記憶と意識の二つの人間観・人間像を、僕はそのエッセイの連載で考えてて。で、これから書く小説ってのは、それに基づいたって言うと変なんですけど、そういう風に考えちゃったわけだから、そういう風に考えた人間が書くような小説がどういうもんだろうという風に、一応次の自分のやるべきことがわかってきたんですけど。記憶とか意識をそういう風に考えることが、たぶん「私が死んでも世界はある」「私が生まれる前から世界はずっとあった」っていう、そういうことを実感するのに近づける人間像なのではないかというふうに僕は思ってるんですけど。 なんでそう思ってるかっていうと、その辺の根拠は薄弱といえば薄弱だし、強固といえば強固なんです。「おんなじ自分が考えたから」ということなんです。矛盾しているようでもあるんですけどね。僕は普段はそんなにものは考えてないっていうか、考えてることしかしてないともいえるんですが、考えてないともいえるんですけど。少なくとも「私とは何か」みたいなことととかって、めったに考えたことなくて。今疑問に思ってることはどういうことなのかっていうと、だから「記憶っていうのは本当に人間の頭の中だけにあるのか」ってずーっと思ってると、慰霊碑とかガードレールの花とかって浮かんできて、「違うんじゃないの」って思うわけなんですけども。そういうモードに入ってるときのおんなじ人間が一応考えたことなんで、たぶんそういう記憶と意識の人間像っていうのが「私が死んでも世界がある」っていう感じときっとつながっているのではないかっていう。僕の予想でしかないんですけれど。 で、なんで『世界』で哲学みたいなことを書かなきゃなんなくなったのかとかっていうと、エッセイにも書いたことあるんですが、小説っていうのを、ただお話として読む人が多いんですよね。 あ、実は僕のホームページが8月からありまして、アドレスはですねぇ、http://www.k-hosaka.com/です。そこでメール小説も売ってるんですが、ほかにも読むとこは色々あるんですけど、そのホームページの運営費ってのは、メール小説の売上げしかないんですよ。だから、みなさんどうかメール小説を買ってください。そうしないとホームページが維持できなくなってしまうんです。忘れずに言えて良かった(笑)。 で、ホームページ読んでると、僕の小説読んでる人たちは、実は僕の小説をお話として読んでないで、もっと、結構リアルな感じとか、切実な感じとかで、読んでくれてて。ただそれはホームページでそういう意見を聞くまで僕はわかんなくて、文芸評論家とかの書いてるのってのは、結局小説を閉じた言葉の中で読んで、最低の文芸評論家ってのは出来の良し悪ししか言わないんですけど。そういう最低の人は論外として、でもそういう人もたくさんいるんですけど。その作品の中、小説の中で、人物がなんでそんなことにそんなにこだわるのかっていうことを、すごくはっきりと書かない限り、評論家ってのはそこを読まないんですね。だから、小説ってのがこういう風にしか読まれないんだったら、小説家ってのはもっとちゃんとものを考えてるんだってことを、読者に対して考えて見せなきゃいけないって思って、『世界』のエッセイを書いたんですけど、評論家以外の人はちゃんと読んでますね、小説を。僕の感じだと。で、思えばそういう風に読まない限り、小説なんてのは読まれるはずがないんですよやっぱり。だから、これは良いの悪いのとかっていう風な評価をしたくて読む人は職業人だけかなと思うような感じがしました。え〜、これで、話を終わります。どうも、ありがとうございました。 |
司会者:保坂さん、どうもありがとうございました。それでは会場の皆さんから保坂さんに質問をいただきたいと思います。質問のある方を挙手をお願いいたしいます。
質問者1:さっき唯我論の話が出ましたけど、唯我論の人たちが言う世界っていうのは、自分が死んだら世界もなくなるっていうときの世界、つまり自分が感じる自分だけの世界で、個人個人がそれぞれの世界を持ってるっていう意味の世界だと思うんですけど、そういう意味では自分が感じた世界がその人にとっての世界っていうのは、合ってるような気がするんですが。保坂さんが言うときの世界っていうのは、どっしりとしたひとつの真理みたいな、そういう世界っていう意味で世界と言ってるんですか。 保坂:真理というか、真理もへったくれもなくて、まさに「ある」世界ですよね。自分が感じるとか感じないを別にして、自分や自分以外の人たちにエネルギーとか情報を供給しつづけるもとですよ。宇宙。あなたのおっしゃるのは観測問題みたいなのに結構近くて、記述可能な範囲のものになってくるでしょ。そうじゃなくて、なんていうか、僕のお袋と、字を読めなかった僕のおばあちゃんといまの僕がおんなじ場所にいたとして、感じるのとは別に、ありますよね(笑)。 質問者1:具体的なイメージがわかないので、よくわかんないんですけど。 保坂:それ困るんですよね。それはやっぱり、イメージを伝えるために僕はもっと言葉を尽くさなければいけないんだけれど、いまは「だってあるじゃん」としか言えないんですよね。人が感知するから世界があるんじゃなくて、感知する以前も世界はあるわけでしょう。これは、たとえば言語哲学の人なんかと言い合いをしたら、ずっと終わんなくなってくんですよね。考えの立ってる場所が、相譲れないくらい違うものなんで、あなたが僕に対して論争を仕掛けようという意識とぜんぜん別に、それをわからないっていうのは当面いまの僕には伝えようがないんですよね(笑)。 質問者1:あの、論争を仕掛けたくてやったわけじゃないんですけど。 保坂:いやそれはわかってる。仕掛けようとしたらそんな質問の仕方しないわけなんで。ただ、論争を仕掛けようという人だったら、ほんとに相譲れないくらいに違うんだけれど、でもそれと同じくらいやっぱり、あなたと僕は違ってるんですよ。それが実感できないっていう人は、いまこの時点では少なくとも僕の思い描いているものとはかなり違ってるから、実感できないってのは、実感させられないんですよね(笑)。 質問者1:わかったようなわかんないような感じですけど、どうもありがとうございました。 保坂:いいえ、すんません(笑)。 質問者2:はじめまして。反射的に手を上げてしまったような感じなんですけど、これも、言葉のつながりというよりは、肉体的な反応みたいなものかもしれないですが。
保坂:えーとね、まあ、僕の答えは逆ですって感じなんですけど。 質問者2:そうじゃないかなと思うんですけど(笑)。なんでなんですかね、でも? 保坂:僕がエッセイで書くことが、難しいって言われることは多いんです。小説ならやさしく書くのに、エッセイはえらい難しいとか、そういう言われ方をすることが多いんですけども、一つ言えるのは、僕がエッセイで書いていることは、全部小説を書きながら考えたことなんですね。で、エッセイを書きながら考えることというのは、ほとんどない。ただ、今回一年間エッセイだけ書いてたから、どうしてもその中で考えざるをえなかったような流れになっちゃったんですけど、でも小説を書き出してみるとやっぱり、その十二ヶ月かけて書いたことが、もっと簡単に言えてるような気がするんですね。ただそれが、伝わりにくいんですよね。でも、とにかく僕のエッセイが難しいからといって、僕が同じ分量書くのにエッセイの方が時間がかかって、小説の方が時間が短いと思ってる人が多いんですが、それは全然逆で、エッセイは簡単に書いてるんですよ。
質問者2:次の作品を腰を据えて読ませて頂きたいと思います。 保坂:ありがとうございます(笑)。 質問者3:『エレキング』っていう雑誌で、水越(編注:水越真紀、評論家)さんと対談してたのが、すごい楽しみで読んでたんですけど。『エレキング』が休刊になっちゃったじゃないですか。で、ああいう感じの、エッセイでも小説でもなくて、毎月読める保坂さんの対談みたいなのは、今後やる予定とかないんでしょうか? 保坂:僕は、小説は、注文がなくても自分でやるんですけど、小説以外の仕事はすべて注文があるからやるという、受け身一方、ほぼ100パーセント受け身なんで、そういう話が来れば、やるかやらないかを考えるけど、話が来なければやらないんで、今んとこ来てないから、今んとこ予定はないです。
質問者4:世界と自分が、言語とか視覚とか聴覚で媒介されてるというようなお考えだったと理解したんですけど。密着してるっていうか、世界と身体というか、言葉だけがランナウェイしてくっていうような言い方されてたんですけど。その視覚とか聴覚とかと言葉との関係というのが、よくわかんなかったっていうか。金井(編注:金井美恵子、作家)さんとか笙野(編注:笙野頼子、作家)さんとかを「エクリチュール派」として一括されてたんですけど、あの人達は自覚的に、言葉が外から与えられてるってことを意識して書いてると思うんですけど。ああいう態度は、傲慢な態度と思われるんですか。 保坂:傲慢というかねえ。メタフィクションになりがちな人って感じなんですけど。やっぱりねえ、言葉の中にしか世界がない。ジョン・バースが、「小説というのは一つの世界を作りあげることである」という言い方をしたんですけど、そういう感じだと思うんですよね。まあ、今ちょっと関心がないんであんまりよく答えられないんですけど。とにかく、一応、書くことってのは破綻をきたしても、その先にあることの方を考えてないと、とにかく、うまく出来たものしか出てこないんじゃないかというのが、いまの僕の感じなんで。あんまり答えになんないですけどね。でもなってるか。 質問者5:えっと二つあるんですけど。まず一つが、保坂さんはどういう音楽を聴かれるんですかってことなんです。『エレキング』をやってらっしゃったんですけど、テクノはどうでしょうか? お聴きになられるでしょうか? あと二番目は、仕事の話が来たらやるっていう風にさっき言ってらっしゃいましたけど、これから映画の話とか何か来たら、されるつもりとかありますでしょうか。 保坂:はい。なんかね、ちょっと質問に答える前に。質疑応答してると段々僕が先生になってくような気がして。僕は別に、正解を考えてるわけじゃないというか、考えたことが正解だと思うからここで喋ってるわけではなくて。とにかく、なんていうか、僕のご先祖さんは足軽だったんですけど(笑)、大阪夏の陣のときに山梨から出ていって、それっきり帰ってこなかったっていうご先祖さんで(笑)。その後冬の陣が、逆かな? あったときに、帰って来ない旦那さんを追いかけて、奥さんがその軍勢と一緒に行ってしまって、子供だけが残されたっていうのがうちの系図のはじまりなんですけど(笑)。なんかねえ、僕は自分のやってることがすごくねえ、足軽のような感じがしてるんですよ。情勢を見ながら指揮をするとか、そういう立場の人間のことを嫌いだし、自分もなりたいとも思わなくて。とにかく、好きなのは足軽のように先走ってワーッと行って、運が良ければ生きてました、っていうような感じなんですね。だから、僕が考えてることを、正解とか何とかっていう風には思わないで下さい。
質問者6:保坂さんの名前を僕が一番最初に知ったのは、橋本治さんの講演をプロデュースしてる方って形で知ったんですけど。最新作の『生きる歓び』っていうのは橋本治さんの方にもおんなじような題名の小説があったと思うんですけど、その辺なんか意識してとかっていうのは・・・。 保坂:あ、それね、全然知らなかったんですよ。 質問者6:そうなんですか(笑)。じゃあ最近の橋本治さんの著作についてとか、なんか感想やどういう風に見てるとか。今日お話されて保坂さんと橋本さんの考え方に近いものがあるかなっと思ったんで、お聞きしたいんですけど。 保坂:橋本さんについては、昔は僕は大好きだったんですけど、93年ぐらいに『文藝』のインタビューで、ラシュディの問題だったか、それともラシュディを翻訳した五十嵐一って書いて「ひとし」って読むんですけど、五十嵐一さんが殺された問題に関してどう思いますかっていうアンケートがあって、それに対して橋本さんは「僕の見てないところで何があっても僕は知らないもん」っていうことを書いてて。それっきり僕の中での橋本治に対する関心はほぼゼロになってしまったんですね。それと前後して、僕は「私が死んでも世界はあるんだ」っていうことを考えるようになったんで、橋本治のあのアンケートの一言ってのは僕にとってはものすごい大きいものではあったんですよ。そんな感じです。 質問者7:こんにちは。私も二つ質問があるんですけど。まず一つは、先ほど「評論家は良い悪いで判断するからあまり好きではない」という話をされていましたよね。では評論家という人たちは、実際どういうものは良くてどういうものが悪いと判断されているんでしょうか。 保坂:もう僕は概念でしか評論家のことについてあんまり考えてなくて、文芸評論とかをほとんど読まなくなってしまったんで、具体的にいいとか悪いとか思い出せないですね。ただ、文芸評論家には明らかに二種類いまして。いい悪いだけを言ってる人というのと、すごく大げさな言い方をすると小説家と一緒に戦ってるっていう気分を持ってる人がいるんです。僕は作品の良い悪い、出来の良し悪しとかと関係なく、小説家はこういう風に考えてるんだっていうことを読もうとする石川忠司とか守中高明とか。彼らはそういう人ですね。福田和也っていうの一見そうでないようで、実はそうなんですよ。スガ秀美とか渡辺直己っていう人も点数つけたりするからそういう人と思われがちなんですけど、そうではないんです。ひどいのは、川村湊っていう法政大学の国際学部長になった人とか、それとよく似てるのは大杉重男っていう若い人とか、ホントに出来不出来でしか考えてない、っていうか読まない。彼らはホントに一緒に戦う気もないし。「戦い」って言い方変なんだけどでも、こっちが考えてることを一緒に考えるっていう気持ちがないような人は、僕はダメって言ってんですけどね。評論家が点をつけるとかいうと、それはすごく不遜な態度と思われがちなんですけど、点をつけるってことは評論家はものすごい危険を冒すわけです。自分の読みに対する評価を外に対してさらすっていうのもあるし、パーティーなんかで掴み掛かられるっていう二種類の危険を冒すわけだから(笑)。評論家ってはっきり物を言う人ほどいいんですよね。そんな感じなんですけど。(大塚英志の名前を出すのを忘れました。彼の『サブカルチャー文学論』(まだ出版されていないけれど)は、今後小説家は避けて通れない評論になると思います。) 質問者7:あの、最初の方にですね、物事を比喩にして考えるのはダメだ、とおっしゃいましたよね。保坂さんのおっしゃっている比喩というものはどういうものでしょうか。 保坂:人間の思考ってのはどうしても、ある程度モデルに置き換えざるを得ないわけですよ。オーケストラみたいなことみたいに。ただ、置き換えたっきり戻って来ない人のことを言ってんですよね。何にでも比喩は使えちゃうわけですよ。その比喩はどういうことかっていうと、ラカンの理論を日本の国民の意識の成り立ちみたいに、イデオロギーの成り立ちにそのまんま当てはめてしまうのを比喩的な思考という風に僕は言ってるんですけど。ラカンの理論は鏡像段階というものの理論であって、イデオロギーが作られるときは別の要因がいろいろあるんですよね。国民に頭頂葉はないわけですから。で、それをそのまんま置き換えるっていうのが比喩の思考という風に言っていました。 司会者:それでは、時間の関係もございますので、以上の質問で打ち切らせていただきたいと思います。もう一度保坂さんに大きな拍手をお願いいたします。 保坂:どうもありがとうございました。
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