暮れの休暇に私たち家族はメキシコへ旅行した。メキシコといってもカンクンなわけで、ここ二十年かそこらで人工的に作られたリゾート地なわけで、つまりは日本からグアムやサイパン辺りへ行くような類の家族旅行なのだが、とにかくどこでも良いから延々と薄暗い冬のミシガンから脱出したい、というただそれだけの理由で、旅行会社に勧められるがままに、要するに適当に決めてしまった旅行なのだ。 飛行機の出発時間が午前七時で、その二時間前にデトロイトの空港に着こうと思ったら、四時過ぎには家を出ねばならず、そんな時間に子供たちが起きられるはずもなくて、どうせ私と妻で寝ている子供をおぶって行くことになるんだろう、と覚悟していたら長女のみどりも次女のひとみも三時半にスパッと起きた。 三十分遅れが当たり前の我家としては予定外の予定通りの余裕のペースで、まだ真っ暗な中の空港に着き、荷物を預けて、搭乗券をもらったところで、「ところで」という感じでカウンターの金髪のおばちゃんが、 「お前らは全部で何人なんだ?」と訊いてきた。 「大人二人子供二人だが、一人はベイビーなので座席は要らん。膝に抱いて行く」と答えると、今度は、 「ベイビーは何歳だ?」と訊いてきた。 「先々週二歳になったばかりだけれど……」と答えながら、私は「あれっ?」という気がしたのだけれど、その気持ちが起こるのとほぼ同じタイミングで金髪はすかさず、というか案の定、というか、 「二歳以上は搭乗券が必要だ。抱いては連れて行けない。もう一度パスポートを見せろ」と捲くし立てて、私たち全員の搭乗券とパスポートを取り上げ、マネージャーと相談するからといい置いて、奥の事務所に引っ込んでしまった。 金髪と私のやりとりを横で聞いていた妻から「どうするのよ」といわれても、「やばいぞ」としか返せなかったのだが、当然のことながら、年末の休みの時期のリゾート地行きの飛行機などというものが満席なのは日本でもアメリカでも同じことで、九月十一日以降アメリカ人は遠出を控えるようになった、などというのもまあほとんど嘘で、実際私だってカンクン行きのこの旅行は三ヶ月前に予約したわけで、それでも予約のタイミングとしては遅かったぐらいなのだけれど、予約した時点ではひとみはまだ一歳だったから座席は必要なかったのだ。 そんな状況とはまったく関係なく子供たちは荷物を乗せる、もちろんいまは止まっているベルトコンベアーの枠の上を平均台のように両手を広げて、そろりそろり歩く遊びをしている。みどりは五、六歩まで歩いたところで前につんのめりそうになりながら落ちるのを繰り返しているが、ひとみは枠の上に立つだけで一歩も踏み出せない。 遊んでいる子供たちを見ながら私は、まあ結局最後にはなんとか一席確保できて旅行には行けることになるんだろう、という楽観的な思いと、でも、ああまた夫婦喧嘩の種だなあ、嫌だなあ、という面倒臭さが膨らんで来るのと混ぜ込ぜになって、それとは別の、変な気持ちの引っ掛かりが擡げて来ていることにも気付いていた。 何をいいたいのかというと、私はひとみの出産に立ち会っている。妻の出産に夫が立ち会うことは、立ち会わない夫は「人でなし」といわれるほど欧米では当たり前のことなのだが、人間が生まれる瞬間をこの目で見るというのはそりゃあ私個人にとっては大きな経験だったし、ひとみがここまで無事に育ってくれたという月並みな喜びはもちろんあるがそれはとりあえず置いておくとして、それとは別に、ベルトコンベアーの枠の上で遊ぶ子供たちを見ながらこのとき感じた気持ちの引っ掛かりというのは、子供が生まれて以降現実に起こったもろもろ、生まれた直後はやはり泣かなかったりだとか、妻が母乳をあげたりだとか、車に二つ目のチャイルドシートを取り付けたりだとか、成長してつかまり立ちしたり言葉を話したりだとか、ミルクアレルギーだということが判ったりだとか、上の子が着られなくなったお下がりを着せてみたりだとか、そしてついさっきは搭乗券が必要になったりだとかまで含めての一つ一つの記憶、というよりは事実が二年という定量で括られてしまうとそれはどこか変な感じがした、ということなのではないかと思う。みどりという存在そのものは既に膨大な過去を含んでいるはずなのに、「二歳になった」といわれた途端、その膨大な過去がボロッと抜け落ちたように感じるのはどうしてなのか。 隣ではやはりトラブルがあったらしく、アロハ、短パンに赤白サンタ帽という既に準備万端の黒人のおばちゃんが、なんだかまったく聞き取れないが、泣き叫びながら航空会社の職員と激しく言い争っている。 彼女の後ろには息子であろう高校生くらいの同じサンタ帽を被った男の子二人が、不安そうな、すまなそうな顔をして黙って立っている。私たちと同じように何かの手違いで搭乗券が足らないのだろうが、この隣の激しい言い争いがこの場の雰囲気を更に暗くしていたことは間違いないので、そんなに泣き叫ぶぐらいだったら旅行行ってもどうせ楽しくないからやめろよ、といってやりたかったが、当然いわなかった。 真っ暗だった外は、いったん濃い灰色になってから、徐々に白の度合いが強くなって来た。光の指す角度の問題なのか、日の出の一瞬だけ「今日は晴れるのかもしれない」と思わせる弱い明るさが空に広がるのだが、ほんの五分もすると雲の薄い部分にだけ白を残して、残りの厚い部分は淡い灰色のままに留まる。一面灰色のような曇りの日の空でも、目を凝らしてみると、所々色の強弱、凸凹があり、雲の固まり、というか固まりが雲なわけだが一つ一つのそれはつながってはおらず分離していて、そういう雲の固まりの無数の連なり、折り重なりによって曇りの空が出来上がっていることが判って来るのだけれども、そこまで見えて来ると実はさっき雲の薄い部分が白く残ると思っていたのは、日の光を受けているそれぞれの雲の固まりの上の部分、つまり太陽に近い側で、淡い灰色に留まっているのは雲の固まりの下の部分、地面に近い側なのだ、ということも判って来る。全体としては雨の降る間際のような、低層の、迫って来るような雲が立ち込めるのだが、雨は降らない。 空を見ていると、雨雲や雷からの連想なのだろう、飛行機の離陸の「ゴオッー」という音が雲の中から聞こえて来るような気がするのだが、これもよく聞くと地上の、建物の奥の側の滑走路から聞こえている。向かい側の道路や駐車場は、車の誘導員の吐き出す息や車のマフラーから出る排気ガス、地下の下水道や飛行場の排気口から立ち上ぼる蒸気などが、曇りの朝の力のない明るさと混ざり合ってもやもやしているのだが、やたらともやもやしているのがミシガンのような寒冷地の冬の朝の特徴なのだ。 私たちよりも後に空港に着いた人たちが別の金髪にどんどんチェックインしてもらって、搭乗ゲートに向かうのを見ながら、そういえば金髪のアメリカ人だってそのほとんどは染めている。本当のブロンドというのはほとんどいない、ということを知ったのは、会社の転勤で三年前にデトロイトに移り住んでから半年ほど経ってのことだった。その髪の毛の色が地毛かどうかを見分けるには、瞳の色を見れば良い。瞳が薄いブルーだったらそのブロンドは本物だ、と一人のアメリカ人女性が教えてくれた。 「私なんて物心ついて以来ずっと染め続けているので、今ではもう自分の本当の髪の色を思い出すことができない」 とも彼女はいっていたが、もしかしたらそこで笑わなければいけないところを、私は笑わなかったのではないだろうか。いや、そうに違いない。私は笑うべき場面で笑わなかったのだ。 そんなことを思い出したり、考えたりしていた。 ただ待っていても仕方がないので事務所に入って行ったのだが、例の金髪は電話中で、メモを取りながら話しているので入って来た私に気付かない。後ろに回って軽く肩をたたくと、振り返って(彼女の瞳は薄いブルーだった)、受話器を掌で押さえながら、 「当日キャンセルが入るかもしれない。そうすれば一席確保できる。もうちょっと待って」 と、いかにもお前らのために働いてやっているのだ、心配するな、という風にいうので、私も妻にそのままの調子でそのままの説明をした。子供たちは床に座りこんで、M&Mチョコを食べているので、口のまわりが赤かったり、青かったりした。 結局一時間近くも待たされたところで、やっと戻って来た金髪が、 「もう一席取れた。金はいますぐ払えるか?」というので、すぐに払って、サンタ帽がまだ言い争っているのをチラッと見てから、子供を抱きかかえて、小走りで搭乗ゲートへ向かった。 ところが私たちが飛行機に乗るとサンタ帽はもうそこにいた。サンタ帽は、私たちのことなど眼中にないようで、四、五席後ろで口を大きく横に広げて、にやにやしながら座っていた。二人いた息子のうちのなぜか一人しか連れていなかった。 私は驚いた。驚いたのはもちろん、私が飛行機に乗る前からもうそこに既にサンタ帽が座っているような気がしていたからだ。座っているような気がしていたのに、実際に座っていて驚くというのが矛盾しているようで矛盾していないのは、人間は予知のような力をどこかで当らないで欲しいと思ってるからのはずで、だからこの場合の驚いたというのは、「まずい」とか「やばい」という感情に近いだろう。飛行機に乗り込む直前に子供たちをトイレに連れて行ったほんの一、二分のあいだにサンタ帽たちが私たちを追い抜いたのは間違いなくて、そう考えれば何の不思議もないのだが、そういう自分を納得させるための後付けの説明は、予知が当ってしまったという事実を覆す力はない、というか事実そのものとはなんら関係がないために、ただ「まずい」「やばい」という感情だけがずるずると後を引くことになる。 飛行機が離陸する前後というのはそのときの緊張感、というほどのものではなくとも、どこか「いまは静かにしていなくてはいけない」という雰囲気が子供たちにも伝わって黙って窓から外を眺めたりしているのだが、そういう緊張感が持続するのは二十分から三十分程度で、その後は退屈して騒ぎ出し、飴とかチョコレートとか煎餅とかを小出しにしたり、雑誌『たのしい幼稚園』を一緒に読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴かせたり(子供は音楽には興味はないがヘッドフォンを付けるという行為には興味がある)、トイレに行かせてみたり(子供の尿意はまったく突然来るので、機内では早め早めに、無理してでもトイレに行かせる必要がある)して、要は間を持たせてひたすら子供たちが眠くなるのを待つ、というのがいつものパターンで、いかに機内で子供を絶叫させないようにするかあれこれ考えながらの四時間というのは、大人だけで乗っていて四時間を長く感じるのとは別の意味で長い。 ただ、これは常々不思議に思っていることなのだけれども、子供たちが眠りに落ちてしまうと、それに引きずり込まれるようにして親も、つまり私と妻も一緒に眠りに落ちてしまうのだ。 これは飛行機や電車の中などの移動中に限らず、家で昼寝させるために添い寝をしているときでも必ずそうで、親も子供の相手で疲れ果てているので、子供が眠った途端に緊張が解けて眠ってしまうのだろう、などという説明では納得できないくらい、いつも強引に眠りに落とされるので、幼児が眠る直前にはメラトニンだかのホルモンが体外にも分泌されるとか、特殊な波長が発せられて、近くにいる人の眠りも誘発するとか、そんな研究を早く誰か発表して欲しいと、冗談ではなく、私は真剣に考えている。 そのようにして、子供たちと一緒に眠ってしまった私が起きたときには、飛行機はもうかなり高度を下げていて、窓から外を覗くと、何という木だか知らないが重心がやや上の方にありそうな、卵を逆さにしたような楕円に近い形に黄緑の葉を茂らせた、高さは恐らく人間の背丈の倍ぐらいでそう高くはない、それでもやっぱり熱帯雨林らしさのある木が延々と、しかしほとんど一定間隔で見渡す限り地平線まで生えているのが見えた。 温帯や亜寒帯の木というか森というのは、飛行機で上から見るともっとこんもりと密集して、「鎮守の森」と聞いて連想されるような深緑(ふかみどり)の固まりで、全体にごつごつとした印象があるのだが、このジャングルの木はとても規則的に、等間隔で生えている上に高さも一定で、あまりに整然としているので、バナナか何かの植林なんじゃないかという気もして来たのだが、枝の一本一本まで見分けられるくらいまで更に高度が下がってからもう一度よく見ると、それはやはりジャングルで、人の手がまったく加わっていないジャングルでもこんなに整然と木が生えているということに、私は感動した。 カンクンの空港から外に出ると、薄く雲がかかって完全には晴れていないのに強い日差しが感じられて、圧力を含むような湿気につつまれたので、私たちはすぐにバスに乗り込んで、ホテルへ向かった。 海に突き出た細い道、のように見えるのだが、右側つまり西側が本当の海、つまりカリブ海で、左側=東側は淡水の沼だそうで、しばらくその道を進むと、これぞリゾート!的な巨大なホテルが次々に現れたあと、みやげ物屋街のようなエリアに入ってそれも抜けてしまうと、まあそんなに小さくもないが大きくもないホテルの群れが続いて、私たちのバスもその中の一つの前で止まった。 ビーチパレスというそのホテルは、外壁に水コケが付いていたり、テラスの上にかかっている元々オレンジ色だったのであろうビニール日除けが黄色っぽく退色していたりして、チェックインもカウンターではなく、こじんまりしたロビーに置いてある藤の椅子に座ってサインしていると、「カンクンへようこそ」という台詞と共に名物ピニャコラーダが運ばれて来たりまでするものだから、 「なんだか日本の旅館の宿帳に名前書いてるみたいじゃない?」 などと妻にいわれると、確かにそれはその通りなのだが、日本の旅館のような落ち着いた感じがなくて、もっとずっと安っぽかった。 部屋に入ると更にがっかりしてしまった。広さはそこそこあって、一応海に面してはいるものの、コンクリートトブロックの打ちっぱなしの壁をグレーのペンキで塗った上に、ちょうど私の目線の高さ辺りに水色と黄色の太いラインを入れてあるのがどうにもセンスなく、大理石なのか違うのかよく判らないが、黒っぽい石を敷き詰めた床はなんだか湿気っているし、ソファーにはタバコの焼け焦げの跡があるし、そのソファーの前の小さな木のテーブルは傷だらけだし、部屋全体も変な臭いがした。 荷物も開けずにベッドに仰向けに寝転がって、壁の水色と黄色のラインを見ながら、私はどうにもむかついて仕方がなかった。私はこのツアーに三千ドルも払っているのだ。払った金が安ければ怒りがおさまったかといえば、やはりそんなことはなかったのだろうが、払った金が高かったために怒りは増幅してしまうように思えた。 それより何より、年に一度の家族一緒の休暇を過ごす部屋としてはこの部屋はどうにも酷かった。二〇〇一年の年末休暇はこの部屋で過ごすのだ。今度こそ取り返しの付かない失敗を私はしてしまったのだ。 などという落ち込んだ私の気分とはまったく関係なく、子供たちのテンションはめちゃくちゃに高くて、キーキー叫びながら部屋の中を走り回っている。どういうわけかみどりもひとみも旅行、どこかへ行くことそれ自体よりも、ホテルとか旅館に泊まることが大好きで、先ずはベッドの上でトランポリンのように飛び跳ねたあとは、ソファーのクッション目がけて助走をつけて突っ込んでみたり、冷蔵庫を開けたり閉めたり、シャワーのカーテンの後ろに隠れてみたり、とにかく異常にせわしなく動き回っている。 走り回っているみどりの腕をぐっ、と掴んで捕まえて、このホテルのお部屋をどう思う?と試しに訊いてみたら、 「すっごくいい、ビーチパレス。すっごく気に入った。いままで泊まったホテルの中でいっちばんいい」とまでいう。 「でもなんだか古くない?汚くない?この部屋のどこが気に入ったのよ?パパに教えてよ」 と訊いてみても、その間にもひとみがチョッカイを出して、早く遊びの続きをしようとみどりに催促するものだから、みどりも私の質問には「判らない」とか「忘れた」とか「さっきのピニャコラーダがおいしかったから」とか、つまり教えるのが面倒臭い、という意味の答えしか返って来ないので、 「じゃあパパはここじゃなくって、別のホテルに変えてもらっちゃおうかと思うんだけど、いいでしょ?」と訊いたところで、 「やだ。ぜったいここがいい」 「だから、なんでか訊いてんの」 「えーとね。ここはね。ディファレントだから」という答えが返って来た。 じゃあここは何とディファレントなのか、というような質問をして、またはぐらかされたところで、私と同じように落ち込んでぐったりしていた妻がやっと口を開いて、部屋にじっとしていても仕方ないんだから外へ出てみよう、といい出したので、そこでようやく荷物を開けて、みんなで着替えてから、遅い昼食のような早い夕食のような食事を近くのレストランで取ることにした。 食事を済ませて部屋に戻ろうとする私と子供たちを、ホテルのエレベーターの前で妻が止めて、 「さっきオプショナルツアーは一つまではフリーだ、っていってたじゃない。今日のうちに申し込んでおこうよ」といった。 チェックインのときにそんなことをいわれたのを私はまったく憶えていなくて、本当にそんなこといってたか?などといいながらフロントまで戻ると、本当に一つまでタダで、二つ目からは金がかかるということだったので、また藤の椅子に座ってツアーのパンフレットと日程表を見せてもらった。 どのオプショナルツアーも日帰り可能な範囲にある遺跡へ行くとか島へ行くとか、もしくはパラセイリングだとかダイビングだとかイルカと一緒に泳ぐだとかで、但しすべてが毎日あるわけではなく、ツアーによって月曜と木曜のみとか、週末のみとか日にちが決まっているのだけれども、私が三つ目のツアーぐらいまでページをめくった辺りで、早くも同じパンフレットを隣で見ていた妻が、 「これ。これにしましょう。明後日あるわ。これ、申し込んでよ」といったツアーはマヤ文明のピラミッドの残る、チチェン・イツァという遺跡の日帰りツアーだった。 「でも、これ、カンクン一番の定番なんじゃないの?どうせ混んでるんじゃないの?」 という私の懸念に反して明後日のツアーにはまだ四人分の空きがあったのだが、きっと写真で見るのとは大違いで、くそ暑い中ぞろぞろ並んでスペイン語のわけ判らない説明を聞かされることになるんじゃないの、子供だってすぐ飽きたって騒ぐんじゃないの、ともう一度いってみたのに、妻はすぐさま返して、 「空いてるところに行って喜んいる人はその場所が良かったから喜んでるんじゃなくって、空いてることを喜んでるだけなのよ。たいていの場合。みんなが行く場所っていうのはそれだけで実際に行ってみる価値があるんだ、ってことをパパはどうして素直に理解しようとしないのかしら」 それは確かにそうだった。疑いようのないことだった。何かいい返せないことをいわれたような気分になってしまった私は、チチェン・イツァ・ツアーの申し込み用紙に家族の名前を書きながら、フロントの女の子に、 「ところで因みに、このホテルはいつ頃できたんですか?」と訊いてみた。 「このホテルは一九八二年にオープンしました」と答えた後で、女の子は「カンクンの開発が始まった当初にオープンしてから今まで、欧米の資本が入らずにメキシコ資本だけでこのホテルを運営して来たことを私たちは誇りに思っています」と付け足した。 それに対して私は何かいってやりたかったのだが、もう英語を話すのが億劫だったので、「サンキュー」だけいって、子供たちの手を引いて部屋へ戻った。 その日は早々に寝てしまって、翌日は快晴だったので朝から海へ行くことにした。カンクンに行ったことのある人からカンクンの砂浜の砂は本物の粉砂糖のようだと聞いていたのだが、ホテル前の海岸の砂の粒は確かに細かく、かろうじて肉眼で見分けられるというぐらいにまで一粒一粒は小さいのだが、ただ色は粉砂糖というほどの純白ではなくて、胡椒に近いくらいの白っぽい褐色だった。 波打ち際に近過ぎない適当な場所に陣取って、ホテルから借りて来たビーチパラソルとデッキチェアを設置したのだが、その脇で子供たちはみみっちく砂でお団子を作ったり、ケーキを作ったりしている。折角はるばるメキシコの海まで来たんだから泳ごうよ、といっても、二人とも波が怖いといって海に入ろうとしない。 子供の視野というのはとても限定されていて、それこそ広大なグランドキャニオンだとかナイアガラ瀑布などというところに連れて行っても、景色など見ずに結局そこいらの通路の手すりを鉄棒にして遊んでいたり、道端の石を拾って集めたりばかりしているのだが、これはよくいわれるような「子供の視力は六歳になるまでは安定しない」ために遠くが見えないからではない。実際、みどりもひとみも三歳初めの段階で満月、半月、三日月といった夜空の月の形の違いは正確に把握できていた。子供の視野が狭いのは大人の半分から三分の二しかない身長、つまり視点と対象物の位置関係が理由のはずで、大人が生まれ育った町を何十年か振りで訪ねると、記憶の中の風景に比べてやたらと道路の幅が狭く感じられたり、建物が低く感じられたりするのと同じ理由のはずなのだけれど、しかしこの説明はしっくり来るがゆえに、どうも腑に落ちない。というか、腑に落ちない以前にこれでは、身長の伸びが止まった後に卒業した高校の校舎などでも、何十年か振りで訪ねると、思っていたよりも大きくてびっくりしたなどということはなくて、必ず記憶の中よりも小さく感じることの説明が付かない。 「なら、パパが一人で泳いで来る」といって海に入ったところが、海水は冷たいし、風も強いので、濡れた体が酷く寒い。こういうときでもギャハギャハ笑いながら平気で泳いでいるアメリカ人は本当に馬鹿なんじゃないかといつも思うのだが、それに張り合ってしまってはこっちも馬鹿になってしまう、などという以前にこのときは寒くてとても耐えられなかったので、一瞬水に浸かっただけですぐにビーチパラソルに戻って来た。 タオルに包まって落ち着いて改めて海をよく見てみると、波打ち際近くでは泡を含んだ白と巻き上げた砂を含んだ薄茶色とが混ざり合っているのが、波頭が崩れて白く光る辺りから先は薄い水色へと変わり、その更に向こうは水深が深くなっていることが判る明るい緑へと、三段階に海の色が変化して行くのがきれいなのだけれども、白い寄せ波が立ち始めるのが波打ち際から近いために、ここは遠浅ではないことが判る。 風が強いためなのか、波がやたらと高い。砂浜まで打ち寄せた波が引き波となって、斜面を滑り落ちるように海に帰って行くのだが、その引き波が次ぎに向かって来た波の勢いに負けて、向かって来た波の下にもぐり込んで、峰ができる。まだ完全には消え切っていない引き波にのしかかるようにして峰は立ち上がり、高さを増し、頂点まで達したところで砕け、落下して、寄せ波となって砂浜に打ち寄せる。この寄せ波ができる直前の峰に今日は高さがある。低いのが二回ぐらい続いたかと思うと、後にはちょうどその辺りで泳いでいる海水浴客の肩の高さぐらいまでの峰ができるので、「あ、これは来るな」と思うと、案の定その峰は強い寄せ波となってザワァーと音を立てながら私たちのいる砂浜の方へ向かって来る。けれども、そんな強い寄せ波でも砂の乾いたところまで来ると急に勢いがなくなって、簡単に砂に吸い込まれてしまう。 強く、遠くまで達した寄せ波というのは、長い斜面を戻って行くから引き波となって帰る力も強く、次ぎに向かって来た波の力を押え込んでしまうので、次ぎの波の峰はあまり高くならないのだが、力が相殺される結果なのだろう、砂が大量に巻き上がって峰の下の引き波の最後の残骸が真っ茶色になる。こういう茶色の寄せ波は峰が崩れた直後から全然勢いがなくて、砂浜の濡れたところまでで簡単に力尽きてしまう。 弱い寄せ波は弱い引き波になるわけだから、その次に来る波の力は押え込まれずに、高い峰を作って、私たちの近くの砂まで濡らすぐらいの、最長不倒を更新してくれることを期待するのだが、ところが弱い引き波の次ぎの波が更に弱かったりするので、見ている私は一人で「だめじゃん」などといっている。 それでも風の加減なのだろうか、六,七回に一度ぐらいの割合で強い寄せ波が打ち寄せるのを繰り返すのだが、波を見ながらびっくりしたことには、波というものを私はまったく憶えることができないのだ。 私はいま、波の実物を見ながら一回一回打ち寄せる波にもかなりの違いがあることをはっきり認識しているはずなのだけれども、それは見ているこの瞬間だけのことで、目の前の実物の波の複雑さに比べて、思い出された波というのは思い出されるそばから、形も、色も、音も、驚くほど単純化されいて、類型化されている。「二つ前に打ち寄せた波は大きい波だった」とか、「あそこの砂が濡れているのは四つか五つ前の波だ」とか、そんなことはもちろん思い出せるが、逆にいえばそんなことぐらいしか思い出せない。いま見ている波と一つ前に打ち寄せた波の違いすら憶えられないとはどういうことなのか。 遠くの方まで見てみると、確かにここは岩場や船着き場などで仕切られることのない砂浜が何キロにも渡る緩やかな弧を描いているとても良い海岸なのだが、今日はたまたまなのか波が荒いのと、たぶんこのリゾート全体をホテルから海岸に出やすいように設計したからなのだろう、砂浜の奥行きつまり護岸から波打ち際までの距離があまりないために圧迫感があるのとで、これならばハワイの方が良いかもなあ、などと思った。 砂に海水を混ぜてお団子を作っても、乾燥しているためにすぐに壊れてしまうので、みどりは諦めて「シーシェルを拾いに行きたい」といい出した。 シーシェルというのは貝殻のことで、アメリカの幼稚園では当然英語を話さなければならないものの、家で家族と話すときには日本語を使う、という我家のルールを妻が作ったのだが、私は言葉が他の何にも増して重要とは考えていないということと、面倒臭いのとで、みどりにいちいち訂正させてはいない。 海に入れないのであれば他にすることもないので、仕方なく貝殻探しに行くことにしたのだが、これだけ砂の粒が細かいのではここにはたぶん貝殻はないのだろうなあ、と思いつつも、私とみどりは手をつないで、波打ち際沿いの乾いた砂と濡れた砂の境界辺りを裸足で踏みながら、というよりも砂を蹴り上げながら歩いて行った。 まだ午前の早い時間だからだろうか、砂浜は空いているというほどでもないが、海岸沿いに並んで建っているホテルの前ごとに十本ぐらい出ているビーチパラソルの下に、それぞれ二、三人づつの海水浴客がいる程度なので、ホテルとホテルの間はそれでも五十メートルから百メートルぐらいは離れているから、ふつうだったら閑散としているように見えるのだろうけれども、日差しが強いだけでそれが不思議と「寂しい」とは感じられない。 旅行でどこかの海に行った友達がシーシェルを幼稚園に持って来た。そして「ソフトクリームみたいなぐるぐる巻きのやつ」をみどりにも一つくれたので、自分も今度メキシコの海に行くからシーシェルを拾って来てあげると約束した、というそれだけのことをそうとう回りくどく説明されたのだが、その間ずっと足元を見ながら歩いていても、貝殻どころか貝の破片のようなものすらまったく見つからないものだから、私は、 「砂っていうのはさ、」 「あった?」 「いや、砂っていうのはさ」私はハッキリいい直した。「昔はおっきい石だったり、貝殻だったりしたんだよ」 「うん」 「それがさ、ながーい間、波にもまれちゃってさ、砕かれて細かくなっちゃってさ、それがこういうつぶつぶの小さい砂になったんだよね」と、私はしゃがんで砂を摘み上げながらいった。 「昔って、どのくらい昔?おばあちゃんの頃とか?」 「もっとかな。どうだろう」 「えっ?」 私の声は低くて聞きづらいのかもしれない。高いみどりの声はそれほどでもない。 「いや、もうちょっと昔かもしんない。そんなことないか。どうだろ?」 「一九九九年前とか?」 いまのところみどりの知っている一番大きい数字が一九九九なので、自分の想像を絶して長いとか大きいとかいう場合には、その「想像を絶する」表現として一九九九が出て来ることになっているのだが、実際一つの貝殻がどのくらいの時間で風化されて砂粒となるのか、何十年もかかるのか、それとも数週間とか数ヶ月で粉々の粒になるものなのか、私にはよく判らなかった。 ただこの海岸の白い砂粒もその内何割かは、貝殻が砕かれて、細かくなって磨かれたもののはずなので、そう教えると、 「だったらさ、大きいシーシェルがだんだんだんだん波で小さくなってさ、小さい砂の粒になるんだったらさ、ここにはどうして小さい粒しかなくって、中くらいのシーシェルとか、すこし小さいだけのシーシェルとかないのさ?」 「それは確かにそうだ。いい質問だ」 いい質問だ、というのは英語でいうグッド・クエスチョンということで、そういわれてみれば確かにそうだが、それがどうしてなのかは私にも判らない、ということだった。 泊まっているビーチパレスから数えて三つ目のホテルの前辺りまで私たちは歩いて来ていたが、そのホテルの庭を見上げると、海に面したプールの脇にパラパという椰子の葉で葺いた屋根の、大きなパラソルが何本か立ててあって、その日陰がいかにも心地よさそうだったので、 「ビーチパレスは何とディファレントなの?」と、また足元の波打ち際に視線を落としながら訊いてみた。 「わっかんない」みどりは怒鳴った。 波打ち際を歩きながらの会話というのは、映画や小説などではつぶやくような静かな会話として描かれるのだけれども、実際には波の砕けて打ち返す音だけでもそうとうに大きくて、その上にまわりで遊んでいる人たちの歓声とかホテルから流れて来る音楽なども混じると、お互いほとんど怒鳴るように声を出さないと聞き取れないぐらいなので、私も更に大声で、 「パパにはさあ、なんだか古くて、汚いホテルに見えるんだけど、みどりはあのホテルのどっかを、すっごく気に入ったんでしょう?」 「きのうママがシャワー浴びてたら、蛇口が落っこちて来たのが、おもしろかった」 このとき初めて、水圧でシャワーの出口が取れてお湯が噴き出して来た、ということを昨晩は早々に寝てしまった私は知ったのだが、お湯が壁からどばどば出て来て、噴水みたいですごく面白かったよー、などとみどりがいっているので、 「でも、昨日あのホテルの部屋に入ったらすぐ、ここ気に入った、って、いってたじゃん。なんで、そんなに気に入ったのかを、パパにも判るように、ちゃんと教えてよ」 またくどくど訊いてしまった後で、例えば犬や猫などの動物ならば人間の知り得ない情報を持っているのかもしれない、という過剰な期待に近い期待を、大人である私は子供に対して抱いてしまっているような気がして反省したところで、前を向くと、目の前にオッパイを出した女の人が立っていた。 二組の、そう若くはないたぶん三十代半ば辺りであろう、メキシコ人カップルの女性二人ともがトップレスで浮き輪を投げたり、男につかまって泳いだりしながら、歓声をあげて遊んでいる。同じようなトップレスがちらほらとでもいる環境であればともかく、そういう人は辺りに一人もいないのに、その二人だけがトップレスなのも勇気があると思ったが、彼女たちと一緒に遊んでいる男たちも彼女たち以上に偉いというかすごいという気がしたのだけれども、それを「勇気」とか「すごい」とか感じる時点で、彼らと私には決定的な違いがある、などと考える余裕はこのときにはなくて、みどりに「あの人たちオッパイ出てて、おかしいねえ」といわれてしまったら、私は「そうだねえ」としか応じられないのだろうなあ、とそちらの方が気になってしまったので、ピニャコラーダでも飲もうとみどりをいい含めて、妻とひとみのいるパラソルへ戻ることにした。 午前中いっぱい日向にいるだけで子供たちは疲れてしまって、午後はホテルの部屋で昼寝だけで終わってしまった。翌日は遺跡ツアーなのだが、私は家族が起きる前に海とは反対側の沼沿いの道をジョギングしてみた。 この日も朝から風が強かったのだが、走る方向に追い風が吹いていた。追い風が吹いていると、走っているあいだはほどんど無風の中を走っているように感じて、風が吹いているのを忘れてしまう。もうおさまったんじゃないかと思って、立ち止まってみると、まだ変わらず風は吹いていて、こんなにだらだらと走っているスピードに比べたら、風の流れはずっと早いはずなのだが、自分を追い抜いて行く風というのはなかなか感じることができないものなのだ。 逆もいえて、向い風というのは緩やかな風であっても、かなりの負荷を感じるもので、このときにも二十分ほど追い風の中を走ったあとで、方向転換してまた同じ道を戻ろうとしたとたんにぐいぐい押し戻されるような中を走ることになったのだけれど、この朝の風は本当に強かったようで、私のかぶっていた帽子は沼岸の草むらへ飛ばされてしまった。 草むらといっても手を伸ばせばすぐに取れるような道のすぐ脇に帽子は落ちたのだが、帽子を拾おうとした私が草むらに近づいたとき、私のけはいを察して何か生き物が沼に入った「ジョボン」という音がした。 帽子をかぶり直して走りながら、「あのジョボンという音は、ワニだったんじゃないだろうか」という考えが頭から離れなくなってしまった。 ワニはアメリカの南部にもいるぐらいだから、メキシコにいてもおかしくはないし、淡水の沼岸の草むらにいる動物なんてワニの他には、カメぐらいだろうか。魚が撥ねた音にしては大きかったし、そもそもあの「ジョボン」は水面で何かが撥ねた音ではなく、草むらにいた重いものがズズッと移動しながら水に入るときの「ジョボン」だった。 私が走っている歩道沿いには点々と、ホテルやレストランから出た、ビニール袋に入ったゴミが積んであるので、もしかしたらこういう残飯をワニは人のいない早朝に食いに来たのかもしれない、歩道に出ようとしたところを私が急に近づいて来たのでビックリして沼に戻ったのかもしれない、などというめちゃくちゃな想像をしながら、実は、同時に私が考えていたのは、「やっぱりホテルを変えてしまおうかなあ」ということだった。 あのホテルが、こちらが払った金に見合っていない古い、安っぽいホテルだということに私が不満なのはそれはそうなのだが、正直なところどうして私がそれを「取り返しの付かない失敗」とまで考えてしまうのか、自分でもよく判っていなかった。よく判らないがゆえに、なおさら一層取り返しが付かないように思え、ホテルを変えてしまいたいような気持ちになるのだが、本当に変えてしまうのなら変えてしまう前に、みどりがあのホテルを気に入っている理由をきちんと知って置きたい気もしていた。 いや、みどりがあのホテルを気に入っている理由はもちろん明らかで、それはあのホテルが古くてぼろいからに他ならないし、それをみどりが面白がる気持ちは当然私にだって理解できるのだが、ただ古くてぼろいことというのは一体何と「ディファレント」なのだろうか。「新しいこと」と、だろうか。私が引っ掛っているのはその辺りのはずだった。古くてぼろいホテルは何かと「違う」から「変えてしまおう」と私が考えるのと、古くてぼろいホテルは何かとは「違う」から「面白い」とみどりが思うのは、同じ「違う」に対する単なる反応の違いなのだろうか?それとも私とみどりが感じている「違う」が、別の、異なった「違う」だから、だから反応も異なって来るのだろうか?そう考えて行くと分岐点がどこなのか、ますます判らなくなってしまう。 しかし最初に立ち返って、冷静になって考えてみれば、それは単に私があのホテルを嫌いなだけなのかもしれない。築二十年かそこらで建物も、部屋も、あんなに傷んでしまったのは、海辺のホテルはたとえ築年数が浅くても砂や塩で腐食が進みやすいものだということを差っ引いたって、ちゃんとしたメインテナンスをして来なかった結果なのだと思うのだが、確かに築二十年というのは、新しくないことは間違いないとして、許し難いほど古いというわけでもない、まあ微妙なところだった。だいたい他のホテルに空きがあるかどうかも判らないし、残りの滞在はあと三晩しかないし、金だって取られるであろうことを考え併せると、実際にはホテルを変えるまではしないんだろうなあ、などいうことをぐるぐると考えているうちにビーチパレスに着いてしまって、部屋に戻るともう三人とも起きていて、子供たちがご飯早くとうるさい、先に朝食に行くと妻がいうので、私もシャワーを浴び急いで着替えて、後を追った。 チチェン・イツァの遺跡まではカンクンからバスで三時間ほどだそうなのだが、ホテルの前に私たちを迎えに来たバスは冷房が効き過ぎていて寒すぎるぐらいだったので、途中子供たちがおしっこといい出すんじゃないかと、乗る前に運転手に「トイレ休憩はあるのか?」と訊いたら、黙って指さした後部座席の裏側にはちゃんとトイレが付いていた。 カンクンの町を出ると、バスはジャングルの中の一本道を飛ばした。私は生まれてこのかたバスでもタクシーでも船でも乗り物酔いをしたことがないのが自慢なのだが、子供二人も幸いなことに乗り物酔いしない血を受け継いでくれたみたいで、飛行機の中と同じようにお菓子を食べたりしりとりしたりしながら遊んでいたのだが、そのうちに眠ってしまって、そうするとやはり私と妻も一緒に眠ってしまう。 目を覚ましたときにも、バスは眠る前と同じような木の続くジャングルの中をひたすら走っているだけで窓から見える風景の変化にも乏しい、というよりまったく風景が変化しないので、ここに来て初めて、現地到着三日目にしてようやく、私は妻が友達から借りて来たという『地球の歩き方リゾート カンクン&ロス・カボス』というガイドブックをかばんから出して、パラパラ読み始めた。 どこへ旅行に行くときでも私は下調べというのをまったくしないために必ず行き当たりばったりの展開になる、ということを妻は責めるのだが、これは旅行に限ったことではなく、仕事でも家事でもなんでも私はぎりぎり切羽詰るまで何もやらない。 けれどもこれは、ぎりぎりまで何もやらないということは結果的に必要最小限の時間で仕事を終えることができるという利点があるからであって、つまりそのぎりぎりに至るまでの時間はぼぉーっと無駄にしたように見えても、実際にはその時間に別のことをしたり、別のことを考えたりしている。つまり何もしなかったり、何も考えなかったり、何も起こらなかった時間というのはあり得ないのだ。「もっと早くやって置けば良いのに」という人は多いが、そういう人はぎりぎりまで圧縮することによって得られる効率、というほどのものではないことは認めるが、とにかくそういう構造に気付いていない。 古代マヤ文明の遺跡と聞いてたいていの人が思い浮かべるピラミッド、エジプトのピラミッドのようにはてっぺんが尖っておらず、最上階に四角い神殿の付いているピラミッドのある遺跡がチチェン・イツァで、このピラミッドは外壁の階段を最上階まで登って行けるが、急な階段なので降りるときはかなり怖い、というのがカンクンに行ったことのある人から聞いて、事前に私が知っていたチチェン・イツァに関する全情報だったのだが、バスの中で読み始めた『地球の歩き方』によれば、チチェン・イツァというのは「水の魔法使いの井戸の口」という意味なのだそうで、西暦四一五年から七三一年の旧チチェン王朝と、九二八年から一二〇四年頃にかけて栄えた新チチェン王朝という二つの王朝がユカタン半島のこの地に例の巨大なピラミッド(エル・カスティージョという名前だそうだ)や神殿、天文台、競技場などの建造物を作ったものだそうで、マヤ文明の中でも最も重要な遺跡で、ユネスコの世界遺産にも登録されている、のだそうだ。 などという文章を読んでしまうと、やっぱり妻がいった通りカンクンまで来たからにはここへ行かなくちゃだめだよなあ、などとすぐに思ってしまうのだけれど、この『地球の歩き方』には、戦士の神殿というところには生け贄の心臓を乗せた台がいまも残っているだとか、セノーテという井戸の底からは生け贄として捧げられたのであろう女性の骨が近年になってたくさんみつかっただとか、なんだか強烈な、だけどどこかで聞いたことのあるような話がいろいろと載っていて、他にも例えば、競技場で行われたフエゴ・デ・ペロタという球技は、壁に突き出た石のリングに棒で打ったボールを通した方が勝ち、というバスケットのようなサッカーのようなフィールドホッケーのようなゲームなのだそうだが、負けた方ではなく、勝った方のチームの代表が神の国への生け贄となるためにゲーム後に自ら進んで首を刎ねられ、家族も喜んでその死の儀式に参加したんだそうで、競技場の壁には首が刎ねられる場面を描いたレリーフが彫られている、という話も載っていたりする。 そういわれてみれば、「マヤ文明と来れば生け贄の話」となるのは定番みたいで、最近子供と一緒に見たドラえもんの映画でさえマヤ文明をネタに使った回にはやはりヒロインが生け贄になるという場面があり(そしてもちろん救出されるが)、そういう生け贄という儀式を非人間的(前時代的?)と非難するのは西欧側からの一方的な見方だとかなんとかいうのは私にとっては、まあどうでも良いことだし、もしマヤの時代に生け贄という儀式が行われていたのが事実ならば映画やテレビのネタに使ったところで特に問題はないと思うのだが、ただ映画やテレビの生け贄は、本当は死にたくないのに生け贄にされてしまった、だから生け贄にならずに済んで命が救われたときには救ってくれた人に感謝する、というのが事実に反している、という問題はあるだろう。『地球の歩き方』に書いてあるように生け贄本人も、その家族も「神の国へ行くために、喜んで、自ら進んで」死んで行ったのだとすれば、そんな良い目?にこれから会おうとする生け贄を救出(という言葉がこの場合もう当てはまらないが)しよう、などとは誰も考えなかったはずなのだから。 だが私が気になることは、仮に生け贄本人が死ぬことによって自分が神の国へ行けると百パーセント信じ切っていたとしても、首を刎ねられる直前とかその瞬間にはやはり何らかの肉体的苦痛の予感か恐怖のようなものがあったのではないだろうか、ということだ。肉体を傷つける行為に対する恐れみたいなものは、理詰めの説明で納得できる範囲の外に、マヤの人々にもあったのではないかと思えるのだが、これが簡単にそうだともいい切れないのは、彼らは自らの死を、現代人が病気を治すために手術したり、注射したり、苦い薬を飲んだりできるのと同じような一時的なものと考えていたのかもしれない。だとすれば、少なくとも私が想像するような恐怖や苦痛は感じていなかっただろう。 いや違う。私が知りたいのはそういうことではない。アンナ・カレーニナが列車に轢かれるまさにその瞬間に線路から起き上がろうとした最後の動作、最後に彼女に立ち現れた生への執着、この生への執着はやはりマヤの生け贄の最後の瞬間にも立ち現れたのではないだろうか。私が気になるのはそっちの方だ。 神の国へ行けると完全に信じ切っていても、最後の最後の瞬間にはどうしようもなく「やっぱり死にたくない」「生きたい」と思ってしまう、この最後の瞬間の生への執着抜きには、この世界が成り立たない、世界が継続していることが説明できないような気がするのだが、そもそもアンナ・カレーニナは自殺だった。生け贄のように本心から望んで死んだのではなかった。本当は彼女だって死にたくなかったのに、ややこしいことになってしまったので死ななければならなくなってしまったわけで、彼女が感じたのは生への執着などではなく単に「ややこしいことなどというのは死ぬには値しない」という少々遅過ぎた発見、後悔、もしくはいまさら我に帰ったという程度でしかなかったのかもしれない、という考え方もできるというかそう考えるべきだろうから、だとするとこれもマヤの生け贄が最後の瞬間に感じたかもしれない理屈抜きの生への執着とは別ものということになってしまう。 ドライブインのようなみやげ物屋のようなところで休憩になったので、寝ている妻と子供たちを起こして、トイレへ行かせた。 土剥き出しの更地のコの字型三方を、骨組みにトタンの屋根とベニヤの壁だけを取り付けた簡素な建物で囲ってあるところで、中は大きな冷蔵庫が一つだけあってそこでコーラを売っている他はテーブルの上も壁の棚も一面、恐らく千個はある、薄い緑と白の入り混じった石で作られた置物やアクセサリーを並べてある。 置物は動物や踊っている女性、ピラミッドなどで、私はその中の一つのジャガーの置物を手に取って触りながら、もしかしたらチチェン・イツァには、何かの間違いで、もう一回ぐらい来る可能性が私にもあるかもしれないが、ここがどこだかも判らないようなメキシコの田舎の、石だらけのみやげ物屋にはもう絶対にこれが最後で、二度と来ることはないだろう。こんなことを考えるようになったのは三十歳過ぎてからのことで、五歳のみどりだったらこんなことは考えないだろう、と思ったのだが、みどりだったらこんなことは考えないということはつまり、私も、やはりこのみやげ物屋にまた戻って来ることになっているのかのような気がして来る。 石をハート型に削ったのの真ん中に穴を開けて、革の細い紐を通したペンダントを買って欲しいとみどりが騒いだので、どうせ衝動的に欲しくなったものはすぐに飽きてしまうんだろうとは判っていたが、面倒臭いので買ってやることにした。 旅行先で立ち寄ったみやげ物屋で衝動的に欲しくなったおもちゃだの文房具だのを親が買ってくれたという記憶は私には一度もない。三十年前であればそれが普通だし、今の子供であれば買って貰えるのが普通なのだろうが、だが自分と今の子供との違いを考えて、その違いにしみじみとするというのは、それは一種の優越感に浸っているに過ぎないのだから、そんなことはするべきではない。 金を払ってから私もトイレへ行くと、男子トイレの入り口のところにメキシコ人の女の人が一人立っていて、中に向かって、スペイン語だから私には判らないが何か話しかけている。中に入ると三、四歳の男の子が水道の蛇口に手を伸ばしているが届かず、爪先立ちで精いっぱい背伸びしてみるがそれでも届かないので、横から私が手を伸ばして水を出してやったら、 「サンキュー」と、目を伏せたままでいった。 スペイン語ではなかったことをちょっと意外に思っていると、手を一瞬水に浸けただけで男の子は、次に手拭きの紙ナプキンを取りに行ったのだが、それもやはり背が届かず取れないのでまた私が一枚取って渡してやると、今度はちらっと私の方を見てから、 「サンキュー」といって、外で待つ母親の方へ走って行ってしまった。 男の子が出て行ってしまった後も出しっぱなしになっている水道を止めてから、私は自分の用を足した。 そう高いものではないにもかかわらず、私たちがいた十五分ほどのあいだこのみやげ物屋で石を買った客は私たち以外に一人もおらず、そこを出るとほどなくバスは遺跡の入り口に着いてしまった。 さすがに世界遺産だけあって入り口前の広場はツアー客だらけで、その七割方はアメリカ人だが、フランス語やドイツ語らしき会話も聞こえたり、日本人の家族もちらほら見かける。 メキシコ人のガイドが団体入場の手続きをしている間、入り口から少し離れたところで待たされたのだけれど、こういうときアメリカ人などは「ここで待っていろ」といわれた場所でなど待たずに、すぐにうろうろしてしまうものだから、いわれた場所で律義に待っているのが私たち家族だけになってしまうと、そもそもガイド本人もここに帰っては来ないのではないかと不安になるが、ガイドが入場券を持って帰って来ると、うろうろしていた他の客もちゃんと帰って来る。 入り口を入ってすぐの辺りは木に覆われていて遺跡らしきものは何も見えない。他の客と一緒に森の中の細い歩道を、旗を持ったガイドの後をぞろぞろとくっついて行くのだが、そのガイドのスペイン語混じり英語の解説は恐れた通りまったく意味不明なので、自分たちがどこへ連れて行かれているのかがそもそも判らない。こういう、日本の国内旅行にはない、なんとも漠とした、危なっかしい感じが海外旅行の味なのだと好む人もいるのだろうが、私は好きになれない。 最初に連れて行かれたのは森の中の泉、生け贄が投げ込まれたというセノーテという泉で、底の方まで覗き込んでやっと水面が見えるような、深い井戸のようなものを想像していたのに、これは見るからに普通の池だった。周りを柵で囲うようなこともしておらず、地面から水面までもたいした深さはなく、これでは人間が投げ込まれたとしても簡単に登って来れるだろうし、水も茶色く濁っている上に、青ミドロが浮いていて泉という感じではない。 「なに、これ?」この段階でみどりは早くも飽きた。 「なにって、これは、泉だよ」 「遺跡行くんじゃないの?」 「だからこれから遺跡を見に行くんだよ。ほら、ちゃんと手、つないでないと落ちるって」 「なんか遺跡つまんない」 「だって、まだ遺跡一つも見てないよ」 「あといくつ見るの?」 みどりは赤い顔をしている。葉が日差しを遮ってくれても、ジャングルというのはこういうものなのだろう、空気が篭ってしまって蒸している。子供たちは飽きたでのはなく、この暑さが不快なのだ。だましだまし連れて行くしかない。 森を抜けると、下が芝生と砂地でまだらの、ちょっとした広場のようなところに出て、遺跡の入り口はあんなに大勢の人でがやがやしていたのに、少し中に入っただけのこの辺はもうそれほど人はいなくって、私たちを含めてそのときこの小さな広場にいたのは二、三のツアーグループだけだったのだが、ここはとにかく照り返しで暑い。 広場の中央にある、どうやら墓らしい高さ五メートルぐらいの小さなピラミッドについて、メキシコ人ガイドは長々と説明しているのだが、その間ひとみは汗をボタボタ滴らしながら両手に砂を掴んで撒き上げたり、地面を這っている気味悪いぐらい大きな蟻を捕まえようとしたりしているものだから、毒蟻だったりしたら刺されてもまあ死ぬことはないにしても腫れたら後が面倒臭いと思い、私が抱くことにした。その脇で赤い顔をしたみどりは「飽きた」「疲れた」「まだおしまいじゃないの?」を繰り返す。隣にいた客がガイドの説明が聞こえないという迷惑そうな顔をしたので、四人で最後列のそのまた後ろに退いた。 すると妻が唐突に、 「まさかこれって、あの、有名なピラミッドじゃないよね?」と訊いてきた。 「違うでしょ、これは。こんなに小さくはないだろ。もう少し行ったところにあるんだよ、きっと」 と、抱っこから逃げ出そうとするひとみを押さえつけながら答えたものの、ガイドの説明が判らないので、実のところなんともいえなかったのだが、そこに割り込んでみどりが、 「この砂も昔はシーシェルだった?」といって、ショーツのポケットに手を入れながら足元の砂を靴の爪先で蹴った。 「いや、たぶんこの砂は貝じゃないよ。海岸の砂は貝からできたものが多いけど、こういう場所の、っていうかこういう陸地の真ん中にある砂は、岩がながーい間に、細かくなって、それでできたんだと思うよ」 といってもあまりピンと来ていなかったようなので、 「岩っていうか、石っていうのはさ、砂と水と粘土でできてるんだよ。その石とか岩からながーい、ながーい間に水と粘土が剥がれちゃってさ、そのあとに残るのが砂なんだよ。ここにあるのはそういう風にできた砂なんだと思うよ」 そんな説明をしたら、みどりはますます混乱してしまったようで、というよりもこの話題自体に興味がなくなってしまったように見えた。 それでも更に続けて、 「そういえばさ、なんで砂浜には砂になっちゃった細かい貝、シーシェルしかなくって、中くらいのとか、もう少し大きいのとかがないのか判ったよ。貝っていうのはさ、そもそも海のもっと深いところで暮らしてるじゃない。だから、割れて、砕かれて、細かくなったものだけが海の底の方から砂浜まで、波に運ばれて来るんだよ。きっと」 といってみたものの、やはりみどりは「ふーん。そうなんだ」と、特につまらなそうでも、面白そうでもない風に返事をしたので、それは要するに興味が失せてしまったということだった。 次に見たのは広場のはずれにある天文台だった。石で作られた、横長に大きな建物の中央に半円のドームというか塔のようなものが建っていて、なんとなく現代の天文台や観測所の建物に似ていないこともない。そのドームは、中に入って内側にめぐらされた螺旋状の階段を登れるようになっている、と『地球の歩き方』にも書いてあったのだが、子供たちは疲れていたし、外がこの暑さでは建物の内部は酷く蒸していて更にバテてしまいそうだったので、ガイドに「子供に階段はきついから、外で待っている」と伝えた。 なのに、私たちが腰掛けて休んだ天文台入り口の、外に面した階段で、子供たちはいきなりグリコ・パイナツプルを始めてしまった。ひとみはまだじゃんけんが何なのか判っていなくて必ずパーを出してしまうので、みどりが一方的に勝って階段を登って行く。 「でも、こういう子供の遊びが、今も三十年前もあまり変わってないって、子供を持ってから知っただろ」 子供たちの方を見ながら、階段の、私よりも二つ下の段に腰掛けている妻に話しかけた。 「そうかしらね」 「そうだよ。子供が生まれるまではこんな遊びがいまだに生き残ってるなんて思わなかったよ」と私がいうと、妻はそれには同意しかねるという顔をしているので、 「ていうかこんな遊びがあったこと自体ほとんど忘れてた。グリコ・パイナツプルも、だるまさんが転んだも、しりとりも、自分たちが昔こういう遊びをしたのってたぶんすごく短い間だったんじゃない?」 「だけどもっとぜんぜん昔からあった遊びじゃない」 「前からあった遊びではあるんだけど、子供本人にとってはひと冬の間だけやたらこの遊びに熱中してあとは忘れちゃう、単なるマイブームみたいなところがあるじゃない。だから今の子供がまだこんな遊び知ってるのはもちろん判らなくはないけど、自分が実際にこの遊びをした期間の短さと比べてみると、びっくりしたっていうか、変な感じがした」 「今の子供がみんなそういう遊びを知ってる、ってわけでもないでしょ」 「うん」 「もしかしたら私たちと同じぐらいの歳の親から生まれた子供たちだけが、グリコ・パイナツプルを知ってるのかもよ?私たちよりも若い親はグリコ・パイナツプルなんか知らなくて、だから子供にも教えなくて、こんな遊びしてないのかもよ?その代わり何か別の遊びをその人の子供には教えてるんだろうけど」 「飛び石みたいに伝わって行くってこと?」 「そう」 「だけど、みどりたちにグリコ・パイナツプル教えたか?俺、教えてないぞ」 「私も教えてない」 「誰から教わったんだ?」 「そんなのきっと友達か従兄弟か誰かよ。私たちぐらいの親から生まれた日本人の子供から教わってきたのよ、たぶん」 妻は『地球の歩き方』で自分の顔を扇ぎながらひとみを呼び寄せて、汗で乱れた前髪のピン止めを直してやったのだが、すぐにまたひとみは遊びの続きをするために階段の上の方へ登って行ってしまった。 「だけど子供の歌はどうよ?童謡っていうか」 「やっぱりひとみも、旅行行く前に、みどりと一緒に髪の毛カット行けば良かったのよ」 「いまの『お母さんといっしょ』で使ってる歌、新しい歌もたくさんあるけど、半分ぐらいは俺たちの子供の頃と同じ歌使ってるだろ」 「子供の髪の毛なんてすぐのびちゃうんだから。短めにして置けば良いのよ、あんなに汗かいてかわいそうじゃない。一緒に美容院連れて行かなかったから」 「帰ったら連れてくよ、すぐ……だから『お母さんといっしょ』で使ってる歌が半分ぐらいは昔と変わってなくてびっくりしなかったか?って。俺はそうとう驚いたぞ」 「それは私もびっくりした。NHKだから古い歌をなるべく使ってるってことはあるのかもしれないけど、小学館だってベネッセだってそうだもんね。雑誌の付録に歌のCDなんかついてると、『アイアイ』とか『飛んでいったバナナ』とか、ほんとに半分かそれ以上昔と同じ歌。お話もそうなのよね。『おおかみと七匹のこやぎ』とか。こういうのは変わらないもんなんだなあと思った」 「子供の歌とかお話ってのはずっとあんまり変わってないのかね?そんなこともないだろ?」 「私たちよりもっと前の歌?」 「うん。俺たちが子供の頃の歌が、俺たちの親が子供の頃歌ってた歌と同じってことはないんじゃないの?どうなんだろ?」 「どうなんだろ?」 「戦争が間にあるからな。どうなんだろ。昭和三十年代から四十年代ぐらいに子供の歌ってのはドドッと作られたか輸入されたかして、それ以降はそれがいまだに使いまわしになっているような気もするけど、よくわかんないな」 いったん立ち上がって、階段の上の方にいるみどりとひとみの方を見て、まだ喧嘩などせずに、仲良く遊んでいることを確認してからまた腰を下ろして、私は、 「それより一番驚いたのはさ、そういう童謡の、歌詞は忘れてるのに、メロディはほとんど完璧っていって良いぐらいに憶えてるんだよ、俺」 「歌詞の方をそんなにまじめには聴いてないからなんじゃないの、それは単に自分が」 「いや、例えばさ、『アイスクリームのうた』とか『ドロップスのうた』とかいう、あんまり有名じゃないマイナーな童謡、物心ついて以降は三十年間一度も聴いていないはずの歌でも、歌詞はところどころ空欄のところがあって、というよりほとんど空欄だらけなんだけど、メロディはちゃんと憶えてるんだよ。車の中で子供のCDを聴いてると、旋律だけは一緒に口ずさめちゃうんだよ。これって不思議じゃない?」 「でもパパは何か新しいことを始めるときは、スポーツでも勉強でもなんでも、人一倍練習を積んでやっと人並レベル少し下ぐらいにしか絶対できるようにならなかったのに、唯一ギターだけは始めたらすぐに上手くなって、ガンガン弾けるようになった、ってよく自慢してるじゃない。そういう個人の向き不向き、っていうか特性みたいなものと、メロディを忘れないってことは関係あるんじゃないの?」 「そういうのは関係あるかもしれない」といってから、あまり反論口調にならないように気を付けながら、 「けど、ほら、カラオケなんかだってそうじゃない。カラオケ歌ってるときって、歌詞と伴奏を与えられるとメロディはちゃんと自力で出てくるようになってるでしょ。歌詞は忘れちゃうけど、メロディは自力で思い出せるから、カラオケっていうのは成り立つ。だから、みんなそうなんだよ。童謡のメロディだけが記憶に残ってしまうというのも人間にそういうメカニズムがあるからなんだよ、きっと」 「そっか」 「そうだよ」 「でも要するにあれでしょ。よくいわれてる、メロディは音楽脳で右脳、歌詞っていうか言葉は言語脳の左脳?逆だっけ?まあとにかくそういう憶える脳の場所が違うっていうのが、そのマイナーな童謡のメロディだけは憶えてることの理由なんじゃないの?」 「だけどその説明ってさ、俺いつも思うんだけど、ぜんぜん説明になってないと思うんだよ」といってしまってから私は、ここから先は別にいわなくても良いことだな、と思いながらも続けた。 「どうして目で匂いを嗅げないんだ?って質問に対して、物を見るのは目で、匂いを嗅ぐのは鼻だ、っていうふうに機能が分れていると説明されても、目で匂いを嗅げないことの説明にはぜんぜんなってないでしょ。右脳と左脳って説明もそれと同じなんじゃないかと思うんだよ」 「なんかそれも違う喩えなんじゃないの?」 「違うか?同じだよ。でもさ、とにかく歌っていうのを最初に発明した人はさ、言葉をメロディに乗せることで得られる何かの相乗効果に気付いた人なんだよ、きっと。ただ詩だけを棒読みしているよりも、詩をメロディに乗せた方がなんだか憶えやすいし、なんだか心に迫って来るし、こりゃいいぞ、って。これはすごい発明じゃないか、って興奮したんじゃないか」 「でも歌詞は忘れちゃって、メロディだけが残る、って話をしてたんでしょ。それじゃ、だめじゃん」 「そうか」 「そうだよ」 私たちが座っているこの天文台の建物は切り出された白い石、それほど大きくはない五十センチ四方程度の石を組み合わせて作られている。不思議なのは石と石がほとんど完全に密着していることで、セメントのような接着剤を使って間を埋めているようにも見えないし、平らに研磨して密着させたという感じでもなく、長い間に砂が詰まって固まって石と石の間を埋めたという感じでもなくて、隣り合った石と石の凸凹が噛み合うように密着しているので、積み重ねられることによる加重で石も変形して、密着してしまったとしか考えられなかった。 「でもなんだか、俺たち、こんなところに来ちゃって、浮いてないか?」子供を気にして立ち上がって階段の上の方を見ている妻に、私はまた話しかけた。 「何が?」 「こんな遺跡に、子供連れて、日本人がはるばる来ちゃって。いや、日本人は世界中どこでも行くから、そういうことではない、日本人だから浮いちゃってるということではないんだけど。マヤ文明の遺跡にいる家族連れ、って絵はどっか浮いてるんだよ」 「当り前じゃない」 「いや、昔は、例えば池袋に六時とかって待ち合わせて、会社出るのが六時だったりすると、もうその時点で三十分遅刻する、ってのが判ったわけだろ。それで実際、池袋に着いたときは三十分遅刻してるから、ごめんとか謝る。でも、携帯ができた後は、会社出るのが六時だった段階で、三十分遅刻します、って相手に連絡できちゃうから、なんだか遅刻したような気がしないんだけど、やっぱり池袋に着くのは六時半だ、というのがどこか変なのと同じような変な感じが、遺跡にいる家族連れにもしない?」 「しない」 「なんだよ、それ」といいながら、私は階段脇の石の手すりを何気なく触りながら、それは昔風呂場に置いてあった軽石みたいで、やたら柔い感触だなと思いつつ、石の一つを親指で強く押してみたら、ボロッと掌大の石が欠けてしまった。 いや、そんなはずはない、こんなに柔いはずはない、何かの間違いではないかと思いながら、その欠けた石を両手で持って、今度は折るようにしてみたら、また簡単にボロッと折れてしまった。 「ちょっと、何してるのよ。見つかったら、怒られるわよ」 「でもすごいぞ。こんなに柔い石で作られてるのに、この遺跡は千年以上も残ってるんだぞ。偉いよなあ、チチェン・イツァ」 妻は呆れて黙っているので、続けて、 「でもさ、俺たちが浮いてるのは、あれかもしれない。ここは何百年間か人間が生活していたのが、一回途絶えてるわけじゃない。いまも途絶えたままみたいなもんなんだけど。同じ遺跡でも、ローマとか、京都とか、そういうずっと人間が絶え間なく生活し続けて来た場所だったら、俺たちがいてもそれほど浮かないのかもしれないぞ」 「私たちが死んでないからじゃない」 「……って?」 「うーん、死んでない、っていい方は変なんだけど、なんていうか、人間の寿命っていうのは七十年か八十年か、こういう遺跡に暮らしていた昔の人はもっと短くて五十年ぐらいだったのかもしれないけど、まあいいとこ百年ぐらいの人間の寿命っていうのは、こういう千年経っても残っているような石でできた建物に比べるのがそもそも不釣り合いなんだ、みたいな感じ?」 語尾を上げて、一拍おいてから妻は続けた。 「ていう気がしたんだけど……でも違うなあ、この建物がもう建物として死んでいるからピンピン生きている私たちがうろうろしてれば浮いちゃうのは当たり前だ、って思ったのかなあ?それともちょっと違うような……自分が考えたことが何なのかよく判らないけど、とにかくふっと、浮いてて当たり前、って気がした」 妻のこの話を聞いたときに、マヤの生け贄が首を刎ねられる瞬間に感じた生への執着は、やはり確かにあった。それはしかし生への執着などと表されるものではなくって、私が想像を巡らせることでは絶対に到達できない何かなのだが、その何かは間違いなく、確実にあったのだということが判った気がしたのだけれど、そんなことを突然妻にいうわけにも行かないし、説明したところで上手く説明する自信がなかったので、代わりに、 「人間だから浮いちゃう、ってこうこともあるのかも。犬とかヘビとか蟻とかだったら遺跡をうろうろしていても人間ほども浮かない感じがしないか?単に動物は服着てないからか?……いや、でも、犬は犬なりに、自分はなんかこんな場所にそぐわないと思うのかもしれない。人間が感じるそぐわない感じとは全然別の感じ方、こんな場所に長くいるわけには行かない、とにかくどこでも良いからここから逃げ出さなくてはいけない、という本能からの指令、切羽詰まった使命感みたいなものなんだろうけど」 といってから、話の方向が逸れるようなことをいってしまったと反省したのだが、やはり妻も「さあ……」といった切り黙ってしまったところで、次ぎのツアー客がぞろぞろやって来たので、みどりとひとみを階段から下ろして、広場の芝生の方に退くと、ちょうど私たちのツアーも天文台の中の見学を終えて、階段を降りて来た。 この天文台までが旧チチェンの遺跡だそうで、ここからはしばらく森の中の道を歩いてピラミッドのある新チチェンの遺跡へ向かう。 舗装されていない森の中の細い道の両側からは葉を茂らせた木の枝が迫り出していて、それが日差しを遮ってくれる。時間は正午を過ぎた辺りなので、気温はまた更に上がっていたはずなのだがここは多少風が通るためなのか、同じ木陰でもさっきの泉の森とは違い、ずいぶんと涼しく感じる。 道の両側の木は、薄茶の幹の肌が縦長のモザイク状にひび割れた日本のクヌギの木にそっくりで、ジャングルにクヌギが生えているはずがないがとにかくその木の幹肌はクヌギそっくりで、木のことなど何も知らない私がなぜクヌギだけは見分けがつくのかというと、それは捕まえたカブトムシとクワガタの数を友達と競争していた小学生の頃の私は、近くの林の中をカブトムシが樹液を吸いに来るクヌギの木を毎日探し歩いていたからなのだが、意外にも一番多く採れたのは当時の私の家の裏庭の、隣の家との境にあったクヌギの木だった。 夏休み中は毎晩夜十時になると母が竹箒を持ち、私が懐中電灯を持ってそのクヌギの木へ行き、樹液に集まる虫たちを私が懐中電灯で照らすと、その中のスズメバチだけを母が箒で叩いて殺すのだった。 その度に「カブトはぜったい殺さないでよ。クワガタも殺さないでよ。スズメバチだけにしてよ」と私は母に念押しするのだが、母はあの太い竹箒で巧みに、樹液に群がる虫たちの中からスズメバチだけを打ち殺してくれた。スズメバチに刺されたら死ぬ、最近もスズメバチに刺されたおじいさんが死んだ、という噂をその頃の私は本当だと信じ切っていて、母がそれを否定しなかったのは蜂に対する子供の警戒心をそのままにして置いた方が安全だと考えたからなのか、それとも母もその噂を本当だと信じていたからなのか判らないが、カブトムシ採りはスズメバチとの戦いでもあり、私には「自分は命懸けでカブトムシを捕まえているのだ」という高揚もあったはずなのだけれども、実際にスズメバチと戦ったのは母だけで、私はスズメバチがいなくなった後に幹に残っているカブトムシやクワガタを採って、虫かごに入れるだけだった。 そうやって捕まえたカブトムシとクワガタはひと夏で百匹近くにもなり、やはり母が用意してくれた大きなプラスチックのたらいに網を張って飼っていたその百匹は、夏休みが終わると同時にいっせいに死んでしまうのだが、考えてみれば私にとってのクヌギの木というのはあの、子供の頃に住んでいた家のクヌギの木のことであり、あの木に似ている木ならば(本当はブナやクリだったとしても)クヌギなのだろうと勝手に思っているだけのことであって、いま歩いているこの小道の両側の木もあの、昔の家にあった一本のクヌギに似ているというだけことなのだった。 幹はクヌギに似ているが、しかしこのメキシコの木は、葉の色がクヌギの葉のような深い緑ではなくもっと薄い緑で、葉の形もクヌギのようなギザギザがない代わりに太った丸い形をしているので、やはりクヌギではないのだろう。この木は私が飛行機から見た、整然と並んでいた木と同じ木なのだろうか。葉の色は似ているが、飛行機から見た木はもっと低かったのではないか。高さも枝の広がり方も幹の感じも飛行機から見た木とは全然違うように見えるので、たぶん違うのだろうとは思うが、自信はない。というよりも飛行機から見た木の印象も、既にそうとう薄れてしまっている。となると記憶の中の子供の頃のクヌギにしたところでどこまで確かなものなのか怪しくなって来るが、やはり木に対しても、人間の記憶は複雑な実物にほとんど追いつくことができない。記憶の中の木は単純化されて、類型化されてしまっている。だがもっと大事なことは、人間の記憶などとはまったく関係のないところで、複雑な実物は過去に存在していたし、現に存在している、ということの方なのだろう。 歩いたままひとみの抱き方を抱っこからおんぶに変えたときに、木陰が途切れて一瞬日が差したので上を見ると、枝と枝の間から空が見えて、ちょうどそこにひらがなの「ふ」のような形をした雲、上の「`」が少し欠けて薄くなっているのと全体に少し押しつぶされて平べったくなっているの以外はほぼ完全な「ふ」の形をして、流れずにぴたっと留まって浮いている雲があったのだが、この雲は絶対に他の形ではあり得ないはずだった。絶対に「ふ」の形でなければならない雲として、あの雲はいまあそこに浮かんでいる。 人間は雲の形も記憶できないのだろうが、人間に見えている形がそもそも雲の本当の形ではないわけで、違った距離、違った角度から見ればまた違った形に見えることはもちろんだがこの場合は単にそういうことでもなくて、あと一時間も経てば雲としては残っているとしても「ふ」の形は崩れてしまうだろうし、夕方には同じ位置から見ても全然違う形になっているだろうし、明日になればもう消えてしまうのだろうが、そういう一切とは何ら関係なく、いまこの時間にあの空に浮いているあの雲はあの形以外にはあり得ない雲としてあるはずだ。 『地球の歩き方』に書いてあることが事実だったのだとすれば、いま歩いているこの場所で、チチェン王朝の続いた八百年の間、フエゴ・デ・ペロタという球技で勝った方のチームのキャプテンが何度も何度も自ら進んで、喜んで首を刎ねられていたわけだが、こういう遺跡のような場所に実際に来てしまうと時間を八百年などという定量で表してしまうことの無効さ、つまりデトロイトの空港でひとみが「二歳になった」といわれたときに感じた、ボロッと内容が抜け落ちるような違和感と同じものをつくづく感じることは感じるのだけれど、もう少しよく考えてみると、実は「定量で表す」という次元のはるか以前に、幾千もの首は実際に刎ねられているわけだから、いずれにしても「表す」とか「代用する」という次元に留まる限り、それが記録であろうと記憶であろうと所詮、後付けの足掻きでしかなく、大差はない。そこには何かしらの違和感が必然的に残るものなのだ。 ここで思い出すのは、毎朝会社への通勤に使うデトロイトの高速道路沿いにある教会のことで、防音壁に遮られて、尖った屋根の上の十字架と、その脇に立っているキリスト教の宣伝の看板しか車からは見えないのだが、その看板にはJesus never failsと書いてある。それはアメリカではよく見かけるカトリックの勧誘の宣伝、Listen to God とかJesus loves youとかと同じ、ありふれた宣伝文句ではあるのだが、そのJesus never failsを見るとき、私はいつも「ああ、Jesus always succeedsではない。Jesus never failsなのだなあ」と思う。それは「受け入れる」ということですらない。「受け入れる」というのは一種の判断を介するわけだから。単にJesusはnever failsなのであり、だからいまこの空に浮かぶ雲は「ふ」の形以外にあり得ない。 実際にフエゴ・デ・ペロタの競技場跡に立ってみると、現代のサッカー場ぐらいはあろうかという広いスペースなのに、ボールを通す得点リングは両端の壁の、人間の身長の倍以上高さのところにあり、しかも穴が極端に小さい。直径二十センチもない。棒で打ってあんな小さな穴に本当にボールが入ったのか、怪しい。 そのリングの下の壁には、首を切られている場面を描いた石のレリーフがあって、近寄って見たり離れて見たりしたのだが、何かが描いてある、ということが判るだけで、そんな場面を描いたようにはとても見えない。 競技場の隣は先ほどの旧チチェン遺跡とは比べものにならないぐらい大きな、一面に芝生の植えてある広場で、そのど真ん中に例のピラミッド、エル・カスティージョが建っていた。高さは二十四メートルということだが、離れて見た感じはもっとずっと大きくて、私は中学生のときに初めて奈良の大仏殿を見た「でかい!」という驚きを思い出したのだが、都心の高層ビルなどを見てもそういう感じは受けないのだから、建造物の印象というのは土台というのか礎石というのかのごっつさや、材料に使われている石や木の質感から来ているのかもしれない。 四角錘の四つの壁面のうち、二つの壁面が階段で、ロープが張ってあり、ロープにつかまりながら天辺までの登り降りができる。子供から年配までたくさんの人が登っていたが、真下から眺めると確かにそうとう急で、登るときはまだしも、降りるときはみんなへっぴり腰で、ロープにつかまらないと怖そうだった。ひとみはもちろんだが、みどりにも無理だろう。 登りたい人は登ってください、とガイドが合図したので、タオルでひとみの額の汗を拭いてやりながら私は妻に、先に行ってきなよ、といった。 私とみどりとひとみは少し離れた芝生の上に三人並んでお尻をついて座りながら、妻が階段をすいすい登るのを見上げた。中学生ぐらいの男の子が隣を登っていたのだが、妻はその子よりもよっぽど早く登って行った。降りるのに比べると、登るのはそんなに苦ではないように見えた。 |