今、お茶には月に三回通っています。 去年一年間は、月一回のコース(お茶には不似合いな言葉です)で通っていて、そうすると、お稽古でやったことが、次には一ヶ月あいてしまって、なんだか、いくらなんでも、身につかない気がして。もし、休んだ時には二ヶ月も、なにもやらないわけだから、全然だめ。すっかり忘れてるんだから。 お茶の場合、千利休のかるたにもあるように、「茶の湯とは、ただ湯を湧かし 茶ををたててのむばかりなる事と知るべし」ってことで、基本的に、茶道で習うことは、お茶を煎れてお客さまに出して飲んでもらうという、その一連の動作なわけだから、そんなに、ややこしいことをすることもないことだろうと思うけれど、こんなこと言ってると、それこそ、お茶をやってる意味がなくなってしまうので、いまのところ、考えないことにする。岡倉天心の「茶の本」に「茶はわれわれにとっては、飲む形式以上のものとなった。それは生の術の宗教である」なんて、ふむふむとわかったような気になれないこともないような記述もあるんだけれど、やっぱり言葉じゃなくてこういうことは、身につかなきゃしょうがない。 まあ、「身につく」ということで言えば、月三回というのは、ちょうどいいのかもしれないけれど、それにしても、このごろのわたしは、随分、お茶三昧な感じがする。 とにかく、なんで、こんなにと思う程、お茶には決まりごとがあって、お作法もなんやかやとあって、ちゃんと把握しきれないから、適当にやって、他の人と違ってると、あせったりもするけれど、だからといって、ものすごく恥をかくとか、右往左往するほど困ったりしないから、ほんの少しずうずうしくなってきた年代には、なかなか緊張感のある楽しいお稽古ごとだなーと思う。美味しいお茶菓子も楽しみだし。 実際、お稽古にきているお弟子さんで、もう、30年以上というおばあさまが三人い て、その三婆様は、まるで、ピクニックにきてるみたいで、いつもほんとに楽しそ う。三人とも東京からお着物で通ってるんだけれど、お弁当持参で一日中いる。ひとりは柳橋さんといって、偶然なのかどうか、柳橋に住んでいる。ふたりめは、目が細くて丸顔でいつも笑った顔なんだけれど、むかしのお人形さんみたいに愛らしくて、話の内容から、家には、しっかり者のお手伝いさんがいるらしい。三人目は、昔の女優さんのように美しい人で、聞いて納得、元芸者さん、置き屋の女将さんだったそう。この方たち、60才は越えてるだろうとは思っていたけれど、そのうちのひとりがニ.ニ六事件の時、小学校6年生だったと、こないだ話していた、つまり、もうすぐ80才。そんなお年には見えないけれど、もう亡くなった先代から習ってる訳だから、ちょっとすると、今の家元よりも貫禄がある。よろよろしながらでも、お手前はしっかりしてて、適度な間や、余計なおしゃべりもなんだか風流で、やっぱり、たてたお茶の味が違う。 薄茶は、シャカシャカと茶筅を目にも止まらぬ速さでふって、お茶をたてるわけなんだけど、20回くらい振るのがおいしいらしく、これは、かき混ぜるのとはちょっと動作が違ってて、やっぱり、「たてる」という動作なんだろうけど、その間にお茶を醗酵させるんだそうだ。これはたてすぎてもだめで20回以上ふったら、まずくなると先生が言ってたけれど、当然ながら数えながらたてている人はいない。ちなみに濃茶はたてる時に目にも止まらぬ速さで振らず、どちらかというと、「練る」という動作です。 さてと、お茶を習いはじめたからと言って、すぐにお茶をたてられるかというと、そうじゃない。しつこいようだけど、やっぱり、その前におじぎだとか、床の間、茶花の拝見から、お茶の頂き方だとか、おぼえなくちゃいけないお約束事がいっぱいだ。 だいたい、お茶室に入る前から決まりごとははじまるんだよね。 まず、お庭にまわって、蹲踞(これ読めたらすごい!正解は「つくばい」です)で、手を洗う、正確には、手、口、そして、ここが重要なんだけど、心を浄めるんだそうなの。俗世の汚れを清め、あらたな心で席入りするんだそうです。 普段、そんなところで、手なんて洗ったことないし、そうでなくても柄杓で水くんだりしないから、こんなかんたんなことでも、なめらかにするするとはできなくて、初めての人は戸惑っちゃうけど、決まりごとにのっとると、それぞれの動きがちゃんと合理的に美しく進められるのだ。 次に、玄関の戸を開ける。この戸ももちろん日本家屋だから、ドアじゃなくて引き戸で、しかも、ほんの少し、2センチくらいかな、開いてる。これは「どうぞ、中にお入り下さい」というサインで、それがぴったり閉まっていると、「まだ、入れませんよ」と言うことだと、最初に習ったのだが、もう、すっかりお茶の稽古が始まってる時間帯にも、ぴったり閉まってることが多くて、たぶん、お弟子さんの中でも、忘れっぽい人とか粗忽者が、うっかり閉め切ってしまうみたい。 トイレも、ちょっぴり開いてる時には、「中には人はいませんよ」という意味、閉め切ってる時には「使用中」、どんどんたたく必要もないし、これはとっても優雅でしょ。こっちのほうはみんな忘れないみたいで、そのサインはちゃんと守られている。 まあ、所作としては、流派は当然だけど、その中にあっても、お茶碗や茶入れなど細かいお道具によって、扱い方から順番まで変わるし、季節で炉の種類、窯の置く場所が違っていて、そうすると決定的に座る場所や向き、それにあわせて道具を置く場所、扱いが変わる。 ね、こんなこと読んでるとうんざりするでしょ。そういうわたしも、書こうと思ってたことからどんどん遠ざかっていくような気がしてきて、まどろっこしくなってるんだから。 でも、しょうがない。 だって、まず、「炉の種類、窯の置く場所が違う」と書いて、全く茶道をやったことのない人で、ぱっと、その図が頭に浮んでくる人なんていないでしょ。やってる人だと、夏は風炉(「ふろ」と読みます)、冬は炉、で、場所も全然違うってことくらいわかるんだけれど、やってない人に説明するのは、ほんとに、難儀なことです。それに、わたしのように、お茶に興味があって、習っていても、お茶の本を読むとわかんないことだらけ、それどころか、読めもしない字ばかり出てきて、どうしましょうって感じ。読める字でもね、わたしは、「茶花」をずっと、「ちゃか」だと思っていた。本当は「ちゃばな」と読むんだけれど、実際、床の間に飾ってある花を見て「今日の茶花は、、」なんて言うのを耳にしたことがなくて、ただ単に「今日の花は……」 って言うから、ずっと聞くこともせず、当然、本に振り仮名もふってないから知らなかった訳なのだ。 それに、着物。これもまた、やっかいなのね。 でも今は、やっかいなだけにおもしろくなってきたところ。 そこのところは次回に。 |